史記 / 韓世家
十六年,武子卒,子景侯立。景侯虔元年,伐鄭,取雍丘。二年,鄭敗我負黍。六年,與趙、魏倶得列爲諸侯。九年,鄭圍我陽翟。景侯卒,子列侯取立。列侯三年,聶政殺韓相俠累。九年,秦伐我宜陽,取六邑。十三年,列侯卒,子文侯立。是歳魏文侯卒。文侯二年,伐鄭,取陽城。伐宋,到彭城,執宋君。七年,伐齊,至桑丘。鄭反晉。九年,伐齊,至靈丘。十年,文侯卒,子哀侯立。哀侯元年,與趙、魏分晉國。二年,滅鄭,因徙都鄭。六年,韓嚴弒其君哀侯。而子懿侯立。懿侯二年,魏敗我馬陵。五年,與魏惠王會宅陽。九年,魏敗我澮。十二年,懿侯卒,子昭侯立。昭侯元年,秦敗我西山。二年,宋取我黃池。魏取朱。六年,伐東周,取陵觀、邢丘。
新字:十六年,武子卒,子景侯立。景侯虔元年,伐鄭,取雍丘。二年,鄭敗我負黍。六年,与趙、魏倶得列為諸侯。九年,鄭囲我陽翟。景侯卒,子列侯取立。列侯三年,聶政殺韓相侠累。九年,秦伐我宜陽,取六邑。十三年,列侯卒,子文侯立。是歳魏文侯卒。文侯二年,伐鄭,取陽城。伐宋,到彭城,執宋君。七年,伐斉,至桑丘。鄭反晋。九年,伐斉,至霊丘。十年,文侯卒,子哀侯立。哀侯元年,与趙、魏分晋国。二年,滅鄭,因徙都鄭。六年,韓厳弒其君哀侯。而子懿侯立。懿侯二年,魏敗我馬陵。五年,与魏恵王会宅陽。九年,魏敗我澮。十二年,懿侯卒,子昭侯立。昭侯元年,秦敗我西山。二年,宋取我黄池。魏取朱。六年,伐東周,取陵観、邢丘。
書き下し
十六年、武子卒し、子景侯立つ。景侯虔の元年、鄭を伐ち、雍丘を取る。二年、鄭我を負黍に敗る。六年、趙・魏と倶に列して諸侯と為るを得たり。九年、鄭我が陽翟を囲む。景侯卒し、子列侯取立つ。列侯三年、聶政韓の相俠累を殺す。九年、秦我が宜陽を伐ち、六邑を取る。十三年、列侯卒し、子文侯立つ。是の歳魏の文侯卒す。文侯二年、鄭を伐ち、陽城を取る。宋を伐ち、彭城に到り、宋君を執ふ。七年、斉を伐ち、桑丘に至る。鄭晋に反く。九年、斉を伐ち、霊丘に至る。十年、文侯卒し、子哀侯立つ。哀侯元年、趙・魏と晋国を分つ。二年、鄭を滅ぼし、因りて都を鄭に徙す。六年、韓厳其の君哀侯を弑す。而して子懿侯立つ。懿侯二年、魏我を馬陵に敗る。五年、魏の恵王と宅陽に会す。九年、魏我を澮に敗る。十二年、懿侯卒し、子昭侯立つ。昭侯元年、秦我を西山に敗る。二年、宋我が黄池を取る。魏朱を取る。六年、東周を伐ち、陵観・邢丘を取る。
現代語訳
十六年、武子が死に、子の景侯が立った。景侯虔(けん)の元年、鄭を討ち、雍丘を取った。二年、鄭がわが軍を負黍で破った。六年、趙・魏と共にそろって諸侯に列することができた。九年、鄭がわが陽翟を包囲した。景侯が死に、子の列侯取(しゅ)が立った。列侯の三年、聶政(じょうせい)が韓の宰相俠累(きょうるい)を殺した。九年、秦がわが宜陽(ぎよう)を討ち、六つの邑を取った。十三年、列侯が死に、子の文侯が立った。この年、魏の文侯が死んだ。文侯の二年、鄭を討ち、陽城を取った。宋を討って彭城に至り、宋君を捕らえた。七年、斉を討ち、桑丘に至った。鄭が晋に背いた。九年、斉を討ち、霊丘に至った。十年、文侯が死に、子の哀侯が立った。哀侯の元年、趙・魏と共に晋の国を分けた。二年、鄭を滅ぼし、そこで都を鄭に移した。六年、韓厳(かんげん)が主君の哀侯を殺した。そして子の懿侯(いこう)が立った。懿侯の二年、魏がわが軍を馬陵で破った。五年、魏の恵王と宅陽で会見した。九年、魏がわが軍を澮で破った。十二年、懿侯が死に、子の昭侯が立った。昭侯の元年、秦がわが軍を西山で破った。二年、宋がわが黄池を取った。魏が朱を取った。六年、東周を討ち、陵観と邢丘を取った。
