史記 / 魏世家
九年,翟敗我于澮。使呉起伐齊,至靈丘。齊威王初立。十一年,與韓、趙三分晉地,滅其後。十三年,秦獻公縣櫟陽。十五年,敗趙北藺。十六年,伐楚,取魯陽。武侯卒,子罃立,是爲惠王。惠王元年,初,武侯卒也,子罃與公中緩爭爲太子。公孫頎自宋入趙,自趙入韓,謂韓懿侯曰:『魏罃與公中緩爭爲太子,君亦聞之乎?今魏罃得王錯,挾上黨,固半國也。因而除之,破魏必矣,不可失也。』懿侯説,乃與趙成侯合軍并兵以伐魏,戰于濁澤,魏氏大敗,魏君圍。趙謂韓曰:『除魏君,立公中緩,割地而退,我且利。』韓曰:『不可。殺魏君,人必曰暴;割地而退,人必曰貪。不如兩分之。魏分爲兩,不彊於宋、衞,則我終无魏之患矣。』趙不聽。韓不説,以其少卒夜去。惠王之所以身不死,國不分者,二家謀不和也。若從一家之謀,則魏必分矣。故曰『君終无適子,其國可破也』。二年,魏敗韓于馬陵,敗趙于懷。三年,齊敗我觀。五年,與韓會宅陽。城武堵。爲秦所敗。六年,伐取宋儀臺。九年,伐敗韓于澮。與秦戰少梁,虜我將公孫痤,取龐。秦獻公卒,子孝公立。十年,伐取趙皮牢。彗星見。十二年,星晝墜,有聲。十四年,與趙會鄗。十五年,魯、衞、宋、鄭君來朝。十六年,與秦孝公會杜平。
新字:九年,翟敗我于澮。使呉起伐斉,至霊丘。斉威王初立。十一年,与韓、趙三分晋地,滅其後。十三年,秦献公県櫟陽。十五年,敗趙北藺。十六年,伐楚,取魯陽。武侯卒,子罃立,是為恵王。恵王元年,初,武侯卒也,子罃与公中緩争為太子。公孫頎自宋入趙,自趙入韓,謂韓懿侯曰:『魏罃与公中緩争為太子,君亦聞之乎?今魏罃得王錯,挟上党,固半国也。因而除之,破魏必矣,不可失也。』懿侯説,乃与趙成侯合軍并兵以伐魏,戦于濁沢,魏氏大敗,魏君囲。趙謂韓曰:『除魏君,立公中緩,割地而退,我且利。』韓曰:『不可。殺魏君,人必曰暴;割地而退,人必曰貪。不如両分之。魏分為両,不彊於宋、衛,則我終无魏之患矣。』趙不聴。韓不説,以其少卒夜去。恵王之所以身不死,国不分者,二家謀不和也。若従一家之謀,則魏必分矣。故曰『君終无適子,其国可破也』。二年,魏敗韓于馬陵,敗趙于懐。三年,斉敗我観。五年,与韓会宅陽。城武堵。為秦所敗。六年,伐取宋儀台。九年,伐敗韓于澮。与秦戦少梁,虜我将公孫痤,取龐。秦献公卒,子孝公立。十年,伐取趙皮牢。彗星見。十二年,星昼墜,有声。十四年,与趙会鄗。十五年,魯、衛、宋、鄭君来朝。十六年,与秦孝公会杜平。
書き下し
九年、翟我を澮に敗る。呉起をして斉を伐たしめ、霊丘に至る。斉の威王初めて立つ。十一年、韓・趙と三たび晋の地を分ち、其の後を滅ぼす。十三年、秦の献公櫟陽を県とす。十五年、趙を北藺に敗る。十六年、楚を伐ち、魯陽を取る。武侯卒し、子罃立つ、是を恵王と為す。恵王元年、初め、武侯の卒するや、子罃、公中緩と争ひて太子と為らんとす。公孫頎宋より趙に入り、趙より韓に入り、韓の懿侯に謂ひて曰く、『魏罃、公中緩と争ひて太子と為らんとす。君も亦之を聞くか。今魏罃王錯を得て、上党を挟む。固より半国なり。因りて之を除かば、魏を破ること必せり。失ふべからざるなり』と。懿侯説び、乃ち趙の成侯と軍を合し兵を并せて以て魏を伐ち、濁沢に戦ふ。魏氏大いに敗れ、魏君囲まる。趙韓に謂ひて曰く、『魏君を除き、公中緩を立て、地を割きて退かば、我且に利あらん』と。韓曰く、『不可なり。魏君を殺さば、人必ず暴と曰はん。地を割きて退かば、人必ず貪と曰はん。両つながら之を分つに如かず。魏分れて両と為らば、宋・衛より彊からず。則ち我終に魏の患ひ無からん』と。趙聴かず。韓説ばず、其の少卒を以て夜去る。