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史記 / 鄭世家

文公弟叔詹曰:「重耳賢,且又同姓,窮而過君,不可無禮。」文公曰:「諸侯亡公子過者多矣,安能盡禮之!」詹曰:「君如弗禮,遂殺之;弗殺,使卽反國,爲鄭憂矣。」文公弗聽。三十七年春,晉公子重耳反國,立,是爲文公。秋,鄭入滑,滑聽命,已而反與衞,於是鄭伐滑。周襄王使伯服請滑。鄭文公怨惠王之亡在櫟,而文公父厲公入之,而惠王不賜厲公爵祿,又怨襄王之與衞滑,故不聽襄王請而囚伯服。王怒,與翟人伐鄭,弗克。冬,翟攻伐襄王,襄王出奔鄭,鄭文公居王于氾。三十八年,晉文公入襄王成周。四十一年,助楚撃晉。自晉文公之過無禮,故背晉助楚。四十三年,晉文公與秦穆公共圍鄭,討其助楚攻晉者,及文公過時之無禮也。初,鄭文公有三夫人,寵子五人,皆以罪蚤死。公怒,溉逐群公子。子蘭奔晉,從晉文公圍鄭。時蘭事晉文公甚謹,愛幸之,乃私於晉,以求入鄭爲太子。晉於是欲得叔詹爲僇。鄭文公恐,不敢謂叔詹言。詹聞,言於鄭君曰:「臣謂君,君不聽臣,晉卒爲患。然晉所以圍鄭,以詹,詹死而赦鄭國,詹之願也。」乃自殺。鄭人以詹尸與晉。晉文公曰:「必欲一見鄭君,辱之而去。」鄭人患之,乃使人私於秦曰:「破鄭益晉,非秦之利也。」秦兵罷。

新字:文公弟叔詹曰:「重耳賢,且又同姓,窮而過君,不可無礼。」文公曰:「諸侯亡公子過者多矣,安能尽礼之!」詹曰:「君如弗礼,遂殺之;弗殺,使即反国,為鄭憂矣。」文公弗聴。三十七年春,晋公子重耳反国,立,是為文公。秋,鄭入滑,滑聴命,已而反与衛,於是鄭伐滑。周襄王使伯服請滑。鄭文公怨恵王之亡在櫟,而文公父厲公入之,而恵王不賜厲公爵禄,又怨襄王之与衛滑,故不聴襄王請而囚伯服。王怒,与翟人伐鄭,弗克。冬,翟攻伐襄王,襄王出奔鄭,鄭文公居王于氾。三十八年,晋文公入襄王成周。四十一年,助楚撃晋。自晋文公之過無礼,故背晋助楚。四十三年,晋文公与秦穆公共囲鄭,討其助楚攻晋者,及文公過時之無礼也。初,鄭文公有三夫人,寵子五人,皆以罪蚤死。公怒,溉逐群公子。子蘭奔晋,従晋文公囲鄭。時蘭事晋文公甚謹,愛幸之,乃私於晋,以求入鄭為太子。晋於是欲得叔詹為僇。鄭文公恐,不敢謂叔詹言。詹聞,言於鄭君曰:「臣謂君,君不聴臣,晋卒為患。然晋所以囲鄭,以詹,詹死而赦鄭国,詹之願也。」乃自殺。鄭人以詹尸与晋。晋文公曰:「必欲一見鄭君,辱之而去。」鄭人患之,乃使人私於秦曰:「破鄭益晋,非秦之利也。」秦兵罷。

書き下し

文公の弟叔詹曰く、「重耳は賢なり。且つ又同姓なり。窮して君に過る。礼無かるべからず」と。文公曰く、「諸侯の亡公子の過る者多し。安んぞ能く尽く之を礼せん」と。詹曰く、「君如し礼せずんば、遂に之を殺せ。殺さずして、即し国に反らしめば、鄭の憂ひと為らん」と。文公聴かず。三十七年春、晋の公子重耳国に反りて立つ、是を文公と為す。秋、鄭滑に入る。滑命を聴き、已にして反りて衛に与す。是に於て鄭滑を伐つ。周の襄王、伯服をして滑の為に請はしむ。鄭の文公、恵王の亡げて櫟に在りしとき、文公の父厲公之を入れしに、恵王厲公に爵禄を賜はざるを怨み、又襄王の衛・滑に与するを怨む。故に襄王の請ひを聴かずして伯服を囚ふ。王怒り、翟人と鄭を伐つも、克たず。冬、翟、襄王を攻伐す。襄王出でて鄭に奔る。鄭の文公、王を氾に居らしむ。三十八年、晋の文公、襄王を成周に入る。四十一年、楚を助けて晋を撃つ。晋の文公の過りしとき礼無かりしより、故に晋に背きて楚を助く。四十三年、晋の文公、秦の穆公と共に鄭を囲む。其の楚を助けて晋を攻めし者、及び文公の過りし時の無礼を討つなり。初め、鄭の文公に三夫人有り、寵子五人、皆罪を以て蚤く死す。公怒り、溉く群公子を逐ふ。子蘭晋に奔り、晋の文公に従ひて鄭を囲む。時に蘭、晋の文公に事ふること甚だ謹み、之を愛幸す。乃ち私かに晋に於てし、以て鄭に入りて太子と為らんことを求む。晋是に於て叔詹を得て僇と為さんと欲す。鄭の文公恐れ、敢へて叔詹に謂ひて言はず。詹聞き、鄭君に言ひて曰く、「臣君に謂ふも、君臣に聴かず、晋卒に患ひと為る。然れども晋の鄭を囲む所以は、詹を以てなり。詹死して鄭国を赦さば、詹の願ひなり」と。乃ち自殺す。鄭人、詹の尸を以て晋に与ふ。晋の文公曰く、「必ず一たび鄭君を見て、之を辱めて去らんと欲す」と。鄭人之を患ひ、乃ち人をして私かに秦に言はしめて曰く、「鄭を破りて晋を益すは、秦の利に非ざるなり」と。秦の兵罷む。

