史記 / 趙世家
四卿恐,遂共攻出公。出公奔齊,道死。知伯乃立昭公曾孫驕,是爲晉懿公。知伯益驕。請地韓、魏,韓、魏與之。請地趙,趙不與,以其圍鄭之辱。知伯怒,遂率韓、魏攻趙。趙襄子懼,乃奔保晉陽。原過從,後,至於王澤,見三人,自帶以上可見,自帶以下不可見。與原過竹二節,莫通。曰:「爲我以是遺趙毋卹。」原過旣至,以告襄子。襄子齊三日,親自剖竹,有朱書曰:「趙毋卹,余霍泰山山陽侯天使也。三月丙戌,余將使女反滅知氏。女亦立我百邑,余將賜女林胡之地。至于後世,且有伉王,赤黑,龍面而鳥噣,鬢麋髭髯,大膺大胸,修下而馮,左袵界乘,奄有河宗,至于休溷諸貉,南伐晉別,北滅黑姑。」襄子再拜,受三神之令。三國攻晉陽,歳餘,引汾水灌其城,城不浸者三版。城中懸釜而炊,易子而食。群臣皆有外心,禮益慢,唯髙共不敢失禮。襄子懼,乃夜使相張孟同私於韓、魏。韓、魏與合謀,以三月丙戌,三國反滅知氏,共分其地。於是襄子行賞,髙共爲上。張孟同曰:「晉陽之難,唯共無功。」襄子曰:「方晉陽急,群臣皆懈,惟共不敢失人臣禮,是以先之。」於是趙北有代,南并知氏,彊於韓、魏。遂祠三神於百邑,使原過主霍泰山祠祀。其後娶空同氏,生五子。
新字:四卿恐,遂共攻出公。出公奔斉,道死。知伯乃立昭公曽孫驕,是為晋懿公。知伯益驕。請地韓、魏,韓、魏与之。請地趙,趙不与,以其囲鄭之辱。知伯怒,遂率韓、魏攻趙。趙襄子懼,乃奔保晋陽。原過従,後,至於王沢,見三人,自帯以上可見,自帯以下不可見。与原過竹二節,莫通。曰:「為我以是遺趙毋卹。」原過既至,以告襄子。襄子斉三日,親自剖竹,有朱書曰:「趙毋卹,余霍泰山山陽侯天使也。三月丙戌,余将使女反滅知氏。女亦立我百邑,余将賜女林胡之地。至于後世,且有伉王,赤黒,竜面而鳥噣,鬢麋髭髯,大膺大胸,修下而馮,左袵界乗,奄有河宗,至于休溷諸貉,南伐晋別,北滅黒姑。」襄子再拝,受三神之令。三国攻晋陽,歳余,引汾水灌其城,城不浸者三版。城中懸釜而炊,易子而食。群臣皆有外心,礼益慢,唯高共不敢失礼。襄子懼,乃夜使相張孟同私於韓、魏。韓、魏与合謀,以三月丙戌,三国反滅知氏,共分其地。於是襄子行賞,高共為上。張孟同曰:「晋陽之難,唯共無功。」襄子曰:「方晋陽急,群臣皆懈,惟共不敢失人臣礼,是以先之。」於是趙北有代,南并知氏,彊於韓、魏。遂祠三神於百邑,使原過主霍泰山祠祀。其後娶空同氏,生五子。
書き下し
四卿恐れ、遂に共に出公を攻む。出公斉に奔り、道に死す。知伯乃ち昭公の曾孫驕を立つ、是を晋の懿公と為す。知伯益々驕る。地を韓・魏に請ふ。韓・魏之に与ふ。地を趙に請ふ。趙与へず。其の鄭を囲みしときの辱めを以てなり。知伯怒り、遂に韓・魏を率ゐて趙を攻む。趙襄子懼れ、乃ち奔りて晋陽を保つ。原過従ふ。後れて、王沢に至り、三人を見る。帯より以上は見るべく、帯より以下は見るべからず。原過に竹二節を与ふ。通ずる莫し。曰く、「我が為に是を以て趙毋卹に遺れ」と。原過既に至り、以て襄子に告ぐ。襄子斉すること三日、親ら自ら竹を剖く。朱書有りて曰く、「趙毋卹、余は霍泰山山陽侯の天使なり。三月丙戌、余将に女をして反りて知氏を滅ぼさしめんとす。女も亦我が百邑を立てよ。余将に女に林胡の地を賜はんとす。後世に至りて、且に伉王有らんとす。赤黒く、龍面にして鳥噣、鬢麋髭髯、大膺大胸、修下にして馮、左袵界乗、奄ひて河宗を有ち、休溷の諸貉に至り、南のかた晋の別を伐ち、北のかた黒姑を滅ぼさん」と。襄子再拝し、三神の令を受く。三国晋陽を攻むること歳余、汾水を引きて其の城に灌ぐ。城の浸らざる者三版。城中釜を懸けて炊ぎ、子を易へて食らふ。