史記 / 河渠書
天子既封禪巡祭山川,其明年,旱,乾封少雨。天子乃使汲仁、郭昌發卒數萬人塞瓠子決。於是天子已用事萬里沙,則還自臨決河,沈白馬玉璧于河,令群臣從官自將軍已下皆負薪窴決河。是時東郡燒草,以故薪柴少,而下淇園之竹以為楗。天子既臨河決,悼功之不成,乃作歌曰:「瓠子決兮將柰何?皓皓旰旰兮閭殫為河!殫為河兮地不得寧,功無已時兮吾山平。吾山平兮鉅野溢,魚沸郁兮柏冬日。延道弛兮離常流,蛟龍騁兮方遠遊。歸舊川兮神哉沛,不封禪兮安知外!為我謂河伯兮何不仁,泛濫不止兮愁吾人?齧桑浮兮淮、泗滿,久不反兮水維緩。」一曰:「河湯湯兮激潺湲,北渡污兮浚流難。搴長茭兮沈美玉,河伯許兮薪不屬。薪不屬兮衛人罪,燒蕭條兮噫乎何以御水!穨林竹兮楗石菑,宣房塞兮萬福來。」於是卒塞瓠子,筑宮其上,名曰宣房宮。而道河北行二渠,復禹舊跡,而梁、楚之地復寧,無水災。自是之後,用事者爭言水利。朔方、西河、河西、酒泉皆引河及川谷以溉田;而關中輔渠、靈軹引堵水;汝南、九江引淮;東海引鉅定;泰山下引汶水:皆穿渠為溉田,各萬餘頃。佗小渠披山通道者,不可勝言。然其著者在宣房。
新字:天子既封禅巡祭山川,其明年,旱,乾封少雨。天子乃使汲仁、郭昌発卒数万人塞瓠子決。於是天子已用事万里沙,則還自臨決河,沈白馬玉璧于河,令群臣従官自将軍已下皆負薪窴決河。是時東郡焼草,以故薪柴少,而下淇園之竹以為楗。天子既臨河決,悼功之不成,乃作歌曰:「瓠子決兮将柰何?皓皓旰旰兮閭殫為河!殫為河兮地不得寧,功無已時兮吾山平。吾山平兮鉅野溢,魚沸郁兮柏冬日。延道弛兮離常流,蛟竜騁兮方遠遊。帰旧川兮神哉沛,不封禅兮安知外!為我謂河伯兮何不仁,泛濫不止兮愁吾人?齧桑浮兮淮、泗満,久不反兮水維緩。」一曰:「河湯湯兮激潺湲,北渡汚兮浚流難。搴長茭兮沈美玉,河伯許兮薪不属。薪不属兮衛人罪,焼蕭条兮噫乎何以御水!穨林竹兮楗石菑,宣房塞兮万福来。」於是卒塞瓠子,筑宮其上,名曰宣房宮。而道河北行二渠,復禹旧跡,而梁、楚之地復寧,無水災。自是之後,用事者争言水利。朔方、西河、河西、酒泉皆引河及川谷以溉田;而関中輔渠、霊軹引堵水;汝南、九江引淮;東海引鉅定;泰山下引汶水:皆穿渠為溉田,各万余頃。佗小渠披山通道者,不可勝言。然其著者在宣房。
書き下し
天子既に封禅して山川を巡祭し、其の明年、旱し、封を乾かして雨少なし。天子乃ち汲仁・郭昌をして卒数万人を発して瓠子の決を塞がしむ。是に於て天子已に万里沙に事を用ひ、則ち還りて自ら決河に臨み、白馬・玉璧を河に沈め、群臣・従官をして将軍より已下皆薪を負ひて決河を窴がしむ。是の時東郡草を焼き、故を以て薪柴少なし。而して淇園の竹を下して以て楗と為す。天子既に河決に臨み、功の成らざるを悼み、乃ち歌を作りて曰く、「瓠子決す、将た柰何せん。皓皓旰旰として、閭殫く河と為る。殫く河と為りて地寧きを得ず、功已む時無くして吾山平らかなり。吾山平らかにして鉅野溢れ、魚沸郁して冬日に柏る。延道弛みて常流を離れ、蛟龍騁せて方に遠遊す。旧川に帰さば神なるかな沛たり、封禅せずんば安んぞ外を知らん。我が為に河伯に謂へ、何ぞ不仁なる、泛濫止まずして吾が人を愁へしむと。齧桑浮かびて淮・泗満ち、久しく反らずして水維れ緩し」と。一に曰く、「河湯湯として激して潺湲たり、北に渡りて汚る、浚流難し。長茭を搴りて美玉を沈む、河伯許すも薪属かず。薪属かざるは衛人の罪、焼きて蕭条たり、噫乎何を以てか水を御がん。林竹を穨して石菑を楗し、宣房塞がりて万福来る」と。是に於て卒に瓠子を塞ぎ、宮を其の上に築き、名づけて宣房宮と曰ふ。而して河を道きて北に二渠を行らし、禹の旧跡に復し、而して梁・楚の地復た寧く、水災無し。是より後、事を用ふる者争ひて水利を言ふ。朔方・西河・河西・酒泉は皆河及び川谷を引きて以て田に溉ぎ、而して関中の輔渠・霊軹は堵水を引き、汝南・九江は淮を引き、東海は鉅定を引き、泰山の下は汶水を引く。皆渠を穿ちて溉田と為すこと、各々万余頃。佗の小渠の山を披き道を通ずる者は、勝げて言ふ可からず。然れども其の著しき者は宣房に在り。
