史記 / 韓世家
十年,韓姬弒其君悼公。十一年,昭侯如秦。二十二年,申不害死。二十四年,秦來拔我宜陽。
新字:十年,韓姫弒其君悼公。十一年,昭侯如秦。二十二年,申不害死。二十四年,秦来抜我宜陽。
書き下し
十年、韓姫其の君悼公を弑す。十一年、昭侯秦に如く。二十二年、申不害死す。二十四年、秦来りて我が宜陽を抜く。
現代語訳
(昭侯の)十年、韓姫(かんき)がその主君の悼公を殺した。十一年、昭侯が秦に赴いた。二十二年、(宰相の)申不害(しんふがい)が死んだ。二十四年、秦が攻めて来て、わが宜陽を攻め落とした。
解説
韓の昭侯の治世後半を記した短い段です。昭侯は、法家の申不害を宰相に用いて国内を引き締めたことで知られる君主で、申不害が宰相であった十五年ほどの間、韓は国が治まり兵も強く、諸侯も侵攻しなかったと、『史記』老子韓非列伝などに記されています。この段では、その申不害の死がわずか一行で記され、二年後には秦が宜陽を攻め落としたことが続きます。有能な宰相を失った後の国力の衰えを、司馬遷は淡々と並べることで暗示しているとも読めます。冒頭の韓姫が悼公を殺した記事は、誰を指すかについて古来諸説があり、確定しがたい箇所です。短い記録の行間に、人材一人の存在が国の安定をどれほど支えていたかがうかがえます。仕組みを整えた人が去った後にこそ、その仕組みが本当に根づいていたかが試されます。
関連する章句
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史記 韓世家八年、申不害韓に相たり、術を修め道を行ふ、国内以て治まり、諸侯来たりて侵伐せず。
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史記 老子韓非列伝申不害は、京の人なり、故と鄭の賎臣なり。術を学び、以て韓の昭侯に干む。昭侯、用て相と為す。内に政教を修め、外に諸侯に応ずること十五年。申子の身終ふるまで、国治まり兵彊く、韓を侵す者無し。申子の学は黄老を本にして刑名を主とす。書二篇を著し、号して申子と曰ふ。
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史記 韓世家十四年、斉・魏の王と共に秦を撃ち、函谷に至りて焉に軍す。十六年、秦我に河外及び武遂を与ふ。襄王卒し、太子咎立つ、是を釐王と為す。釐王三年、公孫喜をして周・魏を率ゐて秦を攻めしむ。秦我を敗ること二十四万、喜を伊闕に虜にす。五年、秦我が宛を抜く。六年、秦に武遂の地二百里を与ふ。十年、秦我が師を夏山に敗る。十二年、秦の昭王と西周に会して秦を佐けて斉を攻む。斉敗れ、湣王出でて亡ぐ。十四年、秦と両周の閒に会す。二十一年、暴捐をして魏を救はしむ。秦の敗る所と為り、捐開封に走る。二十三年、趙・魏我が華陽を攻む。韓急を秦に告ぐ。秦救はず。韓の相国陳筮に謂ひて曰く、「事急なり。願はくは公病むと雖も、一宿の行を為せ」と。陳筮穣侯に見ゆ。穣侯曰く、「事急なるか。故に公をして来らしむるか」と。陳筮曰く、「未だ急ならざるなり」と。穣侯怒りて曰く、「是れ以て公の主の使と為すべけんや。夫れ冠蓋相望み、敝邑に告ぐること甚だ急なり。公来りて未だ急ならずと言ふは、何ぞや」と。陳筮曰く、「彼の韓急なれば則ち将に変じて佗に従はんとす。未だ急ならざるを以て、故に復た来るのみ」と。穣侯曰く、「公王に見ゆる無かれ。請ふ今兵を発して韓を救はん」と。八日にして至り、趙・魏を華陽の下に敗る。是の歳、釐王卒し、子桓恵王立つ。桓恵王元年、燕を伐つ。九年、秦我が陘を抜き、汾の旁に城く。十年、秦我を太行に撃つ。我が上党の郡守、上党郡を以て趙に降る。十四年、秦趙の上党を抜き、馬服子の卒四十余万を長平に殺す。十七年、秦我が陽城・負黍を抜く。二十二年、秦の昭王卒す。二十四年、秦我が城皋・滎陽を抜く。二十六年、秦悉く我が上党を抜く。二十九年、秦我が十三城を抜く。三十四年、桓恵王卒し、子王安立つ。王安五年、秦韓を攻む。韓急なり。韓非をして秦に使ひせしむ。秦非を留め、因りて之を殺す。九年、秦王安を虜にし、尽く其の地を入れて、潁州郡と為す。韓遂に亡ぶ。
