史記 / 楚世家
卽往見昭陽軍中,曰:「願聞楚國之法,破軍殺將者何以貴之?」昭陽曰:「其官爲上柱國,封上爵執珪。」陳軫曰:「其有貴於此者乎?」昭陽曰:「令尹。」陳軫曰:「今君已爲令尹矣,此國冠之上。臣請得譬之。人有遺其舍人一卮酒者,舍人相謂曰:『數人飲此,不足以遍,請遂畫地爲蛇,蛇先成者獨飲之。』一人曰:『吾蛇先成。』舉酒而起,曰:『吾能爲之足。』及其爲之足,而後成人奪之酒而飲之,曰:『蛇固無足,今爲之足,是非蛇也。』今君相楚而攻魏,破軍殺將,功莫大焉,冠之上不可以加矣。今又移兵而攻齊,攻齊勝之,官爵不加於此;攻之不勝,身死爵奪,有毀於楚:此爲蛇爲足之説也。不若引兵而去以德齊,此持滿之術也。」昭陽曰:「善。」引兵而去。燕、韓君初稱王。秦使張儀與楚、齊、魏相會,盟齧桑。十一年,蘇秦約從山東六國共攻秦,楚懷王爲從長。至函谷關,秦出兵撃六國,六國兵皆引而歸,齊獨後。十二年,齊湣王伐敗趙、魏軍,秦亦伐敗韓,與齊爭長。十六年,秦欲伐齊,而楚與齊從親,秦惠王患之,乃宣言張儀免相,使張儀南見楚王,謂楚王曰:「敝邑之王所甚説者無先大王,雖儀之所甚願爲門闌之廝者亦無先大王。
新字:即往見昭陽軍中,曰:「願聞楚国之法,破軍殺将者何以貴之?」昭陽曰:「其官為上柱国,封上爵執珪。」陳軫曰:「其有貴於此者乎?」昭陽曰:「令尹。」陳軫曰:「今君已為令尹矣,此国冠之上。臣請得譬之。人有遺其舎人一卮酒者,舎人相謂曰:『数人飲此,不足以遍,請遂画地為蛇,蛇先成者独飲之。』一人曰:『吾蛇先成。』舉酒而起,曰:『吾能為之足。』及其為之足,而後成人奪之酒而飲之,曰:『蛇固無足,今為之足,是非蛇也。』今君相楚而攻魏,破軍殺将,功莫大焉,冠之上不可以加矣。今又移兵而攻斉,攻斉勝之,官爵不加於此;攻之不勝,身死爵奪,有毀於楚:此為蛇為足之説也。不若引兵而去以徳斉,此持満之術也。」昭陽曰:「善。」引兵而去。燕、韓君初称王。秦使張儀与楚、斉、魏相会,盟齧桑。十一年,蘇秦約従山東六国共攻秦,楚懐王為従長。至函谷関,秦出兵撃六国,六国兵皆引而帰,斉独後。十二年,斉湣王伐敗趙、魏軍,秦亦伐敗韓,与斉争長。十六年,秦欲伐斉,而楚与斉従親,秦恵王患之,乃宣言張儀免相,使張儀南見楚王,謂楚王曰:「敝邑之王所甚説者無先大王,雖儀之所甚願為門闌之廝者亦無先大王。
書き下し
即ち往きて昭陽に軍中に見えて曰く、「願はくは楚国の法を聞かん。軍を破り将を殺す者は何を以て之を貴くする」と。昭陽曰く、「其の官は上柱国と為り、上爵執珪に封ず」と。陳軫曰く、「其れ此より貴き者有りや」と。昭陽曰く、「令尹なり」と。陳軫曰く、「今君已に令尹為り。此れ国の冠の上なり。臣請ふ之を譬ふるを得ん。人に其の舎人に一卮の酒を遺る者有り。舎人相謂ひて曰く、『数人此を飲まば、以て遍きに足らず。請ふ遂に地に画きて蛇を為り、蛇先づ成る者独り之を飲まん』と。一人曰く、『吾が蛇先づ成れり』と。酒を挙げて起ちて曰く、『吾能く之が足を為らん』と。其の之が足を為るに及びて、而して後に成る人之が酒を奪ひて之を飲みて曰く、『蛇は固より足無し。今之が足を為る。是れ蛇に非ざるなり』と。今君楚に相として魏を攻め、軍を破り将を殺す。功焉より大なるは莫し。冠の上は以て加ふべからず。今又兵を移して斉を攻む。斉を攻めて之に勝つも、官爵此に加へず。之を攻めて勝たずんば、身死し爵奪はれ、楚に毀らるる有り。此れ蛇の為に足を為るの説なり。