現代語訳
天子は封禅を行って山川を巡り祭ったが、その翌年、日照りとなり、封の土壇を乾かすためと言われ雨が少なかった。天子はそこで汲仁(きゅうじん)と郭昌に兵卒数万人を動員させて瓠子の決壊をふさがせた。天子は万里沙で祭りを済ませると、帰りに自ら決壊した黄河に臨み、白馬と玉璧を黄河に沈め、群臣や随行の官吏に将軍以下みな薪を背負わせて決壊箇所を埋めさせた。このころ東郡では草を焼いていたので薪が少なく、そこで淇園(きえん)の竹を切り出して杭とした。天子は決壊箇所に臨んで工事がはかどらないのを悲しみ、歌を作った。「瓠子が決壊した、どうしたらよいのか。果てしなく水が広がり、村々はすべて河となった。すべて河となって大地は安らがず、工事は終わる時がなく吾山は(土を削られて)平らになった。吾山は平らになり鉅野沢はあふれ、魚はひしめき合って冬の日を待つ。河の堤はゆるみ本来の流れを離れ、蛟龍は駆け回って遠くへ遊ぼうとしている。もとの川筋に戻せば神の恵みも豊かであろう。封禅に出なければ、どうして都の外のこの惨状を知ることができただろう。私のために河伯(黄河の神)に言ってくれ。なぜこうも不仁なのか、氾濫がやまず我が民を苦しめるのかと。齧桑(げっそう)は水に浮かび淮水・泗水は満ち、久しく元の流れに戻らず水は緩やかに広がるばかり」。もう一つの歌にはこうある。「黄河は満々と流れて激しく波立ち、北へ流れをそらそうにも流れは濁り、川をさらうのは難しい。長い竹縄を取って美しい玉を沈める。河伯は許してくれたが薪が続かない。薪が続かないのは衛の人の罪、草を焼き払ってしまい辺りはもの寂しい。ああ、何で水を防げばよいのか。林の竹を切り倒して石を詰めた杭とし、宣房の決壊がふさがれば万福がやって来る」。こうしてついに瓠子をふさぎ、その上に宮殿を築いて宣房宮と名づけた。そして黄河を導いて北へ二本の水路で流し、禹の昔の河道に戻したので、梁・楚の地は再び安らかになり、水害がなくなった。これ以後、政務を担う者たちは争って水利のことを言うようになった。朔方・西河・河西・酒泉ではみな黄河や谷川の水を引いて田に灌漑し、関中の輔渠・霊軹渠は堵水を引き、汝南・九江は淮水を引き、東海郡は鉅定沢を引き、泰山の麓では汶水を引いた。いずれも水路を掘って灌漑し、それぞれ一万頃余りに及んだ。その他の、山を切り開いて通した小さな水路は、数えきれない。しかしその中で最も名高いのは宣房である。
解説
関連する章句
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『塩鉄論』申韓篇御史曰く、衣缺けて補わずんば、則ち日々に以て甚だし。防漏れて塞がずんば、則ち日々に益々滋し。大河の始めて瓠子に決するや、涓涓爾たり。其の卒わりに及び、泛濫して中國の害と為る。梁・楚を菑し、曹・衛を破り、城郭は壞沮し、蓄積は漂流す。百姓は木に棲み、千里に廬無し。孤寡をして依る所無からしめ、老弱をして歸る所無からしむ。故に先帝は其の菑を閔悼し、親ら河堤を省し、禹の功を舉ぐ。河流以て復し、曹・衛以て寧し。百姓は其の功を戴き、其の德を詠じ、「宣房塞がりて、萬福來る」と歌う。亦た猶お是のごときなり。如何ぞ小補する勿からんや。
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史記 河渠書渠就り、用て填閼の水を注ぎ、沢鹵の地四万余頃に溉ぐ。収は皆畝ごとに一鍾。是に於て関中沃野と為り、凶年無し。秦以て富彊にして、卒に諸侯を并す。因りて命じて鄭国渠と曰ふ。漢興りて三十九年、孝文の時、河、酸棗に決し、東のかた金隄を潰す。是に於て東郡大いに卒を興して之を塞ぐ。其の後四十有余年、今の天子の元光の中、而して河、瓠子に決し、東南のかた鉅野に注ぎ、淮・泗に通ず。是に於て天子、汲黯・鄭当時をして人徒を興して之を塞がしむるも、輒ち復た壊る。