史記 / 趙世家
晉君使籍秦圍邯鄲。荀寅、范吉射與午善,不肯助秦而謀作亂,董安于知之。十月,范、中行氏伐趙鞅,鞅奔晉陽,晉人圍之。范吉射、荀寅仇人魏襄等謀逐荀寅,以梁嬰父代之;逐吉射,以范皋繹代之。荀櫟言於晉侯曰:「君命大臣,始亂者死。今三臣始亂而獨逐鞅,用刑不均,請皆逐之。」十一月,荀櫟、韓不佞、魏哆奉公命以伐范、中行氏,不克。范、中行氏反伐公,公撃之,范、中行敗走。丁未,二子奔朝歌。韓、魏以趙氏爲請。十二月辛未,趙鞅入絳,盟于公宮。其明年,知伯文子謂趙鞅曰:「范、中行雖信爲亂,安于發之,是安于與謀也。晉國有法,始亂者死。夫二子已伏罪而安于獨在。」趙鞅患之。安于曰:「臣死,趙氏定,晉國寧,吾死晩矣。」遂自殺。趙氏以告知伯,然後趙氏寧。孔子聞趙簡子不請晉君而執邯鄲午,保晉陽,故書春秋曰「趙鞅以晉陽畔」。趙簡子有臣曰周舍,好直諫。周舍死,簡子毎聽朝,常不悅,大夫請罪。簡子曰:「大夫無罪。吾聞千羊之皮不如一狐之腋。諸大夫朝,徒聞唯唯,不聞周捨之鄂鄂,是以憂也。」簡子由此能附趙邑而懷晉人。晉定公十八年,趙簡子圍范、中行于朝歌,中行文子奔邯鄲。明年,衞靈公卒。
新字:晋君使籍秦囲邯鄲。荀寅、范吉射与午善,不肯助秦而謀作乱,董安于知之。十月,范、中行氏伐趙鞅,鞅奔晋陽,晋人囲之。范吉射、荀寅仇人魏襄等謀逐荀寅,以梁嬰父代之;逐吉射,以范皋繹代之。荀櫟言於晋侯曰:「君命大臣,始乱者死。今三臣始乱而独逐鞅,用刑不均,請皆逐之。」十一月,荀櫟、韓不佞、魏哆奉公命以伐范、中行氏,不克。范、中行氏反伐公,公撃之,范、中行敗走。丁未,二子奔朝歌。韓、魏以趙氏為請。十二月辛未,趙鞅入絳,盟于公宮。其明年,知伯文子謂趙鞅曰:「范、中行雖信為乱,安于発之,是安于与謀也。晋国有法,始乱者死。夫二子已伏罪而安于独在。」趙鞅患之。安于曰:「臣死,趙氏定,晋国寧,吾死晩矣。」遂自殺。趙氏以告知伯,然後趙氏寧。孔子聞趙簡子不請晋君而執邯鄲午,保晋陽,故書春秋曰「趙鞅以晋陽畔」。趙簡子有臣曰周舎,好直諫。周舎死,簡子毎聴朝,常不悦,大夫請罪。簡子曰:「大夫無罪。吾聞千羊之皮不如一狐之腋。諸大夫朝,徒聞唯唯,不聞周捨之鄂鄂,是以憂也。」簡子由此能附趙邑而懐晋人。晋定公十八年,趙簡子囲范、中行于朝歌,中行文子奔邯鄲。明年,衛霊公卒。
書き下し
晋君、籍秦をして邯鄲を囲ましむ。荀寅・范吉射、午と善し。秦を助くるを肯ぜずして乱を作さんと謀る。董安于之を知る。十月、范・中行氏趙鞅を伐つ。鞅晋陽に奔る。晋人之を囲む。范吉射・荀寅の仇人魏襄等、荀寅を逐ひて梁嬰父を以て之に代へ、吉射を逐ひて范皋繹を以て之に代へんと謀る。荀櫟、晋侯に言ひて曰く、「君、大臣に命ず、乱を始むる者は死せんと。今三臣乱を始むるに、而も独り鞅を逐ふ。刑を用ふること均しからず。請ふ皆之を逐はん」と。十一月、荀櫟・韓不佞・魏哆、公の命を奉じて以て范・中行氏を伐つも、克たず。范・中行氏反りて公を伐つ。公之を撃ち、范・中行敗走す。丁未、二子朝歌に奔る。韓・魏、趙氏を以て請ふを為す。十二月辛未、趙鞅絳に入り、公宮に盟ふ。其の明年、知伯文子、趙鞅に謂ひて曰く、「范・中行信に乱を為すと雖も、安于之を発す。是れ安于与に謀るなり。晋国に法有り、乱を始むる者は死す。夫れ二子已に罪に伏して、而も安于独り在り」と。