史記 / 魏世家
是故臣願以從事王,王速受楚趙之約,而挾韓之質以存韓,而求故地,韓必效之。此士民不勞而故地得,其功多於與秦共伐韓,而又與彊秦鄰之禍也。夫存韓安魏而利天下,此亦王之天時已。通韓上黨於共、甯,使道安成,出入賦之,是魏重質韓以其上黨也。今有其賦,足以富國。韓必德魏愛魏重魏畏魏,韓必不敢反魏,是韓則魏之縣也。魏得韓以爲縣,衞大梁,河外必安矣。今不存韓,二周、安陵必危,楚、趙大破,衞、齊甚卑,天下西鄕而馳秦,入朝而爲臣不久矣。廿年,秦圍邯鄲,信陵君无忌矯奪將軍晉鄙兵以救趙,趙得全。无忌因留趙。廿六年,秦昭王卒。卅年,无忌歸魏,率五國兵攻秦,敗之河外,走蒙驁。魏太子增質於秦,秦怒,欲囚魏太子增。或爲增謂秦王曰:『公孫喜固謂魏相曰「請以魏疾撃秦,秦王怒,必囚增。魏王又怒,撃秦,秦必傷」。今王囚增,是喜之計中也。故不若貴增而合魏,以疑之於齊、韓。』秦乃止增。卅一年,秦王政初立。卅四年,安釐王卒,太子增立,是爲景湣王。信陵君无忌卒。景湣王元年,秦拔我廿城,以爲秦東郡。二年,秦拔我朝謌。衞徙野王。三年,秦拔我汲。五年,秦拔我垣、蒲陽、衍。十五年,景湣王卒,子王假立。王假元年,燕太子丹使荊軻刺秦王,秦王覺之。三年,秦灌大梁,虜王假,遂滅魏以爲郡縣。
新字:是故臣願以従事王,王速受楚趙之約,而挟韓之質以存韓,而求故地,韓必効之。此士民不労而故地得,其功多於与秦共伐韓,而又与彊秦鄰之禍也。夫存韓安魏而利天下,此亦王之天時已。通韓上党於共、甯,使道安成,出入賦之,是魏重質韓以其上党也。今有其賦,足以富国。韓必徳魏愛魏重魏畏魏,韓必不敢反魏,是韓則魏之県也。魏得韓以為県,衛大梁,河外必安矣。今不存韓,二周、安陵必危,楚、趙大破,衛、斉甚卑,天下西郷而馳秦,入朝而為臣不久矣。廿年,秦囲邯鄲,信陵君无忌矯奪将軍晋鄙兵以救趙,趙得全。无忌因留趙。廿六年,秦昭王卒。卅年,无忌帰魏,率五国兵攻秦,敗之河外,走蒙驁。魏太子增質於秦,秦怒,欲囚魏太子增。或為增謂秦王曰:『公孫喜固謂魏相曰「請以魏疾撃秦,秦王怒,必囚增。魏王又怒,撃秦,秦必傷」。今王囚增,是喜之計中也。故不若貴增而合魏,以疑之於斉、韓。』秦乃止增。卅一年,秦王政初立。卅四年,安釐王卒,太子增立,是為景湣王。信陵君无忌卒。景湣王元年,秦抜我廿城,以為秦東郡。二年,秦抜我朝謌。衛徙野王。三年,秦抜我汲。五年,秦抜我垣、蒲陽、衍。十五年,景湣王卒,子王仮立。王仮元年,燕太子丹使荊軻刺秦王,秦王覚之。三年,秦灌大梁,虜王仮,遂滅魏以為郡県。
書き下し
是の故に臣願はくは従を以て王に事へん。王速やかに楚・趙の約を受け、而して韓の質を挟みて以て韓を存し、而して故地を求めば、韓必ず之を效さん。此れ士民労せずして故地得られ、其の功は秦と共に韓を伐ちて、而も又彊秦と鄰する禍に多し。夫れ韓を存し魏を安んじて天下を利するは、此れ亦王の天時のみ。韓の上党を共・甯に通じ、道をして成を安んぜしめ、出入に之に賦せば、是れ魏重ねて韓を質とするに其の上党を以てするなり。今其の賦有らば、以て国を富ますに足る。韓必ず魏を徳とし魏を愛し魏を重んじ魏を畏れ、韓必ず敢へて魏に反かず。是れ韓は則ち魏の県なり。魏韓を得て以て県と為さば、衛・大梁・河外必ず安からん。今韓を存せずんば、二周・安陵必ず危ふく、楚・趙大いに破れ、衛・斉甚だ卑く、天下西に郷ひて秦に馳せ、入朝して臣と為ること久しからざらん。廿年、秦邯鄲を囲む。信陵君無忌、将軍晋鄙の兵を矯め奪ひて以て趙を救ふ。趙全きを得たり。無忌因りて趙に留まる。廿六年、秦の昭王卒す。