兵を引きて去りて以て斉に徳とせらるるに若かず。此れ満を持するの術なり」と。昭陽曰く、「善し」と。兵を引きて去る。燕・韓の君初めて王と称す。秦張儀をして楚・斉・魏と相会し、齧桑に盟はしむ。十一年、蘇秦山東の六国を約従して共に秦を攻む。楚の懐王従長と為る。函谷関に至る。秦兵を出して六国を撃つ。六国の兵皆引きて帰る。斉独り後る。十二年、斉の湣王趙・魏の軍を伐ちて敗る。秦も亦た韓を伐ちて敗り、斉と長を争ふ。十六年、秦斉を伐たんと欲す。而して楚斉と従親す。秦の恵王之を患ひ、乃ち張儀の相を免ぜらると宣言し、張儀をして南のかた楚王に見えしむ。楚王に謂ひて曰く、「敝邑の王の甚だ説ぶ所の者は大王に先んずるは無し。儀の甚だ門闌の廝と為らんことを願ふ所の者と雖も、亦た大王に先んずるは無し。
現代語訳
陳軫はすぐに昭陽の陣営へ行って会い、言った。「楚の国の決まりを伺いたい。敵の軍を破り将軍を討ち取った者には、どのような位を与えて報いるのか」。昭陽は言った。「官職は上柱国となり、最高の爵位である執珪を授けられる」。陳軫は言った。「それより上の位はあるのか」。昭陽は言った。「令尹だ」。陳軫は言った。「あなたはすでに令尹だ。これは国の最高の位だ。一つたとえ話をさせていただきたい。ある人が使用人たちに大杯一杯の酒を与えた。使用人たちは相談して言った。『何人もで飲めば足りない。地面に蛇の絵を描いて、最初に描き上げた者が一人で飲むことにしよう』。一人が言った。『私の蛇が先にできた』。そして酒を手に取って立ち上がり、『私は足まで描き足せるぞ』と言った。その男が足を描いているうちに、次に描き上げた者が酒を奪って飲み干し、こう言った。『蛇にはもともと足がない。いま足を描いたのなら、それはもう蛇ではない』。いまあなたは楚の宰相として魏を攻め、敵軍を破り将軍を討ち取った。これ以上の手柄はなく、最高の位にさらに加えられるものはない。そこへまた兵を転じて斉を攻めている。斉を攻めて勝っても、これ以上の官職や爵位は加わらない。攻めて勝てなければ、身は死に爵位は奪われ、楚で非難されることになる。これこそ蛇に足を描くという話だ。兵を引いて去り、斉に恩を売るほうがよい。これが満ちた器をこぼさずに保つ術というものだ」。昭陽は「もっともだ」と言い、兵を引いて去った。燕と韓の君主が初めて王を名乗った。秦は張儀を楚・斉・魏と会わせ、齧桑で盟約を結ばせた。十一年、蘇秦は山東の六国を合従させて共に秦を攻め、楚の懐王がその盟主となった。函谷関まで進んだが、秦が兵を出して六国を撃つと、六国の兵はみな引き揚げた。斉だけが後から遅れて退いた。十二年、斉の湣王が趙・魏の軍を攻めて破り、秦もまた韓を攻めて破り、斉と覇を争った。十六年、秦は斉を攻めようとしたが、楚が斉と合従して親しくしていた。秦の恵王はこれを憂え、張儀が宰相を免職されたと言いふらし、張儀を南の楚王のもとへ行かせた。張儀は楚王に言った。「わが国の王が最も慕っているのは、大王をおいてほかにない。私が門番の下働きになってでもお仕えしたいと心から願うのも、大王をおいてほかにない。
解説
関連する章句
