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史記 / 趙世家

十九年,與齊、宋會平陸,與燕會阿。二十年,魏獻榮椽,因以爲檀臺。二十一年,魏圍我邯鄲。二十二年,魏惠王拔我邯鄲,齊亦敗魏於桂陵。二十四年,魏歸我邯鄲,與魏盟漳水上。秦攻我藺。二十五年,成侯卒。公子紲太子肅侯爭立,紲敗亡奔韓。肅侯元年,奪晉君端氏,徙處屯留。二年,與魏惠王遇於陰晉。三年,公子范襲邯鄲,不勝而死。四年,朝天子。六年,攻齊,拔髙唐。七年,公子刻攻魏首垣。十一年,秦孝公使商君伐魏,虜其將公子卬。趙伐魏。十二年,秦孝公卒,商君死。十五年,起壽陵。魏惠王卒。十六年,肅侯游大陵,出於鹿門,大戊午扣馬曰:「耕事方急,一日不作,百日不食。」肅侯下車謝。十七年,圍魏黃,不克。築長城。十八年,齊、魏伐我,我決河水灌之,兵去。二十二年,張儀相秦。趙疵與秦戰,敗,秦殺疵河西,取我藺、離石。二十三年,韓舉與齊、魏戰,死于桑丘。二十四年,肅侯卒。秦、楚、燕、齊、魏出鋭師各萬人來會葬。子武靈王立。武靈王元年,陽文君趙豹相。梁襄王與太子嗣,韓宣王與太子倉來朝信宮。武靈王少,未能聽政,博聞師三人,左右司過三人。及聽政,先問先王貴臣肥義,加其秩;國三老年八十,月致其禮。三年,城鄗。四年,與韓會于區鼠。

新字:十九年,与斉、宋会平陸,与燕会阿。二十年,魏献栄椽,因以為檀台。二十一年,魏囲我邯鄲。二十二年,魏恵王抜我邯鄲,斉亦敗魏於桂陵。二十四年,魏帰我邯鄲,与魏盟漳水上。秦攻我藺。二十五年,成侯卒。公子紲太子粛侯争立,紲敗亡奔韓。粛侯元年,奪晋君端氏,徙処屯留。二年,与魏恵王遇於陰晋。三年,公子范襲邯鄲,不勝而死。四年,朝天子。六年,攻斉,抜高唐。七年,公子刻攻魏首垣。十一年,秦孝公使商君伐魏,虜其将公子卬。趙伐魏。十二年,秦孝公卒,商君死。十五年,起寿陵。魏恵王卒。十六年,粛侯游大陵,出於鹿門,大戊午扣馬曰:「耕事方急,一日不作,百日不食。」粛侯下車謝。十七年,囲魏黄,不克。築長城。十八年,斉、魏伐我,我決河水灌之,兵去。二十二年,張儀相秦。趙疵与秦戦,敗,秦殺疵河西,取我藺、離石。二十三年,韓舉与斉、魏戦,死于桑丘。二十四年,粛侯卒。秦、楚、燕、斉、魏出鋭師各万人来会葬。子武霊王立。武霊王元年,陽文君趙豹相。梁襄王与太子嗣,韓宣王与太子倉来朝信宮。武霊王少,未能聴政,博聞師三人,左右司過三人。及聴政,先問先王貴臣肥義,加其秩;国三老年八十,月致其礼。三年,城鄗。四年,与韓会于区鼠。

書き下し

十九年、斉・宋と平陸に会し、燕と阿に会す。二十年、魏栄椽を献ず。因りて以て檀台と為す。二十一年、魏我が邯鄲を囲む。二十二年、魏の恵王我が邯鄲を抜く。斉も亦魏を桂陵に敗る。二十四年、魏我に邯鄲を帰し、魏と漳水の上に盟ふ。秦我が藺を攻む。二十五年、成侯卒す。公子紲、太子粛侯と立つを争ふ。紲敗れて亡げて韓に奔る。粛侯元年、晋君の端氏を奪ひ、徙して屯留に処らしむ。二年、魏の恵王と陰晋に遇ふ。三年、公子范邯鄲を襲ふも、勝たずして死す。四年、天子に朝す。六年、斉を攻め、高唐を抜く。七年、公子刻魏の首垣を攻む。十一年、秦の孝公、商君をして魏を伐たしめ、其の将公子卬を虜にす。趙魏を伐つ。十二年、秦の孝公卒し、商君死す。十五年、寿陵を起こす。魏の恵王卒す。十六年、粛侯大陵に游び、鹿門より出づ。大戊午馬を扣へて曰く、「耕事方に急なり。一日作さずんば、百日食らはず」と。粛侯車を下りて謝す。十七年、魏の黄を囲むも、克たず。長城を築く。十八年、斉・魏我を伐つ。我河水を決して之に灌ぐ。兵去る。二十二年、張儀秦に相たり。趙疵秦と戦ひ、敗る。秦疵を河西に殺し、我が藺・離石を取る。二十三年、韓挙斉・魏と戦ひ、桑丘に死す。二十四年、粛侯卒す。秦・楚・燕・斉・魏、鋭師各々万人を出だして来りて葬に会す。子武霊王立つ。武霊王元年、陽文君趙豹相たり。梁の襄王と太子嗣、韓の宣王と太子倉、来りて信宮に朝す。武霊王少く、未だ政を聴くこと能はず。博聞の師三人、左右の司過三人あり。政を聴くに及び、先づ先王の貴臣肥義に問ひ、其の秩を加ふ。国の三老の年八十なるものには、月ごとに其の礼を致す。三年、鄗に城く。四年、韓と区鼠に会す。