群臣皆外心有り、礼益々慢る。唯だ高共のみ敢へて礼を失はず。襄子懼れ、乃ち夜に相の張孟同をして私かに韓・魏に於てせしむ。韓・魏与に合謀し、三月丙戌を以て、三国反りて知氏を滅ぼし、共に其の地を分つ。是に於て襄子賞を行ふ。高共を上と為す。張孟同曰く、「晋陽の難に、唯だ共のみ功無し」と。襄子曰く、「晋陽の急なるに方りて、群臣皆懈る。惟だ共のみ敢へて人臣の礼を失はず。是を以て之を先にす」と。是に於て趙は北に代を有ち、南に知氏を并せ、韓・魏より彊し。遂に三神を百邑に祠り、原過をして霍泰山の祠祀を主らしむ。其の後空同氏を娶り、五子を生む。
現代語訳
四卿は恐れ、ついに共同で出公を攻めた。出公は斉に逃れる途中で死んだ。知伯は昭公の曾孫の驕(きょう)を立てた。これが晋の懿公である。知伯はますます驕り高ぶった。韓と魏に土地を要求すると、韓と魏は与えた。趙に土地を要求すると、趙は与えなかった。鄭を包囲したときの辱めがあったからである。知伯は怒り、韓と魏を率いて趙を攻めた。趙襄子は恐れて、逃れて晋陽に立てこもった。家臣の原過(げんか)が従っていたが、遅れて王沢(おうたく)に至ったところで三人の人を見た。帯から上は見えるが、帯から下は見えなかった。その者たちは原過に節の抜けていない二節の竹を与えて言った。「われわれのために、これを趙毋卹に届けよ」。原過は晋陽に着くと、このことを襄子に告げた。襄子は三日間斎戒し、自ら竹を割った。中に朱で書かれた文字があった。「趙毋卹よ、われらは霍泰山の山陽侯の天の使いである。三月丙戌の日、われらはおまえに逆に知氏を滅ぼさせよう。おまえもまたわれらのために百の邑に祠を建てよ。われらはおまえに林胡(りんこ)の地を与えよう。後の世になれば、たくましい王が現れる。肌は赤黒く、龍の顔に鳥のくちばし、鬢も眉もひげも濃く、胸板は厚く広く、下半身は長く大きく、襟を左前にして馬にまたがり、河宗(かそう)の地をすっかり手に入れ、休溷(きゅうこん)の諸貉(しょはく)の地にまで及び、南は晋の別の地を討ち、北は黒姑(こくこ)を滅ぼすだろう」。襄子は再拝して、三神の命令を受けた。三国が晋陽を攻めること一年余り、汾水を引いて城に注ぎ込んだ。城壁で水に浸かっていないのは三版(板三枚分の高さ)だけだった。城中では釜を吊り下げて炊事をし、互いの子を取り替えて食べるほどであった。家臣たちはみな離反の心を抱き、礼儀もますますおろそかになった。ただ高共(こうきょう)だけは礼を失わなかった。襄子は恐れ、夜に宰相の張孟同(ちょうもうどう)をひそかに韓と魏のもとへ遣わした。韓と魏は趙と共謀し、三月丙戌の日、三国は逆に知氏を滅ぼし、その領地を分け合った。そこで襄子は論功行賞を行い、高共を最上位とした。張孟同は言った。「晋陽の難で、高共だけは何の功もなかった」。襄子は言った。「晋陽が危急にあったとき、家臣たちはみな気が緩んでいた。高共だけが臣下としての礼を失わなかった。だから彼を先にしたのだ」。こうして趙は北に代を領し、南に知氏の地を併せて、韓・魏よりも強くなった。そこで三神を百の邑に祀り、原過に霍泰山の祭祀をつかさどらせた。その後、襄子は空同(くうどう)氏を娶り、五人の子をもうけた。
解説
関連する章句
