師導古典を学びたいすべての人に

史記 / 魏世家

昭公卒而六卿彊,公室卑。晉頃公之十二年,韓宣子老,魏獻子爲國政。晉宗室祁氏、羊舌氏相惡,六卿誅之,盡取其邑爲十縣,六卿各令其子爲之大夫。獻子與趙簡子、中行文子、范獻子并爲晉卿。其後十四歳而孔子相魯。後四歳,趙簡子以晉陽之亂也,而與韓、魏共攻范、中行氏。魏獻子生魏侈。魏侈與趙鞅共攻范、中行氏。魏侈之孫曰魏桓子,與韓康子、趙襄子共伐滅知伯,分其地。桓子之孫曰文侯都。魏文侯元年,秦靈公之元年也。與韓武子、趙桓子、周威王同時。六年,城少梁。十三年,使子撃圍繁、龐,出其民。十六年,伐秦,筑臨晉元裏。十七年,伐中山,使子撃守之,趙倉唐傅之。子撃逢文侯之師田子方於朝謌,引車避,下謁。田子方不爲禮。子撃因問曰:『富貴者驕人乎?且貧賤者驕人乎?』子方曰:『亦貧賤者驕人耳。夫諸侯而驕人則失其國,大夫而驕人則失其家。貧賤者,行不合,言不用,則去之楚、越,若脱屣然,柰何其同之哉!』子撃不懌而去。西攻秦,至鄭而還,筑雒陰、合陽。廿二年,魏、趙、韓列爲諸侯。廿四年,秦伐我,至陽狐。廿五年,子撃生子罃。

新字:昭公卒而六卿彊,公室卑。晋頃公之十二年,韓宣子老,魏献子為国政。晋宗室祁氏、羊舌氏相悪,六卿誅之,尽取其邑為十県,六卿各令其子為之大夫。献子与趙簡子、中行文子、范献子并為晋卿。其後十四歳而孔子相魯。後四歳,趙簡子以晋陽之乱也,而与韓、魏共攻范、中行氏。魏献子生魏侈。魏侈与趙鞅共攻范、中行氏。魏侈之孫曰魏桓子,与韓康子、趙襄子共伐滅知伯,分其地。桓子之孫曰文侯都。魏文侯元年,秦霊公之元年也。与韓武子、趙桓子、周威王同時。六年,城少梁。十三年,使子撃囲繁、龐,出其民。十六年,伐秦,筑臨晋元裏。十七年,伐中山,使子撃守之,趙倉唐傅之。子撃逢文侯之師田子方於朝謌,引車避,下謁。田子方不為礼。子撃因問曰:『富貴者驕人乎?且貧賤者驕人乎?』子方曰:『亦貧賤者驕人耳。夫諸侯而驕人則失其国,大夫而驕人則失其家。貧賤者,行不合,言不用,則去之楚、越,若脱屣然,柰何其同之哉!』子撃不懌而去。西攻秦,至鄭而還,筑雒陰、合陽。廿二年,魏、趙、韓列為諸侯。廿四年,秦伐我,至陽狐。廿五年,子撃生子罃。

書き下し

昭公卒して六卿彊く、公室卑し。晋の頃公の十二年、韓宣子老し、魏献子国政を為す。晋の宗室の祁氏・羊舌氏相悪む。六卿之を誅し、尽く其の邑を取りて十県と為し、六卿各々其の子をして之が大夫と為らしむ。献子、趙簡子・中行文子・范献子と并びに晋の卿為り。其の後十四歳にして孔子魯に相たり。後四歳、趙簡子晋陽の乱を以て、韓・魏と共に范・中行氏を攻む。魏献子、魏侈を生む。魏侈、趙鞅と共に范・中行氏を攻む。魏侈の孫を魏桓子と曰ふ。韓康子・趙襄子と共に知伯を伐ち滅ぼし、其の地を分つ。桓子の孫を文侯都と曰ふ。魏の文侯の元年は、秦の霊公の元年なり。韓の武子・趙の桓子・周の威王と時を同じくす。六年、少梁に城く。十三年、子撃をして繁・龐を囲ましめ、其の民を出だす。十六年、秦を伐ち、臨晋・元裏に築く。十七年、中山を伐ち、子撃をして之を守らしめ、趙倉唐之に傅たり。子撃、文侯の師田子方に朝歌に逢ひ、車を引きて避け、下りて謁す。田子方礼を為さず。子撃因りて問ひて曰く、『富貴なる者人に驕るか。且つ貧賤なる者人に驕るか』と。子方曰く、『亦貧賤なる者人に驕るのみ。夫れ諸侯にして人に驕れば則ち其の国を失ひ、大夫にして人に驕れば則ち其の家を失ふ。貧賤なる者は、行ひ合はず、言用ひられずんば、則ち去りて楚・越に之くこと、屣を脱ぐが若く然り。奈何ぞ其れ之を同じくせんや』と。子撃懌ばずして去る。西のかた秦を攻め、鄭に至りて還り、雒陰・合陽に築く。廿二年、魏・趙・韓列して諸侯と為る。廿四年、秦我を伐ち、陽狐に至る。廿五年、子撃子罃を生む。

