史記 / 魏世家
四年,秦破我及韓、趙,殺十五萬人,走我將芒卯。魏將段干子請予秦南陽以和。蘇代謂魏王曰:『欲璽者段干子也,欲地者秦也。今王使欲地者制璽,使欲璽者制地,魏氏地不盡則不知已。且夫以地事秦,譬猶抱薪救火,薪不盡,火不滅。』王曰:『是則然也。雖然,事始已行,不可更矣。』對曰:『王獨不見夫博之所以貴梟者,便則食,不便則止矣。今王曰「事始已行,不可更」,是何王之用智不如用梟也?』九年,秦拔我懷。十年,秦太子外質於魏死。十一年,秦拔我郪丘。秦昭王謂左右曰:『今時韓、魏與始孰彊?』對曰:『不如始彊。』王曰:『今時如耳、魏齊與孟嘗、芒卯孰賢?』對曰:『不如。』王曰:『以孟嘗、芒卯之賢,率彊韓、魏以攻秦,猶无柰寡人何也。今以无能之如耳、魏齊而率弱韓、魏以伐秦,其无柰寡人何亦明矣。』左右皆曰:『甚然。』中旗馮琴而對曰:『王之料天下過矣。當晉六卿之時,知氏最彊,滅范、中行,又率韓、魏之兵以圍趙襄子於晉陽,決晉水以灌晉陽之城,不湛者三版。知伯行水,魏桓子御,韓康子爲參乘。知伯曰:「吾始不知水之可以亡人之國也,乃今知之。」汾水可以灌安邑,絳水可以灌平陽。
新字:四年,秦破我及韓、趙,殺十五万人,走我将芒卯。魏将段干子請予秦南陽以和。蘇代謂魏王曰:『欲璽者段干子也,欲地者秦也。今王使欲地者制璽,使欲璽者制地,魏氏地不尽則不知已。且夫以地事秦,譬猶抱薪救火,薪不尽,火不滅。』王曰:『是則然也。雖然,事始已行,不可更矣。』対曰:『王独不見夫博之所以貴梟者,便則食,不便則止矣。今王曰「事始已行,不可更」,是何王之用智不如用梟也?』九年,秦抜我懐。十年,秦太子外質於魏死。十一年,秦抜我郪丘。秦昭王謂左右曰:『今時韓、魏与始孰彊?』対曰:『不如始彊。』王曰:『今時如耳、魏斉与孟嘗、芒卯孰賢?』対曰:『不如。』王曰:『以孟嘗、芒卯之賢,率彊韓、魏以攻秦,猶无柰寡人何也。今以无能之如耳、魏斉而率弱韓、魏以伐秦,其无柰寡人何亦明矣。』左右皆曰:『甚然。』中旗馮琴而対曰:『王之料天下過矣。当晋六卿之時,知氏最彊,滅范、中行,又率韓、魏之兵以囲趙襄子於晋陽,決晋水以灌晋陽之城,不湛者三版。知伯行水,魏桓子御,韓康子為参乗。知伯曰:「吾始不知水之可以亡人之国也,乃今知之。」汾水可以灌安邑,絳水可以灌平陽。
書き下し
四年、秦我及び韓・趙を破り、十五万人を殺し、我が将芒卯を走らす。魏の将段干子、秦に南陽を予へて以て和せんことを請ふ。蘇代、魏王に謂ひて曰く、『璽を欲する者は段干子なり。地を欲する者は秦なり。今王地を欲する者をして璽を制せしめ、璽を欲する者をして地を制せしむ。魏氏の地尽きずんば則ち已むを知らず。且つ夫れ地を以て秦に事ふるは、譬へば猶ほ薪を抱きて火を救ふがごとし。薪尽きずんば、火滅えず』と。王曰く、『是れ則ち然り。然りと雖も、事始めて已に行はる。更むべからず』と。対へて曰く、『王独り夫の博の梟を貴ぶ所以の者を見ずや。便なれば則ち食ひ、便ならざれば則ち止む。今王曰く「事始めて已に行はる、更むべからず」と。是れ何ぞ王の智を用ふること梟を用ふるに如かざるや』と。九年、秦我が懐を抜く。十年、秦の太子外に魏に質となりて死す。十一年、秦我が郪丘を抜く。秦の昭王左右に謂ひて曰く、『今時の韓・魏は始めと孰れか彊き』と。対へて曰く、『始めの彊きに如かず』と。王曰く、『今時の如耳・魏斉は孟嘗・芒卯と孰れか賢なる』と。対へて曰く、『如かず』と。王曰く、『孟嘗・芒卯の賢を以て、彊き韓・魏を率ゐて以て秦を攻むるも、猶ほ寡人を奈何ともする無し。今無能の如耳・魏斉を以て弱き韓・魏を率ゐて以て秦を伐つ。其の寡人を奈何ともする無きこと亦明らかなり』と。左右皆曰く、『甚だ然り』と。中旗琴に馮りて対へて曰く、『王の天下を料ること過てり。晋の六卿の時に当たり、知氏最も彊し。范・中行を滅ぼし、又韓・魏の兵を率ゐて以て趙襄子を晋陽に囲み、晋水を決して以て晋陽の城に灌ぐ。湛まざる者三版。知伯水を行り、魏桓子御し、韓康子参乗と為る。知伯曰く、「吾始め水の以て人の国を亡ぼすべきを知らず、乃ち今之を知る」と。汾水は以て安邑に灌ぐべく、絳水は以て平陽に灌ぐべし。
