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史記 / 趙世家

五年,娶韓女爲夫人。八年,韓撃秦,不勝而去。五國相王,趙獨否,曰:「無其實,敢處其名乎!」令國人謂已曰「君」。九年,與韓、魏共撃秦,秦敗我,斬首八萬級。齊敗我觀澤。十年,秦取我中都及西陽。齊破燕。燕相子之爲君,君反爲臣。十一年,王召公子職於韓,立以爲燕王,使樂池送之。十三年,秦拔我藺,虜將軍趙莊。楚、魏王來,過邯鄲。十四年,趙何攻魏。十六年,秦惠王卒。王遊大陵。他日,王夢見處女鼓琴而歌詩曰:「美人熒熒兮,顏若苕之榮。命乎命乎,曾無我嬴!」異日,王飲酒樂,數言所夢,想見其狀。吳廣聞之,因夫人而内其女娃嬴。孟姚也。孟姚甚有寵於王,是爲惠后。十七年,王出九門,爲野臺,以望齊、中山之境。十八年,秦武王與孟説舉龍文赤鼎,絶臏而死。趙王使代相趙固迎公子稷於燕,送歸,立爲秦王,是爲昭王。十九年春正月,大朝信宮。召肥義與議天下,五日而畢。王北略中山之地,至於房子,遂之代,北至無窮,西至河,登黃華之上。

新字:五年,娶韓女為夫人。八年,韓撃秦,不勝而去。五国相王,趙独否,曰:「無其実,敢処其名乎!」令国人謂已曰「君」。九年,与韓、魏共撃秦,秦敗我,斬首八万級。斉敗我観沢。十年,秦取我中都及西陽。斉破燕。燕相子之為君,君反為臣。十一年,王召公子職於韓,立以為燕王,使楽池送之。十三年,秦抜我藺,虜将軍趙荘。楚、魏王来,過邯鄲。十四年,趙何攻魏。十六年,秦恵王卒。王遊大陵。他日,王夢見処女鼓琴而歌詩曰:「美人熒熒兮,顔若苕之栄。命乎命乎,曽無我嬴!」異日,王飲酒楽,数言所夢,想見其状。呉広聞之,因夫人而内其女娃嬴。孟姚也。孟姚甚有寵於王,是為恵后。十七年,王出九門,為野台,以望斉、中山之境。十八年,秦武王与孟説舉竜文赤鼎,絶臏而死。趙王使代相趙固迎公子稷於燕,送帰,立為秦王,是為昭王。十九年春正月,大朝信宮。召肥義与議天下,五日而畢。王北略中山之地,至於房子,遂之代,北至無窮,西至河,登黄華之上。

書き下し

五年、韓の女を娶りて夫人と為す。八年、韓秦を撃つも、勝たずして去る。五国相王とす。趙独り否とし、曰く、「其の実無くして、敢へて其の名に処らんや」と。国人をして己を謂ひて「君」と曰はしむ。九年、韓・魏と共に秦を撃つ。秦我を敗り、首を斬ること八万級。斉我を観沢に敗る。十年、秦我が中都及び西陽を取る。斉燕を破る。燕の相子之君と為り、君反りて臣と為る。十一年、王公子職を韓より召し、立てて以て燕王と為し、楽池をして之を送らしむ。十三年、秦我が藺を抜き、将軍趙荘を虜にす。楚・魏の王来り、邯鄲を過る。十四年、趙何魏を攻む。十六年、秦の恵王卒す。王大陵に遊ぶ。他日、王夢に処女の琴を鼓して詩を歌ふを見る。曰く、「美人熒熒たり、顔は苕の栄の若し。命なるかな命なるかな、曾て我が嬴無し」と。異日、王酒を飲みて楽しみ、数々夢みし所を言ひ、其の状を想見す。呉広之を聞き、夫人に因りて其の女娃嬴を内る。孟姚なり。孟姚甚だ王に寵有り、是を恵后と為す。十七年、王九門に出で、野台を為り、以て斉・中山の境を望む。十八年、秦の武王孟説と龍文の赤鼎を挙げ、臏を絶ちて死す。趙王、代の相趙固をして公子稷を燕に迎へしめ、送り帰して、立てて秦王と為す、是を昭王と為す。十九年春正月、大いに信宮に朝す。肥義を召して与に天下を議し、五日にして畢る。王北のかた中山の地を略し、房子に至り、遂に代に之き、北のかた無窮に至り、西のかた河に至り、黄華の上に登る。

現代語訳

五年、韓の娘を娶って夫人とした。八年、韓が秦を攻めたが、勝てずに退いた。五つの国が互いに王と称し合ったが、趙だけはそれに加わらず、「王としての実力もないのに、その名を名乗れようか」と言って、国の人々に自分のことを「君」と呼ばせた。九年、韓・魏と共に秦を攻めたが、秦はわが軍を破り、八万の首を斬った。斉がわが軍を観沢(かんたく)で破った。十年、秦がわが中都と西陽を取った。斉が燕を破った。燕の宰相子之(しし)が君主となり、君主が逆に臣下となった。十一年、王は公子職(しょく)を韓から呼び寄せ、燕王に立てて、楽池(がくち)に送り届けさせた。十三年、秦がわが藺を攻め落とし、将軍の趙荘(ちょうそう)を捕虜にした。楚と魏の王が来て、邯鄲に立ち寄った。十四年、趙何(ちょうか)が魏を攻めた。十六年、秦の恵王が死んだ。王は大陵に遊んだ。ある日、王は夢で、一人の乙女が琴を弾きながら詩を歌うのを見た。「美しい人は輝くばかり、その顔はのうぜんかずらの花のよう。運命よ、運命よ、わが嬴(えい)を知る人はいない」。別の日、王は酒を飲んで楽しみ、何度もその夢の話をして、乙女の姿を思い描いた。呉広(ごこう)がこれを聞き、夫人を通じて自分の娘の娃嬴(あいえい)を後宮に入れた。これが孟姚である。孟姚は王にたいへん寵愛され、恵后となった。十七年、王は九門(きゅうもん)に出かけて物見台を築き、斉と中山の国境を眺めた。十八年、秦の武王が孟説(もうえつ)と龍の模様のある赤い鼎を持ち上げる力比べをし、すねの骨を折って死んだ。趙王は代の宰相の趙固(ちょうこ)に公子稷(しょく)を燕から迎えさせ、秦に送り帰して王に立てた。これが(秦の)昭王である。十九年の春正月、信宮で盛大な朝会を開いた。肥義を呼んで共に天下の情勢を議論し、五日間で終えた。王は北へ中山の地を攻略して房子に至り、さらに代に行き、北は無窮(むきゅう)に至り、西は黄河に至って、黄華(こうか)山の上に登った。

解説

武霊王の治世前半の記録です。他の五国が互いに王号を称し合う中、趙だけは「実力がないのに名だけ名乗れるか」と断り、君と呼ばせました。名より実を重んじる姿勢が、のちの改革の土台となります。この時期の趙は秦に大敗し、領土を奪われて苦しんでいました。一方で燕の内乱に介入して公子職を燕王に立て、秦の武王が鼎を持ち上げて死ぬと、燕にいた公子稷を送り返して秦の昭王に立てるなど、他国の君主の擁立にまで関わる外交力を見せています。夢に見た乙女が孟姚として後宮に入る話は、趙簡子の時代に天帝が予言した孟姚との縁を回収する場面です。王が肥義と五日間天下を論じ、自ら北方を巡視して黄華山に登る場面は、次の胡服騎射の決断への前奏となっています。

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