趙鞅之を患ふ。安于曰く、「臣死して、趙氏定まり、晋国寧からば、吾が死晩し」と。遂に自殺す。趙氏以て知伯に告げ、然る後に趙氏寧し。孔子、趙簡子の晋君に請はずして邯鄲の午を執へ、晋陽を保つを聞く。故に春秋に書して曰く「趙鞅晋陽を以て畔く」と。趙簡子に臣有り、周舍と曰ふ。直諫を好む。周舍死す。簡子朝を聴く毎に、常に悦ばず。大夫罪を請ふ。簡子曰く、「大夫罪無し。吾聞く、千羊の皮は一狐の腋に如かずと。諸大夫朝するも、徒だ唯唯を聞き、周捨の鄂鄂を聞かず。是を以て憂ふるなり」と。簡子此に由りて能く趙の邑を附けて晋人を懐けしむ。晋の定公十八年、趙簡子、范・中行を朝歌に囲む。中行文子邯鄲に奔る。明年、衛の霊公卒す。
現代語訳
晋君は籍秦(せきしん)に邯鄲を包囲させた。荀寅(じゅんいん、中行文子)と范吉射(はんきっせき、范昭子)は午と親しかったので、籍秦を助けようとせず、乱を起こそうと謀った。董安于はこれを察知した。十月、范氏と中行氏が趙鞅を攻めた。趙鞅は晋陽に逃れ、晋の人々はこれを包囲した。范吉射・荀寅と仇敵の間柄であった魏襄(ぎじょう)らは、荀寅を追放して梁嬰父(りょうえいほ)に代え、范吉射を追放して范皋繹(はんこうえき)に代えようと謀った。荀櫟(じゅんれき)が晋侯に言った。「君は大臣たちに、乱を始めた者は死罪にすると命じておられる。今、三人の臣が乱を始めたのに、趙鞅だけを追放するのは、刑罰の用い方が公平ではない。どうか三人とも追放されたい」。十一月、荀櫟・韓不佞(かんふねい)・魏哆(ぎし)が晋公の命を奉じて范氏・中行氏を討ったが、勝てなかった。范氏と中行氏は逆に晋公を攻めたが、晋公はこれを撃退し、范氏・中行氏は敗走した。丁未の日、二人は朝歌(ちょうか)に逃れた。韓氏と魏氏は趙氏のために赦しを願った。十二月辛未の日、趙鞅は都の絳(こう)に入り、公宮で盟約を結んだ。その翌年、知伯文子(ちはくぶんし)が趙鞅に言った。「范氏と中行氏が乱を起こしたのは確かだが、その発端を作ったのは董安于だ。つまり安于も謀議に加わっていたことになる。晋国には、乱を始めた者は死罪という法がある。二人がすでに罪に服したのに、安于だけがのうのうと生きている」。趙鞅はこれを憂えた。董安于は言った。「わたしが死んで趙氏が安定し、晋国が平穏になるなら、わたしの死はむしろ遅すぎたくらいだ」。そしてついに自殺した。趙氏がこれを知伯に告げると、ようやく趙氏は安泰になった。孔子は、趙簡子が晋君の許しを得ずに邯鄲の午を捕らえ、晋陽に立てこもったと聞いた。それで『春秋』に「趙鞅、晋陽を以て畔く」と記した。趙簡子には周舍(しゅうしゃ)という臣下がいて、直言して諫めることを好んだ。周舍が死ぬと、簡子は朝廷で政務をとるたびにいつも不機嫌だった。大夫たちが何か罪があったのかと尋ねると、簡子は言った。「大夫たちに罪はない。わたしはこう聞いている。千匹の羊の皮も一匹の狐の腋の下の白い毛皮には及ばない、と。諸大夫が朝廷に来ても、ただ『はい、はい』という返事ばかりが聞こえて、周舍のような遠慮のない直言が聞こえてこない。だから憂えているのだ」。簡子はこうした態度によって、趙の邑の人々をよくなつかせ、晋の人々の心をつかんだ。晋の定公の十八年、趙簡子は范氏・中行氏を朝歌で包囲した。中行文子は邯鄲に逃れた。翌年、衛の霊公が死んだ。
