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史記 / 燕召公世家

樂閒奔趙。廉頗逐之五百餘里,圍其國。燕人請和,趙人不許,必令將渠處和。燕相將渠以處和。趙聽將渠,解燕圍。六年,秦滅東周,置三川郡。七年,秦拔趙楡次三十七城,秦置大原郡。九年,秦王政初卽位。十年,趙使廉頗將攻繁陽,拔之。趙孝成王卒,悼襄王立。使樂乘代廉頗,廉頗不聽,攻樂乘,樂乘走,廉頗奔大梁。十二年,趙使李牧攻燕,拔武遂、方城。劇辛故居趙,與龐煖善,已而亡走燕。燕見趙數困于秦,而廉頗去,令龐煖將也,欲因趙獘攻之。問劇辛,辛曰:「龐煖易與耳。」燕使劇辛將撃趙,趙使龐煖撃之,取燕軍二萬,殺劇辛。秦拔魏二十城,置東郡。十九年,秦拔趙之鄴九城。趙悼襄王卒。二十三年,太子丹質於秦,亡歸燕。二十五年,秦虜滅韓王安,置潁川郡。二十七年,秦虜趙王遷,滅趙。趙公子嘉自立爲代王。燕見秦且滅六國,秦兵臨易水,禍且至燕。太子丹陰養壯士二十人,使荊軻獻督亢地圖於秦,因襲刺秦王。秦王覺,殺軻,使將軍王翦撃燕。二十九年,秦攻拔我薊,燕王亡,徙居遼東,斬丹以獻秦。三十年,秦滅魏。三十三年,秦拔遼東,虜燕王喜,卒滅燕。是歳,秦將王賁亦虜代王嘉。

新字:楽閒奔趙。廉頗逐之五百余里,囲其国。燕人請和,趙人不許,必令将渠処和。燕相将渠以処和。趙聴将渠,解燕囲。六年,秦滅東周,置三川郡。七年,秦抜趙楡次三十七城,秦置大原郡。九年,秦王政初即位。十年,趙使廉頗将攻繁陽,抜之。趙孝成王卒,悼襄王立。使楽乗代廉頗,廉頗不聴,攻楽乗,楽乗走,廉頗奔大梁。十二年,趙使李牧攻燕,抜武遂、方城。劇辛故居趙,与龐煖善,已而亡走燕。燕見趙数困于秦,而廉頗去,令龐煖将也,欲因趙獘攻之。問劇辛,辛曰:「龐煖易与耳。」燕使劇辛将撃趙,趙使龐煖撃之,取燕軍二万,殺劇辛。秦抜魏二十城,置東郡。十九年,秦抜趙之鄴九城。趙悼襄王卒。二十三年,太子丹質於秦,亡帰燕。二十五年,秦虜滅韓王安,置潁川郡。二十七年,秦虜趙王遷,滅趙。趙公子嘉自立為代王。燕見秦且滅六国,秦兵臨易水,禍且至燕。太子丹陰養壮士二十人,使荊軻献督亢地図於秦,因襲刺秦王。秦王覚,殺軻,使将軍王翦撃燕。二十九年,秦攻抜我薊,燕王亡,徙居遼東,斬丹以献秦。三十年,秦滅魏。三十三年,秦抜遼東,虜燕王喜,卒滅燕。是歳,秦将王賁亦虜代王嘉。

書き下し

楽間趙に奔る。廉頗之を逐ふこと五百余里、其の国を囲む。燕人和を請ふも、趙人許さず、必ず将渠をして和に処らしめんとす。燕、将渠を相として以て和に処らしむ。趙将渠に聴き、燕の囲みを解く。六年、秦東周を滅ぼし、三川郡を置く。七年、秦趙の楡次三十七城を抜き、秦大原郡を置く。九年、秦王政初めて即位す。十年、趙廉頗をして将として繁陽を攻めしめ、之を抜く。趙の孝成王卒し、悼襄王立つ。楽乗をして廉頗に代はらしむ。廉頗聴かず、楽乗を攻む。楽乗走り、廉頗大梁に奔る。十二年、趙李牧をして燕を攻めしめ、武遂・方城を抜く。劇辛故(もと)趙に居り、龐煖と善し。已にして亡げて燕に走る。燕、趙の数々秦に困しみ、而して廉頗去り、龐煖をして将たらしむるを見て、趙の獘に因りて之を攻めんと欲す。劇辛に問ふ。辛曰く、「龐煖は与し易きのみ」と。燕劇辛をして将として趙を撃たしむ。趙龐煖をして之を撃たしめ、燕の軍二万を取り、劇辛を殺す。秦魏の二十城を抜き、東郡を置く。十九年、秦趙の鄴九城を抜く。趙の悼襄王卒す。二十三年、太子丹秦に質たり、亡げて燕に帰る。二十五年、秦韓王安を虜にして滅ぼし、潁川郡を置く。二十七年、秦趙王遷を虜にし、趙を滅ぼす。趙の公子嘉自立して代王と為る。燕、秦の且に六国を滅ぼさんとし、秦の兵易水に臨み、禍且に燕に至らんとするを見る。太子丹陰かに壮士二十人を養ひ、荊軻をして督亢の地図を秦に献ぜしめ、因りて秦王を襲刺せんとす。秦王覚り、軻を殺し、将軍王翦をして燕を撃たしむ。二十九年、秦攻めて我が薊を抜く。燕王亡げ、徙りて遼東に居り、丹を斬りて以て秦に献ず。三十年、秦魏を滅ぼす。三十三年、秦遼東を抜き、燕王喜を虜にし、卒に燕を滅ぼす。是の歳、秦の将王賁も亦た代王嘉を虜にす。

