史記 / 鄭世家
后帝弗臧,遷閼伯于商丘,主辰,商人是因,故辰爲商星。遷實沈于大夏,主參,唐人是因,服事夏、商,其季世曰唐叔虞。當武王邑姜方娠大叔,夢帝謂己:『余命而子曰虞,乃與之唐,屬之參而蕃育其子孫。』及生有文在其掌曰『虞』,遂以命之。及成王滅唐而國大叔焉。故參爲晉星。由是觀之,則實沈,參神也。昔金天氏有裔子曰昧,爲玄冥師,生允格、臺駘。臺駘能業其官,宣汾、洮,障大澤,以處太原。帝用嘉之,國之汾川。沈、姒、蓐、黃實守其祀。今晉主汾川而滅之。由是觀之,則臺駘,汾、洮神也。然是二者不害君身。山川之神,則水旱之菑禜之;日月星辰之神,則雪霜風雨不時禜之;若君疾,飲食哀樂女色所生也。」平公及叔向曰:「善,博物君子也!」厚爲之禮於子産。二十七年夏,鄭簡公朝晉。冬,畏楚靈王之彊,又朝楚,子産從。二十八年,鄭君病,使子産會諸侯,與楚靈王盟於申,誅齊慶封。三十六年,簡公卒,子定公寧立。秋,定公朝晉昭公。定公元年,楚公子棄疾弒其君靈王而自立,爲平王。欲行德諸侯。歸靈王所侵鄭地于鄭。四年,晉昭公卒,其六卿彊,公室卑。
新字:后帝弗臧,遷閼伯于商丘,主辰,商人是因,故辰為商星。遷実沈于大夏,主参,唐人是因,服事夏、商,其季世曰唐叔虞。当武王邑姜方娠大叔,夢帝謂己:『余命而子曰虞,乃与之唐,属之参而蕃育其子孫。』及生有文在其掌曰『虞』,遂以命之。及成王滅唐而国大叔焉。故参為晋星。由是観之,則実沈,参神也。昔金天氏有裔子曰昧,為玄冥師,生允格、台駘。台駘能業其官,宣汾、洮,障大沢,以処太原。帝用嘉之,国之汾川。沈、姒、蓐、黄実守其祀。今晋主汾川而滅之。由是観之,則台駘,汾、洮神也。然是二者不害君身。山川之神,則水旱之菑禜之;日月星辰之神,則雪霜風雨不時禜之;若君疾,飲食哀楽女色所生也。」平公及叔向曰:「善,博物君子也!」厚為之礼於子産。二十七年夏,鄭簡公朝晋。冬,畏楚霊王之彊,又朝楚,子産従。二十八年,鄭君病,使子産会諸侯,与楚霊王盟於申,誅斉慶封。三十六年,簡公卒,子定公寧立。秋,定公朝晋昭公。定公元年,楚公子棄疾弒其君霊王而自立,為平王。欲行徳諸侯。帰霊王所侵鄭地于鄭。四年,晋昭公卒,其六卿彊,公室卑。
書き下し
后帝臧しとせず、閼伯を商丘に遷し、辰を主らしむ。商人是に因る、故に辰を商星と為す。実沈を大夏に遷し、参を主らしむ。唐人是に因り、夏・商に服事す。其の季世を唐叔虞と曰ふ。武王の邑姜方に大叔を娠むに当たり、夢に帝己に謂ふ、『余而の子に命じて虞と曰ひ、乃ち之に唐を与へ、之を参に属して其の子孫を蕃育せしめん』と。生まるるに及びて文有り其の掌に在りて『虞』と曰ふ。遂に以て之に命ず。成王唐を滅ぼして大叔を国とするに及ぶ。故に参を晋星と為す。是に由りて之を観れば、則ち実沈は参の神なり。昔金天氏に裔子有り昧と曰ふ。玄冥の師と為り、允格・台駘を生む。台駘能く其の官を業とし、汾・洮を宣べ、大沢を障り、以て太原に処る。帝用て之を嘉し、之を汾川に国とす。沈・姒・蓐・黄実に其の祀を守る。今晋汾川を主りて之を滅ぼせり。是に由りて之を観れば、則ち台駘は汾・洮の神なり。然れども是の二者は君の身を害せず。山川の神は、則ち水旱の菑に之を禜す。日月星辰の神は、則ち雪霜風雨の時ならざるに之を禜す。君の疾の若きは、飲食哀楽女色の生ずる所なり」と。平公及び叔向曰く、「善し、博物の君子なり」と。厚く之が礼を子産に為す。二十七年夏、鄭の簡公晋に朝す。冬、楚の霊王の彊きを畏れ、又楚に朝す。子産従ふ。二十八年、鄭君病む。子産をして諸侯に会せしめ、楚の霊王と申に盟ひ、斉の慶封を誅す。三十六年、簡公卒し、子定公寧立つ。秋、定公晋の昭公に朝す。定公元年、楚の公子棄疾其の君霊王を弑して自ら立ち、平王と為る。徳を諸侯に行はんと欲し、霊王の侵す所の鄭の地を鄭に帰す。四年、晋の昭公卒す。其の六卿彊く、公室卑し。
現代語訳