解説
関連する章句
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史記 晋世家季平子私かに范献子に賂ふ。献子之を受け、乃ち晋君に謂ひて曰く、「季氏罪無し」と。果たして魯君を入れず。十二年、晋の宗家祁傒の孫、叔向の子、君に相悪しとせらる。六卿公室を弱めんと欲し、乃ち遂に法を以て尽く其の族を滅ぼす。而して其の邑を分かちて十県と為し、各々其の子をして大夫と為らしむ。晋益々弱く、六卿皆大なり。十四年、頃公卒し、子の定公午立つ。定公の十一年、魯の陽虎晋に奔る。趙鞅簡子之を捨(やど)す。十二年、孔子魯に相たり。十五年、趙鞅邯鄲の大夫午に使ふも、信ならず、午を殺さんと欲す。午中行寅・范吉射と親ら趙鞅を攻む。鞅走りて晋陽を保つ。定公晋陽を囲む。荀櫟・韓不信・魏侈范・中行と仇為り。乃ち兵を移して范・中行を伐つ。范・中行反す。晋君之を撃ち、范・中行を敗る。范・中行朝歌に走り、之を保つ。韓・魏趙鞅の為に晋君に謝す。乃ち趙鞅を赦し、位に復す。二十二年、晋范・中行氏を敗り、二子斉に奔る。三十年、定公呉王夫差と黄池に会し、長を争ふ。趙鞅時に従ひ、卒に呉を長とす。三十一年、斉の田常其の君簡公を弑し、而して簡公の弟驁を立てて平公と為す。三十三年、孔子卒す。三十七年、定公卒し、子の出公鑿立つ。出公の十七年、知伯趙・韓・魏と共に范・中行の地を分かちて以て邑と為す。出公怒り、斉・魯に告げ、以て四卿を伐たんと欲す。四卿恐れ、遂に反って出公を攻む。出公斉に奔り、道に死す。故に知伯乃ち昭公の曾孫驕を立てて晋君と為す。是を哀公と為す。哀公の大父雍は、晋の昭公の少子なり。号して戴子と為す。戴子忌を生む。忌知伯に善し。蚤く死す。故に知伯尽く晋を并せんと欲するも、未だ敢てせず。乃ち忌の子驕を立てて君と為す。
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史記 趙世家簡子、陽虎と衛の太子蒯聵を衛に送る。衛内れず、戚に居る。晋の定公二十一年、簡子邯鄲を抜く。中行文子柏人に奔る。簡子又柏人を囲む。中行文子・范昭子遂に斉に奔る。趙竟に邯鄲・柏人を有つ。范・中行の余邑晋に入る。趙は名は晋の卿なるも、実は晋の権を専らにし、奉邑は諸侯に侔し。晋の定公三十年、定公、呉王夫差と長を黄池に争ふ。趙簡子晋の定公に従ひ、卒に呉に長たり。定公三十七年に卒す。而して簡子三年の喪を除き、期のみ。是の歳、越王句践呉を滅ぼす。晋の出公十一年、知伯鄭を伐つ。趙簡子疾む。太子毋卹をして将として鄭を囲ましむ。知伯酔ひ、酒を以て毋卹に灌ぎ撃つ。毋卹の群臣之に死せんことを請ふ。毋卹曰く、「君の毋卹を置く所以は、能く訽を忍ぶが為なり」と。然れども亦知伯を慍む。知伯帰り、因りて簡子に謂ひ、毋卹を廃せしめんとす。簡子聴かず。毋卹此に由りて知伯を怨む。晋の出公十七年、簡子卒し、太子毋卹代はりて立つ、是を襄子と為す。趙襄子の元年、越呉を囲む。襄子喪食を降し、楚隆をして呉王を問はしむ。襄子の姊前に代王の夫人為り。簡子既に葬られ、未だ服を除かず、北のかた夏屋に登り、代王を請ふ。廚人をして銅枓を操りて以て代王及び従者に食はしめ、行斟して、陰かに宰人をして各々枓を以て代王及び従官を撃殺せしめ、遂に兵を興して代の地を平ぐ。其の姊之を聞き、泣きて天を呼び、笄を摩して自殺す。代人之を憐み、死せし所の地を之に名づけて摩笄の山と為す。遂に代を以て伯魯の子周を封じて代の成君と為す。伯魯は襄子の兄、故の太子なり。太子蚤く死す、故に其の子を封ず。襄子立ちて四年、知伯、趙・韓・魏と尽く其の范・中行の故地を分つ。晋の出公怒り、斉・魯に告げ、以て四卿を伐たんと欲す。
