史記 / 鄭世家
十四年,成公卒,子惲立。是爲釐公。釐公五年,鄭相子駟朝釐公,釐公不禮。子駟怒,使廚人藥殺釐公,赴諸侯曰「釐公暴病卒」。立釐公子嘉,嘉時年五歳,是爲簡公。簡公元年,諸公子謀欲誅相子駟,子駟覺之,反盡誅諸公子。二年,晉伐鄭,鄭與盟,晉去。冬,又與楚盟。子駟畏誅,故兩親晉、楚。三年,相子駟欲自立爲君,公子子孔使尉止殺相子駟而代之。子孔又欲自立。子産曰:「子駟爲不可,誅之,今又效之,是亂無時息也。」於是子孔從之而相鄭簡公。四年,晉怒鄭與楚盟,伐鄭,鄭與盟。楚共王救鄭,敗晉兵。簡公欲與晉平,楚又囚鄭使者。十二年,簡公怒相子孔專國權,誅之,而以子産爲卿。十九年,簡公如晉請衞君還,而封子産以六邑。子産讓,受其三邑。二十二年,呉使延陵季子於鄭,見子産如舊交,謂子産曰:「鄭之執政者侈,難將至,政將及子。子爲政,必以禮;不然,鄭將敗。」子産厚遇季子。二十三年,諸公子爭寵相殺,又欲殺子産。公子或諫曰:「子産仁人,鄭所以存者子産也,勿殺!」乃止。二十五年,鄭使子産於晉,問平公疾。平公曰:「卜而曰實沈、臺駘爲祟,史官莫知,敢問?」對曰:「髙辛氏有二子,長曰閼伯,季曰實沈,居曠林,不相能也,日操干戈以相征伐。
新字:十四年,成公卒,子惲立。是為釐公。釐公五年,鄭相子駟朝釐公,釐公不礼。子駟怒,使廚人薬殺釐公,赴諸侯曰「釐公暴病卒」。立釐公子嘉,嘉時年五歳,是為簡公。簡公元年,諸公子謀欲誅相子駟,子駟覚之,反尽誅諸公子。二年,晋伐鄭,鄭与盟,晋去。冬,又与楚盟。子駟畏誅,故両親晋、楚。三年,相子駟欲自立為君,公子子孔使尉止殺相子駟而代之。子孔又欲自立。子産曰:「子駟為不可,誅之,今又効之,是乱無時息也。」於是子孔従之而相鄭簡公。四年,晋怒鄭与楚盟,伐鄭,鄭与盟。楚共王救鄭,敗晋兵。簡公欲与晋平,楚又囚鄭使者。十二年,簡公怒相子孔専国権,誅之,而以子産為卿。十九年,簡公如晋請衛君還,而封子産以六邑。子産譲,受其三邑。二十二年,呉使延陵季子於鄭,見子産如旧交,謂子産曰:「鄭之執政者侈,難将至,政将及子。子為政,必以礼;不然,鄭将敗。」子産厚遇季子。二十三年,諸公子争寵相殺,又欲殺子産。公子或諫曰:「子産仁人,鄭所以存者子産也,勿殺!」乃止。二十五年,鄭使子産於晋,問平公疾。平公曰:「卜而曰実沈、台駘為祟,史官莫知,敢問?」対曰:「高辛氏有二子,長曰閼伯,季曰実沈,居曠林,不相能也,日操干戈以相征伐。
書き下し
十四年、成公卒し、子惲立つ。是を釐公と為す。釐公五年、鄭の相子駟、釐公に朝す。釐公礼せず。子駟怒り、廚人をして釐公を薬殺せしめ、諸侯に赴げて曰く「釐公暴かに病みて卒す」と。釐公の子嘉を立つ。嘉時に年五歳、是を簡公と為す。簡公元年、諸公子謀りて相子駟を誅せんと欲す。子駟之を覚り、反りて尽く諸公子を誅す。二年、晋鄭を伐つ。鄭与に盟ひ、晋去る。冬、又楚と盟ふ。子駟誅を畏る、故に両つながら晋・楚に親しむ。三年、相子駟自ら立ちて君と為らんと欲す。公子子孔、尉止をして相子駟を殺さしめて之に代はる。子孔又自ら立たんと欲す。子産曰く、「子駟不可を為す、之を誅す。今又之に効ふ。是れ乱の息む時無きなり」と。是に於て子孔之に従ひて鄭の簡公に相たり。四年、晋、鄭の楚と盟ふを怒り、鄭を伐つ。鄭与に盟ふ。楚の共王鄭を救ひ、晋の兵を敗る。簡公晋と平がんと欲す。楚又鄭の使者を囚ふ。十二年、簡公、相子孔の国権を専らにするを怒り、之を誅して、子産を以て卿と為す。