卅年、無忌魏に帰り、五国の兵を率ゐて秦を攻め、之を河外に敗り、蒙驁を走らす。魏の太子増秦に質たり。秦怒り、魏の太子増を囚へんと欲す。或ひと増の為に秦王に謂ひて曰く、『公孫喜固より魏の相に謂ひて曰く「請ふ魏を以て疾く秦を撃たん。秦王怒りて、必ず増を囚へん。魏王又怒りて、秦を撃たば、秦必ず傷つかん」と。今王増を囚ふるは、是れ喜の計中るなり。故に増を貴びて魏と合し、以て之を斉・韓に疑はしむるに若かず』と。秦乃ち増を止む。卅一年、秦王政初めて立つ。卅四年、安釐王卒し、太子増立つ、是を景湣王と為す。信陵君無忌卒す。景湣王元年、秦我が廿城を抜き、以て秦の東郡と為す。二年、秦我が朝歌を抜く。衛野王に徙る。三年、秦我が汲を抜く。五年、秦我が垣・蒲陽・衍を抜く。十五年、景湣王卒し、子王仮立つ。王仮元年、燕の太子丹、荊軻をして秦王を刺さしむ。秦王之を覚る。三年、秦大梁に灌ぎ、王仮を虜にし、遂に魏を滅ぼして以て郡県と為す。
現代語訳
だからわたしは、合従の策をもって王にお仕えしたい。王が速やかに楚・趙との盟約を受け入れ、韓の人質を押さえて韓を存続させたうえで旧領の返還を求めれば、韓は必ず差し出すだろう。そうすれば兵も民も苦労せずに旧領を得られ、その功は、秦と共に韓を討ったうえに強い秦と隣り合う禍を抱えることより、はるかに大きい。韓を存続させ、魏を安んじ、天下を利することこそ、王にとって天の与えた好機である。韓の上党から共・甯(ねい)へ道を通じさせ、安成を経由させて、出入りする者に税を課せば、魏は韓の上党を二重の人質として押さえることになる。今その税収があれば、国を富ませるのに十分である。韓は必ず魏に恩を感じ、魏を慕い、魏を重んじ、魏を畏れて、決して魏に背くことはないだろう。そうなれば韓は魏の県も同然である。魏が韓を県とすれば、衛・大梁・河外は必ず安泰になる。今もし韓を存続させなければ、東西の二周や安陵は必ず危うくなり、楚・趙は大敗し、衛・斉は大いに勢いを失い、天下は西へ向かって秦に駆け寄り、入朝して臣従するのも遠いことではないだろう。二十年、秦が邯鄲を包囲した。信陵君無忌は王命を偽って将軍晋鄙(しんぴ)の兵を奪い、趙を救った。趙は無事に保たれた。無忌はそのまま趙に留まった。二十六年、秦の昭王が死んだ。三十年、無忌は魏に帰り、五国の兵を率いて秦を攻め、河外で破り、秦の将蒙驁(もうごう)を敗走させた。魏の太子増(ぞう)は秦に人質となっていた。秦は怒って魏の太子増を監禁しようとした。ある者が増のために秦王に言った。『公孫喜(こうそんき)はかねて魏の宰相にこう言っていた。「魏を挙げて急いで秦を撃とう。秦王は怒って必ず増を監禁するだろう。魏王はまた怒って秦を撃ち、秦は必ず痛手を受けるだろう」と。今、王が増を監禁すれば、公孫喜の計略にまんまとはまることになる。だから増を丁重に遇して魏と手を結び、斉・韓に魏を疑わせるほうがよい』。秦はそこで増の監禁を取りやめた。三十一年、秦王政が即位した。三十四年、安釐王が死に、太子の増が立った。これが景湣王(けいびんおう)である。信陵君無忌が死んだ。景湣王の元年、秦がわが二十の城を攻め落とし、秦の東郡とした。二年、秦がわが朝歌を攻め落とした。衛は野王に移った。三年、秦がわが汲を攻め落とした。五年、秦がわが垣・蒲陽・衍(えん)を攻め落とした。十五年、景湣王が死に、子の王仮(か)が立った。王仮の元年、燕の太子丹が荊軻(けいか)に秦王を刺させようとしたが、秦王はそれに気づいた。三年、秦は大梁に水を注ぎ込み、王仮を捕虜にし、ついに魏を滅ぼして郡県とした。