現代語訳
四年、秦はわが国と韓・趙の軍を破り、十五万人を殺し、わが将芒卯を敗走させた。魏の将の段干子(だんかんし)は、秦に南陽を与えて和睦するよう願い出た。蘇代が魏王に言った。『印綬(官職)を欲しがっているのは段干子で、土地を欲しがっているのは秦である。今、王は土地を欲しがる者に官職を左右させ、官職を欲しがる者に土地を左右させようとしている。これでは魏の土地が尽きるまで、止まることはないだろう。それに土地を差し出して秦に仕えるのは、たとえて言えば薪を抱えて火を消しに行くようなものだ。薪が尽きない限り、火は消えない』。王は言った。『それはそのとおりだ。しかし、もう事は始まってしまっている。今さら変えられない』。蘇代は答えた。『王は博打で梟(きょう、最強の駒)がなぜ尊ばれるのかをご存じないのか。都合がよければ相手の駒を取り、都合が悪ければ止まる(進退が自在だからである)。今、王は「もう事は始まってしまっていて、変えられない」とおっしゃる。どうして王の知恵の使い方は、梟の駒の使い方にも及ばないのか』。九年、秦がわが懐(かい)を攻め落とした。十年、魏に人質となっていた秦の太子が魏で死んだ。十一年、秦がわが郪丘(せいきゅう)を攻め落とした。秦の昭王が側近に言った。『今の韓・魏は、以前と比べてどちらが強いか』。側近は『以前の強さには及ばない』と答えた。王は言った。『今の如耳・魏斉(ぎせい)と、以前の孟嘗君・芒卯とでは、どちらが賢いか』。側近は『及ばない』と答えた。王は言った。『孟嘗君や芒卯ほどの賢者が強い韓・魏を率いて秦を攻めても、わたしをどうすることもできなかった。今、無能な如耳・魏斉が弱い韓・魏を率いて秦を討ったところで、わたしをどうすることもできないのは明らかだ』。側近たちはみな『まことにそのとおり』と言った。中旗(ちゅうき)が琴にもたれかかりながら答えた。『王の天下の見立ては誤っている。晋の六卿の時代、知氏が最も強かった。范氏・中行氏を滅ぼし、さらに韓・魏の兵を率いて趙襄子を晋陽に包囲し、晋水の堤を切って晋陽の城に水を注いだ。水に浸からずに残ったのは城壁の三版だけであった。知伯が水攻めの様子を見回ったとき、魏桓子が御者となり、韓康子が車の右に乗っていた。知伯は言った。「わたしは初め、水で人の国を滅ぼせるとは知らなかったが、今それが分かった」。(その言葉を聞いた魏桓子と韓康子は、)汾水で(魏の都)安邑を水攻めにでき、絳水で(韓の都)平陽を水攻めにできる(と気づいた)。
解説
関連する章句
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史記 魏世家太子の自ら相たらば、是れ三人の者皆太子を以て常相に非ずと為し、皆将に務めて其の国を以て魏に事へ、丞相の璽を得んと欲せんとす。魏の彊きを以て、而して三万乗の国之を輔けば、魏必ず安からん。故に曰く太子の自ら相たるに若くは莫しと」』と。遂に北して梁王に見え、此を以て之に告ぐ。太子果たして魏に相たり。十年、張儀死す。十一年、秦の武王と応に会す。十二年、太子秦に朝す。秦来りて我が皮氏を伐つも、未だ抜かずして解く。十四年、秦来りて武王后を帰す。十六年、秦我が蒲反・陽晋・封陵を抜く。十七年、秦と臨晋に会す。秦我に蒲反を予ふ。十八年、秦と楚を伐つ。廿一年、斉・韓と共に秦の軍を函谷に敗る。廿三年、秦復た我に河外及び封陵を予へて和を為す。哀王卒し、子昭王立つ。