十九年、簡公晋に如きて衛君の還らんことを請ふ。而して子産を封ずるに六邑を以てす。子産譲りて、其の三邑を受く。二十二年、呉、延陵の季子を鄭に使はす。子産を見ること旧交の如し。子産に謂ひて曰く、「鄭の執政者侈る。難将に至らんとし、政将に子に及ばんとす。子政を為さば、必ず礼を以てせよ。然らずんば、鄭将に敗れんとす」と。子産厚く季子を遇す。二十三年、諸公子寵を争ひて相殺し、又子産を殺さんと欲す。公子或いは諫めて曰く、「子産は仁人なり。鄭の存する所以の者は子産なり。殺す勿かれ」と。乃ち止む。二十五年、鄭、子産を晋に使はし、平公の疾を問はしむ。平公曰く、「卜して曰く、実沈・台駘祟りを為すと。史官知る莫し。敢へて問ふ」と。対へて曰く、「高辛氏に二子有り。長を閼伯と曰ひ、季を実沈と曰ふ。曠林に居り、相能くせず、日に干戈を操りて以て相征伐す。
現代語訳
十四年、成公が死に、子の惲(うん)が立った。これが釐公である。釐公の五年、鄭の宰相の子駟(しし)が釐公に朝見したが、釐公は礼をもって遇さなかった。子駟は怒り、料理人に命じて釐公を毒殺させ、諸侯には「釐公は急病で亡くなった」と知らせた。そして釐公の子の嘉(か)を立てた。嘉はこのとき五歳で、これが簡公である。簡公の元年、公子たちが謀って宰相の子駟を殺そうとした。子駟はこれに気づき、逆に公子たちをことごとく殺した。二年、晋が鄭を討った。鄭は晋と盟約を結び、晋は去った。冬には楚とも盟約を結んだ。子駟は誅されることを恐れていたので、晋と楚の両方と親しくしたのである。三年、宰相の子駟が自ら君主になろうとした。公子の子孔(しこう)は尉止(いし)に命じて子駟を殺させ、代わって宰相となった。子孔もまた自ら君主になろうとした。子産(しさん)が言った。「子駟が道に外れたことをしたから誅したのに、今またそれを真似る。これでは乱の止む時がない」。そこで子孔は子産の言葉に従い、鄭の簡公の宰相にとどまった。四年、晋は鄭が楚と盟約を結んだことに怒って鄭を討ち、鄭は晋と盟約を結んだ。楚の共王は鄭を救い、晋軍を破った。簡公は晋と和睦しようとしたが、楚はまたも鄭の使者を捕らえた。十二年、簡公は宰相の子孔が国の権力を独占していることに怒り、これを誅殺して、子産を卿とした。十九年、簡公は晋に赴いて衛の君主の帰国を願い出た。そして子産に六つの邑を与えて封じようとしたが、子産は辞退して三つの邑だけを受けた。二十二年、呉が延陵(えんりょう)の季子(季札)を使者として鄭に遣わした。季子は子産に会うと、昔からの友人のように親しんだ。そして子産に言った。「鄭の執政者はおごっている。やがて災難が訪れ、政治はあなたに回ってくるだろう。あなたが政治を行うなら、必ず礼によって行いなさい。そうでなければ、鄭は滅びるだろう」。子産は季子を手厚くもてなした。二十三年、公子たちが寵愛を争って殺し合い、さらに子産をも殺そうとした。ある公子が諫めた。「子産は仁者である。鄭が存続しているのは子産のおかげだ。殺してはならない」。そこで思いとどまった。二十五年、鄭は子産を晋に遣わして、晋の平公の病気を見舞わせた。平公は言った。「占ったところ、実沈(じっちん)と台駘(たいたい)が祟っているという。史官たちも誰もそれが何か知らない。ぜひお教えいただきたい」。子産は答えた。「高辛氏に二人の子があり、兄を閼伯(あつはく)、弟を実沈といった。二人は曠林(こうりん)に住んでいたが、仲が悪く、毎日武器を手にして攻め合っていた。
