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史記 / 趙世家

子不及也。」遂胡服招騎射。二十年,王略中山地,至寧葭;西略胡地,至楡中。林胡王獻馬。歸,使樓緩之秦,仇液之韓,王賁之楚,富丁之魏,趙爵之齊。代相趙固主胡,致其兵。二十一年,攻中山。趙袑爲右軍,許鈞爲左軍,公子章爲中軍,王并將之。牛翦將車騎,趙希并將胡、代。趙與之陘,合軍曲陽,攻取丹丘、華陽、鴟之塞。王軍取鄗、石邑、封龍、東垣。中山獻四邑和,王許之,罷兵。二十三年,攻中山。二十五年,惠后卒。使周袑胡服傅王子何。二十六年,復攻中山,攘地北至燕、代,西至雲中、九原。二十七年五月戊申,大朝於東宮,傳國,立王子何以爲王。王廟見禮畢,出臨朝。大夫悉爲臣,肥義爲相國,并傅王。是爲惠文王。惠文王,惠后吳娃子也。武靈王自號爲主父。主父欲令子主治國,而身胡服將士大夫西北略胡地,而欲從雲中、九原直南襲秦,於是詐自爲使者入秦。秦昭王不知,已而怪其狀甚偉,非人臣之度,使人逐之,而主父馳已脱關矣。審問之,乃主父也。秦人大驚。主父所以入秦者,欲自略地形,因觀秦王之爲人也。惠文王二年,主父行新地,遂出代,西遇樓煩王於西河而致其兵。三年,滅中山,遷其王於膚施。起靈壽,北地方從,代道大通。

新字:子不及也。」遂胡服招騎射。二十年,王略中山地,至寧葭;西略胡地,至楡中。林胡王献馬。帰,使楼緩之秦,仇液之韓,王賁之楚,富丁之魏,趙爵之斉。代相趙固主胡,致其兵。二十一年,攻中山。趙袑為右軍,許鈞為左軍,公子章為中軍,王并将之。牛翦将車騎,趙希并将胡、代。趙与之陘,合軍曲陽,攻取丹丘、華陽、鴟之塞。王軍取鄗、石邑、封竜、東垣。中山献四邑和,王許之,罷兵。二十三年,攻中山。二十五年,恵后卒。使周袑胡服傅王子何。二十六年,復攻中山,攘地北至燕、代,西至雲中、九原。二十七年五月戊申,大朝於東宮,伝国,立王子何以為王。王廟見礼畢,出臨朝。大夫悉為臣,肥義為相国,并傅王。是為恵文王。恵文王,恵后呉娃子也。武霊王自号為主父。主父欲令子主治国,而身胡服将士大夫西北略胡地,而欲従雲中、九原直南襲秦,於是詐自為使者入秦。秦昭王不知,已而怪其状甚偉,非人臣之度,使人逐之,而主父馳已脱関矣。審問之,乃主父也。秦人大驚。主父所以入秦者,欲自略地形,因観秦王之為人也。恵文王二年,主父行新地,遂出代,西遇楼煩王於西河而致其兵。三年,滅中山,遷其王於膚施。起霊寿,北地方従,代道大通。

書き下し

子及ばざるなり」と。遂に胡服して騎射を招く。二十年、王中山の地を略し、寧葭に至る。西のかた胡の地を略し、楡中に至る。林胡王馬を献ず。帰りて、楼緩をして秦に之かしめ、仇液を韓に、王賁を楚に、富丁を魏に、趙爵を斉に之かしむ。代の相趙固胡を主り、其の兵を致す。二十一年、中山を攻む。趙袑右軍と為り、許鈞左軍と為り、公子章中軍と為り、王并せて之に将たり。牛翦車騎に将たり。趙希并せて胡・代に将たり。趙之に陘を与へ、軍を曲陽に合し、丹丘・華陽・鴟の塞を攻め取る。王の軍鄗・石邑・封龍・東垣を取る。中山四邑を献じて和す。王之を許し、兵を罷む。二十三年、中山を攻む。二十五年、恵后卒す。周袑をして胡服して王子何に傅たらしむ。二十六年、復た中山を攻め、地を攘ひて北は燕・代に至り、西は雲中・九原に至る。二十七年五月戊申、大いに東宮に朝し、国を伝へ、王子何を立てて以て王と為す。王廟見の礼畢はり、出でて朝に臨む。大夫悉く臣と為る。肥義相国と為り、并せて王に傅たり。是を恵文王と為す。恵文王は、恵后呉娃の子なり。武霊王自ら号して主父と為す。主父、子をして国を治むるを主らしめんと欲して、身は胡服して士大夫を将ゐて西北のかた胡の地を略し、而して雲中・九原より直ちに南して秦を襲はんと欲す。是に於て詐りて自ら使者と為りて秦に入る。秦の昭王知らず。已にして其の状甚だ偉にして、人臣の度に非ざるを怪しみ、人をして之を逐はしむ。而るに主父馳せて已に関を脱す。審らかに之を問へば、乃ち主父なり。秦人大いに驚く。主父の秦に入りし所以の者は、自ら地形を略し、因りて秦王の人と為りを観んと欲すればなり。恵文王二年、主父新地を行り、遂に代に出で、西のかた楼煩王に西河に遇ひて其の兵を致す。三年、中山を滅ぼし、其の王を膚施に遷す。霊寿を起こし、北地方に従ひ、代の道大いに通ず。

