史記 / 趙世家
召樓緩謀曰:「我先王因世之變,以長南藩之地,屬阻漳、滏之險,立長城,又取藺、郭狼,敗林人於荏,而功未遂。今中山在我腹心,北有燕,東有胡,西有林胡、樓煩、秦、韓之邊,而無彊兵之救,是亡社稷,柰何?夫有髙世之名,必有遺俗之累。吾欲胡服。」樓緩曰:「善。」群臣皆不欲。
新字:召楼緩謀曰:「我先王因世之変,以長南藩之地,属阻漳、滏之険,立長城,又取藺、郭狼,敗林人於荏,而功未遂。今中山在我腹心,北有燕,東有胡,西有林胡、楼煩、秦、韓之辺,而無彊兵之救,是亡社稷,柰何?夫有高世之名,必有遺俗之累。吾欲胡服。」楼緩曰:「善。」群臣皆不欲。
書き下し
武霊王曰く、「今中山我が腹心に在り、北に燕有り、東に胡有り、西に林胡・楼煩・秦・韓の辺有り、而して彊兵の救無し、是れ社稷を亡ふなり、柰何。夫れ高世の名有るは、必ず遺俗の累有り。吾胡服せんと欲す」と。楼緩曰く、「善し」と。群臣皆欲せず。
現代語訳
武霊王は言った。「今、中山は我が国の腹心の地に食い込んでおり、北には燕、東には胡、西には林胡・楼煩・秦・韓の国境がある。それでいて強い兵の援けがない。これでは国家を失うことになる。どうすればよいか。そもそも世に抜きん出た名を成すには、必ず旧習を破ったという非難を背負うものだ。私は胡服を採り入れたい」。楼緩は「結構です」と言った。しかし群臣はみな乗り気でなかった。
解説
「時代を抜きん出た成果を求めるなら、慣習を破る非難を、必ず背負う覚悟がいる」——趙の武霊王が、「胡服騎射」の大改革に踏み切った、その決意を描いた一段です。趙の武霊王は、自国の、危機的な状況を、冷静に、分析していました。「今、(敵国の)中山が、我が国の、腹心(の急所)に、食い込んでいる。北には燕、東には胡、西には林胡・楼煩・秦・韓と、(四方を、)敵に、取り囲まれている。それなのに、(我が国には、)頼りになる、強力な軍隊が、ない。このままでは、国家は、滅びてしまう。どうすれば、よいのか」と。そして、彼が、たどり着いた結論は——当時の常識では、考えられない、大胆なものでした。「胡服(=北方の遊牧民である、胡の、活動的な服装を採用し、その、騎馬による弓射の戦法を、取り入れること)を、実行したい(吾欲胡服)」というのです。中華の伝統的な、(ゆったりとした、袖の長い)衣装と、(旧式の)戦車戦法を、捨て、(当時、「野蛮」と、見下していた、)異民族の、機能的な服装と、騎馬戦法を、全面的に、導入する——これは、伝統と、面子を、根底から、覆す、革命的な改革でした。当然、猛烈な反発が、予想されます。武霊王は、その改革を、宣言するにあたり、こう、覚悟を、述べました。「そもそも——時代を抜きん出た、高い名声(高世之名)を、成し遂げようとする者は、必ず、(世間の)慣習に、背くことによる、(非難という、)累(わずらい)を、背負わねばならないのだ(必有遺俗之累)」と。案の定、(賛同したのは、楼緩、ただ一人で、)「家臣たちは、皆、(この改革を、)望まなかった(群臣皆不欲)」のです。ここに、改革の覚悟についての教訓があります。第一に、時代を抜きん出た、大きな成果を、成し遂げようとするなら——必ず、既存の慣習や、常識を、破ることになり、そのために、周囲からの、非難や、反発を、背負う覚悟が、要るということ(有高世之名、必有遺俗之累)。誰にも、非難されずに、成し遂げられる改革など、(たいした改革では)ない。第二に、そして、真に必要な改革であれば——たとえ、「家臣が、皆、望まない(群臣皆不欲)」という、圧倒的な反対の中でも、断行する、リーダーの、強い意志。周囲の賛同を、待っていては、時機を逸する。第三に、その改革の根拠は、(好みや思いつきではなく、)冷静な、現状の危機分析にあること(四方を敵に囲まれ、強兵がない)。組織や改革で、大きな成果には必ず慣習を破る非難を背負う覚悟が要ると知ること、圧倒的な反対の中でも真に必要な改革を断行する意志を持つこと、そして改革の根拠を冷静な危機分析に置くこと——武霊王の「胡服」宣言は、改革者の覚悟を教えます。