恵王の身死せず、国分れざる所以の者は、二家の謀和せざればなり。若し一家の謀に従はば、則ち魏必ず分れん。故に曰く『君終に適子無くんば、其の国破るべきなり』と。二年、魏韓を馬陵に敗り、趙を懐に敗る。三年、斉我を観に敗る。五年、韓と宅陽に会す。武堵に城く。秦の敗る所と為る。六年、伐ちて宋の儀台を取る。九年、伐ちて韓を澮に敗る。秦と少梁に戦ひ、我が将公孫痤を虜にし、龐を取る。秦の献公卒し、子孝公立つ。十年、伐ちて趙の皮牢を取る。彗星見はる。十二年、星昼に墜ち、声有り。十四年、趙と鄗に会す。十五年、魯・衛・宋・鄭の君来朝す。十六年、秦の孝公と杜平に会す。
現代語訳
九年、翟(てき)がわが軍を澮(かい)で破った。呉起(ごき)に斉を討たせ、霊丘まで至った。斉の威王が即位した。十一年、韓・趙と共に晋の地を三分し、晋の後裔を滅ぼした。十三年、秦の献公が櫟陽(やくよう)を県とした。十五年、趙を北藺(ほくりん)で破った。十六年、楚を討ち、魯陽を取った。武侯が死に、子の罃が立った。これが恵王である。恵王の元年のこと。これより前、武侯が死んだとき、子の罃と公中緩(こうちゅうかん)が太子の座を争った。公孫頎(こうそんき)が宋から趙に入り、趙から韓に入って、韓の懿侯に言った。『魏の罃と公中緩が太子の座を争っているのを、君もお聞きか。今、魏罃は王錯(おうさく)を味方につけ、上党を押さえている。それでも国の半分にすぎない。この機に乗じて罃を除けば、必ず魏を破れる。この機会を逃してはならない』。懿侯は喜び、趙の成侯と軍を合わせて魏を討ち、濁沢(だくたく)で戦った。魏は大敗し、魏君(罃)は包囲された。趙は韓に言った。『魏君を除いて公中緩を立て、魏の土地を割き取って引き上げれば、われわれの利になるだろう』。韓は言った。『それはいけない。魏君を殺せば、人々は必ず暴虐だと言うだろう。土地を割き取って引き上げれば、人々は必ず貪欲だと言うだろう。二人に魏を分けさせるほうがよい。魏が二つに分かれれば、宋や衛より強くはならない。そうすればわれわれはずっと魏の心配をしなくてすむ』。趙は聞き入れなかった。韓は不満に思い、夜のうちに少ない兵を連れて去った。恵王が死なずにすみ、国も分割されなかったのは、韓と趙の二家の謀が一致しなかったからである。もしどちらか一方の謀に従っていれば、魏は必ず分割されていただろう。だから『君主に嫡子が定まらないまま終われば、その国は破られうる』と言うのである。二年、魏は韓を馬陵で破り、趙を懐で破った。三年、斉がわが軍を観で破った。五年、韓と宅陽(たくよう)で会見した。武堵(ぶと)に城を築いた。秦に敗れた。六年、宋を討って儀台(ぎだい)を取った。九年、韓を討って澮で破った。秦と少梁で戦い、秦はわが将の公孫痤(こうそんざ)を捕らえ、龐を取った。秦の献公が死に、子の孝公が立った。十年、趙を討って皮牢を取った。彗星が現れた。十二年、昼間に星が落ち、音がした。十四年、趙と鄗で会見した。十五年、魯・衛・宋・鄭の君主が来朝した。十六年、秦の孝公と杜平(とへい)で会見した。
解説
