史記 / 鄭世家
楚王厚賜與約,使反其言,令宋趣降,三要乃許。於是楚登解揚樓車,令呼宋。遂負楚約而致其晉君命曰:「晉方悉國兵以救宋,宋雖急,愼毋降楚,晉兵今至矣!」楚莊王大怒,將殺之。解揚曰:「君能制命爲義,臣能承命爲信。受吾君命以出,有死無隕。」莊王曰:「若之許我,已而背之,其信安在?」解揚曰:「所以許王,欲以成吾君命也。」將死,顧謂楚軍曰:「爲人臣無忘盡忠得死者!」楚王諸弟皆諫王赦之,於是赦解揚使歸。晉爵之爲上卿。十八年,襄公卒,子悼公沸立。悼公元年,鄦公惡鄭於楚,悼公使弟睔於楚自訟。訟不直,楚囚睔。於是鄭悼公來與晉平,遂親。睔私於楚子反,子反言歸睔於鄭。二年,楚伐鄭,晉兵來救。是歳,悼公卒,立其弟睔,是爲成公。成公三年,楚共王曰「鄭成公孤有德焉」,使人來與盟。成公私與盟。秋,成公朝晉,晉曰「鄭私平於楚」,執之。使欒書伐鄭。四年春,鄭患晉圍,公子如乃立成公庶兄繻爲君。其四月,晉聞鄭立君,乃歸成公。鄭人聞成公歸,亦殺君繻,迎成公。晉兵去。十年,背晉盟,盟於楚。晉厲公怒,發兵伐鄭。楚共王救鄭。晉楚戰鄢陵,楚兵敗,晉射傷楚共王目,倶罷而去。十三年,晉悼公伐鄭,兵於洧上。鄭城守,晉亦去。
新字:楚王厚賜与約,使反其言,令宋趣降,三要乃許。於是楚登解揚楼車,令呼宋。遂負楚約而致其晋君命曰:「晋方悉国兵以救宋,宋雖急,慎毋降楚,晋兵今至矣!」楚荘王大怒,将殺之。解揚曰:「君能制命為義,臣能承命為信。受吾君命以出,有死無隕。」荘王曰:「若之許我,已而背之,其信安在?」解揚曰:「所以許王,欲以成吾君命也。」将死,顧謂楚軍曰:「為人臣無忘尽忠得死者!」楚王諸弟皆諫王赦之,於是赦解揚使帰。晋爵之為上卿。十八年,襄公卒,子悼公沸立。悼公元年,鄦公悪鄭於楚,悼公使弟睔於楚自訟。訟不直,楚囚睔。於是鄭悼公来与晋平,遂親。睔私於楚子反,子反言帰睔於鄭。二年,楚伐鄭,晋兵来救。是歳,悼公卒,立其弟睔,是為成公。成公三年,楚共王曰「鄭成公孤有徳焉」,使人来与盟。成公私与盟。秋,成公朝晋,晋曰「鄭私平於楚」,執之。使欒書伐鄭。四年春,鄭患晋囲,公子如乃立成公庶兄繻為君。其四月,晋聞鄭立君,乃帰成公。鄭人聞成公帰,亦殺君繻,迎成公。晋兵去。十年,背晋盟,盟於楚。晋厲公怒,発兵伐鄭。楚共王救鄭。晋楚戦鄢陵,楚兵敗,晋射傷楚共王目,倶罷而去。十三年,晋悼公伐鄭,兵於洧上。鄭城守,晋亦去。
書き下し
楚王厚く賜ひて与に約し、其の言を反さしめ、宋をして趣かに降らしめんとす。三たび要めて乃ち許す。是に於て楚、解揚を楼車に登らせ、宋を呼ばしむ。遂に楚の約に負きて其の晋君の命を致して曰く、「晋方に国の兵を悉くして以て宋を救はんとす。宋急なりと雖も、慎みて楚に降る毋かれ。晋の兵今に至らん」と。楚の荘王大いに怒り、将に之を殺さんとす。解揚曰く、「君能く命を制するを義と為し、臣能く命を承くるを信と為す。吾が君の命を受けて以て出づ。死有るも隕とす無し」と。荘王曰く、「若の我に許し、已にして之に背く。其の信安くに在りや」と。解揚曰く、「王に許せし所以は、以て吾が君の命を成さんと欲すればなり」と。将に死せんとし、顧みて楚軍に謂ひて曰く、「人臣と為りて忠を尽くして死を得ることを忘るる無かれ」と。楚王の諸弟皆王を諫めて之を赦さしむ。是に於て解揚を赦して帰らしむ。晋之に爵して上卿と為す。十八年、襄公卒し、子悼公沸立つ。悼公元年、鄦公、鄭を楚に悪む。悼公、弟睔をして楚に於て自ら訟へしむ。訟直からず、楚睔を囚ふ。是に於て鄭の悼公来りて晋と平ぎ、遂に親しむ。睔、私かに楚の子反に於てす。子反言ひて睔を鄭に帰さしむ。二年、楚鄭を伐つ。晋の兵来り救ふ。