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史記 趙世家趙武斉衰を服すること三年、之が為に祭邑し、春秋に之を祠り、世々絶つこと勿からしむ。趙氏位に復して十一年にして、晋の厲公其の大夫三郤を殺す。欒書及ばんことを畏れ、乃ち遂に其の君厲公を弑し、更に襄公の曾孫周を立つ、是を悼公と為す。晋此に由りて大夫稍く彊し。趙武趙の宗を続ぐこと二十七年にして、晋の平公立つ。平公十二年にして、趙武正卿と為る。十三年、呉の延陵の季子晋に使ひして曰く、「晋国の政は卒に趙武子・韓宣子・魏献子の後に帰せん」と。趙武死し、諡して文子と為す。文子、景叔を生む。景叔の時、斉の景公晏嬰を晋に使はす。晏嬰、晋の叔向と語る。嬰曰く、「斉の政は後に卒に田氏に帰せん」と。叔向も亦曰く、「晋国の政将に六卿に帰せんとす。六卿侈り、而して吾が君恤ふること能はず」と。趙景叔卒し、趙鞅を生む、是を簡子と為す。趙簡子位に在り。晋の頃公の九年、簡子将に諸侯を合して周に戍らんとす。其の明年、周の敬王を周に入る。弟子朝を辟くるの故なり。晋の頃公の十二年、六卿法を以て公族の祁氏・羊舌氏を誅し、其の邑を分ちて十県と為し、六卿各々其の族をして之が大夫と為らしむ。晋の公室此に由りて益々弱し。後十三年、魯の賊臣陽虎来奔す。趙簡子賂を受け、厚く之を遇す。趙簡子疾み、五日人を知らず。大夫皆懼る。医の扁鵲之を視て出づ。董安于問ふ。扁鵲曰く、「血脈治まれり。而るを何ぞ怪しまん。在昔秦の繆公嘗て此の如し。七日にして寤む。寤むるの日、公孫支と子輿とに告げて曰く、『我帝の所に之きて甚だ楽しむ。吾が久しき所以の者は、適々学ぶこと有ればなり。帝我に告ぐ、「晋国将に大いに乱れんとし、五世安からず。其の後将に霸たらんとし、未だ老いずして死せん。霸者の子且に而の国の男女をして別無からしめんとす」と』と。
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戦国策・知伯帥趙韓魏而伐范中行氏知伯、趙・韓・魏を帥いて范中行氏を伐ち、之を滅ぼす。休すること數年、人をして地を韓に請わしむ。韓康子與えんと欲せず、段䂓諫めて曰く、「不可なり。夫れ知伯の人と爲りや、利を好みて鷙復なり、來りて地を請いて與えずんば、必ず兵を韓に加えん。君其れ之に與えよ。之に與うれば彼狃れて、又將に地を他國に請わんとす、他國聽かずんば、必ず之に鄉うに兵を以てせん。然らば則ち韓は以て患難を免れて、事の變を待つ可し。」康子曰く、「善し。」使者をして萬家の邑一を知伯に致さしむ。知伯說び、又人をして地を魏に請わしむ。魏宣子與えんと欲せず。趙葭諫めて曰く、「彼地を韓に請い、韓之に與う。地を魏に請いて、魏與えずんば、則ち是れ魏內自ら強くして、外知伯を怒らすなり。