史記 / 鄭世家
晉文公欲入蘭爲太子,以告鄭。鄭大夫石癸曰:「吾聞姞姓乃后稷之元妃,其後當有興者。子蘭母,其後也。且夫人子盡已死,餘庶子無如蘭賢。今圍急,晉以爲請,利孰大焉!」遂許晉,與盟,而卒立子蘭爲太子,晉兵乃罷去。四十五年,文公卒,子蘭立,是爲繆公。繆公元年春,秦繆公使三將將兵欲襲鄭,至滑,逢鄭賈人絃髙詐以十二牛勞軍,故秦兵不至而還,晉敗之於崤。初,往年鄭文公之卒也,鄭司城繒賀以鄭情賣之,秦兵故來。三年,鄭發兵從晉伐秦,敗秦兵於汪。往年楚太子商臣弒其父成王代立。二十一年,與宋華元伐鄭。華元殺羊食士,不與其御羊斟,怒以馳鄭,鄭囚華元。宋贖華元,元亦亡去。晉使趙穿以兵伐鄭。靈公元年春,楚獻黿於靈公。子家、子公將朝靈公,子公之食指動,謂子家曰:「佗日指動,必食異物。」及入,見靈公進黿羹,子公笑曰:「果然!」靈公問其笑故,具告靈公。靈公召之,獨弗予羹。子公怒,染其指,嘗之而出。公怒,欲殺子公。子公與子家謀先。夏,弒靈公。鄭人欲立靈公弟去疾,去疾讓曰:「必以賢,則去疾不肖;必以順,則公子堅長。」堅者,靈公庶弟,去疾之兄也。於是乃立子堅,是爲襄公。襄公立,將盡去繆氏。
新字:晋文公欲入蘭為太子,以告鄭。鄭大夫石癸曰:「吾聞姞姓乃后稷之元妃,其後当有興者。子蘭母,其後也。且夫人子尽已死,余庶子無如蘭賢。今囲急,晋以為請,利孰大焉!」遂許晋,与盟,而卒立子蘭為太子,晋兵乃罷去。四十五年,文公卒,子蘭立,是為繆公。繆公元年春,秦繆公使三将将兵欲襲鄭,至滑,逢鄭賈人絃高詐以十二牛労軍,故秦兵不至而還,晋敗之於崤。初,往年鄭文公之卒也,鄭司城繒賀以鄭情売之,秦兵故来。三年,鄭発兵従晋伐秦,敗秦兵於汪。往年楚太子商臣弒其父成王代立。二十一年,与宋華元伐鄭。華元殺羊食士,不与其御羊斟,怒以馳鄭,鄭囚華元。宋贖華元,元亦亡去。晋使趙穿以兵伐鄭。霊公元年春,楚献黿於霊公。子家、子公将朝霊公,子公之食指動,謂子家曰:「佗日指動,必食異物。」及入,見霊公進黿羹,子公笑曰:「果然!」霊公問其笑故,具告霊公。霊公召之,独弗予羹。子公怒,染其指,嘗之而出。公怒,欲殺子公。子公与子家謀先。夏,弒霊公。鄭人欲立霊公弟去疾,去疾譲曰:「必以賢,則去疾不肖;必以順,則公子堅長。」堅者,霊公庶弟,去疾之兄也。於是乃立子堅,是為襄公。襄公立,将尽去繆氏。
書き下し
晋の文公、蘭を入れて太子と為さんと欲し、以て鄭に告ぐ。鄭の大夫石癸曰く、「吾聞く、姞姓は乃ち后稷の元妃なり、其の後当に興る者有るべしと。子蘭の母は其の後なり。且つ夫人の子尽く已に死し、余の庶子に蘭の賢に如くは無し。今囲み急なり。晋以て請ふを為す。利孰れか焉より大ならん」と。遂に晋に許し、与に盟ひ、卒に子蘭を立てて太子と為す。晋の兵乃ち罷め去る。四十五年、文公卒し、子蘭立つ、是を繆公と為す。繆公元年春、秦の繆公、三将をして兵を将ゐて鄭を襲はんと欲せしむ。滑に至り、鄭の賈人絃高に逢ふ。詐りて十二牛を以て軍を労ふ。故に秦の兵至らずして還る。晋之を崤に敗る。初め、往年鄭の文公の卒するや、鄭の司城繒賀、鄭の情を以て之を売る。秦の兵故に来る。三年、鄭兵を発して晋に従ひて秦を伐ち、秦の兵を汪に敗る。