史記 / 越王句践世家
今臣出,道路皆言陶之富人朱公之子殺人囚楚,其家多持金錢賂王左右,故王非能恤楚國而赦,乃以朱公子故也。」楚王大怒曰:「寡人雖不德耳,柰何以朱公之子故而施惠乎!」令論殺朱公子,明日遂下赦令。
新字:今臣出,道路皆言陶之富人朱公之子殺人囚楚,其家多持金銭賂王左右,故王非能恤楚国而赦,乃以朱公子故也。」楚王大怒曰:「寡人雖不徳耳,柰何以朱公之子故而施恵乎!」令論殺朱公子,明日遂下赦令。
書き下し
今臣出づるに、道路皆言ふ、陶の富人朱公の子人を殺して楚に囚はる、其の家多く金銭を持ちて王の左右に賂ふ、故に王は能く楚国を恤みて赦すに非ず、乃ち朱公の子の故を以てなりと」と。楚王大いに怒りて曰く、「寡人不徳なりと雖も、奈何ぞ朱公の子の故を以て恵みを施さんや」と。朱公の子を論殺せしめ、明日遂に赦令を下す。
現代語訳
ところが今わたしが外に出ると、道行く人がみな噂している。陶の金持ち朱公の子が人を殺して楚で囚われており、その家が大金を持ち込んで王の側近に賄賂を贈った。だから王は楚の国を憐れんで大赦をするのではなく、朱公の子のためにするのだ、と」。楚王は大いに怒って言った。「わたしは不徳ではあるが、どうして朱公の子のために恩赦を施したりするものか」。そして朱公の子を裁いて処刑させ、その翌日に大赦の令を下した。
解説
面目を潰された荘生が、楚王の前で巧みに噂を持ち出し、朱公の子の死刑を招く結末の場面です。荘生は自分がだまされたとは言わず、世間の噂として、大赦は賄賂の見返りだと言われていると告げました。王の体面に訴える言い方で、王は疑いを晴らすために朱公の子を先に処刑し、翌日に大赦を出します。賄賂を贈った長男の行動が、そのまま弟を殺す口実になってしまったわけです。廉直を誇る荘生の自尊心もまた、この悲劇の一因でした。司馬遷は善人悪人を単純に描かず、人の面子や自尊心がどう事態を動かすかを冷徹に記しています。組織でも、根回しを重ねたつもりが、かえって相手の体面を傷つけて逆効果になることがあります。
関連する章句
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史記 越王句践世家楚に至る。荘生の家は郭を負ひ、藜藋を披きて門に到る。居甚だ貧なり。然れども長男書を発して千金を進むること、其の父の言の如くす。荘生曰く、「疾く去るべし。慎みて留まる毋かれ。即し弟出づるとも、然る所以を問ふ勿かれ」と。長男既に去り、荘生に過らずして私かに留まり、其の私に齎せるを以て楚国の貴人の事を用ふる者に献遺す。荘生は窮閻に居ると雖も、然れども廉直を以て国に聞え、楚王より以下皆之を師尊す。朱公の金を進むるに及びて、受くるに意有るに非ず、以て事を成して後に復た之を帰して以て信と為さんと欲するのみ。故に金至るや、其の婦に謂ひて曰く、「此れ朱公の金なり。如し病みて宿めて誡めざること有らば、後に復た帰せ。動かす勿かれ」と。而るに朱公の長男其の意を知らず、以為へらく殊に短長無しと。荘生閒時に入りて楚王に見え、「某の星某に宿る、此れ則ち楚に害あり」と言ふ。楚王素より荘生を信じ、曰く、「今為すこと奈何」と。荘生曰く、「独り徳を以てするのみ以て之を除くべし」と。楚王曰く、「生休め。寡人将に之を行はんとす」と。王乃ち使者をして三銭の府を封ぜしむ。楚の貴人驚きて朱公の長男に告げて曰く、「王且に赦さんとす」と。曰く、「何を以てするや」と。曰く、「王の且に赦さんとする毎に、常に三銭の府を封ず。昨暮王使をして之を封ぜしむ」と。朱公の長男以為へらく、赦さば、弟固より当に出づべし、千金を重んじて虚しく荘生に棄て、為す所無しと。