現代語訳

楽間は趙に亡命した。廉頗は燕軍を五百余里にわたって追撃し、燕の都を包囲した。燕の人々は和睦を願ったが、趙は許さず、必ず将渠に和議を取りまとめさせよと求めた。燕は将渠を宰相にして和議に当たらせた。趙は将渠の言うことを聞き入れて、燕の包囲を解いた。六年、秦が東周を滅ぼし、三川郡を置いた。七年、秦は趙の楡次など三十七城を落とし、太原郡を置いた。九年、秦王政(のちの始皇帝)が即位した。十年、趙は廉頗を将軍として繁陽を攻め、これを落とした。趙の孝成王が亡くなり、悼襄王が立った。悼襄王は楽乗を廉頗の代わりの将軍にしようとしたが、廉頗は従わず楽乗を攻めた。楽乗は逃げ、廉頗は魏の大梁に亡命した。十二年、趙は李牧に燕を攻めさせ、武遂・方城を落とした。劇辛はもともと趙にいて龐煖と親しかったが、のちに燕へ逃れてきていた。燕は、趙がたびたび秦に苦しめられ、廉頗も去って龐煖が将軍になったのを見て、趙の疲弊につけこんで攻めようとした。劇辛に意見を求めると、劇辛は「龐煖なら容易に相手にできます」と言った。燕は劇辛を将軍として趙を攻めさせたが、趙は龐煖に迎え撃たせ、燕軍二万を捕らえ、劇辛を殺した。秦は魏の二十城を落として東郡を置いた。十九年、秦は趙の鄴など九城を落とした。趙の悼襄王が亡くなった。二十三年、秦に人質となっていた太子丹が逃げて燕に帰った。二十五年、秦は韓王安を捕らえて韓を滅ぼし、潁川郡を置いた。二十七年、秦は趙王遷を捕らえて趙を滅ぼした。趙の公子嘉は自ら代王を名乗った。燕は、秦が六国を滅ぼそうとしていて、秦軍が易水に迫り、災いがまさに燕に及ぼうとしているのを見た。太子丹はひそかに勇士二十人を養い、荊軻に督亢(燕の肥沃な地)の地図を秦に献上させ、その機に秦王を刺し殺そうとした。秦王は気づいて荊軻を殺し、将軍王翦に燕を攻めさせた。二十九年、秦は燕の都の薊を落とした。燕王は逃れて遼東に移り、太子丹を斬ってその首を秦に差し出した。三十年、秦は魏を滅ぼした。三十三年、秦は遼東を落として燕王喜を捕らえ、ついに燕を滅ぼした。この年、秦の将軍王賁も代王嘉を捕らえた。

解説

燕の滅亡までを描く最終段です。前段の敗戦の後、趙は和議の相手として諫言した将渠を名指しし、信義を重んじた人物が敵国からも信頼されていたことがわかります。その後は秦の東進が年ごとに記され、周・韓・趙・魏が次々に郡に変えられていきます。燕は趙の弱みにつけこもうとして劇辛を送りますが、相手を侮った結果、二万の兵とともに劇辛を失います。最後に太子丹が荊軻を送って秦王暗殺を図るも失敗し、燕王喜は我が子の首を秦に差し出してまで生き延びようとしますが、結局は滅ぼされます。刺客列伝に詳しい荊軻の話が、世家ではわずか数行で済まされているのも読みどころです。国力の差が決定的なとき、一発逆転の奇策に賭けることの危うさと、見苦しい保身の結末が浮かび上がります。追い詰められたときこそ、状況を正しく見る冷静さが試されるのです。

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