往年楚の太子商臣其の父成王を弑して代はりて立つ。二十一年、宋の華元と鄭を伐つ。華元羊を殺して士に食はしむるも、其の御羊斟に与へず。怒りて以て鄭に馳す。鄭華元を囚ふ。宋華元を贖ふ。元も亦亡げ去る。晋、趙穿をして兵を以て鄭を伐たしむ。霊公元年春、楚黿を霊公に献ず。子家・子公将に霊公に朝せんとす。子公の食指動く。子家に謂ひて曰く、「佗日指動けば、必ず異物を食らふ」と。入るに及び、霊公の黿の羹を進むるを見る。子公笑ひて曰く、「果たして然り」と。霊公其の笑ふ故を問ふ。具に霊公に告ぐ。霊公之を召し、独り羹を予へず。子公怒り、其の指を染め、之を嘗めて出づ。公怒り、子公を殺さんと欲す。子公、子家と先んぜんことを謀る。夏、霊公を弑す。鄭人、霊公の弟去疾を立てんと欲す。去疾譲りて曰く、「必ず賢を以てせば、則ち去疾は不肖なり。必ず順を以てせば、則ち公子堅長ず」と。堅は霊公の庶弟にして、去疾の兄なり。是に於て乃ち子堅を立つ、是を襄公と為す。襄公立ち、将に尽く繆氏を去らんとす。
現代語訳
晋の文公は子蘭を鄭に入れて太子にしようと考え、そのことを鄭に告げた。鄭の大夫石癸(せきき)が言った。「聞くところでは、姞(きつ)姓は后稷(こうしょく)の正妃の家系で、その子孫からは必ず栄える者が出るという。子蘭の母はその子孫である。それに夫人の産んだ子はみなすでに死に、残る庶子の中で蘭ほど賢い者はいない。今、包囲は切迫しており、晋がそれを求めている。これより大きな利益があろうか」。そこで晋の要求を受け入れて盟約を結び、ついに子蘭を太子に立てた。晋の兵はようやく引き上げた。四十五年、文公が死に、子蘭が立った。これが繆公である。繆公の元年春、秦の繆公は三人の将に兵を率いさせて鄭を襲わせようとした。秦軍が滑まで来たところで、鄭の商人の絃高(げんこう)に出会った。絃高は(鄭の君命と)偽って十二頭の牛で秦軍をねぎらった。そのため秦軍は(鄭に備えがあると見て)鄭に至らずに引き返し、晋はこれを崤(こう)で破った。これより前、前年に鄭の文公が死んだとき、鄭の司城(土木担当の官)の繒賀(そうが)が鄭の内情を秦に売り渡していた。それで秦軍が来たのである。三年、鄭は兵を出して晋に従い秦を討ち、秦軍を汪(おう)で破った。前年、楚の太子商臣が父の成王を殺して代わって即位していた。二十一年、(楚は)宋の華元(かげん)と鄭を討たせた。華元は羊を殺して兵士に食べさせたが、自分の御者の羊斟(ようしん)には与えなかった。羊斟は怒って、(戦いの際に)車を鄭の陣へ走らせた。鄭は華元を捕らえた。宋は華元を身代金で取り戻そうとしたが、華元もまた逃げ去った。晋は趙穿(ちょうせん)に兵を率いさせて鄭を討たせた。霊公の元年春、楚が大すっぽんを霊公に献上した。子家(しか)と子公(しこう)が霊公に朝見しようとしたとき、子公の人さし指がぴくりと動いた。子公は子家に言った。「以前にも指が動いたときは、必ず珍しいものを食べた」。宮中に入ると、霊公がすっぽんの吸い物を出そうとしているのが見えた。子公は笑って「やはりそうだ」と言った。霊公が笑った理由を尋ねたので、(子家が)詳しく霊公に話した。霊公は子公を呼び寄せたが、彼にだけ吸い物を与えなかった。