帝(堯)はそれをよしとせず、閼伯を商丘(しょうきゅう)に移して辰星(大火)の祭りをつかさどらせた。商の人々はこれを受け継いだので、辰星を商の星とする。実沈を大夏(たいか)に移して参星(しんせい、オリオン座の三つ星)の祭りをつかさどらせた。唐の人々はこれを受け継ぎ、夏・商に仕えた。その末代を唐叔虞(とうしゅくぐ)という。周の武王の后の邑姜(ゆうきょう)が大叔(たいしゅく)を身ごもったとき、夢に天帝が現れて言った。『わたしはおまえの子に虞と名づけ、唐の地を与え、参星に属させて、その子孫を栄えさせよう』。生まれてみると、掌に『虞』という模様があったので、そのまま虞と名づけた。成王が唐を滅ぼすと、そこに大叔を封じて国とした。だから参星を晋の星とするのである。こうして見ると、実沈とは参星の神である。昔、金天氏に昧(まい)という子孫があり、水の官の長となって、允格(いんかく)と台駘を生んだ。台駘はよくその職務を継いで、汾水(ふんすい)と洮水(とうすい)の流れを通し、大きな沼沢に堤を築き、太原に住んだ。帝はこれを褒めたたえ、汾水の流域に国を与えた。沈・姒(じ)・蓐(じょく)・黄の国々がその祭祀を守ってきたが、今は晋が汾水流域を治めてそれらを滅ぼしてしまった。こうして見ると、台駘とは汾水・洮水の神である。しかし、この二神は君の体を害するものではない。山川の神には、洪水や日照りの災いがあるときに祓いの祭りをし、日月星辰の神には、雪・霜・風・雨が時節に合わないときに祓いの祭りをする。君のご病気のようなものは、飲食・喜怒哀楽・女色から生じたものである」。平公と叔向(しゅくきょう)は「すばらしい、博識の君子だ」と言い、子産を手厚く礼遇した。二十七年夏、鄭の簡公は晋に朝見した。冬には楚の霊王の強さを恐れて、楚にも朝見し、子産が随行した。二十八年、鄭君が病気になり、子産を代わりに諸侯の会に出席させた。子産は楚の霊王と申(しん)で盟約を結び、斉の慶封(けいほう)を誅殺する場に立ち会った。三十六年、簡公が死に、子の定公寧(ねい)が立った。秋、定公は晋の昭公に朝見した。定公の元年、楚の公子棄疾(きしつ)が主君の霊王を殺して自ら立ち、平王となった。平王は諸侯に徳を施そうとして、霊王が奪っていた鄭の土地を鄭に返した。四年、晋の昭公が死んだ。晋では六卿(六人の有力大夫)が強く、公室は衰えていた。
解説
関連する章句
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史記 鄭世家十四年、成公卒し、子惲立つ。是を釐公と為す。釐公五年、鄭の相子駟、釐公に朝す。釐公礼せず。子駟怒り、廚人をして釐公を薬殺せしめ、諸侯に赴げて曰く「釐公暴かに病みて卒す」と。釐公の子嘉を立つ。嘉時に年五歳、是を簡公と為す。簡公元年、諸公子謀りて相子駟を誅せんと欲す。子駟之を覚り、反りて尽く諸公子を誅す。二年、晋鄭を伐つ。鄭与に盟ひ、晋去る。冬、又楚と盟ふ。子駟誅を畏る、故に両つながら晋・楚に親しむ。三年、相子駟自ら立ちて君と為らんと欲す。公子子孔、尉止をして相子駟を殺さしめて之に代はる。子孔又自ら立たんと欲す。子産曰く、「子駟不可を為す、之を誅す。今又之に効ふ。是れ乱の息む時無きなり」と。是に於て子孔之に従ひて鄭の簡公に相たり。四年、晋、鄭の楚と盟ふを怒り、鄭を伐つ。鄭与に盟ふ。楚の共王鄭を救ひ、晋の兵を敗る。簡公晋と平がんと欲す。楚又鄭の使者を囚ふ。十二年、簡公、相子孔の国権を専らにするを怒り、之を誅して、子産を以て卿と為す。十九年、簡公晋に如きて衛君の還らんことを請ふ。而して子産を封ずるに六邑を以てす。子産譲りて、其の三邑を受く。二十二年、呉、延陵の季子を鄭に使はす。子産を見ること旧交の如し。子産に謂ひて曰く、「鄭の執政者侈る。難将に至らんとし、政将に子に及ばんとす。子政を為さば、必ず礼を以てせよ。然らずんば、鄭将に敗れんとす」と。子産厚く季子を遇す。二十三年、諸公子寵を争ひて相殺し、又子産を殺さんと欲す。公子或いは諫めて曰く、「子産は仁人なり。鄭の存する所以の者は子産なり。殺す勿かれ」と。乃ち止む。二十五年、鄭、子産を晋に使はし、平公の疾を問はしむ。平公曰く、「卜して曰く、実沈・台駘祟りを為すと。史官知る莫し。敢へて問ふ」と。対へて曰く、「高辛氏に二子有り。長を閼伯と曰ひ、季を実沈と曰ふ。曠林に居り、相能くせず、日に干戈を操りて以て相征伐す。
