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史記 / 韓世家

王恃楚之虚名,而輕絶彊秦之敵,王必爲天下大笑。且楚韓非兄弟之國也,又非素約而謀伐秦也。已有伐形,因發兵言救韓,此必陳軫之謀也。且王已使人報於秦矣,今不行,是欺秦也。夫輕欺彊秦而信楚之謀臣,恐王必悔之。」韓王不聽,遂絶於秦。秦因大怒,益甲伐韓,大戰,楚救不至韓。十九年,大破我岸門。太子倉質於秦以和。二十一年,與秦共攻楚,敗楚將屈丐,斬首八萬於丹陽。是歳,宣惠王卒,太子倉立,是爲襄王。襄王四年,與秦武王會臨晉。其秋,秦使甘茂攻我宜陽。五年,秦拔我宜陽,斬首六萬。秦武王卒。六年,秦復與我武遂。九年,秦復取我武遂。十年,太子嬰朝秦而歸。十一年,秦伐我,取穰。與秦伐楚,敗楚將唐眛。十二年,太子嬰死。公子咎、公子蟣蝨爭爲太子。時蟣蝨質於楚。蘇代謂韓咎曰:「蟣蝨亡在楚,楚王欲内之甚。今楚兵十餘萬在方城之外,公何不令楚王筑萬室之都雍氏之旁,韓必起兵以救之,公必將矣。公因以韓楚之兵奉蟣蝨而内之,其聽公必矣,必以楚韓封公也。」韓咎從其計。楚圍雍氏,韓求救於秦。秦未爲發,使公孫昧入韓。公仲曰:「子以秦爲且救韓乎?」

新字:王恃楚之虚名,而軽絶彊秦之敵,王必為天下大笑。且楚韓非兄弟之国也,又非素約而謀伐秦也。已有伐形,因発兵言救韓,此必陳軫之謀也。且王已使人報於秦矣,今不行,是欺秦也。夫軽欺彊秦而信楚之謀臣,恐王必悔之。」韓王不聴,遂絶於秦。秦因大怒,益甲伐韓,大戦,楚救不至韓。十九年,大破我岸門。太子倉質於秦以和。二十一年,与秦共攻楚,敗楚将屈丐,斬首八万於丹陽。是歳,宣恵王卒,太子倉立,是為襄王。襄王四年,与秦武王会臨晋。其秋,秦使甘茂攻我宜陽。五年,秦抜我宜陽,斬首六万。秦武王卒。六年,秦復与我武遂。九年,秦復取我武遂。十年,太子嬰朝秦而帰。十一年,秦伐我,取穰。与秦伐楚,敗楚将唐眛。十二年,太子嬰死。公子咎、公子蟣蝨争為太子。時蟣蝨質於楚。蘇代謂韓咎曰:「蟣蝨亡在楚,楚王欲内之甚。今楚兵十余万在方城之外,公何不令楚王筑万室之都雍氏之旁,韓必起兵以救之,公必将矣。公因以韓楚之兵奉蟣蝨而内之,其聴公必矣,必以楚韓封公也。」韓咎従其計。楚囲雍氏,韓求救於秦。秦未為発,使公孫昧入韓。公仲曰:「子以秦為且救韓乎?」

書き下し

王楚の虚名を恃みて、軽々しく彊秦の敵を絶たば、王必ず天下の大笑と為らん。且つ楚・韓は兄弟の国に非ざるなり。又素より約して秦を伐たんと謀るに非ざるなり。已に伐つの形有り、因りて兵を発して韓を救ふと言ふ。此れ必ず陳軫の謀なり。且つ王已に人をして秦に報ぜしむ。今行かざるは、是れ秦を欺くなり。夫れ軽々しく彊秦を欺きて楚の謀臣を信ぜば、恐らくは王必ず之を悔いん」と。韓王聴かず、遂に秦に絶つ。秦因りて大いに怒り、甲を益して韓を伐ち、大いに戦ふ。楚の救ひ韓に至らず。十九年、大いに我を岸門に破る。太子倉秦に質となりて以て和す。二十一年、秦と共に楚を攻め、楚の将屈丐を敗り、首を斬ること八万を丹陽に於てす。是の歳、宣恵王卒し、太子倉立つ、是を襄王と為す。襄王四年、秦の武王と臨晋に会す。其の秋、秦甘茂をして我が宜陽を攻めしむ。五年、秦我が宜陽を抜き、首を斬ること六万。秦の武王卒す。六年、秦復た我に武遂を与ふ。九年、秦復た我が武遂を取る。十年、太子嬰秦に朝して帰る。十一年、秦我を伐ち、穣を取る。秦と楚を伐ち、楚の将唐眛を敗る。十二年、太子嬰死す。公子咎・公子蟣蝨争ひて太子と為らんとす。時に蟣蝨楚に質たり。蘇代、韓咎に謂ひて曰く、「蟣蝨亡げて楚に在り。楚王之を内れんと欲すること甚だし。今楚の兵十余万方城の外に在り。公何ぞ楚王をして万室の都を雍氏の旁に築かしめざる。韓必ず兵を起こして以て之を救はん。公必ず将たらん。公因りて韓・楚の兵を以て蟣蝨を奉じて之を内れよ。其の公に聴くこと必せり。必ず楚・韓を以て公を封ぜん」と。韓咎其の計に従ふ。楚雍氏を囲む。韓救ひを秦に求む。秦未だ為に発せず。公孫昧をして韓に入らしむ。公仲曰く、「子秦を以て且に韓を救はんとすと為すか」と。