子公は怒って、鼎に指を浸してなめてから退出した。霊公は怒って子公を殺そうとした。子公は子家と謀って先手を打とうとし、夏、霊公を殺した。鄭の人々は霊公の弟の去疾(きょしつ)を立てようとした。去疾は辞退して言った。「賢さで選ぶなら、わたし去疾は不肖である。順序で選ぶなら、公子堅のほうが年長だ」。堅は霊公の庶弟で、去疾の兄である。そこで子堅を立てた。これが襄公である。襄公は即位すると、繆公の一族をことごとく追放しようとした。
解説
関連する章句
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史記 鄭世家繆氏は、霊公を殺せし子公の族家なり。去疾曰く、「必ず繆氏を去らば、我将に之を去らんとす」と。乃ち止む。皆以て大夫と為す。襄公元年、楚、鄭の宋の賂を受けて華元を縦すを怒り、鄭を伐つ。鄭楚に背き、晋と親しむ。五年、楚復た鄭を伐ち、晋来りて之を救ふ。六年、子家卒す。国人復た其の族を逐ふ。其の霊公を弑せしを以てなり。七年、鄭、晋と鄢陵に盟ふ。八年、楚の荘王、鄭の晋と盟ふを以て、来りて伐ち、鄭を囲むこと三月、鄭城を以て楚に降る。楚王皇門より入る。鄭の襄公肉袒して羊を掔きて以て迎へて曰く、「孤辺邑に事ふること能はず、君王をして怒りを懐きて以て獘邑に及ばしむ。孤の罪なり。敢へて惟だ命を是れ聴かざらんや。君王之を江南に遷し、及び以て諸侯に賜ふも、亦惟だ命を是れ聴かん。若し君王、厲・宣王、桓・武公を忘れず、哀れみて其の社稷を絶つに忍びず、不毛の地を錫ひ、復た君王に改め事ふることを得しめば、孤の願ひなり。然れども敢へて望む所に非ざるなり。敢へて腹心を布き、惟だ命を是れ聴かん」と。荘王為に三十里を卻きて後に舎る。楚の群臣曰く、「郢より此に至るまで、士大夫も亦久しく労せり。今国を得て之を捨つ、何如」と。荘王曰く、「伐つ所為の者は、服せざるを伐つなり。今已に服す、尚何をか求めんや」と。卒に去る。晋、楚の鄭を伐つを聞き、兵を発して鄭を救ふ。其の来るや両端を持す、故に遅し。河に至る比、楚の兵已に去る。晋の将率或いは渡らんと欲し、或いは還らんと欲す。卒に河を渡る。荘王聞き、還りて晋を撃つ。鄭反りて楚を助け、大いに晋軍を河上に破る。十年、晋来りて鄭を伐つ。其の晋に反きて楚に親しむを以てなり。十一年、楚の荘王宋を伐つ。宋急を晋に告ぐ。晋の景公兵を発して宋を救はんと欲す。伯宗晋君を諫めて曰く、「天方に楚を開く、未だ伐つべからざるなり」と。乃ち壮士を求めて霍人解揚、字は子虎を得、楚を誆きて、宋をして降る毋からしめんとす。鄭を過る。鄭は楚と親し、乃ち解揚を執へて楚に献ず。
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史記 鄭世家文公の弟叔詹曰く、「重耳は賢なり。且つ又同姓なり。窮して君に過る。礼無かるべからず」と。文公曰く、「諸侯の亡公子の過る者多し。安んぞ能く尽く之を礼せん」と。詹曰く、「君如し礼せずんば、遂に之を殺せ。殺さずして、即し国に反らしめば、鄭の憂ひと為らん」と。文公聴かず。三十七年春、晋の公子重耳国に反りて立つ、是を文公と為す。