是の時、武安侯田蚡丞相たり。其の奉邑は鄃に食む。鄃は河北に居り、河決して南すれば則ち鄃に水菑無く、邑の収多し。蚡、上に言ひて曰く、「江河の決は皆天事なり。未だ人力を以て彊ひて塞ぐこと易からず。之を塞ぐも未だ必ずしも天に応ぜず」と。而して望気・用数の者も亦以て然りと為す。是に於て天子之を久しくして復た塞ぐことを事とせざるなり。是の時、鄭当時大農たり。言ひて曰く、「異時、関東の漕粟は渭中より上り、度るに六月にして罷む。而して漕の水道九百余里、時に難処有り。渭を引きて渠を穿ち、長安より起し、南山の下に并ひ、河に至ること三百余里、径にして漕し易く、度るに三月にして罷ましむ可し。而して渠下の民田万余頃、又得て以て田に溉ぐ可し。此れ漕を損し卒を省きて、関中の地を肥やし、穀を得るを益す」と。天子以て然りと為し、斉人の水工徐伯をして表せしめ、悉く卒数万人を発して漕渠を穿ち、三歳にして通ず。通じて以て漕すれば、大いに便利なり。其の後、漕稍々多く、而して渠下の民頗る以て田に溉ぐを得たり。其の後、河東の守番系言ふ、「漕は山東より西し、歳ごとに百余万石、砥柱の限を更て、敗亡甚だ多く、而して亦煩費なり。渠を穿ちて汾を引き皮氏・汾陰の下に溉ぎ、河を引きて汾陰・蒲阪の下に溉げば、度るに五千頃を得可し。
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史記 孝武本紀五月、返りて甘泉に至る。有司言ふ宝鼎出づるを元鼎と為し、今年を以て元封元年と為さんと。其の秋、星有りて東井に茀す。後十余日、星有りて三能に茀す。望気の王朔言ふ、「候ふに独り其の星の出づること瓠の如く、食頃にして復た入るを見る。」と。有司言ひて曰く、「陛下漢家の封禅を建て、天其れ徳星を報ずと云ふ。」と。其の来年冬、雍の五帝に郊し、還りて、拝して泰一を祝祠す。贊饗して曰く、「徳星昭衍し、厥れ維れ休祥なり。寿星仍りて出で、淵耀光明なり。信星昭見す、皇帝敬ひて泰祝の饗を拝す。」と。其の春、公孫卿言ふ神人を東萊山に見る、「天子に見えん」と云ふが若しと。天子是に於て緱氏城に幸し、卿を拝して中大夫と為す。遂に東萊に至り、之に宿留すること数日、見る所毋し、大人の跡を見る。復た方士を遣はして神怪を求め芝薬を采らしむること千を以て数ふ。是の歳旱す。是に於て天子既に出でて名毋し、乃ち万里沙に禱り、過ぎて泰山を祠る。還りて瓠子に至り、自ら臨みて決河を塞ぎ、留まること二日、沈祠して去る。二卿をして卒を将ゐて決河を塞がしめ、河を二渠に徙し、禹の故跡に復す。是の時既に南越を滅ぼす、越人勇之乃ち言ふ「越人の俗鬼を信ず、而して其の祠は皆鬼を見る、数(しばしば)効有り。昔東甌王鬼を敬ひ、寿百六十歳に至る。後世謾怠す、故に衰秏す」と。乃ち越巫をして越祝の祠を立てしむ、台を安んじて壇無し、亦天神上帝百鬼を祠り、而して雞を以て卜す。上之を信ず、越祠の雞卜此より始めて用ゐらる。公孫卿曰く、「僊人見るべし、而して上往くこと常に遽かなり、故を以て見えず。今陛下観を為ること、緱氏城の如くし、脯棗を置かば、神人宜しく致すべし。且つ僊人は楼居を好む。」と。
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史記 河渠書五千頃は故尽く河壖の棄地にして、民、其の中に茭牧するのみ。今之に溉田せば、度るに穀二百万石以上を得可し。穀は渭より上り、関中と異なる無く、而して砥柱の東は復た漕する無かる可し」と。天子以て然りと為し、卒数万人を発して渠田を作る。数歳にして、河移徙し、渠利あらず、則ち田する者種を償ふ能はず。之を久しくして、河東の渠田廃れ、越人に予へ、少府をして以て稍入と為さしむ。其の後、人の上書して褒斜の道及び漕の事を通ぜんと欲する有り、御史大夫張湯に下す。湯、其の事を問ひ、因りて言ふ、「蜀に抵るに故道よりす。故道は阪多く、回遠なり。