昭王元年、秦我が襄城を抜く。二年、秦と戦ひ、我利あらず。三年、韓を佐けて秦を攻む。秦の将白起、我が軍を伊闕に敗ること廿四万。六年、秦に河東の地方四百里を予ふ。芒卯詐りを以て重んぜらる。七年、秦我が城大小六十一を抜く。八年、秦の昭王西帝と為り、斉の湣王東帝と為る。月余にして、皆復た王と称して帝を帰す。九年、秦我が新垣・曲陽の城を抜く。十年、斉宋を滅ぼす。宋王我が温に死す。十二年、秦・趙・韓・燕と共に斉を伐ち、之を済西に敗る。湣王出でて亡ぐ。燕独り臨菑に入る。秦王と西周に会す。十三年、秦我が安城を抜く。兵大梁に到りて、去る。十八年、秦郢を抜き、楚王陳に徙る。十九年、昭王卒し、子安釐王立つ。安釐王元年、秦我が両城を抜く。二年、又我が二城を抜き、大梁の下に軍す。韓来り救ふ。秦に温を予へて以て和す。三年、秦我が四城を抜き、首を斬ること四万。
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史記 魏世家魏桓子韓康子を肘き、韓康子魏桓子を履む。肘足車上に接して、知氏地分れ、身死し国亡び、天下の笑ひと為る。今秦の兵彊しと雖も、知氏に過ぐること能はず。韓・魏弱しと雖も、尚ほ其の晋陽の下に在りしときより賢れり。此れ方に其の肘足を用ふるの時なり。願はくは王の易ること勿からんことを』と。是に於て秦王恐る。斉・楚相約して魏を攻む。魏人をして救ひを秦に求めしむ。冠蓋相望めども、秦の救ひ至らず。魏人に唐雎なる者有り。年九十余なり。魏王に謂ひて曰く、『老臣請ふ西のかた秦王に説き、兵をして臣に先だちて出でしめん』と。魏王再拝し、遂に車を約して之を遣る。唐雎到り、入りて秦王に見ゆ。秦王曰く、『丈人芒然として乃ち遠く此に至る。甚だ苦しめり。夫れ魏の来りて救ひを求むること数々なり。寡人魏の急を知れり』と。唐雎対へて曰く、『大王已に魏の急を知りて救ひ発せざる者は、臣窃かに以為へらく策を用ふるの臣任無しと。夫れ魏は一万乗の国なり。然れども西面して秦に事へ、東藩と称し、冠帯を受け、春秋に祠る所以の者は、秦の彊き以て与と為すに足るを以てなり。今斉・楚の兵已に魏の郊に合す。而るに秦の救ひ発せざるは、亦将に其の未だ急ならざるを頼まんとするなり。之をして大いに急ならしめば、彼且に地を割きて従を約せんとす。王尚ほ何をか救はん。必ず其の急なるを待ちて之を救はば、是れ一東藩の魏を失ひて二敵の斉・楚を彊くす。則ち王何の利かあらん』と。是に於て秦の昭王遽かに為に兵を発して魏を救ふ。魏氏復た定まる。趙人をして魏王に謂はしめて曰く、『我が為に范痤を殺さば、吾請ふ七十里の地を献ぜん』と。魏王曰く、『諾』と。吏をして之を捕へしむ。囲みて未だ殺さず。痤因りて屋に上りて危に騎り、使者に謂ひて曰く、『其の死痤を以て市せんよりは、生痤を以て市するに如かず。如し痤死して、趙王に地を予へずんば、則ち王将に奈何せんとす。故に先づ与に割地を定め、然る後に痤を殺すに若かず』と。魏王曰く、『善し』と。
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史記 蘇秦列伝王乃ち天下の函谷を攻むるを待たんと欲す、亦遠からずや』と。楚王是れが故の為に、十七年秦に事ふ。秦正しく韓に告げて曰く、『我少曲より起これば、一日にして大行を断つ。我宜陽より起こりて平陽に触るれば、二日にして尽く繇かざるは莫し。我両周を離れて鄭に触るれば、五日にして国挙がらん』と。韓氏以て然りと為す、故に秦に事ふ。秦正しく魏に告げて曰く、『我安邑を挙げ、女戟を塞げば、韓氏の太原巻かれん。我軹を下り、南陽に道し、冀を封じ、両周を包む。夏水に乗じ、軽舟を浮かべ、彊弩前に在り、錟戈後に在り、滎口を決すれば、魏に大梁無からん。