解説
関連する章句
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史記 韓世家十四年、斉・魏の王と共に秦を撃ち、函谷に至りて焉に軍す。十六年、秦我に河外及び武遂を与ふ。襄王卒し、太子咎立つ、是を釐王と為す。釐王三年、公孫喜をして周・魏を率ゐて秦を攻めしむ。秦我を敗ること二十四万、喜を伊闕に虜にす。五年、秦我が宛を抜く。六年、秦に武遂の地二百里を与ふ。十年、秦我が師を夏山に敗る。十二年、秦の昭王と西周に会して秦を佐けて斉を攻む。斉敗れ、湣王出でて亡ぐ。十四年、秦と両周の閒に会す。二十一年、暴捐をして魏を救はしむ。秦の敗る所と為り、捐開封に走る。二十三年、趙・魏我が華陽を攻む。韓急を秦に告ぐ。秦救はず。韓の相国陳筮に謂ひて曰く、「事急なり。願はくは公病むと雖も、一宿の行を為せ」と。陳筮穣侯に見ゆ。穣侯曰く、「事急なるか。故に公をして来らしむるか」と。陳筮曰く、「未だ急ならざるなり」と。穣侯怒りて曰く、「是れ以て公の主の使と為すべけんや。夫れ冠蓋相望み、敝邑に告ぐること甚だ急なり。公来りて未だ急ならずと言ふは、何ぞや」と。陳筮曰く、「彼の韓急なれば則ち将に変じて佗に従はんとす。未だ急ならざるを以て、故に復た来るのみ」と。穣侯曰く、「公王に見ゆる無かれ。請ふ今兵を発して韓を救はん」と。八日にして至り、趙・魏を華陽の下に敗る。是の歳、釐王卒し、子桓恵王立つ。桓恵王元年、燕を伐つ。九年、秦我が陘を抜き、汾の旁に城く。十年、秦我を太行に撃つ。我が上党の郡守、上党郡を以て趙に降る。十四年、秦趙の上党を抜き、馬服子の卒四十余万を長平に殺す。十七年、秦我が陽城・負黍を抜く。二十二年、秦の昭王卒す。二十四年、秦我が城皋・滎陽を抜く。二十六年、秦悉く我が上党を抜く。二十九年、秦我が十三城を抜く。三十四年、桓恵王卒し、子王安立つ。王安五年、秦韓を攻む。韓急なり。韓非をして秦に使ひせしむ。秦非を留め、因りて之を殺す。九年、秦王安を虜にし、尽く其の地を入れて、潁州郡と為す。韓遂に亡ぶ。
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史記 鄭世家孔子嘗て鄭を過り、子産と兄弟の如しと云ふ。子産の死を聞くに及び、孔子為に泣きて曰く、「古の遺愛なり」と。八年、晋の范・中行氏晋に反き、急を鄭に告ぐ。鄭之を救ふ。晋鄭を伐ち、鄭の軍を鉄に敗る。十四年、宋の景公曹を滅ぼす。二十年、斉の田常其の君簡公を弑して、常斉に相たり。二十二年、楚の恵王陳を滅ぼす。孔子卒す。三十六年、晋の知伯鄭を伐ち、九邑を取る。三十七年、声公卒し、子哀公易立つ。哀公八年、鄭人哀公を弑して声公の弟丑を立つ、是を共公と為す。共公三年、三晋知伯を滅ぼす。三十一年、共公卒し、子幽公已立つ。