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史記 / 魏世家

侵宋黃池,宋復取之。十七年,與秦戰元裏,秦取我少梁。圍趙邯鄲。十八年,拔邯鄲。趙請救于齊,齊使田忌、孫臏救趙,敗魏桂陵。十九年,諸侯圍我襄陵。筑長城,塞固陽。廿年,歸趙邯鄲,與盟漳水上。廿一年,與秦會彤。趙成侯卒。廿八年,齊威王卒。中山君相魏。卅年,魏伐趙,趙告急齊。齊宣王用孫子計,救趙撃魏。魏遂大興師,使龐涓將,而令太子申爲上將軍。過外黃,外黃徐子謂太子曰:『臣有百戰百勝之術。』太子曰:『可得聞乎?』客曰:『固願效之。』曰:『太子自將攻齊,大勝并莒,則富不過有魏,貴不益爲王。若戰不勝齊,則萬世无魏矣。此臣之百戰百勝之術也。』太子曰:『諾,請必從公之言而還矣。』客曰:『太子雖欲還,不得矣。彼勸太子戰攻,欲啜汁者衆。太子雖欲還,恐不得矣。』太子因欲還,其御曰:『將出而還,與北同。』太子果與齊人戰,敗於馬陵。齊虜魏太子申,殺將軍涓,軍遂大破。卅一年,秦、趙、齊共伐我,秦將商君詐我將軍公子卬而襲奪其軍,破之。秦用商君,東地至河,而齊、趙數破我,安邑近秦,於是徙治大梁。以公子赫爲太子。卅三年,秦孝公卒,商君亡秦歸魏,魏怒,不入。卅五年,與齊宣王會平阿南。惠王數被於軍旅,卑禮厚幣以招賢者。

新字:侵宋黄池,宋復取之。十七年,与秦戦元裏,秦取我少梁。囲趙邯鄲。十八年,抜邯鄲。趙請救于斉,斉使田忌、孫臏救趙,敗魏桂陵。十九年,諸侯囲我襄陵。筑長城,塞固陽。廿年,帰趙邯鄲,与盟漳水上。廿一年,与秦会彤。趙成侯卒。廿八年,斉威王卒。中山君相魏。卅年,魏伐趙,趙告急斉。斉宣王用孫子計,救趙撃魏。魏遂大興師,使龐涓将,而令太子申為上将軍。過外黄,外黄徐子謂太子曰:『臣有百戦百勝之術。』太子曰:『可得聞乎?』客曰:『固願効之。』曰:『太子自将攻斉,大勝并莒,則富不過有魏,貴不益為王。若戦不勝斉,則万世无魏矣。此臣之百戦百勝之術也。』太子曰:『諾,請必従公之言而還矣。』客曰:『太子雖欲還,不得矣。彼勧太子戦攻,欲啜汁者衆。太子雖欲還,恐不得矣。』太子因欲還,其御曰:『将出而還,与北同。』太子果与斉人戦,敗於馬陵。斉虜魏太子申,殺将軍涓,軍遂大破。卅一年,秦、趙、斉共伐我,秦将商君詐我将軍公子卬而襲奪其軍,破之。秦用商君,東地至河,而斉、趙数破我,安邑近秦,於是徙治大梁。以公子赫為太子。卅三年,秦孝公卒,商君亡秦帰魏,魏怒,不入。卅五年,与斉宣王会平阿南。恵王数被於軍旅,卑礼厚幣以招賢者。

書き下し

宋の黄池を侵す。宋復た之を取る。十七年、秦と元裏に戦ひ、秦我が少梁を取る。趙の邯鄲を囲む。十八年、邯鄲を抜く。趙救ひを斉に請ふ。斉、田忌・孫臏をして趙を救はしめ、魏を桂陵に敗る。十九年、諸侯我が襄陵を囲む。長城を築き、固陽を塞ぐ。廿年、趙に邯鄲を帰し、与に漳水の上に盟ふ。廿一年、秦と彤に会す。趙の成侯卒す。廿八年、斉の威王卒す。中山君魏に相たり。卅年、魏趙を伐つ。趙急を斉に告ぐ。斉の宣王孫子の計を用ひ、趙を救ひて魏を撃つ。魏遂に大いに師を興し、龐涓をして将たらしめ、而して太子申をして上将軍と為らしむ。外黄を過る。外黄の徐子太子に謂ひて曰く、『臣に百戦百勝の術有り』と。太子曰く、『聞くことを得べきか』と。客曰く、『固より之を效さんことを願ふ』と。曰く、『太子自ら将として斉を攻め、大いに勝ちて莒を并すとも、則ち富は魏を有つに過ぎず、貴は王と為るに益さず。若し戦ひて斉に勝たずんば、則ち万世魏無からん。此れ臣の百戦百勝の術なり』と。太子曰く、『諾。請ふ必ず公の言に従ひて還らん』と。客曰く、『太子還らんと欲すと雖も、得ざらん。彼の太子に戦攻を勧めて、汁を啜らんと欲する者衆し。太子還らんと欲すと雖も、恐らくは得ざらん』と。太子因りて還らんと欲す。其の御曰く、『将として出でて還るは、北ぐると同じ』と。太子果たして斉人と戦ひ、馬陵に敗る。斉、魏の太子申を虜にし、将軍涓を殺し、軍遂に大いに破る。卅一年、秦・趙・斉共に我を伐つ。秦の将商君、我が将軍公子卬を詐りて其の軍を襲奪し、之を破る。秦商君を用ひ、東地河に至り、而して斉・趙数々我を破る。安邑秦に近し。是に於て徙りて大梁に治す。公子赫を以て太子と為す。卅三年、秦の孝公卒し、商君秦を亡げて魏に帰す。魏怒り、入れず。卅五年、斉の宣王と平阿の南に会す。恵王数々軍旅に被り、礼を卑くし幣を厚くして以て賢者を招く。