白馬の口を決すれば、魏に外黄・済陽無からん。宿胥の口を決すれば、魏に虚・頓丘無からん。陸攻すれば則ち河内を撃ち、水攻すれば則ち大梁を滅ぼさん』と。魏氏以て然りと為す、故に秦に事ふ。秦安邑を攻めんと欲し、斉の之を救はんことを恐れ、則ち宋を以て斉に委ぬ。曰く、『宋王無道なり、木人を為りて以て寡人を写し、其の面を射る。寡人地絶え兵遠く、攻むる能はざるなり。王苟も能く宋を破りて之を有たば、寡人自ら之を得るが如し』と。已に安邑を得、女戟を塞ぎ、因りて宋を破るを以て斉の罪と為す。秦韓を攻めんと欲し、天下の之を救はんことを恐れ、則ち斉を以て天下に委ぬ。曰く、『斉王四たび寡人と約し、四たび寡人を欺き、必ず天下を率ゐて以て寡人を攻むる者三たび。斉有れば秦無く、秦有れば斉無し、必ず之を伐ち、必ず之を亡ぼさん』と。已に宜陽・少曲を得、藺・石を致し、因りて斉を破るを以て天下の罪と為す。秦魏を攻めんと欲して楚を重んじ、則ち南陽を以て楚に委ぬ。曰く、『寡人固より韓と且に絶たんとす。均陵を残ひ、鄳阨を塞ぐ、苟も楚に利あらば、寡人自ら之を有するが如し』と。魏与国を棄てて秦に合す、因りて鄳阨を塞ぐを以て楚の罪と為す。兵林中に困しみ、燕・趙を重んじ、膠東を以て燕に委ね、済西を以て趙に委ぬ。已に講を魏に得、公子延に至り、犀首の属行に因りて趙を攻む。
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史記 魏世家若し河外に道し、大梁を倍にし、上蔡・召陵を右にして、楚の兵と陳の郊に決するは、秦又敢へてせず。故に曰く秦必ず楚と趙とを伐たず、又衛と斉とを攻めずと。夫れ韓亡びし後、兵出づるの日は、魏に非ずんば攻むる無きのみ。秦固より懐・茅・邢丘を有ち、垝津に城きて以て河内に臨まば、河内の共・汲必ず危ふし。鄭の地を有ち、垣雍を得て、熒沢の水を決して大梁に灌がば、大梁必ず亡びん。王の使者出でて過ちて安陵氏を秦に悪む。秦の之を誅せんと欲すること久し。秦の葉陽・昆陽は舞陽と鄰す。使者の之を悪むを聴き、安陵氏に随ひて之を亡ぼし、舞陽の北を繞りて、以て東のかた許に臨まば、南国必ず危ふし。国先づ害せられん。夫れ韓を憎みて安陵氏を愛せざるは可なり。夫れ秦の南国を愛せざるを患へざるは非なり。異日は、秦河西の晋に在り、国は梁を去ること千里、河山有りて以て之を闌り、周・韓有りて以て之を閒つ。林郷の軍より以て今に至るまで、秦七たび魏を攻め、五たび囿中に入り、辺城尽く抜かれ、文台墮ち、垂都焚かれ、林木伐られ、麋鹿尽き、而して国継ぐに囲みを以てす。又長駆して梁の北に至り、東は陶・衛の郊に至り、北は平監に至る。秦に亡ふ所の者は、山南山北、河外・河内、大県数十、名都数百なり。秦乃ち河西の晋に在りて、梁を去ること千里にして、禍是の若し。又況んや秦をして韓無く、鄭の地を有ち、河山の之を闌る無く、周・韓の之を閒つる無く、大梁を去ること百里ならしめば、禍必ず此に百せん。異日は、従の成らざるや、楚・魏疑ひて韓得べからざればなり。今韓兵を受くること三年、秦之を橈めて以て講ず。亡ぶるを識るも聴かず、質を趙に投じ、天下の為に鴈行して刃を頓さんことを請ふ。楚・趙必ず兵を集めん。皆秦の欲の窮まり無きを識ればなり。尽く天下の国を亡ぼして海内を臣とするに非ずんば、必ず休まざらん。
