史記 / 鄭世家
糾妻,祭仲女也,知之,謂其母曰:「父與夫孰親?」母曰:「父一而已,人盡夫也。」女乃告祭仲,祭仲反殺雍糾,戮之於市。厲公無柰祭仲何,怒糾曰:「謀及婦人,死固宜哉!」夏,厲公出居邊邑櫟。祭仲迎昭公忽,六月乙亥,復入鄭,卽位。秋,鄭厲公突因櫟人殺其大夫單伯,遂居之。諸侯聞厲公出奔,伐鄭,弗克而去。宋頗予厲公兵,自守於櫟,鄭以故亦不伐櫟。昭公二年,自昭公爲太子時,父莊公欲以髙渠彌爲卿,太子忽惡之,莊公弗聽,卒用渠彌爲卿。及昭公卽位,懼其殺己,冬十月辛卯,渠彌與昭公出獵,射殺昭公於野。祭仲與渠彌不敢入厲公,乃更立昭公弟子亹爲君,是爲子亹也,無謚號。子亹元年七月,齊襄公會諸侯於首止,鄭子亹往會,髙渠彌相,從,祭仲稱疾不行。所以然者,子亹自齊襄公爲公子之時,嘗會鬬,相仇,及會諸侯,祭仲請子亹無行。子亹曰:「齊彊,而厲公居櫟,卽不往,是率諸侯伐我,内厲公。我不如往,往何遽必辱,且又何至是!」卒行。於是祭仲恐齊并殺之,故稱疾。子亹至,不謝齊侯,齊侯怒,遂伏甲而殺子亹。髙渠彌亡歸,歸與祭仲謀,召子亹弟公子嬰於陳而立之,是爲鄭子。是歳,齊襄公使彭生醉拉殺魯桓公。
新字:糾妻,祭仲女也,知之,謂其母曰:「父与夫孰親?」母曰:「父一而已,人尽夫也。」女乃告祭仲,祭仲反殺雍糾,戮之於市。厲公無柰祭仲何,怒糾曰:「謀及婦人,死固宜哉!」夏,厲公出居辺邑櫟。祭仲迎昭公忽,六月乙亥,復入鄭,即位。秋,鄭厲公突因櫟人殺其大夫単伯,遂居之。諸侯聞厲公出奔,伐鄭,弗克而去。宋頗予厲公兵,自守於櫟,鄭以故亦不伐櫟。昭公二年,自昭公為太子時,父荘公欲以高渠弥為卿,太子忽悪之,荘公弗聴,卒用渠弥為卿。及昭公即位,懼其殺己,冬十月辛卯,渠弥与昭公出猟,射殺昭公於野。祭仲与渠弥不敢入厲公,乃更立昭公弟子亹為君,是為子亹也,無謚号。子亹元年七月,斉襄公会諸侯於首止,鄭子亹往会,高渠弥相,従,祭仲称疾不行。所以然者,子亹自斉襄公為公子之時,嘗会闘,相仇,及会諸侯,祭仲請子亹無行。子亹曰:「斉彊,而厲公居櫟,即不往,是率諸侯伐我,内厲公。我不如往,往何遽必辱,且又何至是!」卒行。於是祭仲恐斉并殺之,故称疾。子亹至,不謝斉侯,斉侯怒,遂伏甲而殺子亹。高渠弥亡帰,帰与祭仲謀,召子亹弟公子嬰於陳而立之,是為鄭子。是歳,斉襄公使彭生酔拉殺魯桓公。
書き下し
糾の妻は祭仲の女なり。之を知り、其の母に謂ひて曰く、「父と夫と孰れか親しき」と。母曰く、「父は一のみ、人は尽く夫なり」と。女乃ち祭仲に告ぐ。祭仲反りて雍糾を殺し、之を市に戮す。厲公、祭仲を奈何ともする無く、糾を怒りて曰く、「謀婦人に及ぶ、死は固より宜なるかな」と。夏、厲公出でて辺邑の櫟に居る。祭仲、昭公忽を迎へ、六月乙亥、復た鄭に入りて位に即く。秋、鄭の厲公突、櫟人に因りて其の大夫単伯を殺し、遂に之に居る。諸侯、厲公の出奔せるを聞き、鄭を伐つも、克たずして去る。宋頗る厲公に兵を予へ、自ら櫟に守る。鄭故を以て亦櫟を伐たず。昭公二年、昭公の太子為りし時より、父荘公、高渠弥を以て卿と為さんと欲す。太子忽之を悪む。荘公聴かず、卒に渠弥を用ひて卿と為す。昭公位に即くに及び、其の己を殺さんことを懼る。冬十月辛卯、渠弥、昭公と出でて猟し、昭公を野に射殺す。祭仲と渠弥と敢へて厲公を入れず、乃ち更に昭公の弟子亹を立てて君と為す、是を子亹と為す、謚号無し。子亹元年七月、斉の襄公諸侯に首止に会す。鄭の子亹往きて会す。高渠弥相として従ふ。祭仲疾と称して行かず。