秋、鄭滑に入る。滑命を聴き、已にして反りて衛に与す。是に於て鄭滑を伐つ。周の襄王、伯服をして滑の為に請はしむ。鄭の文公、恵王の亡げて櫟に在りしとき、文公の父厲公之を入れしに、恵王厲公に爵禄を賜はざるを怨み、又襄王の衛・滑に与するを怨む。故に襄王の請ひを聴かずして伯服を囚ふ。王怒り、翟人と鄭を伐つも、克たず。冬、翟、襄王を攻伐す。襄王出でて鄭に奔る。鄭の文公、王を氾に居らしむ。三十八年、晋の文公、襄王を成周に入る。四十一年、楚を助けて晋を撃つ。晋の文公の過りしとき礼無かりしより、故に晋に背きて楚を助く。四十三年、晋の文公、秦の穆公と共に鄭を囲む。其の楚を助けて晋を攻めし者、及び文公の過りし時の無礼を討つなり。初め、鄭の文公に三夫人有り、寵子五人、皆罪を以て蚤く死す。公怒り、溉く群公子を逐ふ。子蘭晋に奔り、晋の文公に従ひて鄭を囲む。時に蘭、晋の文公に事ふること甚だ謹み、之を愛幸す。乃ち私かに晋に於てし、以て鄭に入りて太子と為らんことを求む。晋是に於て叔詹を得て僇と為さんと欲す。鄭の文公恐れ、敢へて叔詹に謂ひて言はず。詹聞き、鄭君に言ひて曰く、「臣君に謂ふも、君臣に聴かず、晋卒に患ひと為る。然れども晋の鄭を囲む所以は、詹を以てなり。詹死して鄭国を赦さば、詹の願ひなり」と。乃ち自殺す。鄭人、詹の尸を以て晋に与ふ。晋の文公曰く、「必ず一たび鄭君を見て、之を辱めて去らんと欲す」と。鄭人之を患ひ、乃ち人をして私かに秦に言はしめて曰く、「鄭を破りて晋を益すは、秦の利に非ざるなり」と。秦の兵罷む。
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史記 晋世家九年冬、晋の文公卒し、子の襄公歓立つ。是の歳鄭伯も亦た卒す。鄭人或いは其の国を秦に売る。秦の繆公兵を発して往きて鄭を襲ふ。十二月、秦の兵我が郊を過ぐ。襄公の元年春、秦の師周を過ぎ、無礼なり。王孫満之を譏る。兵滑に至る。鄭の賈人弦高将に周に市せんとして、之に遇ひ、十二牛を以て秦の師を労ふ。秦の師驚きて還り、滑を滅ぼして去る。晋の先軫曰く、「秦伯蹇叔を用ひず、其の衆心に反す。此れ撃つべし」と。欒枝曰く、「未だ先君の秦に施されしに報いず。之を撃つは、不可なり」と。先軫曰く、「秦吾が孤を侮り、吾が同姓を伐つ。何の徳をか之れ報いん」と。遂に之を撃つ。襄公衰絰を墨くす。四月、秦の師を殽に敗り、秦の三将孟明視・西乞秫・白乙丙を虜にして以て帰る。遂に墨して以て文公を葬る。文公の夫人は秦の女なり。襄公に謂ひて曰く、「秦其の三将を得て之を戮せんと欲す」と。公許して、之を遣る。先軫之を聞き、襄公に謂ひて曰く、「患生ぜん」と。軫乃ち秦の将を追ふ。秦の将河を渡り、已に船中に在り。頓首して謝し、卒に反らず。後三年、秦果たして孟明をして晋を伐たしめ、殽の敗に報い、晋の汪を取りて以て帰る。四年、秦の繆公大いに兵を興して我を伐ち、河を度り、王官を取り、殽の尸を封じて去る。晋恐れて、敢て出でず、遂に城守す。五年、晋秦を伐ち、新城を取り、王官の役に報ゆ。六年、趙衰成子・欒貞子・咎季子犯・霍伯皆卒す。趙盾趙衰に代はりて政を執る。七年八月、襄公卒す。太子夷皋少し。晋人難の故を以て、長君を立てんと欲す。趙盾曰く、「襄公の弟雍を立てん。善を好みて長じ、先君之を愛す。且つ秦に近く、秦は故より好し。善を立つれば則ち固く、長に事ふれば則ち順ひ、愛を奉ずれば則ち孝あり、旧好を結べば則ち安し」と。賈季曰く、「其の弟楽に如かず。辰嬴は二君に嬖せらる。其の子を立てば、民必ず之に安んぜん」と。
