甲陽軍鑑 / 品第十一
一年前代駿河にて今川義元公の時、山本勘介三河國牛くほより今川殿へ奉公の望に參るといへども、彼山本勘介散々夫男にて、其上一眼指も不叶、足はちんばなり、然れども大剛の者なれば義元公へめしおかるゝ樣にと廣原勘介が宿成る故、おとなの朝比奈兵衛の尉をもつて申上げるは、彼の山本勘介大剛の者なり、殊更城とり陣取り一切の軍法を能く鍛練いたす、京流の兵法も上手なり、軍配をも存知仕つりたる者なりと申せとも、義元公かこへましまさず、駿河にてモヽ味の人の取りがといの山形は第一片輪者數取り服なり其法は其最を人數もとたずして何とて左樣の義存ぜん、今川殿へ奉公に出て度きとて虚言を云ふなりと各申すにより、
新字:一年前代駿河にて今川義元公の時、山本勘介三河国牛くほより今川殿へ奉公の望に参るといへども、彼山本勘介散々夫男にて、其上一眼指も不叶、足はちんばなり、然れども大剛の者なれば義元公へめしおかるゝ様にと広原勘介が宿成る故、おとなの朝比奈兵衛の尉をもつて申上げるは、彼の山本勘介大剛の者なり、殊更城とり陣取り一切の軍法を能く鍛練いたす、京流の兵法も上手なり、軍配をも存知仕つりたる者なりと申せとも、義元公かこへましまさず、駿河にてモヽ味の人の取りがといの山形は第一片輪者数取り服なり其法は其最を人数もとたずして何とて左様の義存ぜん、今川殿へ奉公に出て度きとて虚言を云ふなりと各申すにより、
書き下し
一年前代駿河にて今川義元公の時、山本勘介三河国牛くほより今川殿へ奉公の望に参るといへども、彼山本勘介散々夫男にて、其上一眼指も不叶、足はちんばなり、然れども大剛の者なれば義元公へめしおかるゝ様にと広原勘介が宿成る故、おとなの朝比奈兵衛の尉をもつて申上げるは、彼の山本勘介大剛の者なり、殊更城とり陣取り一切の軍法を能く鍛練いたす、京流の兵法も上手なり、軍配をも存知仕つりたる者なりと申せとも、義元公かこへましまさず、駿河にてモヽ味の人の取りがといの山形は第一片輪者数取り服なり其法は其最を人数もとたずして何とて左様の義存ぜん、今川殿へ奉公に出て度きとて虚言を云ふなりと各申すにより、
現代語訳
ある年、先代の駿河で今川義元公の時、山本勘介が三河国牛久保から今川殿へ奉公の望みで参ったが、この山本勘介はひどく醜い男で、そのうえ片目で指も叶わず、足は不自由であった。しかし大剛の者であるから、義元公に召し抱えられるようにと、広原が勘介の宿であったので、家老の朝比奈兵衛尉を通して申し上げたのは、「この山本勘介は大剛の者である。ことに城取り・陣取り、一切の軍法をよく鍛錬している。京流の兵法も上手である。軍配をも存じている者である」と申したけれども、義元公は抱えなさらなかった。駿河では(底本ここ判読しがたい)人数も持たずして、どうしてそのような事を知っていようか、今川殿へ奉公に出たいために虚言を言うのだと、各々が申したためである。
解説
この章句が説くこと
関連する章句
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『韓非子』難二第三十七桓公曰く、「吾聞く、人に君たる者は人を索むるに労し、人を使うに佚すと。吾仲父を得ること已に難し。仲父を得るの後、何為れぞ易からざらんや。」
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『家道訓』巻之二・総論中一奴婢は、才力ありて質実なるこそねがはしけれど、かかる者はまれなり。才弁にして利口なる者は、多くはまことすくなくして、主をあざむき、かだましき事を行ふ。家主たる人、もし是を喜びて家事をまかせては、必ず大なる禍となる。才徳二ながら得がたければ、才鈍くとも質実なるを好むべし。鈍くしてはかゆかざれども、質実なれば、主人の教にしたがひやすく、後の禍なし。
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孫子・作戦篇其の戦を用うるや、勝つを貴ぶ。久しければ則ち兵を鈍らせ鋭を挫き、城を攻むれば則ち力屈し、久しく師を暴せば則ち国用足らず。
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尉繚子・武議良馬も策有れば、遠道致すべし。賢士も合有れば、大道明らかにすべし。
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