解説
関連する章句
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史記 鄭世家子産、韓宣子に謂ひて曰く、「政を為すには必ず徳を以てし、立つ所以を忘るる毋かれ」と。六年、鄭火あり。公之を禳はんと欲す。子産曰く、「徳を修むるに如かず」と。八年、楚の太子建来奔す。十年、太子建、晋と謀りて鄭を襲はんとす。鄭、建を殺す。建の子勝呉に奔る。十一年、定公晋に如く。晋、鄭と謀りて周の乱臣を誅し、敬王を周に入る。十三年、定公卒し、子献公蠆立つ。献公十三年に卒し、子声公勝立つ。是の時に当たり、晋の六卿彊く、鄭を侵奪す。鄭遂に弱し。声公五年、鄭の相子産卒す。鄭人皆哭泣し、之を悲しむこと親戚を亡へるが如し。子産は鄭の成公の少子なり。人と為り仁にして人を愛し、君に事へて忠厚なり。
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史記 鄭世家孔子嘗て鄭を過り、子産と兄弟の如しと云ふ。子産の死を聞くに及び、孔子為に泣きて曰く、「古の遺愛なり」と。八年、晋の范・中行氏晋に反き、急を鄭に告ぐ。鄭之を救ふ。晋鄭を伐ち、鄭の軍を鉄に敗る。十四年、宋の景公曹を滅ぼす。二十年、斉の田常其の君簡公を弑して、常斉に相たり。二十二年、楚の恵王陳を滅ぼす。孔子卒す。三十六年、晋の知伯鄭を伐ち、九邑を取る。三十七年、声公卒し、子哀公易立つ。哀公八年、鄭人哀公を弑して声公の弟丑を立つ、是を共公と為す。共公三年、三晋知伯を滅ぼす。三十一年、共公卒し、子幽公已立つ。幽公元年、韓の武子鄭を伐ち、幽公を殺す。鄭人幽公の弟駘を立つ、是を繻公と為す。繻公十五年、韓の景侯鄭を伐ち、雍丘を取る。鄭京に城く。十六年、鄭韓を伐ち、韓の兵を負黍に敗る。二十年、韓・趙・魏列して諸侯と為る。二十三年、鄭韓の陽翟を囲む。二十五年、鄭君其の相子陽を殺す。二十七、子陽の党共に繻公駘を弑して幽公の弟乙を立てて君と為す、是を鄭君と為す。鄭君乙立ちて二年、鄭の負黍反き、復た韓に帰す。十一年、韓鄭を伐ち、陽城を取る。二十一年、韓の哀侯鄭を滅ぼし、其の国を并す。
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史記 鄭世家繆氏は、霊公を殺せし子公の族家なり。去疾曰く、「必ず繆氏を去らば、我将に之を去らんとす」と。乃ち止む。皆以て大夫と為す。襄公元年、楚、鄭の宋の賂を受けて華元を縦すを怒り、鄭を伐つ。鄭楚に背き、晋と親しむ。五年、楚復た鄭を伐ち、晋来りて之を救ふ。六年、子家卒す。国人復た其の族を逐ふ。其の霊公を弑せしを以てなり。七年、鄭、晋と鄢陵に盟ふ。八年、楚の荘王、鄭の晋と盟ふを以て、来りて伐ち、鄭を囲むこと三月、鄭城を以て楚に降る。楚王皇門より入る。鄭の襄公肉袒して羊を掔きて以て迎へて曰く、「孤辺邑に事ふること能はず、君王をして怒りを懐きて以て獘邑に及ばしむ。孤の罪なり。敢へて惟だ命を是れ聴かざらんや。君王之を江南に遷し、及び以て諸侯に賜ふも、亦惟だ命を是れ聴かん。若し君王、厲・宣王、桓・武公を忘れず、哀れみて其の社稷を絶つに忍びず、不毛の地を錫ひ、復た君王に改め事ふることを得しめば、孤の願ひなり。然れども敢へて望む所に非ざるなり。敢へて腹心を布き、惟だ命を是れ聴かん」と。