この章句が説くこと
趙武霊王胡服騎射有高世之名必有遺俗之累慣習を破る非難を背負う覚悟群臣皆不欲圧倒的な反対の中で断行
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史記 趙世家是に於て肥義侍す。王曰く、「簡・襄主の烈は、胡・翟の利を計る。人臣為る者は、寵せらるれば孝弟長幼順明の節有り、通ずれば民を補ひ主を益するの業有り。此の両者は臣の分なり。今吾襄主の跡を継ぎ、胡・翟の郷を開かんと欲するも、而も世を卒ふるまで見ざるなり。敵を弱むる為には、力を用ふること少なくして功多し。以て百姓の労を尽くすこと毋くして、往古の勲を序づべし。夫れ高世の功有る者は、遺俗の累を負ひ、独智の慮有る者は、驁民の怨みに任ず。今吾将に胡服騎射して以て百姓に教へんとす。而して世必ず寡人を議せん。奈何」と。肥義曰く、「臣聞く、疑事は功無く、疑行は名無しと。王既に遺俗に負くの慮を定めたり。殆ど天下の議を顧みること無からん。夫れ至徳を論ずる者は俗に和せず、大功を成す者は衆に謀らず。昔者舜は有苗に舞ひ、禹は裸国に袒ぐ。以て欲を養ひて志を楽しましむるに非ず、務めて以て徳を論じて功を約するなり。愚者は成事に闇く、智者は未形を睹る。則ち王何をか疑はん」と。王曰く、「吾胡服を疑はざるなり。吾天下の我を笑はんことを恐るるなり。狂夫の楽しみは、智者哀しむ。愚者の笑ふ所は、賢者察す。世に我に順ふ者有らば、胡服の功未だ知るべからざるなり。世を駆りて以て我を笑ふと雖も、胡地・中山は吾必ず之を有たん」と。是に於て遂に胡服す。王紲をして公子成に謂はしめて曰く、「寡人胡服して、将に以て朝せんとす。亦叔の之を服せんことを欲す。家は親に聴き、国は君に聴くは、古今の公行なり。子は親に反かず、臣は君に逆らはざるは、兄弟の通義なり。今寡人教へを作して服を易ふるに、而も叔服せずんば、吾天下の之を議せんことを恐るるなり。国を制するに常有り、民を利するを本と為す。政に従ふに経有り、令の行はるるを上と為す。徳を明らかにするには先づ賤に論じ、政を行ふには先づ貴に信ぜらる。
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史記 趙世家故に去就の変は、智者も一にすること能はず。遠近の服は、賢聖も同じくすること能はず。窮郷は異多く、曲学は辯多し。知らずして疑はず、己に異なりて非とせざる者は、公にして衆く善を尽くすことを求むるなり。今叔の言ふ所の者は俗なり。吾の言ふ所の者は俗を制する所以なり。吾が国は東に河・薄洛の水有り、斉・中山と之を同じくす。舟楫の用無し。常山より以て代・上党に至るまで、東に燕・東胡の境有り、而して西に楼煩・秦・韓の辺有り。今騎射の備へ無し。故に寡人、舟楫の用無ければ、夾水居の民、将に何を以てか河・薄洛の水を守らん。服を変じて騎射し、以て燕・三胡・秦・韓の辺に備へん。且つ昔者簡主は晋陽を塞がずして以て上党に及び、而して襄主は戎を并せ代を取りて以て諸胡を攘ふ。此れ愚智の明らかにする所なり。先時中山、斉の彊兵を負ひ、吾が地を侵暴し、吾が民を系累し、水を引きて鄗を囲む。社稷の神霊微かりせば、則ち鄗幾んど守らざらん。先王之を丑とし、而して怨み未だ報ゆること能はず。今騎射の備へは、近くは以て上党の形を便にすべく、而して遠くは以て中山の怨みに報ゆべし。而るに叔中国の俗に順ひて以て簡・襄の意に逆らひ、変服の名を悪みて以て鄗の事の丑を忘る。寡人の望む所に非ざるなり」と。公字成再拝稽首して曰く、「臣愚にして、王の義に達せず、敢へて世俗の聞を道ふ。臣の罪なり。今王将に簡・襄の意を継ぎて以て先王の志に順はんとす。臣敢へて命を聴かざらんや」と。再拝稽首す。乃ち胡服を賜ふ。明日、服して朝す。是に於て始めて胡服の令を出だす。趙文・趙造・周袑・趙俊皆王を諫止して胡服する毋く、故法の便なるが如くせよと。