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史記 鄭世家鄭子八年、斉人管至父等乱を作し、其の君襄公を弑す。十二年、宋人長万其の君湣公を弑す。鄭の祭仲死す。十四年、故の鄭の亡げし厲公突の櫟に在る者、人をして鄭の大夫甫仮を誘ひ劫かさしめ、要して以て入らんことを求む。仮曰く、「我を捨てよ。我君の為に鄭子を殺して君を入れん」と。厲公与に盟ひ、乃ち之を捨つ。六月甲子、仮、鄭子及び其の二子を殺して厲公突を迎ふ。突、櫟より復た入りて位に即く。初め、内蛇と外蛇と鄭の南門の中に闘ひ、内蛇死す。居ること六年、厲公果たして復た入る。入りて其の伯父原を譲めて曰く、「我国を亡げて外に居る。伯父我を入るるに意無し。亦甚だしきかな」と。原曰く、「君に事へて二心無きは、人臣の職なり。原罪を知れり」と。遂に自殺す。厲公是に於て甫仮に謂ひて曰く、「子の君に事ふるや二心有り」と。遂に之を誅す。仮曰く、「重徳報いられず、誠に然るかな」と。厲公突の後元年、斉の桓公始めて霸たり。五年、燕・衛、周の恵王の弟穨と王を伐つ。王出でて温に奔る。弟穨を立てて王と為す。六年、恵王急を鄭に告ぐ。厲公兵を発して周の王子穨を撃つも、勝たず。是に於て周の恵王と帰り、王櫟に居る。七年春、鄭の厲公、虢叔と王子穨を襲殺して恵王を周に入る。秋、厲公卒し、子文公踕立つ。厲公初め立ちて四歳、亡げて櫟に居る。櫟に居ること十七歳、復た入る。立ちて七歳、亡と凡そ二十八年。二十四年、文公の賤妾燕姞と曰ふ、夢に天之に蘭を与へて曰く、「余は伯鯈為り。余は爾の祖なり。是を以て而の子と為せ。蘭は国香有り」と。夢を以て文公に告ぐ。文公之を幸し、之に草蘭を予へて符と為す。遂に子を生む。名づけて蘭と曰ふ。三十六年、晋の公子重耳過る。文公礼せず。
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史記 鄭世家二十四年、宋の繆公卒し、公子馮鄭に奔る。鄭、周の地を侵し、禾を取る。二十五年、衛の州吁其の君桓公を弑して自ら立ち、宋と鄭を伐つ。馮の故を以てなり。二十七年、始めて周の桓王に朝す。桓王其の禾を取りしを怒り、礼せず。二十九年、荘公、周の礼せざるを怒り、魯と祊・許田を易ふ。三十三年、宋孔父を殺す。三十七年、荘公周に朝せず。周の桓王、陳・蔡・虢・衛を率ゐて鄭を伐つ。荘公、祭仲・高渠弥と兵を発して自ら救ひ、王の師大いに敗る。祝聸、王の臂を射中つ。祝聸之を従はんことを請ふ。鄭伯之を止めて曰く、「長を犯すすら且つ之を難る、況んや敢へて天子を陵がんや」と。乃ち止む。夜、祭仲をして王の疾を問はしむ。三十八年、北戎斉を伐つ。斉、救ひを求めしむ。鄭、太子忽を遣はし兵を将ゐて斉を救はしむ。