是の歳、悼公卒し、其の弟睔を立つ、是を成公と為す。成公三年、楚の共王曰く「鄭の成公は孤徳有り」と。人をして来りて与に盟はしむ。成公私かに与に盟ふ。秋、成公晋に朝す。晋曰く「鄭私かに楚に平ぐ」と。之を執ふ。欒書をして鄭を伐たしむ。四年春、鄭晋の囲みを患ふ。公子如乃ち成公の庶兄繻を立てて君と為す。其の四月、晋、鄭の君を立つるを聞き、乃ち成公を帰す。鄭人成公の帰るを聞き、亦君繻を殺し、成公を迎ふ。晋の兵去る。十年、晋の盟に背き、楚に盟ふ。晋の厲公怒り、兵を発して鄭を伐つ。楚の共王鄭を救ふ。晋・楚鄢陵に戦ふ。楚の兵敗れ、晋楚の共王の目を射傷つけ、倶に罷めて去る。十三年、晋の悼公鄭を伐ち、洧上に兵す。鄭城守す。晋も亦去る。
現代語訳
楚王は解揚に厚く贈り物をして約束を交わし、晋君の言葉を裏返しに伝えさせて、宋を速やかに降伏させようとした。三度求められて、解揚はようやく承知した。そこで楚は解揚を物見櫓の車に登らせ、宋に呼びかけさせた。ところが解揚は楚との約束に背き、晋君の命令をそのまま伝えた。「晋は今まさに国中の兵を挙げて宋を救おうとしている。宋は切迫していようとも、決して楚に降伏してはならない。晋の兵はまもなく到着する」。楚の荘王は大いに怒り、解揚を殺そうとした。解揚は言った。「君主がよく命令を定めることを義といい、臣下がよく命令を受けて果たすことを信という。わたしはわが君の命を受けて出てきた。死ぬことはあっても、命を損なうことはない」。荘王は言った。「おまえはわたしに承知しておきながら、背いた。その信はどこにあるのか」。解揚は言った。「王に承知したのは、わが君の命令を果たすためであった」。殺される間際、振り返って楚の軍に言った。「人の臣たる者、忠を尽くして死ねることの幸いを忘れるな」。楚王の弟たちはみな王に彼を赦すよう諫めた。そこで解揚を赦して帰らせた。晋は彼に爵位を与えて上卿とした。十八年、襄公が死に、子の悼公沸(ひ)が立った。悼公の元年、鄦(きょ)公が鄭を楚に讒言した。悼公は弟の睔(こん)を楚に遣わして自ら弁明させたが、弁明は認められず、楚は睔を捕らえた。そこで鄭の悼公は晋と和睦し、晋と親しくなった。睔はひそかに楚の子反(しはん)に取り入り、子反の口添えで鄭に帰された。二年、楚が鄭を討ち、晋の兵が救援に来た。この年、悼公が死に、その弟の睔が立った。これが成公である。成公の三年、楚の共王は「鄭の成公にはわたしが恩を施した」と言って、使者を遣わして盟約を結ばせた。成公はひそかに楚と盟約を結んだ。秋、成公が晋に朝見すると、晋は「鄭はひそかに楚と和睦した」と言って成公を捕らえ、欒書(らんしょ)に鄭を討たせた。四年の春、鄭は晋の包囲に苦しみ、公子如(じょ)が成公の庶兄の繻(じゅ)を君に立てた。その四月、晋は鄭が新しい君を立てたと聞いて、成公を帰国させた。鄭の人々は成公が帰ると聞いて、君の繻を殺して成公を迎えた。晋の兵は去った。十年、鄭は晋との盟約に背いて楚と盟約を結んだ。晋の厲公は怒って兵を出して鄭を討った。楚の共王は鄭を救った。晋と楚は鄢陵で戦い、楚軍は敗れ、晋は楚の共王の目を射て傷つけ、両軍とも兵を収めて去った。十三年、晋の悼公が鄭を討ち、洧水(いすい)のほとりに兵を置いた。鄭は城を固く守り、晋もまた去った。
解説
関連する章句