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史記 趙世家王曰く、「齊民は俗と流れ、賢者は変と俱にす。故に諺に曰く、『書を以て御する者は馬の情を尽くさず、古を以て今を制する者は事の変に達せず』と。法に循ふの功は、以て世に高きに足らず、古に法るの学は、以て今を制するに足らず」と。
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『長短経』是非趙の武霊王、胡服せんと欲す。公子成、悦ばず。霊王曰く「夫れ服なる者は国を使う所以、礼なる者は事を使う所以なり。聖人は郷を観て宜しきに順い、事に因りて礼を制す。其の人を利して其の国を厚くする所以なり。夫れ髪を剪り身に文し、臂を錯え左袵するは、越に臨むの人なり。歯を黒くし題を雕り、鯷冠秫縫するは、大呉の国なり。故に礼服は同じきこと莫くして、其の便は一なり。郷異なれば用変じ、事異なれば礼易わる。是を以て聖人は、以て其の国を利す可きを謀りて、其の用を一にせず。以て其の礼を便にす可きを謀りて、其の故に法らず。儒者は一師にして俗を異にし、中国は礼を同じくして教を離る。況んや山谷の便に於てをや。故に去就の変は、智者も一にする能わず。遠邇の服は、賢聖も同じくする能わず。窮郷には異俗多く、曲学には殊弁多し。今、叔父の言は俗なり。吾の言う所は、以て俗を制するなり。叔父は変服の名を悪みて、以て事に効すの実を忘る。寡人の望む所に非ざるなり」と。公子成、遂に胡服す。
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史記 趙世家今胡服の意は、以て欲を養ひて志を楽しましむるに非ざるなり。事に止まる所有りて功に出づる所有り、事成り功立ちて、然る後に善きなり。今寡人、叔の政に従ふの経に逆らはんことを恐れ、以て叔の議を輔く。且つ寡人之を聞く、事の国を利する者は行ひに邪無く、貴戚に因る者は名累はされずと。故に願はくは公叔の義を慕ひ、以て胡服の功を成さん。紲をして之を叔に謁せしむ。請ふ服せよ」と。公子成再拝稽首して曰く、「臣固より王の胡服を聞けり。臣不佞にして、寝疾し、未だ趨走して以て滋々進むこと能はず。王之を命ず。臣敢へて対へ、因りて其の愚忠を竭くさん。曰く、臣聞く、中国は、蓋し聡明徇智の居る所なり、万物財用の聚まる所なり、賢聖の教ふる所なり、仁義の施す所なり、詩書礼楽の用ふる所なり、異敏技能の試みる所なり、遠方の観赴する所なり、蛮夷の義として行ふ所なりと。今王此を捨てて遠方の服を襲ひ、古の教へを変じ、古人の道を易へ、人の心に逆らひて、学者に怫り、中国に離る。故に臣願はくは王之を図れ」と。使者以て報ず。王曰く、「吾固より叔の疾を聞けり。我将に自ら往きて之に請はんとす」と。王遂に往きて公子成の家に之き、因りて自ら之に請ひて曰く、「夫れ服は、用を便にする所以なり。礼は、事を便にする所以なり。聖人は郷を観て宜しきに順ひ、事に因りて礼を制す。其の民を利して其の国を厚くする所以なり。夫れ髪を翦り身に文し、臂に錯して衽を左にするは、甌越の民なり。歯を黒くし題に雕り、冠を卻にして秫絀なるは、大呉の国なり。故に礼服同じき莫きも、其の便は一なり。郷異なれば用変じ、事異なれば礼易はる。是を以て聖人は果たして以て其の国を利すべくんば、其の用を一にせず。果たして以て其の事を便にすべくんば、其の礼を同じくせず。儒者は師を一にして俗異なり、中国は礼を同じくして教へ離る。況んや山谷の便に於てをや。
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