史記 / 魏世家
鄒衍、淳于髡、孟軻皆至梁。梁惠王曰:『寡人不佞,兵三折於外,太子虜,上將死,國以空虚,以羞先君宗廟社稷,寡人甚丑之,叟不遠千里,辱幸至獘邑之廷,將何利吾國?』孟軻曰:『君不可以言利若是。夫君欲利則大夫欲利,大夫欲利則庶人欲利,上下爭利,國則危矣。爲人君,仁義而已矣,何以利爲!』卅六年,復與齊王會甄。是歳,惠王卒,子襄王立。襄王元年,與諸侯會徐州,相王也。追尊父惠王爲王。五年,秦敗我龍賈軍四萬五千于雕陰,圍我焦、曲沃。予秦河西之地。六年,與秦會應。秦取我汾陰、皮氏、焦。魏伐楚,敗之陘山。七年,魏盡入上郡于秦。秦降我蒲陽。八年,秦歸我焦、曲沃。十二年,楚敗我襄陵。諸侯執政與秦相張儀會齧桑。十三年,張儀相魏。魏有女子化爲丈夫。秦取我曲沃、平周。十六年,襄王卒,子哀王立。張儀復歸秦。哀王元年,五國共攻秦,不勝而去。二年,齊敗我觀津。五年,秦使樗里子伐取我曲沃,走犀首岸門。六年,秦來立公子政爲太子。與秦會臨晉。七年,攻齊。與秦伐燕。八年,伐衞,拔列城二。衞君患之。如耳見衞君曰:『請罷魏兵,免成陵君可乎?』衞君曰:『先生果能,孤請世世以衞事先生。』
新字:鄒衍、淳于髡、孟軻皆至梁。梁恵王曰:『寡人不佞,兵三折於外,太子虜,上将死,国以空虚,以羞先君宗廟社稷,寡人甚丑之,叟不遠千里,辱幸至獘邑之廷,将何利吾国?』孟軻曰:『君不可以言利若是。夫君欲利則大夫欲利,大夫欲利則庶人欲利,上下争利,国則危矣。為人君,仁義而已矣,何以利為!』卅六年,復与斉王会甄。是歳,恵王卒,子襄王立。襄王元年,与諸侯会徐州,相王也。追尊父恵王為王。五年,秦敗我竜賈軍四万五千于雕陰,囲我焦、曲沃。予秦河西之地。六年,与秦会応。秦取我汾陰、皮氏、焦。魏伐楚,敗之陘山。七年,魏尽入上郡于秦。秦降我蒲陽。八年,秦帰我焦、曲沃。十二年,楚敗我襄陵。諸侯執政与秦相張儀会齧桑。十三年,張儀相魏。魏有女子化為丈夫。秦取我曲沃、平周。十六年,襄王卒,子哀王立。張儀復帰秦。哀王元年,五国共攻秦,不勝而去。二年,斉敗我観津。五年,秦使樗里子伐取我曲沃,走犀首岸門。六年,秦来立公子政為太子。与秦会臨晋。七年,攻斉。与秦伐燕。八年,伐衛,抜列城二。衛君患之。如耳見衛君曰:『請罷魏兵,免成陵君可乎?』衛君曰:『先生果能,孤請世世以衛事先生。』
書き下し
鄒衍・淳于髡・孟軻皆梁に至る。梁の恵王曰く、『寡人不佞にして、兵三たび外に折け、太子虜にせられ、上将死し、国以て空虚なり。以て先君の宗廟社稷を羞かしむ。寡人甚だ之を丑づ。叟千里を遠しとせずして、辱くも幸ひに獘邑の廷に至る。将に何を以てか吾が国を利せんとする』と。孟軻曰く、『君以て利を言ふこと是の若くなるべからず。夫れ君利を欲すれば則ち大夫利を欲し、大夫利を欲すれば則ち庶人利を欲す。上下利を争へば、国則ち危ふし。人君と為りては、仁義のみ。何ぞ利を以て為さん』と。卅六年、復た斉王と甄に会す。是の歳、恵王卒し、子襄王立つ。襄王元年、諸侯と徐州に会し、相王とす。父恵王を追尊して王と為す。五年、秦我が龍賈の軍四万五千を雕陰に敗り、我が焦・曲沃を囲む。秦に河西の地を予ふ。六年、秦と応に会す。秦我が汾陰・皮氏・焦を取る。魏楚を伐ち、之を陘山に敗る。七年、魏尽く上郡を秦に入る。秦我が蒲陽を降す。八年、秦我に焦・曲沃を帰す。十二年、楚我を襄陵に敗る。諸侯の執政、秦の相張儀と齧桑に会す。十三年、張儀魏に相たり。