幽公元年、韓の武子鄭を伐ち、幽公を殺す。鄭人幽公の弟駘を立つ、是を繻公と為す。繻公十五年、韓の景侯鄭を伐ち、雍丘を取る。鄭京に城く。十六年、鄭韓を伐ち、韓の兵を負黍に敗る。二十年、韓・趙・魏列して諸侯と為る。二十三年、鄭韓の陽翟を囲む。二十五年、鄭君其の相子陽を殺す。二十七、子陽の党共に繻公駘を弑して幽公の弟乙を立てて君と為す、是を鄭君と為す。鄭君乙立ちて二年、鄭の負黍反き、復た韓に帰す。十一年、韓鄭を伐ち、陽城を取る。二十一年、韓の哀侯鄭を滅ぼし、其の国を并す。
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史記 韓世家韓の先は周と同姓にして、姓は姫氏なり。其の後の苗裔晋に事へ、韓原に封ぜらるるを得て、韓武子と曰ふ。武子の後三世にして韓厥有り。封に従ひて姓を韓氏と為す。韓厥は、晋の景公の三年、晋の司寇屠岸賈将に乱を作さんとし、霊公の賊趙盾を誅せんとす。趙盾已に死せり。其の子趙朔を誅せんと欲す。韓厥賈を止むれども、賈聴かず。厥、趙朔に告げて亡げしめんとす。朔曰く、「子必ず能く趙の祀を絶たずんば、死すとも恨みず」と。韓厥之を許す。賈の趙氏を誅するに及び、厥疾と称して出でず。程嬰・公孫杵臼の趙の孤趙武を蔵するや、厥之を知る。景公の十一年、厥、郤克と兵八百乗を将ゐて斉を伐ち、斉の頃公を鞍に敗り、逢丑父を獲たり。是に於て晋六卿を作り、而して韓厥一卿の位に在り、号して献子と為す。晋の景公十七年、病む。卜するに大業の遂げざる者祟りを為す。韓厥、趙成季の功、今後に祀無きを称し、以て景公を感ぜしむ。景公問ひて曰く、「尚ほ世有りや」と。厥是に於て趙武を言ひ、而して復た故の趙氏の田邑を与へ、趙氏の祀を続がしむ。晋の悼公の七年、韓献子老す。献子卒し、子宣子代はる。宣子徙りて州に居る。晋の平公十四年、呉の季札晋に使ひして曰く、「晋国の政は卒に韓・魏・趙に帰せん」と。晋の頃公十二年、韓宣子、趙・魏と共に祁氏・羊舌氏の十県を分つ。晋の定公十五年、宣子、趙簡子と范・中行氏を侵伐す。宣子卒し、子貞子代はりて立つ。貞子徙りて平陽に居る。貞子卒し、子簡子代はる。簡子卒し、子荘子代はる。荘子卒し、子康子代はる。康子、趙襄子・魏桓子と共に知伯を敗り、其の地を分つ。地益々大にして、諸侯より大なり。康子卒し、子武子代はる。武子二年、鄭を伐ち、其の君幽公を殺す。
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史記 趙世家牛畜を官して師と為し、荀欣を中尉と為し、徐越を内史と為し、相国に衣二襲を賜ふ。九年、烈侯卒し、弟武公立つ。武公十三年に卒し、趙復た烈侯の太子章を立つ、是を敬侯と為す。是の歳、魏の文侯卒す。敬侯元年、武公の子朝乱を作すも、克たず、出でて魏に奔る。趙始めて邯鄲に都す。二年、斉を霊丘に敗る。三年、魏を廩丘に救ひ、大いに斉人を敗る。四年、魏我を兎台に敗る。剛平に築きて以て衛を侵す。五年、斉・魏衛の為に趙を攻め、我が剛平を取る。六年、兵を楚に借りて魏を伐ち、棘蒲を取る。八年、魏の黄城を抜く。九年、斉を伐つ。斉燕を伐つ。趙燕を救ふ。十年、中山と房子に戦ふ。