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説苑・辨物鄭の簡公公孫成子をして来たりて晋に聘せしむ。平公疾有り。韓宣子賛して館客を受く。客君の疾を問う。対えて曰わく、「君の疾久し。上下の神祇、諭(と)かざる無く遍し。而れども除くこと無し。今黄熊の寝門に入るを夢む。人鬼か、亦た厲鬼か知らず。」子産曰わく、「君子明にして、子政を為す、其れ何の厲か之れ有らん。僑之を聞く、昔鯀帝命に違い、之を羽山に殛(ころ)す。化して黄熊と為り、以て羽淵に入る。是れ夏郊たり、三代之を挙ぐ。夫れ鬼神の及ぶ所、其の族類に非ざれば、則ち其の同位を紹(つ)ぐ。是の故に天子は上帝を祠り、公侯は百神を祠り、卿自り以下は其の族を過ぎず。今周室少しく卑しく、晋実に之を継ぐ。其れ或いは未だ夏郊を挙げざるか。」宣子以て告げ、夏郊を祀り、董伯尸(し)と為り、五日にして瘳(い)ゆ。公子産を見て之に莒鼎を賜う。
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史記 鄭世家子産、韓宣子に謂ひて曰く、「政を為すには必ず徳を以てし、立つ所以を忘るる毋かれ」と。六年、鄭火あり。公之を禳はんと欲す。子産曰く、「徳を修むるに如かず」と。八年、楚の太子建来奔す。十年、太子建、晋と謀りて鄭を襲はんとす。鄭、建を殺す。建の子勝呉に奔る。十一年、定公晋に如く。晋、鄭と謀りて周の乱臣を誅し、敬王を周に入る。十三年、定公卒し、子献公蠆立つ。献公十三年に卒し、子声公勝立つ。是の時に当たり、晋の六卿彊く、鄭を侵奪す。鄭遂に弱し。声公五年、鄭の相子産卒す。鄭人皆哭泣し、之を悲しむこと親戚を亡へるが如し。子産は鄭の成公の少子なり。人と為り仁にして人を愛し、君に事へて忠厚なり。
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史記 鄭世家鄭の桓公友は、周の厲王の少子にして宣王の庶弟なり。宣王立ちて二十二年、友初めて鄭に封ぜらる。封ぜられて三十三歳、百姓皆便とし之を愛す。幽王以て司徒と為す。周民を和集し、周民皆説び、河雒の閒、人便とし之を思ふ。司徒と為りて一歳、幽王褒后の故を以て、王室の治多く邪にして、諸侯或いは之に畔く。是に於て桓公、太史伯に問ひて曰く、「王室故多し、予安くにか死を逃れん」と。太史伯対へて曰く、「独り雒の東土、河済の南居るべし」と。公曰く、「何を以てか」と。対へて曰く、「地は虢・鄶に近し。虢・鄶の君は貪にして利を好み、百姓附かず。今公は司徒為り、民皆公を愛す。公誠に之に居らんことを請はば、虢・鄶の君、公の方に事を用ふるを見て、軽々しく公に地を分たん。公誠に之に居らば、虢・鄶の民は皆公の民なり」と。公曰く、「吾南のかた江上に之かんと欲す、何如」と。対へて曰く、「昔祝融は高辛氏の火正と為り、其の功大なり。而して其の周に於ては未だ興る者有らず。楚は其の後なり。周衰へば、楚必ず興らん。興らば、鄭の利に非ざるなり」と。公曰く、「吾西方に居らんと欲す、何如」と。対へて曰く、「其の民貪にして利を好む。久しく居り難し」と。公曰く、「周衰へば、何の国か興る者ぞ」と。対へて曰く、「斉・秦・晋・楚か。夫れ斉は姜姓、伯夷の後なり。伯夷は堯を佐けて礼を典る。秦は嬴姓、伯翳の後なり。伯翳は舜を佐けて百物を懐柔す。楚の先に及ぶまで、皆嘗て天下に功有り。而して周の武王紂に克ちて後、成王叔虞を唐に封ず。其の地阻険なり。此の有徳を以て周の衰ふると并び、亦必ず興らん」と。桓公曰く、「善し」と。是に於て卒に王に言ひ、東のかた其の民を雒の東に徙す。而して虢・鄶果たして十邑を献じ、竟に之を国とす。二歳にして、犬戎幽王を驪山の下に殺し、并せて桓公を殺す。鄭人共に其の子掘突を立つ、是を武公と為す。武公十年、申侯の女を娶りて夫人と為す、武姜と曰ふ。