荘王為に三十里を卻きて後に舎る。楚の群臣曰く、「郢より此に至るまで、士大夫も亦久しく労せり。今国を得て之を捨つ、何如」と。荘王曰く、「伐つ所為の者は、服せざるを伐つなり。今已に服す、尚何をか求めんや」と。卒に去る。晋、楚の鄭を伐つを聞き、兵を発して鄭を救ふ。其の来るや両端を持す、故に遅し。河に至る比、楚の兵已に去る。晋の将率或いは渡らんと欲し、或いは還らんと欲す。卒に河を渡る。荘王聞き、還りて晋を撃つ。鄭反りて楚を助け、大いに晋軍を河上に破る。十年、晋来りて鄭を伐つ。其の晋に反きて楚に親しむを以てなり。十一年、楚の荘王宋を伐つ。宋急を晋に告ぐ。晋の景公兵を発して宋を救はんと欲す。伯宗晋君を諫めて曰く、「天方に楚を開く、未だ伐つべからざるなり」と。乃ち壮士を求めて霍人解揚、字は子虎を得、楚を誆きて、宋をして降る毋からしめんとす。鄭を過る。鄭は楚と親し、乃ち解揚を執へて楚に献ず。
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史記 鄭世家后帝臧しとせず、閼伯を商丘に遷し、辰を主らしむ。商人是に因る、故に辰を商星と為す。実沈を大夏に遷し、参を主らしむ。唐人是に因り、夏・商に服事す。其の季世を唐叔虞と曰ふ。武王の邑姜方に大叔を娠むに当たり、夢に帝己に謂ふ、『余而の子に命じて虞と曰ひ、乃ち之に唐を与へ、之を参に属して其の子孫を蕃育せしめん』と。生まるるに及びて文有り其の掌に在りて『虞』と曰ふ。遂に以て之に命ず。成王唐を滅ぼして大叔を国とするに及ぶ。故に参を晋星と為す。是に由りて之を観れば、則ち実沈は参の神なり。昔金天氏に裔子有り昧と曰ふ。玄冥の師と為り、允格・台駘を生む。台駘能く其の官を業とし、汾・洮を宣べ、大沢を障り、以て太原に処る。帝用て之を嘉し、之を汾川に国とす。沈・姒・蓐・黄実に其の祀を守る。今晋汾川を主りて之を滅ぼせり。是に由りて之を観れば、則ち台駘は汾・洮の神なり。然れども是の二者は君の身を害せず。山川の神は、則ち水旱の菑に之を禜す。日月星辰の神は、則ち雪霜風雨の時ならざるに之を禜す。君の疾の若きは、飲食哀楽女色の生ずる所なり」と。平公及び叔向曰く、「善し、博物の君子なり」と。厚く之が礼を子産に為す。二十七年夏、鄭の簡公晋に朝す。冬、楚の霊王の彊きを畏れ、又楚に朝す。子産従ふ。二十八年、鄭君病む。子産をして諸侯に会せしめ、楚の霊王と申に盟ひ、斉の慶封を誅す。三十六年、簡公卒し、子定公寧立つ。秋、定公晋の昭公に朝す。定公元年、楚の公子棄疾其の君霊王を弑して自ら立ち、平王と為る。徳を諸侯に行はんと欲し、霊王の侵す所の鄭の地を鄭に帰す。四年、晋の昭公卒す。其の六卿彊く、公室卑し。
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史記 鄭世家二十四年、宋の繆公卒し、公子馮鄭に奔る。鄭、周の地を侵し、禾を取る。二十五年、衛の州吁其の君桓公を弑して自ら立ち、宋と鄭を伐つ。馮の故を以てなり。二十七年、始めて周の桓王に朝す。桓王其の禾を取りしを怒り、礼せず。二十九年、荘公、周の礼せざるを怒り、魯と祊・許田を易ふ。三十三年、宋孔父を殺す。三十七年、荘公周に朝せず。周の桓王、陳・蔡・虢・衛を率ゐて鄭を伐つ。荘公、祭仲・高渠弥と兵を発して自ら救ひ、王の師大いに敗る。祝聸、王の臂を射中つ。