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史記 / 趙世家

趙將樂乘、慶舍攻秦信梁軍,破之。太子死。而秦攻西周,拔之。徒父祺出。十一年,城元氏,縣上原。武陽君鄭安平死,收其地。十二年,邯鄲廥燒。十四年,平原君趙勝死。十五年,以尉文封相國廉頗爲信平君。燕王令丞相栗腹約驤,以五百金爲趙王酒,還歸,報燕王曰:「趙氏壯者皆死長平,其孤未壯,可伐也。」王召昌國君樂閒而問之。對曰:「趙,四戰之國也,其民習兵,伐之不可。」王曰:「吾以衆伐寡,二而伐一,可乎?」對曰:「不可。」王曰:「吾卽以五而伐一,可乎?」對曰:「不可。」燕王大怒。群臣皆以爲可。燕卒起二軍,車二千乘,栗腹將而攻鄗,卿秦將而攻代。廉頗爲趙將,破殺栗腹,虜卿秦、樂閒。十六年,廉頗圍燕。以樂乘爲武襄君。十七年,假相大將武襄君攻燕,圍其國。十八年,延陵鈞率師從相國信平君助魏攻燕。秦拔我楡次三十七城。十九年,趙與燕易土:以龍兌、汾門、臨樂與燕;燕以葛、武陽、平舒與趙。二十年,秦王政初立。秦拔我晉陽。二十一年,孝成王卒。廉頗將,攻繁陽,取之。使樂乘代之,廉頗攻樂乘,樂乘走,廉頗亡入魏。子偃立,是爲悼襄王。悼襄王元年,大備魏。欲通平邑、中牟之道,不成。二年,李牧將,攻燕,拔武遂、方城。秦召春平君,因而留之。

新字:趙将楽乗、慶舎攻秦信梁軍,破之。太子死。而秦攻西周,抜之。徒父祺出。十一年,城元氏,県上原。武陽君鄭安平死,収其地。十二年,邯鄲廥焼。十四年,平原君趙勝死。十五年,以尉文封相国廉頗為信平君。燕王令丞相栗腹約驤,以五百金為趙王酒,還帰,報燕王曰:「趙氏壮者皆死長平,其孤未壮,可伐也。」王召昌国君楽閒而問之。対曰:「趙,四戦之国也,其民習兵,伐之不可。」王曰:「吾以衆伐寡,二而伐一,可乎?」対曰:「不可。」王曰:「吾即以五而伐一,可乎?」対曰:「不可。」燕王大怒。群臣皆以為可。燕卒起二軍,車二千乗,栗腹将而攻鄗,卿秦将而攻代。廉頗為趙将,破殺栗腹,虜卿秦、楽閒。十六年,廉頗囲燕。以楽乗為武襄君。十七年,仮相大将武襄君攻燕,囲其国。十八年,延陵鈞率師従相国信平君助魏攻燕。秦抜我楡次三十七城。十九年,趙与燕易土:以竜兌、汾門、臨楽与燕;燕以葛、武陽、平舒与趙。二十年,秦王政初立。秦抜我晋陽。二十一年,孝成王卒。廉頗将,攻繁陽,取之。使楽乗代之,廉頗攻楽乗,楽乗走,廉頗亡入魏。子偃立,是為悼襄王。悼襄王元年,大備魏。欲通平邑、中牟之道,不成。二年,李牧将,攻燕,抜武遂、方城。秦召春平君,因而留之。

書き下し

趙の将楽乗・慶舍、秦の信梁の軍を攻め、之を破る。太子死す。而して秦西周を攻め、之を抜く。徒父祺出づ。十一年、元氏に城き、上原を県とす。武陽君鄭安平死し、其の地を収む。十二年、邯鄲の廥焼く。十四年、平原君趙勝死す。十五年、尉文を以て相国廉頗を封じて信平君と為す。燕王、丞相栗腹をして驩を約し、五百金を以て趙王の酒を為さしむ。還り帰りて、燕王に報じて曰く、「趙氏の壮者は皆長平に死し、其の孤未だ壮ならず。伐つべきなり」と。王、昌国君楽閒を召して之に問ふ。対へて曰く、「趙は四戦の国なり。其の民兵に習ふ。之を伐つは不可なり」と。王曰く、「吾衆を以て寡を伐ち、二にして一を伐つ、可ならんか」と。対へて曰く、「不可なり」と。王曰く、「吾即し五を以て一を伐たば、可ならんか」と。対へて曰く、「不可なり」と。燕王大いに怒る。群臣皆以て可と為す。燕卒に二軍を起こし、車二千乗、栗腹将として鄗を攻め、卿秦将として代を攻む。廉頗趙の将と為り、栗腹を破り殺し、卿秦・楽閒を虜にす。十六年、廉頗燕を囲む。楽乗を以て武襄君と為す。十七年、仮相大将武襄君燕を攻め、其の国を囲む。十八年、延陵鈞、師を率ゐて相国信平君に従ひて魏を助けて燕を攻む。秦我が楡次三十七城を抜く。十九年、趙燕と土を易ふ。龍兌・汾門・臨楽を以て燕に与へ、燕は葛・武陽・平舒を以て趙に与ふ。二十年、秦王政初めて立つ。秦我が晋陽を抜く。二十一年、孝成王卒す。廉頗将として、繁陽を攻め、之を取る。楽乗をして之に代はらしむ。廉頗楽乗を攻む。楽乗走る。廉頗亡げて魏に入る。子偃立つ、是を悼襄王と為す。悼襄王元年、大いに魏に備ふ。平邑・中牟の道を通ぜんと欲するも、成らず。二年、李牧将として、燕を攻め、武遂・方城を抜く。秦、春平君を召し、因りて之を留む。