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史記 鄭世家孔子嘗て鄭を過り、子産と兄弟の如しと云ふ。子産の死を聞くに及び、孔子為に泣きて曰く、「古の遺愛なり」と。八年、晋の范・中行氏晋に反き、急を鄭に告ぐ。鄭之を救ふ。晋鄭を伐ち、鄭の軍を鉄に敗る。十四年、宋の景公曹を滅ぼす。二十年、斉の田常其の君簡公を弑して、常斉に相たり。二十二年、楚の恵王陳を滅ぼす。孔子卒す。三十六年、晋の知伯鄭を伐ち、九邑を取る。三十七年、声公卒し、子哀公易立つ。哀公八年、鄭人哀公を弑して声公の弟丑を立つ、是を共公と為す。共公三年、三晋知伯を滅ぼす。三十一年、共公卒し、子幽公已立つ。幽公元年、韓の武子鄭を伐ち、幽公を殺す。鄭人幽公の弟駘を立つ、是を繻公と為す。繻公十五年、韓の景侯鄭を伐ち、雍丘を取る。鄭京に城く。十六年、鄭韓を伐ち、韓の兵を負黍に敗る。二十年、韓・趙・魏列して諸侯と為る。二十三年、鄭韓の陽翟を囲む。二十五年、鄭君其の相子陽を殺す。二十七、子陽の党共に繻公駘を弑して幽公の弟乙を立てて君と為す、是を鄭君と為す。鄭君乙立ちて二年、鄭の負黍反き、復た韓に帰す。十一年、韓鄭を伐ち、陽城を取る。二十一年、韓の哀侯鄭を滅ぼし、其の国を并す。
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史記 鄭世家繆氏は、霊公を殺せし子公の族家なり。去疾曰く、「必ず繆氏を去らば、我将に之を去らんとす」と。乃ち止む。皆以て大夫と為す。襄公元年、楚、鄭の宋の賂を受けて華元を縦すを怒り、鄭を伐つ。鄭楚に背き、晋と親しむ。五年、楚復た鄭を伐ち、晋来りて之を救ふ。六年、子家卒す。国人復た其の族を逐ふ。其の霊公を弑せしを以てなり。七年、鄭、晋と鄢陵に盟ふ。八年、楚の荘王、鄭の晋と盟ふを以て、来りて伐ち、鄭を囲むこと三月、鄭城を以て楚に降る。楚王皇門より入る。鄭の襄公肉袒して羊を掔きて以て迎へて曰く、「孤辺邑に事ふること能はず、君王をして怒りを懐きて以て獘邑に及ばしむ。孤の罪なり。敢へて惟だ命を是れ聴かざらんや。君王之を江南に遷し、及び以て諸侯に賜ふも、亦惟だ命を是れ聴かん。若し君王、厲・宣王、桓・武公を忘れず、哀れみて其の社稷を絶つに忍びず、不毛の地を錫ひ、復た君王に改め事ふることを得しめば、孤の願ひなり。然れども敢へて望む所に非ざるなり。敢へて腹心を布き、惟だ命を是れ聴かん」と。荘王為に三十里を卻きて後に舎る。楚の群臣曰く、「郢より此に至るまで、士大夫も亦久しく労せり。今国を得て之を捨つ、何如」と。荘王曰く、「伐つ所為の者は、服せざるを伐つなり。今已に服す、尚何をか求めんや」と。卒に去る。晋、楚の鄭を伐つを聞き、兵を発して鄭を救ふ。其の来るや両端を持す、故に遅し。河に至る比、楚の兵已に去る。晋の将率或いは渡らんと欲し、或いは還らんと欲す。卒に河を渡る。荘王聞き、還りて晋を撃つ。鄭反りて楚を助け、大いに晋軍を河上に破る。十年、晋来りて鄭を伐つ。其の晋に反きて楚に親しむを以てなり。十一年、楚の荘王宋を伐つ。宋急を晋に告ぐ。晋の景公兵を発して宋を救はんと欲す。伯宗晋君を諫めて曰く、「天方に楚を開く、未だ伐つべからざるなり」と。乃ち壮士を求めて霍人解揚、字は子虎を得、楚を誆きて、宋をして降る毋からしめんとす。鄭を過る。鄭は楚と親し、乃ち解揚を執へて楚に献ず。
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