現代語訳

晋の昭公が死ぬと六卿が強くなり、公室は衰えた。晋の頃公の十二年、韓宣子が老齢で引退し、魏献子が国政を執った。晋の公族である祁氏と羊舌氏が互いに憎み合っていたので、六卿はこれらを誅し、その邑をすべて取り上げて十の県とし、六卿はそれぞれ自分の子をその県の大夫とした。献子は趙簡子・中行文子・范献子と並んで晋の卿であった。その十四年後、孔子が魯の宰相となった。その四年後、趙簡子は晋陽の乱があったので、韓・魏と共に范氏・中行氏を攻めた。魏献子は魏侈(ぎし)を生んだ。魏侈は趙鞅と共に范氏・中行氏を攻めた。魏侈の孫を魏桓子(ぎかんし)という。韓康子・趙襄子と共に知伯を討ち滅ぼし、その地を分けた。桓子の孫を文侯都(と)という。魏の文侯の元年は、秦の霊公の元年にあたる。韓の武子・趙の桓子・周の威王と同時代である。六年、少梁に城を築いた。十三年、子の撃(げき)に繁(はん)・龐(ほう)を包囲させ、その住民を追い出した。十六年、秦を討ち、臨晋・元裏に城を築いた。十七年、中山を討ち、子の撃にこれを守らせ、趙倉唐(ちょうそうとう)をその守り役とした。子の撃が朝歌で文侯の師である田子方(でんしほう)に出会ったとき、車を脇へ寄せて道を譲り、車から降りて挨拶した。田子方は答礼しなかった。子の撃はそこで尋ねた。『富貴な者が人に驕るのか。それとも貧賤な者が人に驕るのか』。子方は言った。『貧賤な者こそ人に驕るのだ。諸侯が人に驕れば国を失い、大夫が人に驕れば家を失う。貧賤な者は、行いが合わず、言葉が用いられなければ、さっさと去って楚や越に行ってしまう。履物を脱ぎ捨てるようなものだ。どうして同じにできようか』。子の撃は不愉快そうに去った。(文侯は)西へ秦を攻め、鄭まで至って帰還し、雒陰(らくいん)と合陽に城を築いた。二十二年、魏・趙・韓がそろって諸侯となった。二十四年、秦がわが国を討ち、陽狐(ようこ)まで至った。二十五年、子の撃に子の罃(おう)が生まれた。

解説

魏献子から文侯の時代にかけて、魏が晋の一卿から独立した諸侯へと成長していく過程を描いた段です。六卿による公族の滅亡、范氏・中行氏の打倒、知伯の滅亡と、晋の実権が次第に韓・趙・魏の三家に集まっていく流れが、魏の側から簡潔に記されています。文侯は戦国初期の名君として知られ、賢人を師として重んじました。その師の一人田子方が、太子撃の丁寧な挨拶に答礼せず、富貴な者は人に驕れば国や家を失うが、貧賤な者は意見が用いられなければ履物を脱ぐように去ればよい、だから貧賤な者こそ驕ることができるのだと言い放つ場面は印象的です。失うものを持たない者の自由と、地位ある者の責任の重さの対比は、権限を持つ立場になった人が人材にどう接するべきかを考えさせます。

関連する章句

古典の入門書『人生の教科書』の表紙

人生の答えは、ぜんぶ古典に書いてあった。

古典の入門書『人生の教科書』(PDF)と、師導の全機能1か月がセットで700円。二十四の悩みに、論語・老子・孫子から徒然草・五輪書までが答えます。

本の中身を見る
古典の入門書『人生の教科書』(PDF)+師導1か月=700円 本を見る