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史記 鄭世家繆氏は、霊公を殺せし子公の族家なり。去疾曰く、「必ず繆氏を去らば、我将に之を去らんとす」と。乃ち止む。皆以て大夫と為す。襄公元年、楚、鄭の宋の賂を受けて華元を縦すを怒り、鄭を伐つ。鄭楚に背き、晋と親しむ。五年、楚復た鄭を伐ち、晋来りて之を救ふ。六年、子家卒す。国人復た其の族を逐ふ。其の霊公を弑せしを以てなり。七年、鄭、晋と鄢陵に盟ふ。八年、楚の荘王、鄭の晋と盟ふを以て、来りて伐ち、鄭を囲むこと三月、鄭城を以て楚に降る。楚王皇門より入る。鄭の襄公肉袒して羊を掔きて以て迎へて曰く、「孤辺邑に事ふること能はず、君王をして怒りを懐きて以て獘邑に及ばしむ。孤の罪なり。敢へて惟だ命を是れ聴かざらんや。君王之を江南に遷し、及び以て諸侯に賜ふも、亦惟だ命を是れ聴かん。若し君王、厲・宣王、桓・武公を忘れず、哀れみて其の社稷を絶つに忍びず、不毛の地を錫ひ、復た君王に改め事ふることを得しめば、孤の願ひなり。然れども敢へて望む所に非ざるなり。敢へて腹心を布き、惟だ命を是れ聴かん」と。荘王為に三十里を卻きて後に舎る。楚の群臣曰く、「郢より此に至るまで、士大夫も亦久しく労せり。今国を得て之を捨つ、何如」と。荘王曰く、「伐つ所為の者は、服せざるを伐つなり。今已に服す、尚何をか求めんや」と。卒に去る。晋、楚の鄭を伐つを聞き、兵を発して鄭を救ふ。其の来るや両端を持す、故に遅し。河に至る比、楚の兵已に去る。晋の将率或いは渡らんと欲し、或いは還らんと欲す。卒に河を渡る。荘王聞き、還りて晋を撃つ。鄭反りて楚を助け、大いに晋軍を河上に破る。十年、晋来りて鄭を伐つ。其の晋に反きて楚に親しむを以てなり。十一年、楚の荘王宋を伐つ。宋急を晋に告ぐ。晋の景公兵を発して宋を救はんと欲す。伯宗晋君を諫めて曰く、「天方に楚を開く、未だ伐つべからざるなり」と。乃ち壮士を求めて霍人解揚、字は子虎を得、楚を誆きて、宋をして降る毋からしめんとす。鄭を過る。鄭は楚と親し、乃ち解揚を執へて楚に献ず。
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史記 楚世家九年、若敖氏に相たり。人或いは之を王に讒す。誅せられんことを恐れ、反って王を攻む。王撃ちて若敖氏の族を滅ぼす。十三年、舒を滅ぼす。十六年、陳を伐ち、夏徴舒を殺す。徴舒其の君を弑す。故に之を誅するなり。已に陳を破り、即ち之を県とす。群臣皆賀す。申叔時斉に使ひして来たり、賀せず。王問ふ。対へて曰く、「鄙語に曰く、牛を牽きて人の田を徑(わた)れば、田主其の牛を取る、と。徑る者は則ち直からず。之が牛を取るは亦た甚だしからずや。且つ王陳の乱を以て諸侯を率ゐて之を伐つ。義を以て之を伐ちて其の県を貪る。亦た何を以て復た天下に令せん」と。荘王乃ち陳の後を復国す。十七年春、楚の荘王鄭を囲み、三月にして之に克つ。皇門より入る。鄭伯肉袒し羊を牽きて以て逆へて曰く、「孤天ならず、君に事ふること能はず。君用て怒りを懐き、以て敝邑に及ぶ。孤の罪なり。敢て惟だ命を是れ聴かざらんや。之を南海に賓(しりぞ)くるも、若しくは臣妾を以て諸侯に賜ふも、亦た惟だ命を是れ聴かん。若し君厲・宣・桓・武を忘れず、其の社稷を絶たず、改めて君に事へしめば、孤の願ひなり。敢て望む所に非ざるなり。敢て腹心を布く」と。楚の群臣曰く、「王許すこと勿かれ」と。荘王曰く、「其の君能く人に下る。必ず能く其の民を信用せん。庸ぞ絶つべけんや」と。荘王自ら旗を手にし、左右に軍を麾(さしまね)き、兵を引きて去ること三十里にして舎り、遂に之に平らぐことを許す。潘尪入りて盟ひ、子良出でて質たり。夏六月、晋鄭を救ひ、楚と戦ふ。大いに晋の師を河上に敗り、遂に衡雍に至りて帰る。二十年、宋を囲む。楚の使ひを殺せしを以てなり。宋を囲むこと五月、城中食尽き、子を易へて食らひ、骨を析きて炊ぐ。宋の華元出でて告ぐるに情を以てす。荘王曰く、「君子なるかな」と。遂に兵を罷めて去る。二十三年、荘王卒し、子の共王審立つ。共王の十六年、晋鄭を伐つ。鄭急を告ぐ。共王鄭を救ふ。晋の兵と鄢陵に戦ふ。晋楚を敗り、共王の目に射中つ。共王将軍子反を召す。