現代語訳

(王は言った。)「おまえたちには分かるまい」。こうしてついに胡服を採用し、騎射の兵を募った。二十年、王は中山の地を攻略して寧葭(ねいか)に至った。西へ胡の地を攻略して楡中(ゆちゅう)に至った。林胡(りんこ)の王が馬を献上した。帰国すると、楼緩(ろうかん)を秦に、仇液(きゅうえき)を韓に、王賁(おうほん)を楚に、富丁(ふてい)を魏に、趙爵(ちょうしゃく)を斉に使者として遣わした。代の宰相の趙固が胡の地を管轄し、そこの兵を召し出した。二十一年、中山を攻めた。趙袑が右軍、許鈞(きょきん)が左軍、公子章が中軍となり、王がこれらを統べて率いた。牛翦(ぎゅうせん)が戦車と騎兵を率い、趙希が胡と代の兵をあわせて率いた。趙はこれに陘(けい)の道を進ませ、曲陽で軍を合流させ、丹丘・華陽・鴟(し)の要塞を攻め取った。王の軍は鄗・石邑・封龍・東垣を取った。中山は四つの邑を献上して和睦を求め、王はこれを許して兵を収めた。二十三年、中山を攻めた。二十五年、恵后が死んだ。周袑に胡服を着せて王子何(か)の守り役とした。二十六年、再び中山を攻め、領土を広げて北は燕・代に至り、西は雲中・九原に至った。二十七年五月戊申の日、東宮で盛大な朝会を開き、国を譲って王子何を王に立てた。新王は宗廟に参拝する儀礼を終えると、出て朝廷に臨んだ。大夫たちはみな新王の臣下となった。肥義が相国となり、あわせて王の守り役となった。これが恵文王である。恵文王は、恵后の呉娃(ごあい)の子である。武霊王は自ら主父(しゅほ)と号した。主父は子に国の政治を任せ、自らは胡服を着て士大夫を率い、西北の胡の地を攻略し、雲中・九原からまっすぐ南下して秦を襲おうと考えた。そこで偽って自ら使者となり、秦に入った。秦の昭王はそれと知らずに会ったが、後になって、その風貌があまりに堂々としていて臣下の器ではないことを怪しみ、人に追わせた。しかし主父は馬を走らせて、すでに関所を抜けていた。詳しく調べると、それは主父であった。秦の人々は大いに驚いた。主父が秦に入ったのは、自ら地形を調べ、あわせて秦王の人柄を見定めようとしたためであった。恵文王の二年、主父は新たに得た地を巡視し、そのまま代に出て、西河で楼煩の王と会い、その兵を召し出した。三年、中山を滅ぼし、その王を膚施(ふし)に移した。霊寿(れいじゅ)を築き、北方の地が服従して、代への道が大いに通じた。

解説

胡服騎射の成果と、武霊王の大胆な行動を描く段です。反対派を「おまえたちには分かるまい」と退けた王は、騎兵を整えて中山や胡の地を次々に攻略し、ついに中山を滅ぼして北方への道を開きました。改革が実際に国力を大きく伸ばしたことが分かります。一方で王は、在位中に王子何(恵文王)に位を譲り、自らは主父と号して軍事に専念しました。さらに使者に変装して敵国の秦に乗り込み、地形と秦王の人柄を自分の目で確かめるという前代未聞の行動に出ます。風貌が堂々としすぎて見破られかけ、関所を駆け抜けた話は、王の胆力をよく伝えています。現場を自分の目で見る姿勢は見習うべきですが、在位中の譲位は、次の段で大きな悲劇の種となっていきます。

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