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『長短経』七雄略軫曰く「令尹は貴きのみ。王、両令尹を置くに非ざるなり。臣、竊かに君の為に之を譬えん。可ならんか。楚に祠る者有り、其の同舎人に酒一巵を賜う。舎人相い謂いて曰く『数人之を飲まば足らず、一人之を飲まば余り有り。請う、地に画きて蛇と為し、先ず成る者、酒を飲まん』と。一人、蛇先ず成る。酒を引きて且に之を飲まんとす。乃ち左手に巵を持ち、右手に地を画きて曰く『吾、能く之が足を為らん』と。足未だ成らざるに、一人、蛇復た成る。其の巵を奪いて曰く『蛇は固より足無し。子、安くんぞ能く之が足を為らんや』と。遂に其の酒を飲む。蛇の足を為る者は、終に其の酒を亡う。今、公、魏を攻め、軍を破り将を殺し、八城を得たり。而して又た兵を移して斉を攻む。斉、公を畏るること甚だし。此を以て君を名づくるに足れり。冠の上は重ぬ可きに非ざるなり。戦いて勝たざる無くして止まるを知らずんば、身且に死し、爵且に帰せんとす。猶お蛇足を為る者のごときなり」と。昭陽、以て然りと為し、軍を引きて去る。〉蘇秦、楚に如く。〈楚の先は、帝顓頊より出づ。帝嚳・高辛の時、火正と為り、命じて祝融と曰う。其の後の苗裔、周の文王に事う。周の成王の時に当たり、文武の勤労の後嗣を挙げて、熊繹を楚蛮に封じ、子男の田を以てす。姓は芊氏。甚だ江漢の間の人の和を得たり。熊通に至り、使いをして随人に周に之かしめ、其の号を尊くせんことを請う。周、聴かず。熊通怒り、乃ち自立して武王と為る。〉
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戦国策・昭陽為楚伐魏昭陽、楚の爲に魏を伐ち、軍を覆し將を殺して八城を得、兵を移して齊を攻む。陳軫、齊王の爲に使ひして、昭陽に見え、再拜して戰勝を賀し、起ちて問ふ、「楚の法、軍を覆し將を殺すは、其の官爵何ぞや。」昭陽曰く、「官は上柱國と爲し、爵は上執珪と爲す。」陳軫曰く、「此より貴きは何ぞや。」曰く、「唯だ令尹のみ。」陳軫曰く、「令尹は貴し。王兩令尹を置かざるなり、臣竊かに公の爲に譬ふる可きなり。楚に祠る者有り、其の舍人に巵酒を賜ふ。舍人相ひ謂ひて曰く、『數人之を飲まば足らず、一人之を飲まば餘り有り。請ふ地に畫きて蛇を爲り、先づ成る者酒を飲まん。』一人蛇先づ成り、酒を引きて且に之を飲まんとし、乃ち左手に巵を持ち、右手に蛇を畫きて曰く、『吾能く之が爲に足せん。』未だ成らざるに、一人の蛇成り、其の巵を奪ひて曰く、『蛇固より足無し、子安んぞ能く之が爲に足せんや。』遂に其の酒を飲む。蛇の爲に足す者は、終に其の酒を亡ふ。今君楚を相として魏を攻め、軍を破り將を殺して八城を得、兵を弱めず、齊を攻めんと欲す、齊公を畏るること甚だし、公是を以て名を爲すこと居に足れり、官の上は重ぬ可きに非ざるなり。戰ひて勝たざる無くして止まるを知らざる者は、身且に死せんとし、爵且に後に歸せんとす、猶ほ蛇足を爲すがごときなり。」昭陽以て然りと爲し、軍を解きて去る。
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史記 楚世家悼王の二年、三晋来たりて楚を伐ち、乗丘に至りて還る。四年、楚周を伐つ。鄭子陽を殺す。九年、韓を伐ち、負黍を取る。十一年、三晋楚を伐ち、我を大梁・楡関に敗る。楚厚く秦に賂ひ、之と平らぐ。二十一年、悼王卒し、子の粛王臧立つ。粛王の四年、蜀楚を伐ち、茲方を取る。是に於て楚捍関を為りて以て之を距ぐ。十年、魏我が魯陽を取る。十一年、粛王卒す。子無し。其の弟熊良夫を立つ。