今、褒斜の道を穿たば、阪少なく、近きこと四百里。而して褒水は沔に通じ、斜水は渭に通ず、皆以て船漕を行ふ可し。漕は南陽より沔を上りて褒に入り、褒の水の絶ゆるより斜に至るまで、間百余里、車を以て転じ、斜より下りて渭に下る。此の如くせば、漢中の穀致す可く、山東は沔よりして限り無く、砥柱の漕より便なり。且つ褒斜の材木・竹箭の饒かなること、巴蜀に擬す」と。天子以て然りと為し、湯の子卬を拝して漢中の守と為し、数万人を発して褒斜の道五百余里を作る。道果して便にして近し。而れども水湍石にして、漕す可からず。其の後、荘熊羆言ふ、「臨晋の民、洛を穿ちて以て重泉以東の万余頃の故鹵地に溉がんことを願ふ。誠に水を得ば、畝ごとに十石ならしむ可し」と。是に於て為に卒万余人を発して渠を穿ち、徴より洛水を引きて商顔山の下に至る。岸善く崩る。乃ち井を鑿つこと、深き者四十余丈。往往に井を為り、井の下相通じて水を行る。水穨れて以て商顔を絶ち、東のかた山嶺に至るまで十余里の間なり。井渠の生ずること此より始まる。渠を穿ちて龍骨を得、故に名づけて龍首渠と曰ふ。之を作ること十余歳、渠頗る通ずるも、猶ほ未だ其の饒を得ず。河、瓠子に決せし後より二十余歳、歳因りて以て数々登らず、而して梁・楚の地尤も甚だし。
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史記 封禅書是に於て天子既に出でて名無し。乃ち万里沙に禱り、過ぎて泰山を祠る。還りて瓠子に至り、自ら臨みて決河を塞ぎ、留まること二日、沈祠して去る。二卿をして卒を将ゐて決河を塞がしめ、二渠を徙し、禹の故跡に復す。是の時既に両越を滅す。越人勇之乃ち言ふ、「越人は鬼を俗とし、而して其の祠皆鬼を見、数々効有り。昔、東甌王、鬼を敬ひ、寿百六十歳。後世怠慢し、故に衰秏す」と。乃ち越巫をして越祝の祠を立てしめ、台を安んじて壇無く、亦天神・上帝・百鬼を祠り、而して鶏を以て卜す。上之を信じ、越祠・鶏卜始めて用ひらる。公孫卿曰く、「僊人は見る可し。而るに上往くこと常に遽かなり、故を以て見えず。今陛下、観を為ること緱城の如くし、脯棗を置けば、神人宜しく致す可し。且つ僊人は楼居を好む」と。是に於て上、長安には則ち蜚廉桂観を作り、甘泉には則ち益延寿観を作らしめ、卿をして節を持して具を設けて神人を候はしむ。乃ち通天茎台を作り、祠具を其の下に置き、将に僊神人の属を招来せんとす。是に於て甘泉に更に前殿を置き、始めて諸々の宮室を広む。夏、芝の殿房の内中に生ずる有り。天子、河を塞ぎ、通天台を興すが為に、光有るを見るが若しと云ふ。乃ち詔を下す、「甘泉の房中に芝九茎を生ず。天下に赦し、復作有る毋からしめよ」と。其の明年、朝鮮を伐つ。夏、旱す。公孫卿曰く、「黄帝の時、封ずれば則ち天旱し、封を乾かすこと三年なり」と。上乃ち詔を下して曰く、「天旱す、意ふに封を乾かすか。其れ天下をして霊星を尊祠せしめよ」と。其の明年、上、雍に郊し、回中の道を通じ、之を巡る。春、鳴沢に至り、西河より帰る。其の明年冬、上、南郡を巡り、江陵に至りて東す。灊の天柱山に登礼し、号して南岳と曰ふ。江に浮かび、尋陽より樅陽に出で、彭蠡を過ぎ、其の名山川を礼す。北のかた瑯邪に至り、海上に并ふ。四月中、奉高に至りて封を修む。
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史記 河渠書太史公曰く、余、南のかた廬山に登り、禹の九江を疏せしを観、遂に会稽の太湟に至り、姑蘇に上りて五湖を望む。東のかた洛汭・大邳を闚ひ、河を迎へ、淮・泗・済・漯・洛の渠を行く。西のかた蜀の岷山及び離碓を瞻る。北のかた龍門より朔方に至る。曰く、甚だしいかな、水の利害を為すや。余、薪を負ひて宣房を塞ぐに従ひ、瓠子の詩を悲しみて河渠書を作る。
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