師導古典を学びたいすべての人に

史記 / 魏世家

是故臣願以從事王,王速受楚趙之約,而挾韓之質以存韓,而求故地,韓必效之。此士民不勞而故地得,其功多於與秦共伐韓,而又與彊秦鄰之禍也。夫存韓安魏而利天下,此亦王之天時已。通韓上黨於共、甯,使道安成,出入賦之,是魏重質韓以其上黨也。今有其賦,足以富國。韓必德魏愛魏重魏畏魏,韓必不敢反魏,是韓則魏之縣也。魏得韓以爲縣,衞大梁,河外必安矣。今不存韓,二周、安陵必危,楚、趙大破,衞、齊甚卑,天下西鄕而馳秦,入朝而爲臣不久矣。廿年,秦圍邯鄲,信陵君无忌矯奪將軍晉鄙兵以救趙,趙得全。无忌因留趙。廿六年,秦昭王卒。卅年,无忌歸魏,率五國兵攻秦,敗之河外,走蒙驁。魏太子增質於秦,秦怒,欲囚魏太子增。或爲增謂秦王曰:『公孫喜固謂魏相曰「請以魏疾撃秦,秦王怒,必囚增。魏王又怒,撃秦,秦必傷」。今王囚增,是喜之計中也。故不若貴增而合魏,以疑之於齊、韓。』秦乃止增。卅一年,秦王政初立。卅四年,安釐王卒,太子增立,是爲景湣王。信陵君无忌卒。景湣王元年,秦拔我廿城,以爲秦東郡。二年,秦拔我朝謌。衞徙野王。三年,秦拔我汲。五年,秦拔我垣、蒲陽、衍。十五年,景湣王卒,子王假立。王假元年,燕太子丹使荊軻刺秦王,秦王覺之。三年,秦灌大梁,虜王假,遂滅魏以爲郡縣。

新字:是故臣願以従事王,王速受楚趙之約,而挟韓之質以存韓,而求故地,韓必効之。此士民不労而故地得,其功多於与秦共伐韓,而又与彊秦鄰之禍也。夫存韓安魏而利天下,此亦王之天時已。通韓上党於共、甯,使道安成,出入賦之,是魏重質韓以其上党也。今有其賦,足以富国。韓必徳魏愛魏重魏畏魏,韓必不敢反魏,是韓則魏之県也。魏得韓以為県,衛大梁,河外必安矣。今不存韓,二周、安陵必危,楚、趙大破,衛、斉甚卑,天下西郷而馳秦,入朝而為臣不久矣。廿年,秦囲邯鄲,信陵君无忌矯奪将軍晋鄙兵以救趙,趙得全。无忌因留趙。廿六年,秦昭王卒。卅年,无忌帰魏,率五国兵攻秦,敗之河外,走蒙驁。魏太子增質於秦,秦怒,欲囚魏太子增。或為增謂秦王曰:『公孫喜固謂魏相曰「請以魏疾撃秦,秦王怒,必囚增。魏王又怒,撃秦,秦必傷」。今王囚增,是喜之計中也。故不若貴增而合魏,以疑之於斉、韓。』秦乃止增。卅一年,秦王政初立。卅四年,安釐王卒,太子增立,是為景湣王。信陵君无忌卒。景湣王元年,秦抜我廿城,以為秦東郡。二年,秦抜我朝謌。衛徙野王。三年,秦抜我汲。五年,秦抜我垣、蒲陽、衍。十五年,景湣王卒,子王仮立。王仮元年,燕太子丹使荊軻刺秦王,秦王覚之。三年,秦灌大梁,虜王仮,遂滅魏以為郡県。

書き下し

是の故に臣願はくは従を以て王に事へん。王速やかに楚・趙の約を受け、而して韓の質を挟みて以て韓を存し、而して故地を求めば、韓必ず之を效さん。此れ士民労せずして故地得られ、其の功は秦と共に韓を伐ちて、而も又彊秦と鄰する禍に多し。夫れ韓を存し魏を安んじて天下を利するは、此れ亦王の天時のみ。韓の上党を共・甯に通じ、道をして成を安んぜしめ、出入に之に賦せば、是れ魏重ねて韓を質とするに其の上党を以てするなり。今其の賦有らば、以て国を富ますに足る。韓必ず魏を徳とし魏を愛し魏を重んじ魏を畏れ、韓必ず敢へて魏に反かず。是れ韓は則ち魏の県なり。魏韓を得て以て県と為さば、衛・大梁・河外必ず安からん。今韓を存せずんば、二周・安陵必ず危ふく、楚・趙大いに破れ、衛・斉甚だ卑く、天下西に郷ひて秦に馳せ、入朝して臣と為ること久しからざらん。廿年、秦邯鄲を囲む。信陵君無忌、将軍晋鄙の兵を矯め奪ひて以て趙を救ふ。趙全きを得たり。無忌因りて趙に留まる。廿六年、秦の昭王卒す。卅年、無忌魏に帰り、五国の兵を率ゐて秦を攻め、之を河外に敗り、蒙驁を走らす。魏の太子増秦に質たり。秦怒り、魏の太子増を囚へんと欲す。或ひと増の為に秦王に謂ひて曰く、『公孫喜固より魏の相に謂ひて曰く「請ふ魏を以て疾く秦を撃たん。秦王怒りて、必ず増を囚へん。魏王又怒りて、秦を撃たば、秦必ず傷つかん」と。今王増を囚ふるは、是れ喜の計中るなり。故に増を貴びて魏と合し、以て之を斉・韓に疑はしむるに若かず』と。秦乃ち増を止む。卅一年、秦王政初めて立つ。卅四年、安釐王卒し、太子増立つ、是を景湣王と為す。信陵君無忌卒す。景湣王元年、秦我が廿城を抜き、以て秦の東郡と為す。二年、秦我が朝歌を抜く。衛野王に徙る。三年、秦我が汲を抜く。五年、秦我が垣・蒲陽・衍を抜く。十五年、景湣王卒し、子王仮立つ。王仮元年、燕の太子丹、荊軻をして秦王を刺さしむ。秦王之を覚る。三年、秦大梁に灌ぎ、王仮を虜にし、遂に魏を滅ぼして以て郡県と為す。