是を宣王と為す。宣王の六年、周の天子秦の献公を賀す。秦始めて復た彊く、而して三晋益々大なり。魏の恵王・斉の威王尤も彊し。三十年、秦衛鞅を商に封じ、南のかた楚を侵す。是の年、宣王卒し、子の威王熊商立つ。威王の六年、周の顕王文武の胙を秦の恵王に致す。七年、斉の孟嘗君の父田嬰楚を欺く。楚の威王斉を伐ち、之を徐州に敗り、而して斉をして必ず田嬰を逐はしめんとす。田嬰恐る。張丑偽りて楚王に謂ひて曰く、「王の徐州に戦勝せし所以の者は、田盻子用ひられざればなり。盻子は、国に功有りて、百姓之が用を為す。嬰子善からずして申紀を用ふ。申紀は、大臣附かず、百姓用を為さず。故に王之に勝てり。今王嬰子を逐はば、嬰子逐はれて、盻子必ず用ひられん。復た其の士卒を搏めて以て王と遇はば、必ず王に便ならざらん」と。楚王因りて逐はざるなり。十一年、威王卒し、子の懐王熊槐立つ。魏楚の喪を聞き、楚を伐ち、我が陘山を取る。懐王の元年、張儀始めて秦の恵王に相たり。四年、秦の恵王初めて王と称す。六年、楚柱国昭陽をして兵を将ゐて魏を攻めしめ、之を襄陵に破り、八邑を得たり。又兵を移して斉を攻む。斉王之を患ふ。陳軫適々秦の為に斉に使ひす。斉王曰く、「之を為すこと奈何」と。陳軫曰く、「王憂ふること勿かれ。請ふ之を罷めしめん」と。
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史記 張儀列伝楚王大いに説びて之を許す。群臣皆賀す、陳軫独り之を弔す。楚王怒りて曰く、「寡人師を興し兵を発せずして六百里の地を得たり、群臣皆賀す、子独り弔すは、何ぞや」と。陳軫対へて曰く、「然らず、臣を以て之を観るに、商於の地は得べからずして斉秦合し、斉秦合すれば則ち患ひ必ず至らん」と。楚王曰く、「説有るか」と。陳軫対へて曰く、「夫れ秦の楚を重んずる所以の者は、其の斉有るを以てなり。今関を閉ぢ約を斉に絶たば、則ち楚孤なり。秦奚ぞ夫の孤国を貪りて、之に商於の地六百里を与へんや。張儀秦に至らば、必ず王に負かん、是れ北のかた斉の交はりを絶ち、西のかた患ひを秦に生ずるなり、而して両国の兵必ず倶に至らん。善く王の為に計る者は、陰かに合して陽に斉に絶ち、人をして張儀に随はしむるに若かず。茍も吾に地を与へば、斉を絶つも未だ晩からず。吾に地を与へずんば、陰かに合して計を謀らん」と。楚王曰く、「願はくは陳子口を閉ぢて復た言ふ毋く、以て寡人の地を得るを待て」と。乃ち相印を以て張儀に授け、厚く之に賂す。是に於いて遂に関を閉ぢ約を斉に絶ち、一将軍をして張儀に随はしむ。張儀秦に至り、詳りて綏を失ひて車より墮ち、朝せざること三月。楚王之を聞きて、曰く、「儀寡人の斉を絶つを以て未だ甚だしからずと為すか」と。乃ち勇士をして宋に至らしめ、宋の符を借りて、北のかた斉王を罵らしむ。斉王大いに怒り、節を折りて秦に下る。秦斉の交はり合す、張儀乃ち朝し、楚の使者に謂ひて曰く、「臣に奉邑六里有り、願はくは以て大王の左右に献ぜん」と。楚の使者曰く、「臣令を王に受くるに、商於の地六百里を以てす、六里を聞かず」と。還りて楚王に報ず、楚王大いに怒り、兵を発して秦を攻む。陳軫曰く、「軫口を発して言ふべきか。之を攻むるは地を割きて反つて以て秦に賂ひ、之と兵を并せて斉を攻むるに如かず、是れ我地を秦に出だし、償ひを斉に取るなり、王の国尚ほ存すべし」と。楚王聴かず、卒に兵を発して将軍屈丐をして秦を撃たしむ。秦斉共に楚を攻め、首を斬ること八万、屈丐を殺し、遂に丹陽・漢中の地を取る。楚又復た益々兵を発して秦を襲ひ、藍田に至りて、