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説苑・奉使楚の莊王兵を舉げて宋を伐つ。宋急を告ぐ。晉の景公兵を發して宋を救わんと欲す。伯宗諫めて曰く、「天方に楚を開く、未だ伐つべからず。」乃ち壯士を求め、霍人解揚を得たり、字は子虎。往きて宋に降る毋かれと命ぜしむ。道鄭を過ぐ。鄭新たに楚と親しむ。乃ち解揚を執えて之を楚に獻ず。楚王厚く賜い、與に約し、其の言を反さしめ、宋をして趣かに降らしめんとす。三たび要むるも、解揚乃ち許す。是に於て楚揚を樓車に乘せ、呼びて宋をして降らしめしむ。遂に楚の約に倍きて其の晉君の命を致して曰く、「晉方に國兵を悉くして宋を救う。宋急なりと雖も、慎みて楚に降る毋かれ。晉今至らんとす。」楚の莊王大いに怒り、將に之を烹んとす。解揚曰く、「君能く命を制するを義と爲し、臣能く命を承くるを信と爲す。吾が君の命を受けて以て出づ、死すと雖も二つせず。」王曰く、「汝の我に許すや、已にして之に倍く、其の信安くにか在る。」解揚曰く、「死して以て王に許すは、吾が君の命を成さんと欲すればなり、臣恨みざるなり。」顧みて楚君に謂いて曰く、「人臣爲りて忠を盡くすを忘れずして死を得る者無し。」楚王の諸弟皆王に諫めて之を赦さしむ。是に於て莊公卒に解揚を赦して之を歸す。晉之を爵して上卿と爲す。故に後世霍虎と言う。
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史記 晋世家隨会曰く、「昔文公の楚と城濮に戦ふや、成王帰りて子玉を殺す。而して文公乃ち喜ぶ。今楚已に我が師を敗る。又其の将を誅せば、是れ楚を助けて仇を殺すなり」と。乃ち止む。四年、先縠首計を以て晋の軍を河上に敗る。誅せられんことを恐れ、乃ち翟に奔り、翟と晋を伐たんことを謀る。晋覚り、乃ち縠を族す。縠は、先軫の子なり。五年、鄭を伐つ。楚を助けしが為の故なり。是の時楚の荘王彊し。晋の兵を河上に挫きしを以てなり。六年、楚宋を伐つ。宋来たりて急を晋に告ぐ。晋之を救はんと欲す。伯宗謀りて曰く、「楚は、天方に之を開く。当たるべからず」と。乃ち解揚をして紿(あざむ)きて宋を救ふと為さしむ。鄭人執へて楚に与ふ。楚厚く賜ひ、其の言を反さしめ、宋をして急ぎ下らしめんとす。解揚紿きて之を許し、卒に晋君の言を致す。楚之を殺さんと欲す。或いは諫む。乃ち解揚を帰す。七年、晋隨会をして赤狄を滅ぼさしむ。八年、郤克をして斉に使ひせしむ。斉の頃公の母楼上より観て之を笑ふ。然る所以の者は、郤克は僂(せむし)にして、魯の使ひは蹇(あしなへ)、衛の使ひは眇(すがめ)なり。故に斉も亦た人をして之の如くならしめて以て客を導く。郤克怒り、帰りて河上に至りて曰く、「斉に報いざれば、河伯之を視よ」と。国に至り、君に請ひて、斉を伐たんと欲す。景公其の故を問ひ知りて曰く、「子の怨み、安んぞ以て国を煩はすに足らん」と。聴かず。魏文子老を請ひて休み、郤克を辟く。克政を執る。九年、楚の荘王卒す。晋斉を伐つ。斉太子彊をして晋に質たらしむ。晋の兵罷む。十一年春、斉魯を伐ち、隆を取る。魯急を衛に告ぐ。衛と魯と皆郤克に因りて急を晋に告ぐ。晋乃ち郤克・欒書・韓厥をして兵車八百乗を以て魯・衛と共に斉を伐たしむ。夏、頃公と砹に戦ひ、頃公を傷つけ困しむ。頃公乃ち其の右と位を易へ、下りて飲を取り、以て脱して去るを得たり。斉の師敗走す。晋北ぐるを追ひて斉に至る。頃公宝器を献じて以て平らがんことを求む。聴かず。郤克曰く、「必ず蕭桐姪子を得て質と為さん」と。