祝聸之を従はんことを請ふ。鄭伯之を止めて曰く、「長を犯すすら且つ之を難る、況んや敢へて天子を陵がんや」と。乃ち止む。夜、祭仲をして王の疾を問はしむ。三十八年、北戎斉を伐つ。斉、救ひを求めしむ。鄭、太子忽を遣はし兵を将ゐて斉を救はしむ。斉の釐公之に妻はせんと欲す。忽謝して曰く、「我は小国なり、斉の敵に非ざるなり」と。時に祭仲倶にし、勧めて之を取らしめて曰く、「君は内寵多し。太子大援無くんば将に立たざらんとす。三公子は皆君なり」と。所謂三公子とは、太子忽、其の弟突、次弟子亹なり。四十三年、鄭の荘公卒す。初め、祭仲甚だ荘公に寵有り、荘公使ひて卿と為す。公、鄧の女を娶らしむ。太子忽を生む。故に祭仲之を立つ、是を昭公と為す。荘公又宋の雍氏の女を娶り、厲公突を生む。雍氏宋に寵有り。宋の荘公、祭仲の忽を立つるを聞き、乃ち人をして祭仲を誘ひ召して之を執へしめて曰く、「突を立てずんば、将に死せんとす」と。亦突を執へて以て賂を求む。祭仲宋に許し、宋と盟ふ。突を以て帰り、之を立つ。昭公忽、祭仲の宋を以て要せられて其の弟突を立つるを聞き、九月丁亥、忽出でて衛に奔る。己亥、突鄭に至りて立つ、是を厲公と為す。厲公四年、祭仲国政を専らにす。厲公之を患へ、陰かに其の婿雍糾をして祭仲を殺さんと欲せしむ。
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史記 鄭世家晋の文公、蘭を入れて太子と為さんと欲し、以て鄭に告ぐ。鄭の大夫石癸曰く、「吾聞く、姞姓は乃ち后稷の元妃なり、其の後当に興る者有るべしと。子蘭の母は其の後なり。且つ夫人の子尽く已に死し、余の庶子に蘭の賢に如くは無し。今囲み急なり。晋以て請ふを為す。利孰れか焉より大ならん」と。遂に晋に許し、与に盟ひ、卒に子蘭を立てて太子と為す。晋の兵乃ち罷め去る。四十五年、文公卒し、子蘭立つ、是を繆公と為す。繆公元年春、秦の繆公、三将をして兵を将ゐて鄭を襲はんと欲せしむ。滑に至り、鄭の賈人絃高に逢ふ。詐りて十二牛を以て軍を労ふ。故に秦の兵至らずして還る。晋之を崤に敗る。初め、往年鄭の文公の卒するや、鄭の司城繒賀、鄭の情を以て之を売る。秦の兵故に来る。三年、鄭兵を発して晋に従ひて秦を伐ち、秦の兵を汪に敗る。往年楚の太子商臣其の父成王を弑して代はりて立つ。二十一年、宋の華元と鄭を伐つ。華元羊を殺して士に食はしむるも、其の御羊斟に与へず。怒りて以て鄭に馳す。鄭華元を囚ふ。宋華元を贖ふ。元も亦亡げ去る。晋、趙穿をして兵を以て鄭を伐たしむ。霊公元年春、楚黿を霊公に献ず。子家・子公将に霊公に朝せんとす。子公の食指動く。子家に謂ひて曰く、「佗日指動けば、必ず異物を食らふ」と。入るに及び、霊公の黿の羹を進むるを見る。子公笑ひて曰く、「果たして然り」と。霊公其の笑ふ故を問ふ。具に霊公に告ぐ。霊公之を召し、独り羹を予へず。子公怒り、其の指を染め、之を嘗めて出づ。公怒り、子公を殺さんと欲す。子公、子家と先んぜんことを謀る。夏、霊公を弑す。鄭人、霊公の弟去疾を立てんと欲す。去疾譲りて曰く、「必ず賢を以てせば、則ち去疾は不肖なり。必ず順を以てせば、則ち公子堅長ず」と。堅は霊公の庶弟にして、去疾の兄なり。是に於て乃ち子堅を立つ、是を襄公と為す。襄公立ち、将に尽く繆氏を去らんとす。
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