十一年、魏・韓・趙共に晋を滅ぼし、其の地を分つ。中山を伐ち、又中人に戦ふ。十二年、敬侯卒し、子成侯種立つ。成侯元年、公子勝成侯と立つを争ひ、乱を為す。二年六月、雪雨る。三年、太戊午相と為る。衛を伐ち、郷邑七十三を取る。魏我を藺に敗る。四年、秦と高安に戦ひ、之を敗る。五年、斉を鄄に伐つ。魏我を懐に敗る。鄭を攻めて之を敗り、以て韓に与ふ。韓我に長子を与ふ。六年、中山長城を築く。魏を伐ち、湪沢に敗り、魏の恵王を囲む。七年、斉を侵し、長城に至る。韓と周を攻む。八年、韓と周を分ちて以て両と為す。九年、斉と阿の下に戦ふ。十年、衛を攻め、甄を取る。十一年、秦魏を攻む。趙之を石阿に救ふ。十二年、秦魏の少梁を攻む。趙之を救ふ。十三年、秦の献公、庶長国をして魏の少梁を伐たしめ、其の太子・痤を虜にす。魏我を澮に敗り、皮牢を取る。成侯、韓の昭侯と上党に遇ふ。十四年、韓と秦を攻む。十五年、魏を助けて斉を攻む。十六年、韓・魏と晋を分ち、晋君を封ずるに端氏を以てす。十七年、成侯、魏の恵王と葛孽に遇ふ。
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史記 韓世家子宣恵王立つ。宣恵王五年、張儀秦に相たり。八年、魏我が将韓挙を敗る。十一年、君号して王と為す。趙と区鼠に会す。十四、秦伐ちて我を鄢に敗る。十六年、秦我を修魚に敗り、韓の将鯁・申差を濁沢に虜得す。韓氏急なり。公仲、韓王に謂ひて曰く、「与国は恃むべきに非ざるなり。今秦の楚を伐たんと欲すること久し。王張儀に因りて和を秦に為し、賂ふに一名都を以てし、甲を具へて、之と南のかた楚を伐つに如かず。此れ一を以て二に易ふるの計なり」と。韓王曰く、「善し」と。乃ち公仲の行を警め、将に西のかた秦に購はんとす。楚王之を聞きて大いに恐れ、陳軫を召して之に告ぐ。陳軫曰く、「秦の楚を伐たんと欲すること久し。今又韓の名都一を得て甲を具へ、秦・韓兵を并せて楚を伐つ。此れ秦の禱祀して求むる所なり。今已に之を得たり。楚国必ず伐たれん。王臣に聴きて之が為に四境の内を警め、師を起こして韓を救ふと言ひ、戦車をして道路に満たしめ、信臣を発し、其の車を多くし、其の幣を重くし、王の己を救ふを信ぜしめよ。縦ひ韓我に聴くこと能はずとも、韓必ず王を徳とせん。必ず鴈行して以て来らず。是れ秦・韓和せざるなり。兵至ると雖も、楚大いに病まず。為し能く我に聴きて和を秦に絶たば、秦必ず大いに怒り、以て厚く韓を怨まん。韓の南のかた楚に交はるや、必ず秦を軽んぜん。秦を軽んずれば、其の秦に応ずること必ず敬まず。是れ秦・韓の兵に因りて楚国の患ひを免るるなり」と。楚王曰く、「善し」と。乃ち四境の内を警め、師を興して韓を救ふと言ふ。戦車をして道路に満たしめ、信臣を発し、其の車を多くし、其の幣を重くす。韓王に謂ひて曰く、「不穀の国小なりと雖も、已に悉く之を発せり。願はくは大国遂に志を秦に肆にせよ。不穀将に楚を以て韓に殉ぜんとす」と。韓王之を聞きて大いに説び、乃ち公仲の行を止む。公仲曰く、「不可なり。夫れ実を以て我を伐つ者は秦なり。虚名を以て我を救ふ者は楚なり。
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