解説
関連する章句
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史記 魏世家若し河外に道し、大梁を倍にし、上蔡・召陵を右にして、楚の兵と陳の郊に決するは、秦又敢へてせず。故に曰く秦必ず楚と趙とを伐たず、又衛と斉とを攻めずと。夫れ韓亡びし後、兵出づるの日は、魏に非ずんば攻むる無きのみ。秦固より懐・茅・邢丘を有ち、垝津に城きて以て河内に臨まば、河内の共・汲必ず危ふし。鄭の地を有ち、垣雍を得て、熒沢の水を決して大梁に灌がば、大梁必ず亡びん。王の使者出でて過ちて安陵氏を秦に悪む。秦の之を誅せんと欲すること久し。秦の葉陽・昆陽は舞陽と鄰す。使者の之を悪むを聴き、安陵氏に随ひて之を亡ぼし、舞陽の北を繞りて、以て東のかた許に臨まば、南国必ず危ふし。国先づ害せられん。夫れ韓を憎みて安陵氏を愛せざるは可なり。夫れ秦の南国を愛せざるを患へざるは非なり。異日は、秦河西の晋に在り、国は梁を去ること千里、河山有りて以て之を闌り、周・韓有りて以て之を閒つ。林郷の軍より以て今に至るまで、秦七たび魏を攻め、五たび囿中に入り、辺城尽く抜かれ、文台墮ち、垂都焚かれ、林木伐られ、麋鹿尽き、而して国継ぐに囲みを以てす。又長駆して梁の北に至り、東は陶・衛の郊に至り、北は平監に至る。秦に亡ふ所の者は、山南山北、河外・河内、大県数十、名都数百なり。秦乃ち河西の晋に在りて、梁を去ること千里にして、禍是の若し。又況んや秦をして韓無く、鄭の地を有ち、河山の之を闌る無く、周・韓の之を閒つる無く、大梁を去ること百里ならしめば、禍必ず此に百せん。異日は、従の成らざるや、楚・魏疑ひて韓得べからざればなり。今韓兵を受くること三年、秦之を橈めて以て講ず。亡ぶるを識るも聴かず、質を趙に投じ、天下の為に鴈行して刃を頓さんことを請ふ。楚・趙必ず兵を集めん。皆秦の欲の窮まり無きを識ればなり。尽く天下の国を亡ぼして海内を臣とするに非ずんば、必ず休まざらん。
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史記 魏世家痤因りて書を信陵君に上りて曰く、『痤は、故の魏の免相なり。趙地を以て痤を殺さんとして魏王之を聴く。如し彊秦も亦将に趙の欲を襲はんとすること有らば、則ち君且に奈何せんとする』と。信陵君王に言ひて之を出だす。魏王、秦の救ひし故を以て、秦に親しみて韓を伐ち、以て故地を求めんと欲す。無忌魏王に謂ひて曰く、秦は戎翟と俗を同じくし、虎狼の心有り。貪戾にして利を好み信無く、礼義徳行を識らず。苟くも利有らば、親戚兄弟をも顧みず。禽獣の若きのみ。此れ天下の識る所なり。厚きを施し徳を積む所有るに非ざるなり。故に太后は母なるも、而も憂ひを以て死し、穣侯は舅なり、功焉より大なるは莫きも、而も竟に之を逐ふ。両弟罪無きも、而も再び之が国を奪ふ。此れ親戚に於て此の若し。而るを況んや仇讎の国に於てをや。今王秦と共に韓を伐ちて益々秦の患ひに近づく。臣甚だ之に惑ふ。而るに王識らずんば則ち明ならず、群臣以て聞する莫くんば則ち忠ならず。今韓氏は一女子を以て一弱主を奉じ、内に大乱有り、外に彊き秦・魏の兵と交はる。王以て亡びずと為すか。韓亡びて、秦鄭の地を有ち、大梁・鄴と与にせば、王以て安しと為すか。王故地を得んと欲し、今彊秦の親しみを負ふ。王以て利と為すか。秦は無事の国に非ざるなり。韓亡びし後、必ず将に更に事とせんとす。更に事とすれば必ず易きと利とに就く。易きと利とに就けば必ず楚と趙とを伐たざらん。是れ何ぞや。夫れ山を越え河を踰え、韓の上党を絶ちて彊趙を攻むるは、是れ閼与の事を復するなり。秦必ず為さず。若し河内に道し、鄴・朝歌を倍にし、漳・滏の水を絶ちて、趙の兵と邯鄲の郊に決するは、是れ知伯の禍なり。秦又敢へてせず。楚を伐つには、渉谷に道し、行くこと三千里にして、冥阸の塞を攻む。行く所甚だ遠く、攻むる所甚だ難し。秦又為さざるなり。