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史記 田敬仲完世家今者臣門に立つ。客言ふ有りて曰く、魏王韓馮・張儀に謂ひて曰く、『煮棗将に抜けんとし、斉の兵又進む。子来りて寡人を救はば則ち可なり。寡人を救はずんば、寡人抜くこと能はず』と。此れ特だ転辞なり。秦・韓の兵東する毋くんば、旬余にして、則ち魏氏韓を転じて秦に従ひ、秦張儀を逐ひ、臂を交へて斉・楚に事へん。此れ公の事成るなり」と。田軫曰く、「奈何ぞ東する無からしめん」と。対へて曰く、「韓馮の魏を救ふの辞は、必ず韓王に謂ひて『馮以て魏の為にす』と曰はず。必ず曰はん、『馮将に秦・韓の兵を以て東のかた斉・宋を卻けんとす。馮因りて三国の兵を摶め、屈丐の獘に乗じ、南のかた楚を割かば、故地必ず尽く之を得ん』と。張儀の魏を救ふの辞は、必ず秦王に謂ひて『儀以て魏の為にす』と曰はず。必ず曰はん、『儀且に秦・韓の兵を以て東のかた斉・宋を距がんとす。儀将に三国の兵を摶め、屈丐の獘に乗じ、南のかた楚を割き、名は亡国を存し、実は三川を伐ちて帰らんとす。此れ王業なり』と。公、楚王をして韓氏に地を与へしめ、秦をして和を制せしめ、秦王に謂ひて『請ふ韓に地を与へん。而して王以て三川に施せ。韓氏の兵用ひずして地を楚に得たり』と曰はしめよ。韓馮の東兵の辞且に秦に謂ひて何とか曰はん。曰く『秦の兵用ひずして三川を得、楚・韓を伐ちて以て魏を窘めば、魏氏敢へて東せず。是れ斉を孤にするなり』と。張儀の東兵の辞且に何とか謂はん。曰く『秦・韓地を欲して兵案ずること有り。声威魏に発し、魏氏の斉・楚を失はざらんと欲する者資有り』と。魏氏秦・韓を転じて争ひて斉・楚に事へ、楚王欲して地を与ふること無く、公秦・韓の兵をして用ひずして地を得しむ。一大徳有るなり。秦・韓の王、韓馮・張儀に劫かされて兵を東して以て魏を徇服せば、公常に左券を執りて以て秦・韓に責めん。此れ其の公に善くして張子を悪むこと資多し」と。十三年、秦の恵王卒す。二十三年、秦と撃ちて楚を重丘に敗る。
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史記 魏世家如耳、成陵君に見えて曰く、『昔者魏趙を伐ち、羊腸を断ち、閼与を抜き、趙を約斬し、趙分れて二と為る。亡びざる所以の者は、魏従の主為ればなり。今衛已に亡ぶるに迫り、将に西のかた事を秦に請はんとす。其の秦を以て衛を醳かんよりは、魏を以て衛を醳くに如かず。衛の魏を徳とすること必ず終に窮まり無からん』と。成陵君曰く、『諾』と。如耳、魏王に見えて曰く、『臣衛に謁する有り。衛は故周室の別なり。其れ小国と称すれども、宝器多し。今国難に迫られて宝器出でざる者は、其の心以為へらく、衛を攻め衛を醳くは王を以て主と為さずと。故に宝器出づと雖も必ず王に入らざらん。臣窃かに之を料るに、先に衛を醳かんと言ふ者は必ず衛に受くる者なり』と。如耳出で、成陵君入り、其の言を以て魏王に見ゆ。魏王其の説を聴き、其の兵を罷め、成陵君を免じ、終身見えず。九年、秦王と臨晋に会す。張儀・魏章皆魏に帰す。魏の相田需死す。楚、張儀・犀首・薛公を害す。楚の相昭魚、蘇代に謂ひて曰く、『田需死す。吾張儀・犀首・薛公の一人魏に相たる者有らんことを恐るるなり』と。代曰く、『然らば相は誰を欲して君之を便とする』と。昭魚曰く、『吾太子の自ら相たらんことを欲す』と。代曰く、『請ふ君の為に北し、必ず之を相たらしめん』と。昭魚曰く、『奈何』と。対へて曰く、『君其れ梁王と為れ。代請ふ君に説かん』と。昭魚曰く、『奈何』と。対へて曰く、『代や楚より来る。昭魚甚だ憂ひて曰く、「田需死す。吾張儀・犀首・薛公の一人魏に相たる者有らんことを恐るるなり」と。代曰く、「梁王は長主なり。必ず張儀を相とせず。張儀相たらば、必ず秦を右にして魏を左にせん。犀首相たらば、必ず韓を右にして魏を左にせん。薛公相たらば、必ず斉を右にして魏を左にせん。梁王は長主なり。必ず便とせざるなり」と。王曰く、「然らば則ち寡人孰をか相とせん」と。代曰く、「太子の自ら相たるに若くは莫し。
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