魏に女子の化して丈夫と為る有り。秦我が曲沃・平周を取る。十六年、襄王卒し、子哀王立つ。張儀復た秦に帰す。哀王元年、五国共に秦を攻むるも、勝たずして去る。二年、斉我を観津に敗る。五年、秦樗里子をして伐ちて我が曲沃を取らしめ、犀首を岸門に走らす。六年、秦来りて公子政を立てて太子と為す。秦と臨晋に会す。七年、斉を攻む。秦と燕を伐つ。八年、衛を伐ち、列城二を抜く。衛君之を患ふ。如耳、衛君に見えて曰く、『請ふ魏の兵を罷め、成陵君を免ぜしめん。可ならんか』と。衛君曰く、『先生果たして能くせば、孤請ふ世世衛を以て先生に事へん』と。
現代語訳
鄒衍(すうえん)・淳于髡(じゅんうこん)・孟軻(もうか、孟子)らがみな梁(魏の都大梁)にやって来た。梁の恵王は言った。『わたしは不才で、兵は三度も国外で敗れ、太子は捕虜となり、上将軍は戦死し、国はすっかり空っぽになってしまった。先君の宗廟や社稷を辱め、わたしはこれをたいへん恥じている。ご老人は千里の道を遠しとせず、わざわざわが国の朝廷に来てくださった。どのようにしてわが国に利をもたらしてくださるのか』。孟軻は言った。『君はそのように利を口にされてはならない。君が利を求めれば大夫も利を求め、大夫が利を求めれば庶民も利を求める。上の者も下の者も利を奪い合えば、国は危うくなる。人の君たる者は、ただ仁義があればよいのだ。どうして利などを問題にされるのか』。三十六年、再び斉王と甄(けん)で会見した。この年、恵王が死に、子の襄王が立った。襄王の元年、諸侯と徐州で会見し、互いに王と認め合った。父の恵王を追尊して王とした。五年、秦がわが龍賈(りゅうか)の軍四万五千を雕陰(ちょういん)で破り、わが焦(しょう)・曲沃を包囲した。秦に河西の地を与えた。六年、秦と応(おう)で会見した。秦がわが汾陰・皮氏・焦を取った。魏は楚を討ち、陘山(けいざん)で破った。七年、魏は上郡をすべて秦に差し出した。秦はわが蒲陽を降伏させた。八年、秦はわが国に焦と曲沃を返した。十二年、楚がわが軍を襄陵で破った。諸侯の執政たちが秦の宰相張儀と齧桑(げつそう)で会見した。十三年、張儀が魏の宰相となった。魏に女性が男性に変わるということがあった。秦がわが曲沃と平周を取った。十六年、襄王が死に、子の哀王が立った。張儀は再び秦に帰った。哀王の元年、五国が共に秦を攻めたが、勝てずに退いた。二年、斉がわが軍を観津で破った。五年、秦は樗里子(ちょりし)に命じてわが曲沃を攻め取らせ、犀首(さいしゅ、公孫衍)を岸門で敗走させた。六年、秦が来て公子政を太子に立てた。秦と臨晋で会見した。七年、斉を攻めた。秦と共に燕を討った。八年、衛を討ち、城を二つ攻め落とした。衛君はこれを憂えた。如耳(じょじ)が衛君に会って言った。『魏の兵を引き上げさせ、成陵君(せいりょうくん)を罷免させてみせよう。いかがか』。衛君は言った。『先生が本当にそれができるなら、わたしは代々衛を挙げて先生にお仕えしよう』。
解説
関連する章句