乃ち復た荘生に見ゆ。荘生驚きて曰く、「若去らざるか」と。長男曰く、「固より未だしなり。初め弟の事を為す。弟今議して自ら赦さる。故に生に辞して去らん」と。荘生其の意の復た其の金を得んと欲するを知り、曰く、「若自ら室に入りて金を取れ」と。長男即ち自ら室に入りて金を取りて持ち去り、独り自ら歓幸す。荘生、児子の売る所と為るを羞ぢ、乃ち入りて楚王に見えて曰く、「臣前に某星の事を言ふ。王言ふ、徳を修めて以て之に報いんと欲すと。
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史記 越王句践世家朱公の長男竟に其の弟の喪を持ちて帰る。至るや、其の母及び邑人尽く之を哀しむ。唯だ朱公独り笑ひて曰く、「吾固より必ず其の弟を殺さんことを知れり。彼其の弟を愛せざるに非ず、顧だ忍ぶ能はざる所の者有るなり。是れ少くして我と倶にし、苦を見、生を為すの難きを知る。故に財を棄つるを重んず。少弟の如き者に至りては、生まれて我が富めるを見、堅に乗り良を駆りて狡兎を逐ふ。豈に財の従りて来る所を知らんや、
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史記 越王句践世家故に軽く之を棄て、惜吝する所に非ず。前日吾の少子を遣らんと欲せし所以は、固より其の能く財を棄つるが為の故なり。而るに長者は能はず、故に卒に以て其の弟を殺す。事の理なり、悲しむに足る者無し。吾日夜固より以て其の喪の来るを望めり」と。故に范蠡三たび徙り、名を天下に成す。苟くも去るのみに非ず、止まる所必ず名を成す。卒に陶に老死す。故に世伝へて陶朱公と曰ふ。太史公曰く、禹の功大なるかな。九川を漸し、九州を定め、今に至るまで諸夏艾安す。苗裔の句践に及び、身を苦しめ思ひを焦がし、終に彊呉を滅ぼし、北のかた兵を中国に観し、以て周室を尊び、号して霸王と称す。句践賢と謂はざるべけんや。蓋し禹の遺烈有り。范蠡三たび遷りて皆栄名有り、名後世に垂る。臣主此の若くんば、顕るること毋からんと欲すとも得んや。
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史記 越王句践世家種還りて、以て句践に報ず。句践、妻子を殺し、宝器を燔き、戦ひに触れて以て死せんと欲す。種、句践を止めて曰く、「夫れ呉の太宰嚭は貪なり、誘ふに利を以てすべし。請ふ閒行して之に言はん」と。是に於て句践、美女宝器を以て種をして閒に呉の太宰嚭に献ぜしむ。嚭受けて、乃ち大夫種を呉王に見えしむ。種頓首して言ひて曰く、「願はくは大王、句践の罪を赦し、尽く其の宝器を入れん。不幸にして赦さずんば、句践将に尽く其の妻子を殺し、其の宝器を燔き、悉く五千人もて戦ひに触れんとす。必ず当たること有らん」と。嚭因りて呉王に説きて曰く、「越は服するを以て臣と為る。若し将に之を赦さば、此れ国の利なり」と。呉王将に之を許さんとす。子胥進み諫めて曰く、「今越を滅ぼさずんば、後必ず之を悔いん。句践は賢君、種・蠡は良臣なり。若し国に反らば、将に乱を為さんとす」と。呉王聴かず、卒に越を赦し、兵を罷めて帰る。句践の会稽に困しむや、喟然として嘆じて曰く、「吾終に此に於てせんか」と。種曰く、「湯は夏台に系がれ、文王は羑里に囚はれ、晋の重耳は翟に奔り、斉の小白は莒に奔るも、其の卒に王霸たり。是に由りて之を観れば、何ぞ遽かに福と為らざらんや」と。
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