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史記 韓世家十六年、武子卒し、子景侯立つ。景侯虔の元年、鄭を伐ち、雍丘を取る。二年、鄭我を負黍に敗る。六年、趙・魏と倶に列して諸侯と為るを得たり。九年、鄭我が陽翟を囲む。景侯卒し、子列侯取立つ。列侯三年、聶政韓の相俠累を殺す。九年、秦我が宜陽を伐ち、六邑を取る。十三年、列侯卒し、子文侯立つ。是の歳魏の文侯卒す。文侯二年、鄭を伐ち、陽城を取る。宋を伐ち、彭城に到り、宋君を執ふ。七年、斉を伐ち、桑丘に至る。鄭晋に反く。九年、斉を伐ち、霊丘に至る。十年、文侯卒し、子哀侯立つ。哀侯元年、趙・魏と晋国を分つ。二年、鄭を滅ぼし、因りて都を鄭に徙す。六年、韓厳其の君哀侯を弑す。而して子懿侯立つ。懿侯二年、魏我を馬陵に敗る。五年、魏の恵王と宅陽に会す。九年、魏我を澮に敗る。十二年、懿侯卒し、子昭侯立つ。昭侯元年、秦我を西山に敗る。二年、宋我が黄池を取る。魏朱を取る。六年、東周を伐ち、陵観・邢丘を取る。
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史記 老子韓非列伝人或いは其の書を伝へて秦に至る。秦王、孤憤・五蠹の書を見て曰く、「嗟乎、寡人此の人を見、之と游ぶを得ば、死すとも恨みじ」と。李斯曰く、「此れ韓非の著す所の書なり」と。秦因りて急に韓を攻む。韓王、始め非を用ゐず、急なるに及び、乃ち非を遣り秦に使ひせしむ。秦王之を悦ぶも、未だ信用せず。李斯・姚賈之を害み、之を毀りて曰く、「韓非は韓の諸公子なり。今王、諸侯を并せんと欲するに、非は終に韓の為にして秦の為にせず、此れ人の情なり。今王用ゐずして久しく留めて之を帰すは、此れ自ら患ひを遺すなり。過法を以て之を誅するに如かず」と。秦王、以て然りと為し、吏に下して非を治む。李斯、人をして非に薬を遺らしめ、自殺せしむ。韓非、自ら陳べんと欲するも、見ゆるを得ず。秦王後に之を悔い、人をして之を赦さしむるに、非已に死せり。申子・韓子皆書を著し、後世に伝はり、学ぶ者多く有り。余独り韓子の説難を為りて自ら脱する能はざりしを悲しむのみ。
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史記 韓世家王楚の虚名を恃みて、軽々しく彊秦の敵を絶たば、王必ず天下の大笑と為らん。且つ楚・韓は兄弟の国に非ざるなり。又素より約して秦を伐たんと謀るに非ざるなり。已に伐つの形有り、因りて兵を発して韓を救ふと言ふ。此れ必ず陳軫の謀なり。且つ王已に人をして秦に報ぜしむ。今行かざるは、是れ秦を欺くなり。夫れ軽々しく彊秦を欺きて楚の謀臣を信ぜば、恐らくは王必ず之を悔いん」と。韓王聴かず、遂に秦に絶つ。秦因りて大いに怒り、甲を益して韓を伐ち、大いに戦ふ。楚の救ひ韓に至らず。十九年、大いに我を岸門に破る。太子倉秦に質となりて以て和す。二十一年、秦と共に楚を攻め、楚の将屈丐を敗り、首を斬ること八万を丹陽に於てす。是の歳、宣恵王卒し、太子倉立つ、是を襄王と為す。襄王四年、秦の武王と臨晋に会す。其の秋、秦甘茂をして我が宜陽を攻めしむ。五年、秦我が宜陽を抜き、首を斬ること六万。秦の武王卒す。六年、秦復た我に武遂を与ふ。九年、秦復た我が武遂を取る。十年、太子嬰秦に朝して帰る。十一年、秦我を伐ち、穣を取る。秦と楚を伐ち、楚の将唐眛を敗る。十二年、太子嬰死す。公子咎・公子蟣蝨争ひて太子と為らんとす。時に蟣蝨楚に質たり。蘇代、韓咎に謂ひて曰く、「蟣蝨亡げて楚に在り。楚王之を内れんと欲すること甚だし。今楚の兵十余万方城の外に在り。公何ぞ楚王をして万室の都を雍氏の旁に築かしめざる。韓必ず兵を起こして以て之を救はん。公必ず将たらん。公因りて韓・楚の兵を以て蟣蝨を奉じて之を内れよ。其の公に聴くこと必せり。必ず楚・韓を以て公を封ぜん」と。韓咎其の計に従ふ。楚雍氏を囲む。韓救ひを秦に求む。秦未だ為に発せず。公孫昧をして韓に入らしむ。公仲曰く、「子秦を以て且に韓を救はんとすと為すか」と。
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