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戦国策・知伯帥趙韓魏而伐范中行氏知伯、趙・韓・魏を帥いて范中行氏を伐ち、之を滅ぼす。休すること數年、人をして地を韓に請わしむ。韓康子與えんと欲せず、段䂓諫めて曰く、「不可なり。夫れ知伯の人と爲りや、利を好みて鷙復なり、來りて地を請いて與えずんば、必ず兵を韓に加えん。君其れ之に與えよ。之に與うれば彼狃れて、又將に地を他國に請わんとす、他國聽かずんば、必ず之に鄉うに兵を以てせん。然らば則ち韓は以て患難を免れて、事の變を待つ可し。」康子曰く、「善し。」使者をして萬家の邑一を知伯に致さしむ。知伯說び、又人をして地を魏に請わしむ。魏宣子與えんと欲せず。趙葭諫めて曰く、「彼地を韓に請い、韓之に與う。地を魏に請いて、魏與えずんば、則ち是れ魏內自ら強くして、外知伯を怒らすなり。然らば則ち其の兵を魏に錯くこと必せり。之に與うるに如かず。」宣子曰く、「諾。」因りて人をして萬家の邑一を知伯に致さしむ。知伯說び、又人をして趙に之かしめ、蔡・皋狼の地を請わしむ。趙襄子與えず。知伯因りて陰かに韓・魏を結び、將に以て趙を伐たんとす。趙襄子張孟談を召して之に告げて曰く、「夫れ知伯の人と爲り、陽には親しみて陰には疏んず、三たび韓・魏に使いして、寡人與からず、其の兵を移すこと寡人に必せん。今吾安くにか居りて可ならん。」張孟談曰く、「夫れ董閼安于は簡主の才臣なり、世々晉陽を治め、尹澤之に循う、其の餘の政教猶お存す、君其れ晉陽に居を定めよ。」君曰く、「諾。」乃ち延陵王をして車騎を將いて先に晉陽に之かしめ、君因りて之に從う。至りて、城郭を行り、府庫を案じ、倉廩を視、張孟談を召して曰く、「吾が城郭の完きこと、府庫の用に足ること、倉廩の實つること、矢無きは奈何せん。」張孟談曰く、「臣聞く、董子の晉陽を治むるや、公宮の垣、皆狄蒿苫楚を以て之を廧す、其の高さ丈餘に至る、君發して之を用いよ。」是に於て發して之を試むるに、其の堅きこと則ち箘簬の勁も過ぐる能わず。君曰く、「足れり、吾が銅少きこと若何せん。」張孟談曰く、「臣聞く、董子の晉陽を治むるや、公宮の室、皆鍊銅を以て柱質と爲す、請う發して之を用いば、則ち餘銅有らん。」君曰く、「善し。」號令以て定まり、備守以て具わる。三國の兵晉陽の城に乘り、遂に戰う。三月拔く能わず、因りて軍を舒べて之を圍み、晉水を決して之に灌ぐ。晉陽を圍むこと三年、城中巢居して處り、釜を懸けて炊ぎ、財食將に盡きんとし、士卒病み羸る。襄子張孟談に謂いて曰く、「糧食匱しく、城力盡き、士大夫病めり、吾守る能わず。城を以て下らんと欲す、何如。」張孟談曰く、「臣之を聞く、亡びて存する能わず、危うくして安んずる能わずんば、則ち知士を貴ぶ爲し無きなり。君此の計を釋てて、復言うこと勿かれ。臣請う韓・魏の君に見えん。」襄子曰く、「諾。」張孟談是に於て陰かに韓・魏の君に見えて曰く、「臣聞く、脣亡ぶれば則ち齒寒しと、今知伯二國の君を帥いて趙を伐つ、趙將に亡びんとす、亡ぶれば則ち二君之に次たらん。」二君曰く、「我其の然るを知る。夫れ知伯の人と爲り、麁中にして親しむこと少なし、我が謀未だ遂げずして知られなば、則ち其の禍必ず至らん、之を奈何せん。」張孟談曰く、「謀は二君の口より出でて、臣の耳に入る、人之を知る莫きなり。」二君即ち張孟談と陰かに三軍を約し、之と期して曰く、夜、遣りて晉陽に入らしめんと。張孟談以て襄子に報ず、襄子之に再拜す。張孟談因りて知伯に朝して出で、知過に轅門の外に遇う。知過入りて知伯に見えて曰く、「二主殆ど將に變有らんとす。」君曰く、「何如。」對えて曰く、「臣張孟談に轅門の外に遇う、其の志矜り、其の行高し。」知伯曰く、「然らず。吾二主と約すること謹めり、趙を破りて其の地を三分せば、寡人之を親しむ所なり、必ず欺かざらん。