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史記 / 鄭世家

繆氏者,殺靈公、子公之族家也。去疾曰:「必去繆氏,我將去之。」乃止。皆以爲大夫。襄公元年,楚怒鄭受宋賂縱華元,伐鄭。鄭背楚,與晉親。五年,楚復伐鄭,晉來救之。六年,子家卒,國人復逐其族,以其弒靈公也。七年,鄭與晉盟鄢陵。八年,楚莊王以鄭與晉盟,來伐,圍鄭三月,鄭以城降楚。楚王入自皇門,鄭襄公肉袒掔羊以迎,曰:「孤不能事邊邑,使君王懷怒以及獘邑,孤之罪也。敢不惟命是聽。君王遷之江南,及以賜諸侯,亦惟命是聽。若君王不忘厲、宣王,桓、武公,哀不忍絶其社稷,錫不毛之地,使復得改事君王,孤之願也,然非所敢望也。敢布腹心,惟命是聽。」莊王爲卻三十里而後舍。楚群臣曰:「自郢至此,士大夫亦久勞矣。今得國捨之,何如?」莊王曰:「所爲伐,伐不服也。今已服,尚何求乎?」卒去。晉聞楚之伐鄭,發兵救鄭。其來持兩端,故遲,比至河,楚兵已去。晉將率或欲渡,或欲還,卒渡河。莊王聞,還撃晉。鄭反助楚,大破晉軍於河上。十年,晉來伐鄭,以其反晉而親楚也。十一年,楚莊王伐宋,宋告急于晉。晉景公欲發兵救宋,伯宗諫晉君曰:「天方開楚,未可伐也。」乃求壯士得霍人解揚,字子虎,誆楚,令宋毋降。過鄭,鄭與楚親,乃執解揚而獻楚。

新字:繆氏者,殺霊公、子公之族家也。去疾曰:「必去繆氏,我将去之。」乃止。皆以為大夫。襄公元年,楚怒鄭受宋賂縦華元,伐鄭。鄭背楚,与晋親。五年,楚復伐鄭,晋来救之。六年,子家卒,国人復逐其族,以其弒霊公也。七年,鄭与晋盟鄢陵。八年,楚荘王以鄭与晋盟,来伐,囲鄭三月,鄭以城降楚。楚王入自皇門,鄭襄公肉袒掔羊以迎,曰:「孤不能事辺邑,使君王懐怒以及獘邑,孤之罪也。敢不惟命是聴。君王遷之江南,及以賜諸侯,亦惟命是聴。若君王不忘厲、宣王,桓、武公,哀不忍絶其社稷,錫不毛之地,使復得改事君王,孤之願也,然非所敢望也。敢布腹心,惟命是聴。」荘王為却三十里而後舎。楚群臣曰:「自郢至此,士大夫亦久労矣。今得国捨之,何如?」荘王曰:「所為伐,伐不服也。今已服,尚何求乎?」卒去。晋聞楚之伐鄭,発兵救鄭。其来持両端,故遅,比至河,楚兵已去。晋将率或欲渡,或欲還,卒渡河。荘王聞,還撃晋。鄭反助楚,大破晋軍於河上。十年,晋来伐鄭,以其反晋而親楚也。十一年,楚荘王伐宋,宋告急于晋。晋景公欲発兵救宋,伯宗諫晋君曰:「天方開楚,未可伐也。」乃求壮士得霍人解揚,字子虎,誆楚,令宋毋降。過鄭,鄭与楚親,乃執解揚而献楚。

書き下し

繆氏は、霊公を殺せし子公の族家なり。去疾曰く、「必ず繆氏を去らば、我将に之を去らんとす」と。乃ち止む。皆以て大夫と為す。襄公元年、楚、鄭の宋の賂を受けて華元を縦すを怒り、鄭を伐つ。鄭楚に背き、晋と親しむ。五年、楚復た鄭を伐ち、晋来りて之を救ふ。六年、子家卒す。国人復た其の族を逐ふ。其の霊公を弑せしを以てなり。七年、鄭、晋と鄢陵に盟ふ。八年、楚の荘王、鄭の晋と盟ふを以て、来りて伐ち、鄭を囲むこと三月、鄭城を以て楚に降る。楚王皇門より入る。鄭の襄公肉袒して羊を掔きて以て迎へて曰く、「孤辺邑に事ふること能はず、君王をして怒りを懐きて以て獘邑に及ばしむ。孤の罪なり。敢へて惟だ命を是れ聴かざらんや。君王之を江南に遷し、及び以て諸侯に賜ふも、亦惟だ命を是れ聴かん。若し君王、厲・宣王、桓・武公を忘れず、哀れみて其の社稷を絶つに忍びず、不毛の地を錫ひ、復た君王に改め事ふることを得しめば、孤の願ひなり。然れども敢へて望む所に非ざるなり。敢へて腹心を布き、惟だ命を是れ聴かん」と。荘王為に三十里を卻きて後に舎る。楚の群臣曰く、「郢より此に至るまで、士大夫も亦久しく労せり。今国を得て之を捨つ、何如」と。荘王曰く、「伐つ所為の者は、服せざるを伐つなり。今已に服す、尚何をか求めんや」と。卒に去る。晋、楚の鄭を伐つを聞き、兵を発して鄭を救ふ。其の来るや両端を持す、故に遅し。河に至る比、楚の兵已に去る。晋の将率或いは渡らんと欲し、或いは還らんと欲す。卒に河を渡る。荘王聞き、還りて晋を撃つ。鄭反りて楚を助け、大いに晋軍を河上に破る。十年、晋来りて鄭を伐つ。其の晋に反きて楚に親しむを以てなり。十一年、楚の荘王宋を伐つ。宋急を晋に告ぐ。晋の景公兵を発して宋を救はんと欲す。伯宗晋君を諫めて曰く、「天方に楚を開く、未だ伐つべからざるなり」と。乃ち壮士を求めて霍人解揚、字は子虎を得、楚を誆きて、宋をして降る毋からしめんとす。鄭を過る。鄭は楚と親し、乃ち解揚を執へて楚に献ず。