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史記 魏世家如耳、成陵君に見えて曰く、『昔者魏趙を伐ち、羊腸を断ち、閼与を抜き、趙を約斬し、趙分れて二と為る。亡びざる所以の者は、魏従の主為ればなり。今衛已に亡ぶるに迫り、将に西のかた事を秦に請はんとす。其の秦を以て衛を醳かんよりは、魏を以て衛を醳くに如かず。衛の魏を徳とすること必ず終に窮まり無からん』と。成陵君曰く、『諾』と。如耳、魏王に見えて曰く、『臣衛に謁する有り。衛は故周室の別なり。其れ小国と称すれども、宝器多し。今国難に迫られて宝器出でざる者は、其の心以為へらく、衛を攻め衛を醳くは王を以て主と為さずと。故に宝器出づと雖も必ず王に入らざらん。臣窃かに之を料るに、先に衛を醳かんと言ふ者は必ず衛に受くる者なり』と。如耳出で、成陵君入り、其の言を以て魏王に見ゆ。魏王其の説を聴き、其の兵を罷め、成陵君を免じ、終身見えず。九年、秦王と臨晋に会す。張儀・魏章皆魏に帰す。魏の相田需死す。楚、張儀・犀首・薛公を害す。楚の相昭魚、蘇代に謂ひて曰く、『田需死す。吾張儀・犀首・薛公の一人魏に相たる者有らんことを恐るるなり』と。代曰く、『然らば相は誰を欲して君之を便とする』と。昭魚曰く、『吾太子の自ら相たらんことを欲す』と。代曰く、『請ふ君の為に北し、必ず之を相たらしめん』と。昭魚曰く、『奈何』と。対へて曰く、『君其れ梁王と為れ。代請ふ君に説かん』と。昭魚曰く、『奈何』と。対へて曰く、『代や楚より来る。昭魚甚だ憂ひて曰く、「田需死す。吾張儀・犀首・薛公の一人魏に相たる者有らんことを恐るるなり」と。代曰く、「梁王は長主なり。必ず張儀を相とせず。張儀相たらば、必ず秦を右にして魏を左にせん。犀首相たらば、必ず韓を右にして魏を左にせん。薛公相たらば、必ず斉を右にして魏を左にせん。梁王は長主なり。必ず便とせざるなり」と。王曰く、「然らば則ち寡人孰をか相とせん」と。代曰く、「太子の自ら相たるに若くは莫し。
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孟子・梁惠王章句上孟子、梁の惠王に見ゆ。王曰く、「叟、千里を遠しとせずして來たる。亦た将に以て吾が國を利する有らんとするか。」孟子對えて曰く、「王何ぞ必ずしも利と曰わん。亦た仁義有るのみ。王は何を以て吾が國を利せんと曰い、大夫は何を以て吾が家を利せんと曰い、士・庶人は何を以て吾が身を利せんと曰う。上下交々利を征れば國危うし。萬乘の國、其の君を弒する者は、必ず千乘の家なり。千乘の國、其の君を弒する者は、必ず百乘の家なり。萬に千を取り、千に百を取る、多からずと為さず。苟も義を後にして利を先にすることを為さば、奪わずんば饜かず。未だ仁にして其の親を遺つる者有らざるなり。未だ義にして其の君を後にする者有らざるなり。王も亦た仁義と曰わんのみ。何ぞ必ずしも利と曰わん。」
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史記 魏世家太子の自ら相たらば、是れ三人の者皆太子を以て常相に非ずと為し、皆将に務めて其の国を以て魏に事へ、丞相の璽を得んと欲せんとす。魏の彊きを以て、而して三万乗の国之を輔けば、魏必ず安からん。故に曰く太子の自ら相たるに若くは莫しと」』と。遂に北して梁王に見え、此を以て之に告ぐ。太子果たして魏に相たり。十年、張儀死す。十一年、秦の武王と応に会す。十二年、太子秦に朝す。秦来りて我が皮氏を伐つも、未だ抜かずして解く。十四年、秦来りて武王后を帰す。十六年、秦我が蒲反・陽晋・封陵を抜く。十七年、秦と臨晋に会す。秦我に蒲反を予ふ。十八年、秦と楚を伐つ。廿一年、斉・韓と共に秦の軍を函谷に敗る。