現代語訳

趙の将の楽乗(がくじょう)と慶舍(けいしゃ)が、秦の信梁(しんりょう)の軍を攻めて破った。太子が死んだ。秦は西周を攻めて攻め落とした。徒父祺(とほき)が出陣した。十一年、元氏に城を築き、上原を県とした。武陽君鄭安平(ていあんぺい)が死に、その領地を収めた。十二年、邯鄲の穀物倉が焼けた。十四年、平原君趙勝が死んだ。十五年、尉文(いぶん)の地をもって相国廉頗を封じ、信平君とした。燕王は丞相の栗腹(りつふく)に趙と友好を約束させ、五百金を趙王の酒宴の費用として贈らせた。栗腹は帰ると燕王に報告した。「趙の壮年の男はみな長平で死に、その遺児たちはまだ成人していない。攻めるべきだ」。燕王は昌国君楽閒(がくかん)を呼んで意見を尋ねた。楽閒は答えた。「趙は四方に敵を持って戦い続けてきた国で、その民は戦いに慣れている。攻めるべきではない」。王は言った。「わが方は多数で少数を討ち、二対一で攻めるのだが、それでもだめか」。楽閒は「いけない」と答えた。王は言った。「では五対一で攻めるなら、どうか」。楽閒は「いけない」と答えた。燕王は大いに怒った。群臣はみな攻めるべきだと言った。燕はついに二つの軍を起こし、戦車二千台で、栗腹が将となって鄗を攻め、卿秦(けいしん)が将となって代を攻めた。廉頗が趙の将となって栗腹を破って殺し、卿秦と楽閒を捕虜にした。十六年、廉頗が燕の都を包囲した。楽乗を武襄君とした。十七年、仮の宰相で大将の武襄君が燕を攻め、その都を包囲した。十八年、延陵鈞(えんりょうきん)が軍を率いて相国信平君(廉頗)に従い、魏を助けて燕を攻めた。秦がわが楡次(ゆじ)など三十七城を攻め落とした。十九年、趙は燕と土地を交換した。龍兌・汾門・臨楽を燕に与え、燕は葛・武陽・平舒を趙に与えた。二十年、秦王政(のちの始皇帝)が即位した。秦がわが晋陽を攻め落とした。二十一年、孝成王が死んだ。廉頗が将となって繁陽(はんよう)を攻め、これを取った。(新王は)楽乗を廉頗と交代させた。廉頗は楽乗を攻め、楽乗は逃げた。廉頗は国を出て魏に亡命した。子の偃(えん)が立った。これが悼襄王である。悼襄王の元年、魏に対して大いに備えた。平邑と中牟の間の道を通じさせようとしたが、成功しなかった。二年、李牧(りぼく)が将となって燕を攻め、武遂と方城を攻め落とした。秦は春平君を呼び寄せ、そのまま抑留した。

解説

長平の大敗後の趙が、なお名将の力で持ちこたえる時期の記録です。燕は、友好の使者に立った栗腹が「趙の壮年の男は長平で死に絶えた」と報告したのを信じて趙を攻めます。楽閒は、趙は四方の敵と戦い続けてきた国で民が戦いに慣れている、二対一でも五対一でもいけないと止めましたが、燕王は怒って聞かず、廉頗に大敗しました。数の優位だけで相手を侮る危うさがよく分かる話です。一方、趙も孝成王の死後、新王が廉頗を楽乗と交代させ、廉頗は怒って魏に亡命してしまいます。秦王政の即位も記され、趙の命運を決める相手が登場しました。李牧という新たな名将が現れる一方で、トップの交代で実績ある功臣が去っていく流れは、組織にとって何を意味するのかを考えさせます。

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