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戦国策・魏將與秦攻韓魏将(まさ)に秦と与(とも)に韓を攻めんとす、朱己魏王に謂いて曰く、「秦は戎・翟と俗を同じくし、虎狼の心有り、貪戾(たんれい)にして利を好みて信無く、礼義徳行を識らず。苟(いやし)くも利有れば、親戚兄弟を顧みず、禽獣の若きのみ。此れ天下の同じく知る所なり、厚く徳を積むを施す所に非ざるなり。故に太后は母なり、而れども以て憂いて死す。穰侯は舅(きゅう)なり、功之より大なるは莫し、而れども竟(つい)に之を逐(お)う。両弟罪無し、而れども再び其の国を奪う。此れ其の親戚兄弟に於いて此くの若し、而るを又況んや仇讎(きゅうしゅう)の敵国に於いてをや。今大王秦と与に韓を伐ちて益々秦に近づけば、臣甚だ之を或(うたが)う、而れども王識らざれば、則ち明ならず。群臣之を知りて、之を以て諫むる莫ければ、則ち忠ならず。今夫れ韓氏一女子を以て一弱主を承(う)け、内に大乱有り、外安んぞ能く強秦・魏の兵を支えんや、王以て破れずと為すか。韓亡べば、秦尽く鄭地を有し、大梁と鄰(とな)らん、王以て安しと為すか。王故地を得んと欲して、今強秦の禍を負う、王以て利と為すか。秦は無事の国に非ざるなり、韓亡びし後、必ず且に事を便(たよ)りにせんとし、事を便りにせば、必ず易きと利とに就かん、易きと利とに就かば、必ず楚と趙とを伐たざらん。是れ何ぞや。夫れ山を越え河を踰(こ)え、韓の上党を絶ちて強趙を攻むるは、則ち是れ復た閼与(あつよ)の事なり、秦必ず為さざるなり。若し河内を道(みち)とし、鄴・朝謌に倍(そむ)き、漳・滏の水を絶ちて、以て趙兵と邯鄲の郊に決勝せば、是れ智伯の禍を受くるなり、秦又敢えてせず。楚を伐つに、涉を道とし谷行すること三十里にして、危隘の塞を攻めば、行く所の者甚だ遠くして、攻むる所の者甚だ難し、秦又為さざるなり。若し河外を道とし、大梁に背き、上蔡・召陵を右にして、以て楚兵と陳の郊に決せば、秦又敢えてせざるなり。故に曰く、秦必ず楚と趙とを伐たず、又衛と齊とを攻めず、と。且つ夫れ韓を憎みて安陵氏を受けざるは可なり、夫れ秦の南国を愛せざるを患えざるは非(ひ)なり。異日には、秦乃ち河西に在り、晋国の梁を去ること、千里有余にして、河山以て之を蘭(さえぎ)り、周・韓有りて之を間(へだ)つ。林軍より以て今に至るまで、秦十たび魏を攻め、五たび国中に入り、辺城尽く抜かる。文台墮(やぶ)れ、垂都焚(や)かれ、林木伐られ、麋鹿(びろく)尽き、而して国継ぐに囲みを以てす。又長駆して梁の北にいたり、東は陶・衛の郊に至り、北は闞(かん)に至り、秦に亡う所の者、山北・河外・河内、大県数百、名都数十なり。秦乃ち河西に在り、晋国の大梁を去ること尚お千里にして、禍此くの若し。又況んや秦をして韓無くして鄭地を有たしめ、河山以て之を蘭る無く、周・韓以て之を間つる無く、大梁を去ること百里なれば、禍必ず此に百せんをや。異日には、従(しょう)成らずして、楚・魏疑い、韓約するを得可からざりき。