廿三年、秦復た我に河外及び封陵を予へて和を為す。哀王卒し、子昭王立つ。昭王元年、秦我が襄城を抜く。二年、秦と戦ひ、我利あらず。三年、韓を佐けて秦を攻む。秦の将白起、我が軍を伊闕に敗ること廿四万。六年、秦に河東の地方四百里を予ふ。芒卯詐りを以て重んぜらる。七年、秦我が城大小六十一を抜く。八年、秦の昭王西帝と為り、斉の湣王東帝と為る。月余にして、皆復た王と称して帝を帰す。九年、秦我が新垣・曲陽の城を抜く。十年、斉宋を滅ぼす。宋王我が温に死す。十二年、秦・趙・韓・燕と共に斉を伐ち、之を済西に敗る。湣王出でて亡ぐ。燕独り臨菑に入る。秦王と西周に会す。十三年、秦我が安城を抜く。兵大梁に到りて、去る。十八年、秦郢を抜き、楚王陳に徙る。十九年、昭王卒し、子安釐王立つ。安釐王元年、秦我が両城を抜く。二年、又我が二城を抜き、大梁の下に軍す。韓来り救ふ。秦に温を予へて以て和す。三年、秦我が四城を抜き、首を斬ること四万。
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史記 魏世家九年、翟我を澮に敗る。呉起をして斉を伐たしめ、霊丘に至る。斉の威王初めて立つ。十一年、韓・趙と三たび晋の地を分ち、其の後を滅ぼす。十三年、秦の献公櫟陽を県とす。十五年、趙を北藺に敗る。十六年、楚を伐ち、魯陽を取る。武侯卒し、子罃立つ、是を恵王と為す。恵王元年、初め、武侯の卒するや、子罃、公中緩と争ひて太子と為らんとす。公孫頎宋より趙に入り、趙より韓に入り、韓の懿侯に謂ひて曰く、『魏罃、公中緩と争ひて太子と為らんとす。君も亦之を聞くか。今魏罃王錯を得て、上党を挟む。固より半国なり。因りて之を除かば、魏を破ること必せり。失ふべからざるなり』と。懿侯説び、乃ち趙の成侯と軍を合し兵を并せて以て魏を伐ち、濁沢に戦ふ。魏氏大いに敗れ、魏君囲まる。趙韓に謂ひて曰く、『魏君を除き、公中緩を立て、地を割きて退かば、我且に利あらん』と。韓曰く、『不可なり。魏君を殺さば、人必ず暴と曰はん。地を割きて退かば、人必ず貪と曰はん。両つながら之を分つに如かず。魏分れて両と為らば、宋・衛より彊からず。則ち我終に魏の患ひ無からん』と。趙聴かず。韓説ばず、其の少卒を以て夜去る。恵王の身死せず、国分れざる所以の者は、二家の謀和せざればなり。若し一家の謀に従はば、則ち魏必ず分れん。故に曰く『君終に適子無くんば、其の国破るべきなり』と。二年、魏韓を馬陵に敗り、趙を懐に敗る。三年、斉我を観に敗る。五年、韓と宅陽に会す。武堵に城く。秦の敗る所と為る。六年、伐ちて宋の儀台を取る。九年、伐ちて韓を澮に敗る。秦と少梁に戦ひ、我が将公孫痤を虜にし、龐を取る。秦の献公卒し、子孝公立つ。十年、伐ちて趙の皮牢を取る。彗星見はる。十二年、星昼に墜ち、声有り。十四年、趙と鄗に会す。十五年、魯・衛・宋・鄭の君来朝す。十六年、秦の孝公と杜平に会す。
