師導古典を学びたいすべての人に

史記 / 趙世家

簡子與陽虎送衞太子蒯聵于衞,衞不内,居戚。晉定公二十一年,簡子拔邯鄲,中行文子奔柏人。簡子又圍柏人,中行文子、范昭子遂奔齊。趙竟有邯鄲、柏人。范、中行餘邑入于晉。趙名晉卿,實專晉權,奉邑侔於諸侯。晉定公三十年,定公與吳王夫差爭長於黃池,趙簡子從晉定公,卒長吳。定公三十七年卒,而簡子除三年之喪,期而已。是歳,越王句踐滅吳。晉出公十一年,知伯伐鄭。趙簡子疾,使太子毋卹將而圍鄭。知伯醉,以酒灌撃毋卹。毋卹群臣請死之。毋卹曰:「君所以置毋卹,爲能忍訽。」然亦慍知伯。知伯歸,因謂簡子,使廢毋卹,簡子不聽。毋卹由此怨知伯。晉出公十七年,簡子卒,太子毋卹代立,是爲襄子。趙襄子元年,越圍吳。襄子降喪食,使楚隆問吳王。襄子姊前爲代王夫人。簡子旣葬,未除服,北登夏屋,請代王。使廚人操銅枓以食代王及從者,行斟,陰令宰人各以枓撃殺代王及從官,遂興兵平代地。其姊聞之,泣而呼天,摩笄自殺。代人憐之,所死地名之爲摩笄之山。遂以代封伯魯子周爲代成君。伯魯者,襄子兄,故太子。太子蚤死,故封其子。襄子立四年,知伯與趙、韓、魏盡分其范、中行故地。晉出公怒,告齊、魯,欲以伐四卿。

新字:簡子与陽虎送衛太子蒯聵于衛,衛不内,居戚。晋定公二十一年,簡子抜邯鄲,中行文子奔柏人。簡子又囲柏人,中行文子、范昭子遂奔斉。趙竟有邯鄲、柏人。范、中行余邑入于晋。趙名晋卿,実専晋権,奉邑侔於諸侯。晋定公三十年,定公与呉王夫差争長於黄池,趙簡子従晋定公,卒長呉。定公三十七年卒,而簡子除三年之喪,期而已。是歳,越王句践滅呉。晋出公十一年,知伯伐鄭。趙簡子疾,使太子毋卹将而囲鄭。知伯酔,以酒灌撃毋卹。毋卹群臣請死之。毋卹曰:「君所以置毋卹,為能忍訽。」然亦慍知伯。知伯帰,因謂簡子,使廃毋卹,簡子不聴。毋卹由此怨知伯。晋出公十七年,簡子卒,太子毋卹代立,是為襄子。趙襄子元年,越囲呉。襄子降喪食,使楚隆問呉王。襄子姊前為代王夫人。簡子既葬,未除服,北登夏屋,請代王。使廚人操銅枓以食代王及従者,行斟,陰令宰人各以枓撃殺代王及従官,遂興兵平代地。其姊聞之,泣而呼天,摩笄自殺。代人憐之,所死地名之為摩笄之山。遂以代封伯魯子周為代成君。伯魯者,襄子兄,故太子。太子蚤死,故封其子。襄子立四年,知伯与趙、韓、魏尽分其范、中行故地。晋出公怒,告斉、魯,欲以伐四卿。

書き下し

簡子、陽虎と衛の太子蒯聵を衛に送る。衛内れず、戚に居る。晋の定公二十一年、簡子邯鄲を抜く。中行文子柏人に奔る。簡子又柏人を囲む。中行文子・范昭子遂に斉に奔る。趙竟に邯鄲・柏人を有つ。范・中行の余邑晋に入る。趙は名は晋の卿なるも、実は晋の権を専らにし、奉邑は諸侯に侔し。晋の定公三十年、定公、呉王夫差と長を黄池に争ふ。趙簡子晋の定公に従ひ、卒に呉に長たり。定公三十七年に卒す。而して簡子三年の喪を除き、期のみ。是の歳、越王句践呉を滅ぼす。晋の出公十一年、知伯鄭を伐つ。趙簡子疾む。太子毋卹をして将として鄭を囲ましむ。知伯酔ひ、酒を以て毋卹に灌ぎ撃つ。毋卹の群臣之に死せんことを請ふ。毋卹曰く、「君の毋卹を置く所以は、能く訽を忍ぶが為なり」と。然れども亦知伯を慍む。知伯帰り、因りて簡子に謂ひ、毋卹を廃せしめんとす。簡子聴かず。毋卹此に由りて知伯を怨む。晋の出公十七年、簡子卒し、太子毋卹代はりて立つ、是を襄子と為す。趙襄子の元年、越呉を囲む。襄子喪食を降し、楚隆をして呉王を問はしむ。襄子の姊前に代王の夫人為り。簡子既に葬られ、未だ服を除かず、北のかた夏屋に登り、代王を請ふ。廚人をして銅枓を操りて以て代王及び従者に食はしめ、行斟して、陰かに宰人をして各々枓を以て代王及び従官を撃殺せしめ、遂に兵を興して代の地を平ぐ。其の姊之を聞き、泣きて天を呼び、笄を摩して自殺す。代人之を憐み、死せし所の地を之に名づけて摩笄の山と為す。遂に代を以て伯魯の子周を封じて代の成君と為す。伯魯は襄子の兄、故の太子なり。太子蚤く死す、故に其の子を封ず。襄子立ちて四年、知伯、趙・韓・魏と尽く其の范・中行の故地を分つ。晋の出公怒り、斉・魯に告げ、以て四卿を伐たんと欲す。

