史記 / 韓世家
二十五年,旱,作髙門。屈宜臼曰:「昭侯不出此門。何也?不時。吾所謂時者,非時日也,人固有利不利時。昭侯嘗利矣,不作髙門。往年秦拔宜陽,今年旱,昭侯不以此時卹民之急,而顧益奢,此謂『時絀舉贏』。」二十六年,髙門成,昭侯卒,果不出此門。
新字:二十五年,旱,作高門。屈宜臼曰:「昭侯不出此門。何也?不時。吾所謂時者,非時日也,人固有利不利時。昭侯嘗利矣,不作高門。往年秦抜宜陽,今年旱,昭侯不以此時卹民之急,而顧益奢,此謂『時絀舉贏』。」二十六年,高門成,昭侯卒,果不出此門。
書き下し
二十五年、旱す、高門を作る。屈宜臼曰く、「昭侯此の門を出でず。何ぞや。時ならざればなり。吾が所謂時とは、時日に非ず、人固より利と不利の時有り。昭侯嘗て利あり、高門を作らず。往年秦宜陽を抜き、今年旱す、昭侯此の時を以て民の急を卹まずして、顧りて益ます奢る、此れ時絀して贏を挙ぐと謂ふ」と。二十六年、高門成り、昭侯卒す、果たして此の門を出でず。
現代語訳
二十五年、旱魃が起こったが、韓は立派な高い門を造った。屈宜臼は言った。「昭侯はこの門から出ることはあるまい。なぜか。時宜にかなっていないからだ。私のいう『時』とは、日取りのことではない。人にはもともと、都合のよい時と悪い時がある。昭侯にも順調な時があったが、そのときは高い門を造らなかった。ところが先年は秦に宜陽を奪われ、今年は旱魃だ。昭侯はこの時に民の窮乏を憐れまず、かえっていっそう奢っている。これこそ、苦しい時に贅沢を始めるというものだ」。二十六年、高い門が完成し、昭侯は没した。果たしてこの門から出ることはなかった。
解説

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