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史記 鄭世家二十四年、宋の繆公卒し、公子馮鄭に奔る。鄭、周の地を侵し、禾を取る。二十五年、衛の州吁其の君桓公を弑して自ら立ち、宋と鄭を伐つ。馮の故を以てなり。二十七年、始めて周の桓王に朝す。桓王其の禾を取りしを怒り、礼せず。二十九年、荘公、周の礼せざるを怒り、魯と祊・許田を易ふ。三十三年、宋孔父を殺す。三十七年、荘公周に朝せず。周の桓王、陳・蔡・虢・衛を率ゐて鄭を伐つ。荘公、祭仲・高渠弥と兵を発して自ら救ひ、王の師大いに敗る。祝聸、王の臂を射中つ。祝聸之を従はんことを請ふ。鄭伯之を止めて曰く、「長を犯すすら且つ之を難る、況んや敢へて天子を陵がんや」と。乃ち止む。夜、祭仲をして王の疾を問はしむ。三十八年、北戎斉を伐つ。斉、救ひを求めしむ。鄭、太子忽を遣はし兵を将ゐて斉を救はしむ。斉の釐公之に妻はせんと欲す。忽謝して曰く、「我は小国なり、斉の敵に非ざるなり」と。時に祭仲倶にし、勧めて之を取らしめて曰く、「君は内寵多し。太子大援無くんば将に立たざらんとす。三公子は皆君なり」と。所謂三公子とは、太子忽、其の弟突、次弟子亹なり。四十三年、鄭の荘公卒す。初め、祭仲甚だ荘公に寵有り、荘公使ひて卿と為す。公、鄧の女を娶らしむ。太子忽を生む。故に祭仲之を立つ、是を昭公と為す。荘公又宋の雍氏の女を娶り、厲公突を生む。雍氏宋に寵有り。宋の荘公、祭仲の忽を立つるを聞き、乃ち人をして祭仲を誘ひ召して之を執へしめて曰く、「突を立てずんば、将に死せんとす」と。亦突を執へて以て賂を求む。祭仲宋に許し、宋と盟ふ。突を以て帰り、之を立つ。昭公忽、祭仲の宋を以て要せられて其の弟突を立つるを聞き、九月丁亥、忽出でて衛に奔る。己亥、突鄭に至りて立つ、是を厲公と為す。厲公四年、祭仲国政を専らにす。厲公之を患へ、陰かに其の婿雍糾をして祭仲を殺さんと欲せしむ。
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史記 鄭世家孔子嘗て鄭を過り、子産と兄弟の如しと云ふ。子産の死を聞くに及び、孔子為に泣きて曰く、「古の遺愛なり」と。八年、晋の范・中行氏晋に反き、急を鄭に告ぐ。鄭之を救ふ。晋鄭を伐ち、鄭の軍を鉄に敗る。十四年、宋の景公曹を滅ぼす。二十年、斉の田常其の君簡公を弑して、常斉に相たり。二十二年、楚の恵王陳を滅ぼす。孔子卒す。三十六年、晋の知伯鄭を伐ち、九邑を取る。三十七年、声公卒し、子哀公易立つ。哀公八年、鄭人哀公を弑して声公の弟丑を立つ、是を共公と為す。共公三年、三晋知伯を滅ぼす。三十一年、共公卒し、子幽公已立つ。幽公元年、韓の武子鄭を伐ち、幽公を殺す。鄭人幽公の弟駘を立つ、是を繻公と為す。繻公十五年、韓の景侯鄭を伐ち、雍丘を取る。鄭京に城く。十六年、鄭韓を伐ち、韓の兵を負黍に敗る。二十年、韓・趙・魏列して諸侯と為る。二十三年、鄭韓の陽翟を囲む。二十五年、鄭君其の相子陽を殺す。二十七、子陽の党共に繻公駘を弑して幽公の弟乙を立てて君と為す、是を鄭君と為す。鄭君乙立ちて二年、鄭の負黍反き、復た韓に帰す。十一年、韓鄭を伐ち、陽城を取る。二十一年、韓の哀侯鄭を滅ぼし、其の国を并す。
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