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史記 魏世家昭公卒して六卿彊く、公室卑し。晋の頃公の十二年、韓宣子老し、魏献子国政を為す。晋の宗室の祁氏・羊舌氏相悪む。六卿之を誅し、尽く其の邑を取りて十県と為し、六卿各々其の子をして之が大夫と為らしむ。献子、趙簡子・中行文子・范献子と并びに晋の卿為り。其の後十四歳にして孔子魯に相たり。後四歳、趙簡子晋陽の乱を以て、韓・魏と共に范・中行氏を攻む。魏献子、魏侈を生む。魏侈、趙鞅と共に范・中行氏を攻む。魏侈の孫を魏桓子と曰ふ。韓康子・趙襄子と共に知伯を伐ち滅ぼし、其の地を分つ。桓子の孫を文侯都と曰ふ。魏の文侯の元年は、秦の霊公の元年なり。韓の武子・趙の桓子・周の威王と時を同じくす。六年、少梁に城く。十三年、子撃をして繁・龐を囲ましめ、其の民を出だす。十六年、秦を伐ち、臨晋・元裏に築く。十七年、中山を伐ち、子撃をして之を守らしめ、趙倉唐之に傅たり。子撃、文侯の師田子方に朝歌に逢ひ、車を引きて避け、下りて謁す。田子方礼を為さず。子撃因りて問ひて曰く、『富貴なる者人に驕るか。且つ貧賤なる者人に驕るか』と。子方曰く、『亦貧賤なる者人に驕るのみ。夫れ諸侯にして人に驕れば則ち其の国を失ひ、大夫にして人に驕れば則ち其の家を失ふ。貧賤なる者は、行ひ合はず、言用ひられずんば、則ち去りて楚・越に之くこと、屣を脱ぐが若く然り。奈何ぞ其れ之を同じくせんや』と。子撃懌ばずして去る。西のかた秦を攻め、鄭に至りて還り、雒陰・合陽に築く。廿二年、魏・趙・韓列して諸侯と為る。廿四年、秦我を伐ち、陽狐に至る。廿五年、子撃子罃を生む。
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史記 魏世家宋の黄池を侵す。宋復た之を取る。十七年、秦と元裏に戦ひ、秦我が少梁を取る。趙の邯鄲を囲む。十八年、邯鄲を抜く。趙救ひを斉に請ふ。斉、田忌・孫臏をして趙を救はしめ、魏を桂陵に敗る。十九年、諸侯我が襄陵を囲む。長城を築き、固陽を塞ぐ。廿年、趙に邯鄲を帰し、与に漳水の上に盟ふ。廿一年、秦と彤に会す。趙の成侯卒す。廿八年、斉の威王卒す。中山君魏に相たり。卅年、魏趙を伐つ。趙急を斉に告ぐ。斉の宣王孫子の計を用ひ、趙を救ひて魏を撃つ。魏遂に大いに師を興し、龐涓をして将たらしめ、而して太子申をして上将軍と為らしむ。外黄を過る。外黄の徐子太子に謂ひて曰く、『臣に百戦百勝の術有り』と。太子曰く、『聞くことを得べきか』と。客曰く、『固より之を效さんことを願ふ』と。曰く、『太子自ら将として斉を攻め、大いに勝ちて莒を并すとも、則ち富は魏を有つに過ぎず、貴は王と為るに益さず。若し戦ひて斉に勝たずんば、則ち万世魏無からん。此れ臣の百戦百勝の術なり』と。太子曰く、『諾。請ふ必ず公の言に従ひて還らん』と。客曰く、『太子還らんと欲すと雖も、得ざらん。彼の太子に戦攻を勧めて、汁を啜らんと欲する者衆し。太子還らんと欲すと雖も、恐らくは得ざらん』と。太子因りて還らんと欲す。其の御曰く、『将として出でて還るは、北ぐると同じ』と。太子果たして斉人と戦ひ、馬陵に敗る。斉、魏の太子申を虜にし、将軍涓を殺し、軍遂に大いに破る。卅一年、秦・趙・斉共に我を伐つ。秦の将商君、我が将軍公子卬を詐りて其の軍を襲奪し、之を破る。秦商君を用ひ、東地河に至り、而して斉・趙数々我を破る。安邑秦に近し。是に於て徙りて大梁に治す。公子赫を以て太子と為す。卅三年、秦の孝公卒し、商君秦を亡げて魏に帰す。魏怒り、入れず。卅五年、斉の宣王と平阿の南に会す。恵王数々軍旅に被り、礼を卑くし幣を厚くして以て賢者を招く。