現代語訳

文公の弟の叔詹(しゅくせん)が言った。「重耳は賢者であり、そのうえ同じ姫姓の一族である。困窮してわが君を頼って立ち寄ったのだから、礼を尽くさないわけにはいかない」。文公は言った。「亡命中の公子で諸侯のもとに立ち寄る者は多い。どうしてみなに礼を尽くしていられよう」。叔詹は言った。「もし礼遇されないのなら、いっそ殺してしまうべきだ。殺さずにいて、もし彼が国に帰れば、鄭の災いとなろう」。文公は聞き入れなかった。三十七年の春、晋の公子重耳は国に帰って即位した。これが晋の文公である。秋、鄭は滑(かつ)に攻め入った。滑はいったん服従したが、やがて背いて衛についた。そこで鄭は滑を討った。周の襄王は伯服(はくふく)を遣わして滑のために赦しを請わせた。鄭の文公は、恵王が亡命して櫟にいたとき、自分の父の厲公が恵王を周に帰還させたのに、恵王が厲公に爵位も禄も与えなかったことを恨み、また襄王が衛と滑に味方したことも恨んでいた。そのため襄王の願いを聞かず、伯服を捕らえた。王は怒り、翟(てき)の人々と共に鄭を討ったが、勝てなかった。冬、翟が襄王を攻め、襄王は都を出て鄭に逃れた。鄭の文公は王を氾(はん)に住まわせた。三十八年、晋の文公が襄王を成周に帰還させた。四十一年、鄭は楚を助けて晋を攻めた。晋の文公が立ち寄ったときに無礼を働いて以来のいきさつで、晋に背いて楚を助けたのである。四十三年、晋の文公は秦の穆公と共に鄭を包囲した。鄭が楚を助けて晋を攻めたこと、また晋の文公が立ち寄ったときの無礼を討つためであった。これより前、鄭の文公には三人の夫人がいて、寵愛する子が五人いたが、みな罪を得て早く死んだ。公は怒って、公子たちをことごとく追放した。子蘭は晋に逃れ、晋の文公に従って鄭の包囲に加わっていた。当時、蘭は晋の文公にたいへん謹んで仕え、文公に可愛がられていた。そこで蘭はひそかに晋に働きかけて、鄭に帰って太子になることを求めた。晋はこの時、叔詹の身柄を引き渡させて辱めようとしていた。鄭の文公は恐れて、叔詹にそのことを言い出せなかった。叔詹はそれを聞いて、鄭君に言った。「わたしは君に申し上げたが、君はわたしの言うことを聞かず、晋はついに災いとなった。しかし晋が鄭を包囲しているのは、わたしのためである。わたしが死んで鄭の国が赦されるなら、それがわたしの願いだ」。そして自殺した。鄭の人々は叔詹の遺体を晋に引き渡した。晋の文公は言った。「どうしても一度鄭君に会い、辱めてから去りたい」。鄭の人々はこれを憂え、人を遣わしてひそかに秦に説かせた。「鄭を破って晋を強くするのは、秦の利益ではない」。そこで秦の兵は引き上げた。

解説

鄭の文公が亡命中の晋の重耳を冷遇したことが、のちに国の危機を招く因果の段です。叔詹は、礼遇しないならいっそ殺せと進言しましたが、文公はどちらもせず、重耳は晋に帰って文公となり覇者になりました。鄭はさらに楚につき、晋・秦連合に包囲されます。このとき叔詹は、自分の首が包囲の口実になっていると知って自ら命を絶ち、国を救おうとしました。そして鄭は、秦に「鄭を滅ぼしても晋が強くなるだけ」と説いて連合を割ります。この説得は『左伝』では燭之武の弁として有名です。落ち目の人を軽んじた一度の無礼が、その人が権力を得たときにどれほど高くつくかをよく示しています。今日の取引先や同僚への接し方にも、そのまま当てはまる教訓です。

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