斉の釐公之に妻はせんと欲す。忽謝して曰く、「我は小国なり、斉の敵に非ざるなり」と。時に祭仲倶にし、勧めて之を取らしめて曰く、「君は内寵多し。太子大援無くんば将に立たざらんとす。三公子は皆君なり」と。所謂三公子とは、太子忽、其の弟突、次弟子亹なり。四十三年、鄭の荘公卒す。初め、祭仲甚だ荘公に寵有り、荘公使ひて卿と為す。公、鄧の女を娶らしむ。太子忽を生む。故に祭仲之を立つ、是を昭公と為す。荘公又宋の雍氏の女を娶り、厲公突を生む。雍氏宋に寵有り。宋の荘公、祭仲の忽を立つるを聞き、乃ち人をして祭仲を誘ひ召して之を執へしめて曰く、「突を立てずんば、将に死せんとす」と。亦突を執へて以て賂を求む。祭仲宋に許し、宋と盟ふ。突を以て帰り、之を立つ。昭公忽、祭仲の宋を以て要せられて其の弟突を立つるを聞き、九月丁亥、忽出でて衛に奔る。己亥、突鄭に至りて立つ、是を厲公と為す。厲公四年、祭仲国政を専らにす。厲公之を患へ、陰かに其の婿雍糾をして祭仲を殺さんと欲せしむ。
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史記 晋世家趙盾曰く、「辰嬴は賤しく、班は九人の下に在り。其の子何の震(おそ)れか之れ有らん。且つ二君の嬖と為るは、淫なり。先君の子と為りて、大を求むること能はずして出でて小国に在るは、僻なり。母淫にして子僻なれば、威無し。陳は小にして遠ければ、援け無し。将た何ぞ可ならんや」と。士会をして秦に如きて公子雍を迎へしむ。賈季も亦た人をして公子楽を陳に召さしむ。趙盾賈季を廃す。其の陽処父を殺せしを以てなり。十月、襄公を葬る。十一月、賈季翟に奔る。是の歳、秦の繆公も亦た卒す。霊公の元年四月、秦の康公曰く、「昔文公の入るや衛無し。故に呂・郤の患有り」と。乃ち多く公子雍に衛を与ふ。太子の母繆嬴日夜太子を抱きて以て朝に号泣して曰く、「先君何の罪かある。其の嗣も亦た何の罪かある。適を舎てて外に君を求む。将た安んぞ此を置かん」と。朝を出づれば、則ち抱きて以て趙盾の所に適き、頓首して曰く、「先君此の子を奉じて之を子に属して曰く、『此の子材あらば、吾其の賜を受けん。材あらずんば、吾子を怨まん』と。今君卒し、言猶ほ耳に在り。而して之を棄つるは、若何」と。趙盾と諸大夫と皆繆嬴を患へ、且つ誅を畏れ、乃ち迎ふる所に背きて太子夷皋を立つ。是を霊公と為す。兵を発して以て秦の公子雍を送る者を距ぐ。趙盾将と為り、往きて秦を撃ち、之を令狐に敗る。先蔑・隨会亡げて秦に奔る。秋、斉・宋・衛・鄭・曹・許の君皆趙盾に会し、扈に盟ふ。霊公初めて立つの故を以てなり。四年、秦を伐ち、少梁を取る。秦も亦た晋の郩を取る。六年、秦の康公晋を伐ち、羈馬を取る。晋侯怒り、趙盾・趙穿・郤缺をして秦を撃たしめ、大いに河曲に戦ふ。趙穿最も功有り。七年、晋の六卿隨会の秦に在りて、常に晋の乱を為さんことを患へ、乃ち詳りて魏寿余をして晋に反きて秦に降らしむ。秦隨会をして魏に之かしむ。因りて会を執へて以て晋に帰る。八年、周の頃王崩ず。公卿権を争ふ。故に赴せず。
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