然らば則ち其の兵を魏に錯くこと必せり。之に與うるに如かず。」宣子曰く、「諾。」因りて人をして萬家の邑一を知伯に致さしむ。知伯說び、又人をして趙に之かしめ、蔡・皋狼の地を請わしむ。趙襄子與えず。知伯因りて陰かに韓・魏を結び、將に以て趙を伐たんとす。趙襄子張孟談を召して之に告げて曰く、「夫れ知伯の人と爲り、陽には親しみて陰には疏んず、三たび韓・魏に使いして、寡人與からず、其の兵を移すこと寡人に必せん。今吾安くにか居りて可ならん。」張孟談曰く、「夫れ董閼安于は簡主の才臣なり、世々晉陽を治め、尹澤之に循う、其の餘の政教猶お存す、君其れ晉陽に居を定めよ。」君曰く、「諾。」乃ち延陵王をして車騎を將いて先に晉陽に之かしめ、君因りて之に從う。至りて、城郭を行り、府庫を案じ、倉廩を視、張孟談を召して曰く、「吾が城郭の完きこと、府庫の用に足ること、倉廩の實つること、矢無きは奈何せん。」張孟談曰く、「臣聞く、董子の晉陽を治むるや、公宮の垣、皆狄蒿苫楚を以て之を廧す、其の高さ丈餘に至る、君發して之を用いよ。」是に於て發して之を試むるに、其の堅きこと則ち箘簬の勁も過ぐる能わず。君曰く、「足れり、吾が銅少きこと若何せん。」張孟談曰く、「臣聞く、董子の晉陽を治むるや、公宮の室、皆鍊銅を以て柱質と爲す、請う發して之を用いば、則ち餘銅有らん。」君曰く、「善し。」號令以て定まり、備守以て具わる。三國の兵晉陽の城に乘り、遂に戰う。三月拔く能わず、因りて軍を舒べて之を圍み、晉水を決して之に灌ぐ。晉陽を圍むこと三年、城中巢居して處り、釜を懸けて炊ぎ、財食將に盡きんとし、士卒病み羸る。襄子張孟談に謂いて曰く、「糧食匱しく、城力盡き、士大夫病めり、吾守る能わず。城を以て下らんと欲す、何如。」張孟談曰く、「臣之を聞く、亡びて存する能わず、危うくして安んずる能わずんば、則ち知士を貴ぶ爲し無きなり。君此の計を釋てて、復言うこと勿かれ。臣請う韓・魏の君に見えん。」襄子曰く、「諾。」張孟談是に於て陰かに韓・魏の君に見えて曰く、「臣聞く、脣亡ぶれば則ち齒寒しと、今知伯二國の君を帥いて趙を伐つ、趙將に亡びんとす、亡ぶれば則ち二君之に次たらん。」二君曰く、「我其の然るを知る。夫れ知伯の人と爲り、麁中にして親しむこと少なし、我が謀未だ遂げずして知られなば、則ち其の禍必ず至らん、之を奈何せん。」張孟談曰く、「謀は二君の口より出でて、臣の耳に入る、人之を知る莫きなり。」二君即ち張孟談と陰かに三軍を約し、之と期して曰く、夜、遣りて晉陽に入らしめんと。張孟談以て襄子に報ず、襄子之に再拜す。張孟談因りて知伯に朝して出で、知過に轅門の外に遇う。知過入りて知伯に見えて曰く、「二主殆ど將に變有らんとす。」君曰く、「何如。」對えて曰く、「臣張孟談に轅門の外に遇う、其の志矜り、其の行高し。」知伯曰く、「然らず。吾二主と約すること謹めり、趙を破りて其の地を三分せば、寡人之を親しむ所なり、必ず欺かざらん。子之を釋てて、口より出だすこと勿かれ。」知過出でて二主に見え、入りて知伯に說きて曰く、「二主色動きて意變ず、必ず君に背かん、之を殺さしむるに如かず。」知伯曰く、「兵晉陽に箸くこと三年なり、旦暮に當に之を拔きて其の利を饗くべし、乃ち他心有らんや。