然る所以の者は、子亹、斉の襄公の公子為りし時より、嘗て会して闘ひ、相仇たり。諸侯に会するに及び、祭仲、子亹に行く無からんことを請ふ。子亹曰く、「斉は彊にして、厲公櫟に居る。即し往かずんば、是れ諸侯を率ゐて我を伐ち、厲公を内れん。我往くに如かず。往くとも何ぞ遽かに必ずしも辱められん。且つ又何ぞ是に至らん」と。卒に行く。是に於て祭仲、斉の并せて之を殺さんことを恐る。故に疾と称す。子亹至り、斉侯に謝せず。斉侯怒り、遂に甲を伏せて子亹を殺す。高渠弥亡げ帰り、帰りて祭仲と謀り、子亹の弟公子嬰を陳より召して之を立つ、是を鄭子と為す。是の歳、斉の襄公、彭生をして魯の桓公を酔はせ拉殺せしむ。
現代語訳
雍糾の妻は祭仲の娘である。彼女はこの計画を知って、母に尋ねた。「父と夫とでは、どちらが大切か」。母は答えた。「父はただ一人だが、夫になり得る男は誰でもそうだ」。娘はそこで祭仲に告げた。祭仲は逆に雍糾を殺し、その屍を市場にさらした。厲公は祭仲をどうすることもできず、雍糾に腹を立てて言った。「謀り事を女にまで漏らしたのだから、殺されて当然だ」。夏、厲公は国を出て辺境の邑である櫟(れき)に住んだ。祭仲は昭公忽を迎え、六月乙亥の日、昭公は再び鄭に入って即位した。秋、鄭の厲公突は櫟の人々を使ってその地の大夫単伯(ぜんぱく)を殺し、そのまま櫟に居座った。諸侯は厲公が国を出たと聞いて鄭を討ったが、勝てずに去った。宋は厲公に多くの兵を与え、厲公は櫟で自ら守りを固めた。鄭もそのために櫟を討たなかった。昭公の二年。昭公がまだ太子だったころ、父の荘公は高渠弥を卿にしようとした。太子忽はこれを嫌ったが、荘公は聞き入れず、結局渠弥を卿に用いた。昭公が即位すると、渠弥は自分が殺されるのではないかと恐れた。冬十月辛卯の日、渠弥は昭公と狩りに出て、昭公を野で射殺した。祭仲と渠弥は厲公を迎え入れる勇気がなく、昭公の弟の子亹を君主に立てた。これが子亹であり、謚号はない。子亹の元年七月、斉の襄公が首止(しゅし)で諸侯と会盟した。鄭の子亹も会盟に赴き、高渠弥が補佐役として従ったが、祭仲は病気と称して行かなかった。そうしたのは、子亹は斉の襄公がまだ公子だったころ、会った折に争って仇同士になっていたからである。諸侯の会盟に際して、祭仲は子亹に行かないよう願った。子亹は言った。「斉は強く、しかも厲公が櫟にいる。もし行かなければ、斉は諸侯を率いてわたしを討ち、厲公を国に入れるだろう。行くほうがよい。行ったからといって、必ず辱められるとは限らない。それに、そこまでのことにはなるまい」。そしてついに出かけた。祭仲は斉が自分も一緒に殺すのではないかと恐れたので、病気と称したのである。子亹が到着しても斉侯に謝罪しなかったので、斉侯は怒り、兵を伏せて子亹を殺した。高渠弥は逃げ帰り、祭仲と謀って、子亹の弟の公子嬰(えい)を陳から呼び寄せて立てた。これが鄭子である。この年、斉の襄公は彭生(ほうせい)に命じて魯の桓公を酔わせ、抱きかかえて肋骨を砕き殺させた。
解説