子之を釋てて、口より出だすこと勿かれ。」知過出でて二主に見え、入りて知伯に說きて曰く、「二主色動きて意變ず、必ず君に背かん、之を殺さしむるに如かず。」知伯曰く、「兵晉陽に箸くこと三年なり、旦暮に當に之を拔きて其の利を饗くべし、乃ち他心有らんや。不可なり、子愼みて復言うこと勿かれ。」知過曰く、「殺さずんば則ち遂に之に親しめ。」知伯曰く、「之に親しむこと奈何せん。」知過曰く、「魏宣子の謀臣を趙葭と曰い、康子の謀臣を段䂓と曰う、是れ皆能く其の君の計を移す。君其れ二君と約し、趙を破らば二子なる者を封ずるに各々萬家の縣一を以てせよ、是の如くんば則ち二主の心變ぜざる可くして、君其の欲する所を得ん。」知伯曰く、「趙を破りて其の地を三分し、又二子なる者を封ずるに各々萬家の縣一を以てせば、則ち吾が得る所少なし、不可なり。」知過君の用いざるを見るや、言いて聽かれず、出でて其の姓を更めて輔氏と爲し、遂に去りて見えず。張孟談之を聞き、入りて襄子に見えて曰く、「臣知過に轅門の外に遇う、其の視るに臣を疑うの心有り、入りて知伯に見え、出でて其の姓を更む。今暮撃たずんば、必ず之に後れん。」襄子曰く、「諾。」張孟談をして韓・魏の君に見えしめて曰く、「夜堤を守るの吏を殺すことを期し、水を決して知伯の軍に灌がん。」知伯の軍水を救いて亂れ、韓・魏翼にして之を撃ち、襄子將卒其の前を犯し、大いに知伯の軍を敗りて知伯を禽う。知伯身死し、國亡び地分たれ、天下の笑いと爲る、此れ貪欲厭くこと無ければなり。夫れ知過に聽かざる、亦亡ぶる所以なり。知氏盡く滅び、唯輔氏のみ存す。
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戦国策・知伯從韓魏兵以攻趙知伯、韓・魏の兵に從いて以て趙を攻め、晉陽を圍みて之に水す、城の沈まざる者三板のみ。郤疵、知伯に謂いて曰く、「韓・魏の君必ず反せん。」知伯曰く、「何を以て之を知るや。」郤疵曰く、「其の人事を以て之を知る。夫れ韓・魏の兵に從いて趙を攻め、趙亡べば、難必ず韓・魏に及ばん。今約するに趙に勝ちて其の地を三分せんとす。今城の沒せざる者三板、臼灶に蛙を生じ、人馬相食むも、城降ること日有り、而して韓・魏の君憙ぶ志無くして憂うる色有り、是れ反するに非ずして何ぞや。」明日、知伯以て韓・魏の君に告げて曰く、「郤疵言う、君且に反せんとすと。」韓・魏の君曰く、「夫れ趙に勝ちて其の地を三分せんとするに、城今且に拔かれんとす。夫れ三家愚なりと雖も、美利を前に棄てて、信盟の約に背き、危難成る可からざるの事を爲さん、其の勢い見る可きなり。是れ疵の趙の爲に計るなり、君をして二主の心を疑わしめ、而して攻趙に解れしむるなり。今君讒臣の言を聽きて、二主の交わりを離す、君の爲に之を惜しむ。」趨りて出づ。郤疵、知伯に謂いて曰く、「君又何ぞ疵の言を以て韓・魏の君に告ぐるを爲すや。」知伯曰く、「子安くんぞ之を知るや。」對えて曰く、「韓・魏の君疵を視ること端にして趨ること疾し。」郤疵其の言の聽かれざるを知り、齊に使いせんことを請う、知伯之を遣わす。韓・魏の君果たして反せり。