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史記 張儀列伝而して天下の欲せざる所を攻むるは、危ふし。臣請ふ其の故を謁さん。周は、天下の宗室なり。斉は、韓の与国なり。周自ら九鼎を失ふを知り、韓自ら三川を亡ふを知らば、将に二国力を并せ謀を合はせ、以て斉・趙に因りて解を楚・魏に求め、鼎を以て楚に与へ、地を以て魏に与へんとす、王止むる能はざるなり。此れ臣の所謂危ふきなり。蜀を伐つの完きに如かず」と。恵王曰く、「善し、寡人請ふ子に聴かん」と。卒に兵を起こして蜀を伐ち、十月にして、之を取り、遂に蜀を定め、蜀王を貶して号を更めて侯と為し、而して陳荘をして蜀に相たらしむ。蜀既に秦に属し、秦以て益々彊く、富厚にして、諸侯を軽んず。秦の恵王の十年、公子華と張儀とをして蒲陽を囲ましめ、之を降す。儀因りて秦に言ひて復た魏に与へしめ、而して公子繇をして魏に質たらしむ。儀因りて魏王に説きて曰く、「秦王の魏を遇すること甚だ厚し、魏以て礼無かるべからず」と。魏因りて上郡・少梁を入れ、秦の恵王に謝す。恵王乃ち張儀を以て相と為し、少梁を更名して夏陽と曰ふ。儀秦に相たること四歳、恵王を立てて王と為す。居ること一歳、秦の将と為り、陝を取る。上郡の塞を築く。其の後二年、使ひして斉・楚の相と齧桑に会す。東より還りて相を免ぜられ、魏に相として以て秦の為にし、魏をして先づ秦に事へて諸侯をして之に効はしめんと欲す。魏王儀に聴くを肯んぜず。秦王怒り、伐ちて魏の曲沃・平周を取り、復た陰かに張儀を厚くすること益々甚だし。張儀慚ぢ、以て帰報する無し。魏に留まること四歳にして魏の襄王卒し、哀王立つ。張儀復た哀王に説く、哀王聴かず。是に於いて張儀陰かに秦をして魏を伐たしむ。魏秦と戦ひ、敗る。明年、斉又来たりて魏を観津に敗る。秦復た魏を攻めんと欲し、先づ韓の申差の軍を敗り、首を斬ること八万、諸侯震恐す。而して張儀復た魏王に説きて曰く、「魏の地方は千里に至らず、卒は三十万に過ぎず。地は四平にして、諸侯四通輻湊し、名山大川の限り無し。
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史記 商君列伝其の明年、斉魏の兵を馬陵に敗り、其の太子申を虜にし、将軍龐涓を殺す。其の明年、衛鞅孝公に説きて曰く、「秦の魏に与けるは、譬へば人の腹心の疾有るが若し、魏秦を并はするに非ずんば、秦即ち魏を并はせん。何となれば、魏は領阨の西に居り、安邑に都し、秦と河を界として独り山東の利を擅にす。利あれば則ち西のかた秦を侵し、病めば則ち東のかた地を収む。今君の賢聖を以て、国頼りて以て盛んなり。而して魏往年大いに斉に破られ、諸侯之に畔く、此の時に因りて魏を伐つべし。魏秦を支へずんば、必ず東に徙らん。東に徙らば、秦河山の固めに拠り、東に郷ひて以て諸侯を制せん、此れ帝王の業なり」と。孝公以て然りと為し、衛鞅をして将として魏を伐たしむ。魏公子卬をして将として之を撃たしむ。軍既に相距ぐ、衛鞅魏の将公子卬に書を遺りて曰く、「吾始め公子と驩す、今倶に両国の将と為る、相攻むるに忍びず、公子と面りに相見え、盟ひ、楽飲して兵を罷め、以て秦魏を安んずべし」と。魏の公子卬以て然りと為す。会盟已はりて、飲む、而して衛鞅甲士を伏せて襲ひて魏の公子卬を虜にし、因りて其の軍を攻め、尽く之を破りて以て秦に帰る。魏の恵王兵数々斉秦に破られ、国内空しく、日に以て削らる、恐れ、乃ち使をして河西の地を割きて秦に献じて以て和せしむ。而して魏遂に安邑を去り、都を大梁に徙す。梁の恵王曰く、「寡人公叔座の言を用ひざりしを恨む」と。衛鞅既に魏を破りて還る、秦之を於・商の十五邑に封じ、号して商君と為す。
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