武家家訓集 / 北条早雲廿一箇条第20条
一ゆふべには、臺所中居の火の廻り我とみまはり、かたく申付、其外類火の用心をくせになして、毎夜申付べし、女房は高きも賤も、さ樣の心持なく、家財衣裳を取ちらし、由斷多きこと也、人を召仕候共、萬事を人に斗申付べきとおもはず、我とてづからして、樣體をしり、後には人にさするもよきと心得べき也、
新字:一ゆふべには、台所中居の火の廻り我とみまはり、かたく申付、其外類火の用心をくせになして、毎夜申付べし、女房は高きも賤も、さ様の心持なく、家財衣裳を取ちらし、由断多きこと也、人を召仕候共、万事を人に斗申付べきとおもはず、我とてづからして、様体をしり、後には人にさするもよきと心得べき也、
書き下し
一ゆふべには、臺所中居の火の廻り我とみまはり、かたく申付、其外類火の用心をくせになして、毎夜申付べし、女房は高きも賤も、さ樣の心持なく、家財衣裳を取ちらし、由斷多きこと也、人を召仕候共、萬事を人に斗申付べきとおもはず、我とてづからして、樣體をしり、後には人にさするもよきと心得べき也、
現代語訳
夕べには、台所や中居の火の回りを自分で見回り、固く申し付け、そのほか類焼の用心を習慣にして、毎夜申し付けるべきである。女房たちは身分の高い者も低い者も、そのような心がけがなく、家財や衣装を取り散らかし、油断が多いものである。人を召し使っていても、万事を人に任せきりにしようと思ってはならない。自分で手ずからやって様子を知り、その後で人にさせるのがよいと心得るべきである。
解説
夜ごとの火の用心を、自分で見回って申し付けよという条です。ここで強調されるのは、人を使っていても万事を人任せにせず、まず自ら手ずからやって様子を知り、その後に人にさせるのがよい、という点です。途中の女房への言及は当時の家の事情を映したもので、そのまま現代に当てはめる必要はありません。取り出すべきは、現場の実態を知らないまま指示だけを出さない、という姿勢です。管理職は、委ねる前に自分で一度やってみて、勘所を押さえておくことが必要です。
この章句が説くこと
火の用心現場主義委任見回り習慣武家家訓集
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