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『韓非子』十過第十韓の康子与ふる勿からんと欲す、段規諫めて曰く、「与へざるべからざるなり。夫れ知伯の人と為りや、利を好みて驁愎なり。彼来りて地を請ひて与へずんば、則ち兵を韓に移すこと必せり。君其れ之に与へよ。之に与へば、彼狃れて、又将に地を他国に請はんとす。他国且に聴かざる有らん、聴かざれば、則ち知伯必ず之に兵を加へん。是くの如くんば、韓以て患ひを免れて其の事の変を待つべし」と。康子曰く、「諾」と。因りて使者をして万家の県一を知伯に致さしむ。知伯説び、又人をして地を魏に請はしむ。宣子与ふる勿からんと欲す、趙葭諫めて曰く、「彼地を韓に請ひ、韓之に与ふ。今地を魏に請ひ、魏与へずんば、則ち是れ魏内に自ら強くして、外に知伯を怒らすなり。如し予へずんば、其の兵を魏に措くこと必せり。之に予ふるに如かず」と。宣子曰く、「諾」と。因りて人をして万家の県一を知伯に致さしむ。知伯又人をして趙に之きて蔡・皐狼の地を請はしむ、趙の襄子与へず。知伯因りて陰かに韓・魏と約し将に以て趙を伐たんとす。襄子張孟談を召して之に告げて曰く、「夫れ知伯の人と為りや、陽に親しみて陰に疏んず。三たび韓・魏に使ひして寡人与らず、其の兵を寡人に措くこと必せり。今吾安くに居りて可ならん」と。張孟談曰く、「夫れ董閼子は、簡主の才臣なり、其の晋陽を治むるや、尹鐸之に循ひ、其の余教猶ほ存す、君其れ晋陽に定居せんのみ」と。君曰く、「諾」と。乃ち延陵生を召し、車騎を将ゐて先づ晋陽に至らしめ、君因りて之に従ふ。君至りて、其の城郭及び五官の蔵を行る。城郭治まらず、倉に積粟無く、府に儲銭無く、庫に甲兵無く、邑に守具無し。襄子懼れ、乃ち張孟談を召して曰く、「寡人城郭及び五官の蔵を行るに、皆備具せず、吾将に何を以て敵に応ぜんとす」と。張孟談曰く、「臣聞く、聖人の治は、民に蔵して、府庫に蔵せず、其の教へを脩むるを務めて城郭を治めず。
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史記 趙世家簡子、陽虎と衛の太子蒯聵を衛に送る。衛内れず、戚に居る。晋の定公二十一年、簡子邯鄲を抜く。中行文子柏人に奔る。簡子又柏人を囲む。中行文子・范昭子遂に斉に奔る。趙竟に邯鄲・柏人を有つ。范・中行の余邑晋に入る。趙は名は晋の卿なるも、実は晋の権を専らにし、奉邑は諸侯に侔し。晋の定公三十年、定公、呉王夫差と長を黄池に争ふ。趙簡子晋の定公に従ひ、卒に呉に長たり。定公三十七年に卒す。而して簡子三年の喪を除き、期のみ。是の歳、越王句践呉を滅ぼす。晋の出公十一年、知伯鄭を伐つ。趙簡子疾む。太子毋卹をして将として鄭を囲ましむ。知伯酔ひ、酒を以て毋卹に灌ぎ撃つ。毋卹の群臣之に死せんことを請ふ。毋卹曰く、「君の毋卹を置く所以は、能く訽を忍ぶが為なり」と。然れども亦知伯を慍む。知伯帰り、因りて簡子に謂ひ、毋卹を廃せしめんとす。簡子聴かず。毋卹此に由りて知伯を怨む。晋の出公十七年、簡子卒し、太子毋卹代はりて立つ、是を襄子と為す。趙襄子の元年、越呉を囲む。襄子喪食を降し、楚隆をして呉王を問はしむ。襄子の姊前に代王の夫人為り。簡子既に葬られ、未だ服を除かず、北のかた夏屋に登り、代王を請ふ。廚人をして銅枓を操りて以て代王及び従者に食はしめ、行斟して、陰かに宰人をして各々枓を以て代王及び従官を撃殺せしめ、遂に兵を興して代の地を平ぐ。其の姊之を聞き、泣きて天を呼び、笄を摩して自殺す。代人之を憐み、死せし所の地を之に名づけて摩笄の山と為す。遂に代を以て伯魯の子周を封じて代の成君と為す。伯魯は襄子の兄、故の太子なり。太子蚤く死す、故に其の子を封ず。襄子立ちて四年、知伯、趙・韓・魏と尽く其の范・中行の故地を分つ。晋の出公怒り、斉・魯に告げ、以て四卿を伐たんと欲す。
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