現代語訳

王が楚の名ばかりの約束を頼みにして、強い秦との関係を軽々しく断ち切れば、王は必ず天下の物笑いになるだろう。そもそも楚と韓は兄弟の国ではない。また、以前から約束して秦を討とうと計画していたわけでもない。秦が楚を討とうとする形勢が見えてから、兵を出して韓を救うと言い出したのだ。これは必ず陳軫の謀略である。それに王はすでに人を遣わして秦に和睦を通告している。今になって行かなければ、秦を欺くことになる。軽々しく強い秦を欺いて楚の謀臣の言葉を信じれば、王は必ず後悔なさるだろう」。韓王は聞き入れず、ついに秦との関係を断った。秦はそのために大いに怒り、兵を増やして韓を討ち、大いに戦った。楚の援軍は韓に来なかった。十九年、秦はわが軍を岸門で大いに破った。太子倉(そう)を秦に人質として出して和睦した。二十一年、秦と共に楚を攻め、楚の将の屈丐(くつかい)を破り、丹陽で八万の首を斬った。この年、宣恵王が死に、太子倉が立った。これが襄王である。襄王の四年、秦の武王と臨晋で会見した。その秋、秦は甘茂(かんぼう)にわが宜陽を攻めさせた。五年、秦はわが宜陽を攻め落とし、六万の首を斬った。秦の武王が死んだ。六年、秦は再びわが国に武遂を返した。九年、秦は再びわが武遂を取った。十年、太子嬰(えい)が秦に朝見して帰国した。十一年、秦がわが国を討ち、穣(じょう)を取った。秦と共に楚を討ち、楚の将の唐眛(とうばつ)を破った。十二年、太子嬰が死んだ。公子咎(きゅう)と公子蟣蝨(きしつ)が太子の座を争った。このとき蟣蝨は楚に人質となっていた。蘇代が韓咎に言った。「蟣蝨は亡命して楚にいて、楚王は彼を韓に入れたくてたまらない。今、楚の兵十万余りが方城の外にいる。あなたはなぜ楚王に、雍氏(ようし)のそばに一万戸の都市を築かせないのか。そうすれば韓は必ず兵を起こしてそこを救おうとし、あなたが必ず将となるだろう。あなたはそこで韓と楚の兵を率いて蟣蝨を奉じて韓に入れる(と見せかける)のだ。楚は必ずあなたの言うことを聞き、楚と韓の地をあなたに封じるだろう」。韓咎はその計略に従った。楚は雍氏を包囲した。韓は秦に救援を求めたが、秦はまだ韓のために兵を出さず、公孫昧(こうそんばつ)を韓に遣わした。公仲は言った。「あなたは、秦が韓を救うとお考えか」。

解説

公仲の諫めを退けた韓王の判断が、痛烈な結果を招く段です。公仲は、楚は兄弟国でも以前からの同盟国でもなく、秦が楚を攻めそうになってから急に韓を救うと言い出した、これは陳軫の謀だと見抜き、すでに和睦を通告した秦を欺くのは危ないと諫めました。しかし韓王は楚の宣伝を信じて秦と断交し、怒った秦に岸門で大敗して太子を人質に出す羽目になります。楚の援軍はついに来ませんでした。その後の韓は秦に宜陽を奪われ、秦と組んで楚を討つなど、強国の間で揺れ続けます。後半では太子嬰の死後、公子咎と楚にいる公子蟣蝨が後継を争い、蘇代が咎に、楚の兵を利用して自分の地位を固める策を授けます。口先の支援を信じて確かな関係を切ることの危うさは、今の取引関係にもそのまま当てはまります。

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