現代語訳

繆氏とは、霊公を殺した子公の一族(繆公の子孫)である。去疾は言った。「どうしても繆氏を追放するというのなら、わたしも出て行く」。そこで追放は取りやめとなり、みな大夫とされた。襄公の元年、楚は鄭が宋から賄賂を受け取って華元を逃がしたことを怒り、鄭を討った。鄭は楚に背いて晋と親しくした。五年、楚が再び鄭を討ち、晋が救援に来た。六年、子家が死んだ。国の人々は改めてその一族を追放した。子家が霊公を殺したからである。七年、鄭は晋と鄢陵(えんりょう)で盟約を結んだ。八年、楚の荘王は鄭が晋と盟約を結んだことを理由に攻めて来て、鄭を三か月包囲した。鄭は城を明け渡して楚に降伏した。楚王が皇門から入城すると、鄭の襄公は肌脱ぎになって羊を引いて出迎え、こう言った。「わたしは辺境の小国として貴国にお仕えすることができず、君王に怒りを抱かせて、わが国にまで攻め込ませてしまった。わたしの罪である。どうしてご命令に従わないことがあろう。君王がわが国の民を江南に移そうとも、諸侯に分け与えようとも、ただご命令に従うまでだ。もし君王が(わが祖先である周の)厲王・宣王や、桓公・武公をお忘れにならず、哀れんで社稷を絶やすに忍びず、不毛の地でもお与えくださって、改めて君王にお仕えすることを許してくださるなら、それがわたしの願いである。しかし、それはとても望めることではない。あえて本心を申し上げ、ただご命令に従うのみである」。荘王は彼のために三十里退いてから陣を張った。楚の群臣は言った。「郢からここまで、士大夫も長く苦労してきた。今、国を手に入れたのにそれを捨てるのは、いかがなものか」。荘王は言った。「討つのは、服従しない者を討つためだ。今すでに服従した。このうえ何を求めよう」。そしてついに去った。晋は楚が鄭を討ったと聞いて、兵を出して鄭を救おうとした。しかし晋の軍は(戦うか否か)二つの考えを抱えていたので、進軍が遅れ、黄河に着いたころには楚の兵はすでに去っていた。晋の将帥たちは、ある者は渡河しようとし、ある者は引き返そうとしたが、結局黄河を渡った。荘王はこれを聞き、引き返して晋を撃った。鄭はかえって楚を助け、黄河のほとりで晋軍を大いに破った。十年、晋が鄭を討った。鄭が晋に背いて楚と親しくしたからである。十一年、楚の荘王が宋を討った。宋は晋に急を告げた。晋の景公は兵を出して宋を救おうとした。伯宗(はくそう)が晋君を諫めて言った。「天は今まさに楚に道を開いている。まだ討つべきではない」。そこで勇士を探して霍(かく)の人の解揚(かいよう)、字は子虎(しこ)を得て、楚を欺いて宋が降伏しないようにさせようとした。解揚が鄭を通ったとき、鄭は楚と親しかったので、解揚を捕らえて楚に献じた。

解説

晋と楚の二大国に挟まれた鄭の苦しい立場がよく表れた段です。鄭は晋につき楚につき、そのたびに攻められます。楚の荘王に三か月包囲されて降伏した襄公は、肌脱ぎで羊を引いて出迎え、祖先の名を挙げて社稷の存続を乞いました。荘王は「服した者をさらに求めることはない」と兵を退き、春秋の覇者らしい度量を示します。その後の河上の戦いは、晋の将帥の意見が割れて遅れたところを楚が撃った邲(ひつ)の戦いにあたります。鄭は勝ち馬の楚に加勢し、今度は晋に討たれました。大国の間で生き残る小国の外交は、大企業の間で取引する中小企業の立場にも重なります。完全に屈しながらも存続だけは確保する交渉術と、勝った側の度量の両方が学べる一段です。

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