今韓兵を受くること三年なり、秦之を撓(みだ)すに講を以てす、韓亡ぶるを知りて、猶お聴かず、質を趙に投じ、天下の為に雁行頓刃(がんこうとんじん)せんことを請う。臣の観る所を以てすれば、則ち楚・趙必ず之に与(くみ)して攻めん。此れ何ぞや。則ち皆秦の窮まり無きを知ればなり、尽く天下の兵を亡ぼし、海内の民を臣とするに非ざれば、必ず休まざるなり。是の故に臣願わくは以て王に従事せん、王速やかに楚・趙の約を受け、韓・魏の質を挟みて、韓を存するを務めと為し、因りて故地を韓に求めば、韓必ず之を効(いた)さん。此くの如くば則ち士民労せずして故地を得、其の功秦と共に韓を伐つより多くして、然れども強秦と鄰(とな)るの禍無し。夫れ韓を存し魏を安んじて天下を利するは、此れ亦た王の大時なり。韓の上党を共・莫に通じ、道をして已に通ぜしめ、因りて之に関し、出入する者之に賦せば、是れ魏重ねて韓を其の上党を以て質とするなり。共に其の賦有らば、以て国を富ますに足り、韓必ず魏に徳とし、魏を愛し、魏を重んじ、魏を畏れ、韓必ず敢えて魏に反せず。韓は是れ魏の県なり。魏韓を得て以て県と為せば、則ち衛・大梁・河外必ず安からん。今韓を存せざれば、則ち二周必ず危うく、安陵必ず易(か)わらん。楚・趙楚大いに破れ、衛・齊甚だ畏れ、天下の西のかた秦に馳(は)せ、入朝して臣と為るの日久しからざらん。」
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史記 燕召公世家楽間趙に奔る。廉頗之を逐ふこと五百余里、其の国を囲む。燕人和を請ふも、趙人許さず、必ず将渠をして和に処らしめんとす。燕、将渠を相として以て和に処らしむ。趙将渠に聴き、燕の囲みを解く。六年、秦東周を滅ぼし、三川郡を置く。七年、秦趙の楡次三十七城を抜き、秦大原郡を置く。九年、秦王政初めて即位す。十年、趙廉頗をして将として繁陽を攻めしめ、之を抜く。趙の孝成王卒し、悼襄王立つ。楽乗をして廉頗に代はらしむ。廉頗聴かず、楽乗を攻む。楽乗走り、廉頗大梁に奔る。十二年、趙李牧をして燕を攻めしめ、武遂・方城を抜く。劇辛故(もと)趙に居り、龐煖と善し。已にして亡げて燕に走る。燕、趙の数々秦に困しみ、而して廉頗去り、龐煖をして将たらしむるを見て、趙の獘に因りて之を攻めんと欲す。劇辛に問ふ。辛曰く、「龐煖は与し易きのみ」と。燕劇辛をして将として趙を撃たしむ。趙龐煖をして之を撃たしめ、燕の軍二万を取り、劇辛を殺す。秦魏の二十城を抜き、東郡を置く。十九年、秦趙の鄴九城を抜く。趙の悼襄王卒す。二十三年、太子丹秦に質たり、亡げて燕に帰る。二十五年、秦韓王安を虜にして滅ぼし、潁川郡を置く。二十七年、秦趙王遷を虜にし、趙を滅ぼす。趙の公子嘉自立して代王と為る。燕、秦の且に六国を滅ぼさんとし、秦の兵易水に臨み、禍且に燕に至らんとするを見る。太子丹陰かに壮士二十人を養ひ、荊軻をして督亢の地図を秦に献ぜしめ、因りて秦王を襲刺せんとす。秦王覚り、軻を殺し、将軍王翦をして燕を撃たしむ。二十九年、秦攻めて我が薊を抜く。燕王亡げ、徙りて遼東に居り、丹を斬りて以て秦に献ず。三十年、秦魏を滅ぼす。三十三年、秦遼東を抜き、燕王喜を虜にし、卒に燕を滅ぼす。是の歳、秦の将王賁も亦た代王嘉を虜にす。