現代語訳

だからわたしは、合従の策をもって王にお仕えしたい。王が速やかに楚・趙との盟約を受け入れ、韓の人質を押さえて韓を存続させたうえで旧領の返還を求めれば、韓は必ず差し出すだろう。そうすれば兵も民も苦労せずに旧領を得られ、その功は、秦と共に韓を討ったうえに強い秦と隣り合う禍を抱えることより、はるかに大きい。韓を存続させ、魏を安んじ、天下を利することこそ、王にとって天の与えた好機である。韓の上党から共・甯(ねい)へ道を通じさせ、安成を経由させて、出入りする者に税を課せば、魏は韓の上党を二重の人質として押さえることになる。今その税収があれば、国を富ませるのに十分である。韓は必ず魏に恩を感じ、魏を慕い、魏を重んじ、魏を畏れて、決して魏に背くことはないだろう。そうなれば韓は魏の県も同然である。魏が韓を県とすれば、衛・大梁・河外は必ず安泰になる。今もし韓を存続させなければ、東西の二周や安陵は必ず危うくなり、楚・趙は大敗し、衛・斉は大いに勢いを失い、天下は西へ向かって秦に駆け寄り、入朝して臣従するのも遠いことではないだろう。二十年、秦が邯鄲を包囲した。信陵君無忌は王命を偽って将軍晋鄙(しんぴ)の兵を奪い、趙を救った。趙は無事に保たれた。無忌はそのまま趙に留まった。二十六年、秦の昭王が死んだ。三十年、無忌は魏に帰り、五国の兵を率いて秦を攻め、河外で破り、秦の将蒙驁(もうごう)を敗走させた。魏の太子増(ぞう)は秦に人質となっていた。秦は怒って魏の太子増を監禁しようとした。ある者が増のために秦王に言った。『公孫喜(こうそんき)はかねて魏の宰相にこう言っていた。「魏を挙げて急いで秦を撃とう。秦王は怒って必ず増を監禁するだろう。魏王はまた怒って秦を撃ち、秦は必ず痛手を受けるだろう」と。今、王が増を監禁すれば、公孫喜の計略にまんまとはまることになる。だから増を丁重に遇して魏と手を結び、斉・韓に魏を疑わせるほうがよい』。秦はそこで増の監禁を取りやめた。三十一年、秦王政が即位した。三十四年、安釐王が死に、太子の増が立った。これが景湣王(けいびんおう)である。信陵君無忌が死んだ。景湣王の元年、秦がわが二十の城を攻め落とし、秦の東郡とした。二年、秦がわが朝歌を攻め落とした。衛は野王に移った。三年、秦がわが汲を攻め落とした。五年、秦がわが垣・蒲陽・衍(えん)を攻め落とした。十五年、景湣王が死に、子の王仮(か)が立った。王仮の元年、燕の太子丹が荊軻(けいか)に秦王を刺させようとしたが、秦王はそれに気づいた。三年、秦は大梁に水を注ぎ込み、王仮を捕虜にし、ついに魏を滅ぼして郡県とした。

解説

信陵君の意見書の結論と、魏の滅亡までの記録です。信陵君は、秦と組んで韓を討つのではなく、楚・趙と合従して韓を存続させれば、韓は恩に感じて旧領を返し、上党を通る道の税収で国も富み、韓は魏の県も同然になると説きました。敵を滅ぼすより、生かして味方にするほうが得だという戦略です。後半では、信陵君が王命を偽って晋鄙の兵を奪い、邯鄲を救った「窃符救趙」と、五国の兵を率いて秦を破った功績が記されます。しかし信陵君の死後、魏は秦に城を次々と奪われ、最後は大梁を水攻めにされて滅びました。信陵君が意見書の中で警告したとおりの結末です。魏世家全体を通じて、有能な人物の進言や働きがあっても、国の大きな流れを変えるには至らない現実が描かれ、読後に重い余韻を残します。

関連する章句

古典の入門書『人生の教科書』の表紙

人生の答えは、ぜんぶ古典に書いてあった。

古典の入門書『人生の教科書』(PDF)と、師導の全機能1か月がセットで700円。二十四の悩みに、論語・老子・孫子から徒然草・五輪書までが答えます。

本の中身を見る
古典の入門書『人生の教科書』(PDF)+師導1か月=700円 本を見る