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史記 鄭世家二十四年、宋の繆公卒し、公子馮鄭に奔る。鄭、周の地を侵し、禾を取る。二十五年、衛の州吁其の君桓公を弑して自ら立ち、宋と鄭を伐つ。馮の故を以てなり。二十七年、始めて周の桓王に朝す。桓王其の禾を取りしを怒り、礼せず。二十九年、荘公、周の礼せざるを怒り、魯と祊・許田を易ふ。三十三年、宋孔父を殺す。三十七年、荘公周に朝せず。周の桓王、陳・蔡・虢・衛を率ゐて鄭を伐つ。荘公、祭仲・高渠弥と兵を発して自ら救ひ、王の師大いに敗る。祝聸、王の臂を射中つ。祝聸之を従はんことを請ふ。鄭伯之を止めて曰く、「長を犯すすら且つ之を難る、況んや敢へて天子を陵がんや」と。乃ち止む。夜、祭仲をして王の疾を問はしむ。三十八年、北戎斉を伐つ。斉、救ひを求めしむ。鄭、太子忽を遣はし兵を将ゐて斉を救はしむ。斉の釐公之に妻はせんと欲す。忽謝して曰く、「我は小国なり、斉の敵に非ざるなり」と。時に祭仲倶にし、勧めて之を取らしめて曰く、「君は内寵多し。太子大援無くんば将に立たざらんとす。三公子は皆君なり」と。所謂三公子とは、太子忽、其の弟突、次弟子亹なり。四十三年、鄭の荘公卒す。初め、祭仲甚だ荘公に寵有り、荘公使ひて卿と為す。公、鄧の女を娶らしむ。太子忽を生む。故に祭仲之を立つ、是を昭公と為す。荘公又宋の雍氏の女を娶り、厲公突を生む。雍氏宋に寵有り。宋の荘公、祭仲の忽を立つるを聞き、乃ち人をして祭仲を誘ひ召して之を執へしめて曰く、「突を立てずんば、将に死せんとす」と。亦突を執へて以て賂を求む。祭仲宋に許し、宋と盟ふ。突を以て帰り、之を立つ。昭公忽、祭仲の宋を以て要せられて其の弟突を立つるを聞き、九月丁亥、忽出でて衛に奔る。己亥、突鄭に至りて立つ、是を厲公と為す。厲公四年、祭仲国政を専らにす。厲公之を患へ、陰かに其の婿雍糾をして祭仲を殺さんと欲せしむ。
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史記 鄭世家鄭子八年、斉人管至父等乱を作し、其の君襄公を弑す。十二年、宋人長万其の君湣公を弑す。鄭の祭仲死す。十四年、故の鄭の亡げし厲公突の櫟に在る者、人をして鄭の大夫甫仮を誘ひ劫かさしめ、要して以て入らんことを求む。仮曰く、「我を捨てよ。我君の為に鄭子を殺して君を入れん」と。厲公与に盟ひ、乃ち之を捨つ。六月甲子、仮、鄭子及び其の二子を殺して厲公突を迎ふ。突、櫟より復た入りて位に即く。初め、内蛇と外蛇と鄭の南門の中に闘ひ、内蛇死す。居ること六年、厲公果たして復た入る。入りて其の伯父原を譲めて曰く、「我国を亡げて外に居る。伯父我を入るるに意無し。亦甚だしきかな」と。原曰く、「君に事へて二心無きは、人臣の職なり。原罪を知れり」と。遂に自殺す。厲公是に於て甫仮に謂ひて曰く、「子の君に事ふるや二心有り」と。遂に之を誅す。仮曰く、「重徳報いられず、誠に然るかな」と。厲公突の後元年、斉の桓公始めて霸たり。五年、燕・衛、周の恵王の弟穨と王を伐つ。王出でて温に奔る。弟穨を立てて王と為す。六年、恵王急を鄭に告ぐ。厲公兵を発して周の王子穨を撃つも、勝たず。是に於て周の恵王と帰り、王櫟に居る。七年春、鄭の厲公、虢叔と王子穨を襲殺して恵王を周に入る。秋、厲公卒し、子文公踕立つ。厲公初め立ちて四歳、亡げて櫟に居る。櫟に居ること十七歳、復た入る。立ちて七歳、亡と凡そ二十八年。二十四年、文公の賤妾燕姞と曰ふ、夢に天之に蘭を与へて曰く、「余は伯鯈為り。余は爾の祖なり。是を以て而の子と為せ。蘭は国香有り」と。夢を以て文公に告ぐ。文公之を幸し、之に草蘭を予へて符と為す。遂に子を生む。名づけて蘭と曰ふ。三十六年、晋の公子重耳過る。文公礼せず。
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