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史記 魏世家太子の自ら相たらば、是れ三人の者皆太子を以て常相に非ずと為し、皆将に務めて其の国を以て魏に事へ、丞相の璽を得んと欲せんとす。魏の彊きを以て、而して三万乗の国之を輔けば、魏必ず安からん。故に曰く太子の自ら相たるに若くは莫しと」』と。遂に北して梁王に見え、此を以て之に告ぐ。太子果たして魏に相たり。十年、張儀死す。十一年、秦の武王と応に会す。十二年、太子秦に朝す。秦来りて我が皮氏を伐つも、未だ抜かずして解く。十四年、秦来りて武王后を帰す。十六年、秦我が蒲反・陽晋・封陵を抜く。十七年、秦と臨晋に会す。秦我に蒲反を予ふ。十八年、秦と楚を伐つ。廿一年、斉・韓と共に秦の軍を函谷に敗る。廿三年、秦復た我に河外及び封陵を予へて和を為す。哀王卒し、子昭王立つ。昭王元年、秦我が襄城を抜く。二年、秦と戦ひ、我利あらず。三年、韓を佐けて秦を攻む。秦の将白起、我が軍を伊闕に敗ること廿四万。六年、秦に河東の地方四百里を予ふ。芒卯詐りを以て重んぜらる。七年、秦我が城大小六十一を抜く。八年、秦の昭王西帝と為り、斉の湣王東帝と為る。月余にして、皆復た王と称して帝を帰す。九年、秦我が新垣・曲陽の城を抜く。十年、斉宋を滅ぼす。宋王我が温に死す。十二年、秦・趙・韓・燕と共に斉を伐ち、之を済西に敗る。湣王出でて亡ぐ。燕独り臨菑に入る。秦王と西周に会す。十三年、秦我が安城を抜く。兵大梁に到りて、去る。十八年、秦郢を抜き、楚王陳に徙る。十九年、昭王卒し、子安釐王立つ。安釐王元年、秦我が両城を抜く。二年、又我が二城を抜き、大梁の下に軍す。韓来り救ふ。秦に温を予へて以て和す。三年、秦我が四城を抜き、首を斬ること四万。
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史記 魏世家四年、秦我及び韓・趙を破り、十五万人を殺し、我が将芒卯を走らす。魏の将段干子、秦に南陽を予へて以て和せんことを請ふ。蘇代、魏王に謂ひて曰く、『璽を欲する者は段干子なり。地を欲する者は秦なり。今王地を欲する者をして璽を制せしめ、璽を欲する者をして地を制せしむ。魏氏の地尽きずんば則ち已むを知らず。且つ夫れ地を以て秦に事ふるは、譬へば猶ほ薪を抱きて火を救ふがごとし。薪尽きずんば、火滅えず』と。王曰く、『是れ則ち然り。然りと雖も、事始めて已に行はる。更むべからず』と。対へて曰く、『王独り夫の博の梟を貴ぶ所以の者を見ずや。便なれば則ち食ひ、便ならざれば則ち止む。今王曰く「事始めて已に行はる、更むべからず」と。是れ何ぞ王の智を用ふること梟を用ふるに如かざるや』と。九年、秦我が懐を抜く。十年、秦の太子外に魏に質となりて死す。十一年、秦我が郪丘を抜く。秦の昭王左右に謂ひて曰く、『今時の韓・魏は始めと孰れか彊き』と。対へて曰く、『始めの彊きに如かず』と。王曰く、『今時の如耳・魏斉は孟嘗・芒卯と孰れか賢なる』と。対へて曰く、『如かず』と。王曰く、『孟嘗・芒卯の賢を以て、彊き韓・魏を率ゐて以て秦を攻むるも、猶ほ寡人を奈何ともする無し。今無能の如耳・魏斉を以て弱き韓・魏を率ゐて以て秦を伐つ。其の寡人を奈何ともする無きこと亦明らかなり』と。左右皆曰く、『甚だ然り』と。中旗琴に馮りて対へて曰く、『王の天下を料ること過てり。晋の六卿の時に当たり、知氏最も彊し。范・中行を滅ぼし、又韓・魏の兵を率ゐて以て趙襄子を晋陽に囲み、晋水を決して以て晋陽の城に灌ぐ。湛まざる者三版。知伯水を行り、魏桓子御し、韓康子参乗と為る。知伯曰く、「吾始め水の以て人の国を亡ぼすべきを知らず、乃ち今之を知る」と。汾水は以て安邑に灌ぐべく、絳水は以て平陽に灌ぐべし。
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