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史記 魏世家太子の自ら相たらば、是れ三人の者皆太子を以て常相に非ずと為し、皆将に務めて其の国を以て魏に事へ、丞相の璽を得んと欲せんとす。魏の彊きを以て、而して三万乗の国之を輔けば、魏必ず安からん。故に曰く太子の自ら相たるに若くは莫しと」』と。遂に北して梁王に見え、此を以て之に告ぐ。太子果たして魏に相たり。十年、張儀死す。十一年、秦の武王と応に会す。十二年、太子秦に朝す。秦来りて我が皮氏を伐つも、未だ抜かずして解く。十四年、秦来りて武王后を帰す。十六年、秦我が蒲反・陽晋・封陵を抜く。十七年、秦と臨晋に会す。秦我に蒲反を予ふ。十八年、秦と楚を伐つ。廿一年、斉・韓と共に秦の軍を函谷に敗る。廿三年、秦復た我に河外及び封陵を予へて和を為す。哀王卒し、子昭王立つ。昭王元年、秦我が襄城を抜く。二年、秦と戦ひ、我利あらず。三年、韓を佐けて秦を攻む。秦の将白起、我が軍を伊闕に敗ること廿四万。六年、秦に河東の地方四百里を予ふ。芒卯詐りを以て重んぜらる。七年、秦我が城大小六十一を抜く。八年、秦の昭王西帝と為り、斉の湣王東帝と為る。月余にして、皆復た王と称して帝を帰す。九年、秦我が新垣・曲陽の城を抜く。十年、斉宋を滅ぼす。宋王我が温に死す。十二年、秦・趙・韓・燕と共に斉を伐ち、之を済西に敗る。湣王出でて亡ぐ。燕独り臨菑に入る。秦王と西周に会す。十三年、秦我が安城を抜く。兵大梁に到りて、去る。十八年、秦郢を抜き、楚王陳に徙る。十九年、昭王卒し、子安釐王立つ。安釐王元年、秦我が両城を抜く。二年、又我が二城を抜き、大梁の下に軍す。韓来り救ふ。秦に温を予へて以て和す。三年、秦我が四城を抜き、首を斬ること四万。
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史記 魏世家四年、秦我及び韓・趙を破り、十五万人を殺し、我が将芒卯を走らす。魏の将段干子、秦に南陽を予へて以て和せんことを請ふ。蘇代、魏王に謂ひて曰く、『璽を欲する者は段干子なり。地を欲する者は秦なり。今王地を欲する者をして璽を制せしめ、璽を欲する者をして地を制せしむ。魏氏の地尽きずんば則ち已むを知らず。且つ夫れ地を以て秦に事ふるは、譬へば猶ほ薪を抱きて火を救ふがごとし。薪尽きずんば、火滅えず』と。王曰く、『是れ則ち然り。然りと雖も、事始めて已に行はる。更むべからず』と。対へて曰く、『王独り夫の博の梟を貴ぶ所以の者を見ずや。便なれば則ち食ひ、便ならざれば則ち止む。今王曰く「事始めて已に行はる、更むべからず」と。是れ何ぞ王の智を用ふること梟を用ふるに如かざるや』と。九年、秦我が懐を抜く。十年、秦の太子外に魏に質となりて死す。十一年、秦我が郪丘を抜く。秦の昭王左右に謂ひて曰く、『今時の韓・魏は始めと孰れか彊き』と。対へて曰く、『始めの彊きに如かず』と。王曰く、『今時の如耳・魏斉は孟嘗・芒卯と孰れか賢なる』と。対へて曰く、『如かず』と。王曰く、『孟嘗・芒卯の賢を以て、彊き韓・魏を率ゐて以て秦を攻むるも、猶ほ寡人を奈何ともする無し。今無能の如耳・魏斉を以て弱き韓・魏を率ゐて以て秦を伐つ。其の寡人を奈何ともする無きこと亦明らかなり』と。左右皆曰く、『甚だ然り』と。中旗琴に馮りて対へて曰く、『王の天下を料ること過てり。晋の六卿の時に当たり、知氏最も彊し。范・中行を滅ぼし、又韓・魏の兵を率ゐて以て趙襄子を晋陽に囲み、晋水を決して以て晋陽の城に灌ぐ。湛まざる者三版。知伯水を行り、魏桓子御し、韓康子参乗と為る。知伯曰く、「吾始め水の以て人の国を亡ぼすべきを知らず、乃ち今之を知る」と。汾水は以て安邑に灌ぐべく、絳水は以て平陽に灌ぐべし。
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