現代語訳

宋の黄池を侵したが、宋が再びこれを取り返した。十七年、秦と元裏で戦い、秦がわが少梁を取った。趙の邯鄲を包囲した。十八年、邯鄲を攻め落とした。趙は斉に救援を求め、斉は田忌(でんき)と孫臏(そんぴん)に趙を救わせ、魏を桂陵で破った。十九年、諸侯がわが襄陵を包囲した。長城を築き、固陽をふさいだ。二十年、趙に邯鄲を返し、共に漳水のほとりで盟約を結んだ。二十一年、秦と彤(とう)で会見した。趙の成侯が死んだ。二十八年、斉の威王が死んだ。中山の君が魏の宰相となった。三十年、魏が趙を討ち、趙は斉に急を告げた。斉の宣王は孫子(孫臏)の計略を用い、趙を救って魏を撃った。魏はそこで大軍を起こし、龐涓(ほうけん)を将とし、太子申を上将軍とした。外黄(がいこう)を通ったとき、外黄の徐子(じょし)が太子に言った。『わたしには百戦百勝の術がある』。太子が『聞かせてもらえるか』と言うと、客は『もとよりお教えしたいと思っていた』と言い、こう続けた。『太子が自ら将となって斉を攻め、大勝して莒まで併合したとしても、富は魏を保有するにすぎず、貴さは王となる以上には増えない。もし戦って斉に勝てなければ、魏は万世にわたって失われる。これがわたしの百戦百勝の術(戦わないことこそ負けない術)である』。太子は言った。『分かった。必ずあなたの言葉に従って引き返そう』。客は言った。『太子は引き返そうとしても、できないだろう。太子に戦いを勧めて、そのおこぼれにあずかろうとする者が多いからだ。太子が引き返そうとしても、おそらくできまい』。太子はそれでも引き返そうとしたが、その御者が言った。『将として出陣しながら引き返すのは、敗走するのと同じだ』。太子は結局斉軍と戦い、馬陵で敗れた。斉は魏の太子申を捕虜にし、将軍の龐涓を殺し、魏軍は大敗した。三十一年、秦・趙・斉が共にわが国を討った。秦の将の商君(商鞅)は、わが将軍の公子卬(こう)を偽って誘い出し、その軍を襲って奪い、これを破った。秦は商君を用いて東の領土を黄河にまで広げ、斉と趙もたびたびわが国を破った。都の安邑は秦に近かったので、そこで大梁に遷都した。公子赫(かく)を太子とした。三十三年、秦の孝公が死に、商君は秦から逃れて魏に来たが、魏は怒って受け入れなかった。三十五年、斉の宣王と平阿(へいあ)の南で会見した。恵王はたびたび戦争で痛手を受けたので、礼をへりくだり、贈り物を手厚くして賢者を招いた。

解説

魏の恵王の時代、魏が大国の座から転落していく過程を描く段です。邯鄲を落としたものの孫臏の「囲魏救趙」の策で桂陵に敗れ、さらに馬陵の戦いで太子申が捕らえられ、将軍龐涓が戦死するという大敗を喫しました。出陣の途中、外黄の徐子は、勝っても得るものは今と変わらず、負ければ全てを失う戦いはするなと太子を説きますが、同時に、戦いを勧めて利益にあずかろうとする取り巻きが多いから引き返せないだろうとも予言します。果たして御者の「引き返せば敗走と同じ」という一言で、太子は戦場へ向かいました。続いて秦の商鞅に公子卬を欺かれて敗れ、都を安邑から大梁へ移すに至ります。勝っても得るものが小さく、負ければ致命的な勝負を、周囲の期待や面子のために避けられない状況は、今の経営判断にもしばしば現れます。

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