不可なり、子愼みて復言うこと勿かれ。」知過曰く、「殺さずんば則ち遂に之に親しめ。」知伯曰く、「之に親しむこと奈何せん。」知過曰く、「魏宣子の謀臣を趙葭と曰い、康子の謀臣を段䂓と曰う、是れ皆能く其の君の計を移す。君其れ二君と約し、趙を破らば二子なる者を封ずるに各々萬家の縣一を以てせよ、是の如くんば則ち二主の心變ぜざる可くして、君其の欲する所を得ん。」知伯曰く、「趙を破りて其の地を三分し、又二子なる者を封ずるに各々萬家の縣一を以てせば、則ち吾が得る所少なし、不可なり。」知過君の用いざるを見るや、言いて聽かれず、出でて其の姓を更めて輔氏と爲し、遂に去りて見えず。張孟談之を聞き、入りて襄子に見えて曰く、「臣知過に轅門の外に遇う、其の視るに臣を疑うの心有り、入りて知伯に見え、出でて其の姓を更む。今暮撃たずんば、必ず之に後れん。」襄子曰く、「諾。」張孟談をして韓・魏の君に見えしめて曰く、「夜堤を守るの吏を殺すことを期し、水を決して知伯の軍に灌がん。」知伯の軍水を救いて亂れ、韓・魏翼にして之を撃ち、襄子將卒其の前を犯し、大いに知伯の軍を敗りて知伯を禽う。知伯身死し、國亡び地分たれ、天下の笑いと爲る、此れ貪欲厭くこと無ければなり。夫れ知過に聽かざる、亦亡ぶる所以なり。知氏盡く滅び、唯輔氏のみ存す。
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史記 晋世家十五年、悼公国を治むることを師曠に問ふ。師曠曰く、「惟だ仁義を本と為す」と。冬、悼公卒し、子の平公彪立つ。平公の元年、斉を伐つ。斉の霊公与に靡下に戦ふ。斉の師敗走す。晏嬰曰く、「君も亦た勇毋し。何ぞ戦ひを止めざる」と。遂に去る。晋追ひ、遂に臨菑を囲み、尽く其の郭中を焼屠す。東は膠に至り、南は沂に至る。斉皆城守す。晋乃ち兵を引きて帰る。六年、魯の襄公晋に朝す。晋の欒逞罪有り、斉に奔る。八年、斉の荘公微かに欒逞を曲沃に遣り、兵を以て之に随はしむ。斉の兵太行に上る。欒逞曲沃の中より反し、襲ひて絳に入る。絳戒めず。平公自殺せんと欲す。范献子公を止め、其の徒を以て逞を撃つ。逞敗れて曲沃に走る。曲沃逞を攻め、逞死す。遂に欒氏の宗を滅ぼす。逞は、欒書の孫なり。其の絳に入るや、魏氏と謀る。斉の荘公逞の敗るるを聞き、乃ち還り、晋の朝歌を取りて去り、以て臨菑の役に報ゆ。十年、斉の崔杼其の君荘公を弑す。晋斉の乱に因り、伐ちて斉を高唐に敗りて去り、太行の役に報ゆ。十四年、呉の延陵季子来たり使ひし、趙文子・韓宣子・魏献子と語りて曰く、「晋国の政は、卒に此の三家に帰せん」と。十九年、斉晏嬰をして晋に如かしむ。叔向と語る。叔向曰く、「晋は、季世なり。公賦を厚くして台池を為りて政を恤へず。政私門に在り。其れ久しかるべけんや」と。晏子之を然りとす。二十二年、燕を伐つ。二十六年、平公卒し、子の昭公夷立つ。昭公六年にして卒す。六卿彊く、公室卑し。子の頃公去疾立つ。頃公の六年、周の景王崩じ、王子立つを争ふ。晋の六卿王室の乱を平らげ、敬王を立つ。九年、魯の季氏其の君昭公を逐ひ、昭公乾侯に居る。十一年、衛・宋使ひをして晋に魯君を納れんことを請はしむ。
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