現代語訳

簡子は陽虎とともに衛の太子蒯聵(かいがい)を衛に送り届けた。衛は太子を受け入れなかったので、太子は戚(せき)に住んだ。晋の定公の二十一年、簡子は邯鄲を攻め落とした。中行文子は柏人(はくじん)に逃れた。簡子はさらに柏人を包囲した。中行文子と范昭子はついに斉に逃れた。趙はこうして邯鄲と柏人を手に入れた。范氏・中行氏の残りの邑は晋の公室に入った。趙は名目上は晋の卿であったが、実際は晋の権力を独占し、その領地は諸侯に匹敵した。晋の定公の三十年、定公は黄池で呉王夫差と盟主の座を争った。趙簡子は晋の定公に従い、結局呉を盟主とした。定公は三十七年に死んだ。簡子は三年の喪を短縮し、一年だけで済ませた。この年、越王句践が呉を滅ぼした。晋の出公の十一年、知伯が鄭を討った。趙簡子は病気だったので、太子の毋卹に将として鄭を包囲させた。知伯は酒に酔って、毋卹に酒を浴びせかけ、殴りつけた。毋卹の家臣たちは知伯と刺し違えたいと願った。毋卹は言った。「父君がわたしを後継ぎにされたのは、辱めに耐えることができるからだ」。しかし内心では知伯を恨んだ。知伯は帰ると、簡子に毋卹を廃するよう言ったが、簡子は聞き入れなかった。毋卹はこれによって知伯を恨んだ。晋の出公の十七年、簡子が死に、太子の毋卹が代わって立った。これが襄子である。趙襄子の元年、越が呉を包囲した。襄子は喪中の食事をさらに減らし、楚隆(そりゅう)を遣わして呉王を見舞わせた。襄子の姉は以前、代の王の夫人になっていた。簡子を葬った後、まだ喪服を脱がないうちに、襄子は北の夏屋(かおく)山に登り、代王を招いた。料理人に銅の柄杓を持たせて代王と従者たちに食事を供させ、酒を注いで回る間に、ひそかに料理人たちにそれぞれ柄杓で代王と従者を撃ち殺させ、そのまま兵を起こして代の地を平定した。襄子の姉はこれを聞くと、泣いて天を呼び、笄(こうがい)を研いで自殺した。代の人々は彼女を哀れみ、死んだ場所を摩笄(まけい)の山と名づけた。襄子は代を伯魯の子の周(しゅう)に与えて代の成君とした。伯魯は襄子の兄で、もとの太子である。その太子は早くに死んだので、その子を封じたのである。襄子が立って四年、知伯は趙・韓・魏とともに范氏・中行氏の旧領をすべて分け取った。晋の出公は怒り、斉と魯に告げて四卿を討とうとした。

解説

趙簡子の晩年から襄子の即位初期にかけての段です。簡子は范氏・中行氏を追い落として邯鄲と柏人を手に入れ、名目は晋の卿ながら諸侯並みの力を持つに至りました。後継ぎの毋卹は、知伯に酒を浴びせられ殴られても、辱めに耐えられるから父に選ばれたのだと言って家臣を抑えますが、恨みは胸に刻みます。この恨みが、のちの晋陽の戦いで知伯を滅ぼす伏線となります。即位した襄子は、喪も明けないうちに姉の夫である代王を宴に招き、銅の柄杓で撃ち殺して代を奪いました。姉が笄を研いで自殺した摩笄山の話は、その非情さを際立たせます。一方で代の地は、廃された兄伯魯の子に与えました。屈辱を耐える胆力と、目的のためには肉親の情をも踏み越える冷酷さが同居する人物像は、権力の本質を考えさせます。

関連する章句

古典の入門書『人生の教科書』の表紙

人生の答えは、ぜんぶ古典に書いてあった。

古典の入門書『人生の教科書』(PDF)と、師導の全機能1か月がセットで700円。二十四の悩みに、論語・老子・孫子から徒然草・五輪書までが答えます。

本の中身を見る
古典の入門書『人生の教科書』(PDF)+師導1か月=700円 本を見る