韓非子 / 十過第十
六曰耽於女樂,不顧國政,則亡國之禍也。七曰離内遠遊而忽於諫士,則危身之道也。
新字:六曰耽於女楽,不顧国政,則亡国之禍也。七曰離内遠遊而忽於諫士,則危身之道也。
書き下し
内を離れて遠遊し、而して諫士を忽せにするは、則ち身を危うくするの道なり。
現代語訳
内部(本拠地)を離れて遠くに遊びに出かけ、諫言する士を軽んじるのは、自らを危険に晒す道である。
解説
田成子が海で遊びに夢中になり、「帰ろうと言う者は殺す」とまで言った時、顔涿聚は「今、国で謀反が起きたらどうするのか」と死を覚悟で諫めました。 田成子はその諫言を受け入れ急いで帰国し、謀反の計画を知りました。 リーダーが現場(内)を離れ、外部での活動(遠遊)にばかり精を出し、現場のリアルな声(諫士)を軽んじると、足元で起きている危機を見逃し、組織を危うくします。
この章句が説くこと
現場主義トップの役割諫言内部統制危機管理
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