現代語訳

十九年、斉・宋と平陸(へいりく)で会見し、燕と阿で会見した。二十年、魏が立派な垂木を献上したので、それを用いて檀台(だんだい)を建てた。二十一年、魏がわが邯鄲を包囲した。二十二年、魏の恵王がわが邯鄲を攻め落とした。斉もまた魏を桂陵(けいりょう)で破った。二十四年、魏がわが国に邯鄲を返還し、魏と漳水のほとりで盟約を結んだ。秦がわが藺を攻めた。二十五年、成侯が死んだ。公子紲(せつ)が太子の粛侯と君位を争ったが、紲は敗れて韓に逃れた。粛侯の元年、晋君から端氏の地を奪い、屯留(とんりゅう)に移らせた。二年、魏の恵王と陰晋(いんしん)で会見した。三年、公子范(はん)が邯鄲を襲ったが、勝てずに死んだ。四年、周の天子に朝見した。六年、斉を攻め、高唐を攻め落とした。七年、公子刻(こく)が魏の首垣(しゅえん)を攻めた。十一年、秦の孝公が商君(商鞅)に魏を討たせ、魏の将の公子卬(こう)を捕虜にした。趙も魏を討った。十二年、秦の孝公が死に、商君も死んだ。十五年、寿陵(生前に造る自分の陵墓)の造営を始めた。魏の恵王が死んだ。十六年、粛侯が大陵(だいりょう)に遊びに出かけようとして、鹿門から出た。大戊午(たいぼご)が馬の手綱を押さえて言った。「今は耕作がまさに忙しい時期である。一日働かなければ、百日食べられなくなる」。粛侯は車から降りて詫びた。十七年、魏の黄を包囲したが、勝てなかった。長城を築いた。十八年、斉と魏がわが国を討った。わが国は黄河の堤を切って敵軍に水を注ぎ、敵兵は去った。二十二年、張儀が秦の宰相となった。趙疵(ちょうし)が秦と戦って敗れ、秦は趙疵を河西で殺し、わが藺・離石(りせき)を取った。二十三年、韓挙(かんきょ)が斉・魏と戦い、桑丘(そうきゅう)で死んだ。二十四年、粛侯が死んだ。秦・楚・燕・斉・魏がそれぞれ精鋭の兵一万人を出して葬儀に参列した。子の武霊王が立った。武霊王の元年、陽文君趙豹(ちょうひょう)が宰相となった。梁(魏)の襄王と太子嗣(し)、韓の宣王と太子倉(そう)が信宮(しんきゅう)に来朝した。武霊王は幼く、まだ政治を執ることができなかったので、博識の師三人と、左右で過失を正す役三人がついた。自ら政治を執るようになると、まず先王の重臣である肥義(ひぎ)に意見を求め、その俸禄を増やした。国の三老で八十歳になる者には、毎月贈り物を届けた。三年、鄗(こう)に城を築いた。四年、韓と区鼠(くそ)で会見した。

解説

成侯の晩年から粛侯の治世、そして武霊王の即位までの記録です。魏に都の邯鄲を奪われ、斉が桂陵で魏を破って救われた出来事は、兵法家孫臏の「囲魏救趙」の故事として知られています。秦では商鞅が活躍し、張儀が宰相になるなど、西の秦が台頭していく時代です。粛侯が遊びに出ようとしたとき、大戊午が馬の手綱を押さえて「一日耕さなければ百日食えない」と諫め、粛侯が車を降りて詫びた話は、君主の遊興を戒めた短い逸話として印象に残ります。粛侯の葬儀に五か国が一万人ずつの精兵を送ったのは、弔問というより威嚇であったとも読めます。幼くして即位した武霊王は、師と諫め役に囲まれて育ち、親政を始めるとまず先王の重臣肥義を重んじ、老人を敬いました。新しいリーダーが最初に誰の話を聞くかが、その後を左右することがうかがえます。

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