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史記 張儀列伝陳軫なる者は、游説の士なり。張儀と倶に秦の恵王に事へ、皆貴重せられ、寵を争ふ。張儀陳軫を秦王に悪みて曰く、「軫は幣を重くし使を軽くして秦楚の間にす、将に国交を為さんとするなり。今楚秦に善を加へずして軫に善くするは、軫自ら為に厚くして王の為に薄きなり。且つ軫秦を去りて楚に之かんと欲す、王胡ぞ聴かざる」と。王陳軫に謂ひて曰く、「吾聞く子秦を去りて楚に之かんと欲すと、之有りや」と。軫曰く、「然り」と。王曰く、「儀の言果たして信なり」と。軫曰く、「独り儀の之を知るのみに非ざるなり、行道の士尽く之を知る。昔子胥其の君に忠にして天下争ひて以て臣と為さんとし、曽参其の親に孝にして天下以て子と為さんことを願ふ。故に僕妾を売りて閭巷を出でずして售るる者は、良き僕妾なり。出婦の郷曲に嫁する者は、良き婦なり。今軫其の君に忠ならずんば、楚も亦何を以て軫を忠と為さんや。忠にして且つ棄てらるれば、軫楚に之かずして何くにか帰せん」と。王其の言を以て然りと為し、遂に善く之を待す。秦に居ること期年、秦の恵王終に張儀を相とし、而して陳軫楚に奔る。楚未だ之を重んぜず、而して陳軫をして秦に使ひせしむ。梁を過り、犀首に見えんと欲す。犀首謝して見えず。軫曰く、「吾事の為に来たる、公軫に見えずんば、軫将に行かんとす、異日を待つを得ず」と。犀首之に見ゆ。陳軫曰く、「公何ぞ飲を好むや」と。犀首曰く、「事無ければなり」と。曰く、「吾請ふ公をして事に厭かしめん、可なるか」と。曰く、「柰何」と。曰く、「田需諸侯を約して従親せしむ、楚王之を疑ひ、未だ信ぜざるなり。公王に謂ひて曰へ、『臣燕・趙の王と故有り、数々人をして来たらしめて、曰く、「事無くんば何ぞ相見えざる」と、願はくは行を王に謁せん』と。王公に許すと雖も、公請ふ車を多くする毋く、車三十乗を以てし、之を庭に陳ぬべし、明らかに燕・趙に之くと言へ」と。燕・趙の客之を聞き、車を馳せて其の王に告げ、人をして犀首を迎へしむ。楚王之を聞きて大いに怒りて、曰く、「田需寡人と約す、而して犀首燕・趙に之く、是れ我を欺くなり」と。
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史記 楚世家敝邑の王の甚だ憎む所の者は斉王に先んずるは無し。儀の甚だ憎む所の者と雖も亦た斉王に先んずるは無し。而して大王之に和す。是を以て敝邑の王王に事ふるを得ず、而して儀をして亦た門闌の廝と為るを得ざらしむるなり。王儀の為に関を閉ぢて斉を絶たば、今使者をして儀に従ひて西のかた秦の分かつ所の楚の商於の地方六百里を取らしめん。是の如くせば則ち斉弱からん。是れ北のかた斉を弱め、西のかた秦に徳とせられ、商於を私して以て富と為す。此れ一計にして三利倶に至るなり」と。懐王大いに悦び、乃ち相璽を張儀に置き、日々与に置酒し、宣言す「吾復た吾が商於の地を得たり」と。群臣皆賀す。而して陳軫独り弔す。懐王曰く、「何の故ぞ」と。陳軫対へて曰く、「秦の王を重んずる所以の者は、王の斉有るを以てなり。今地未だ得べからずして斉の交はり先づ絶ゆ。是れ楚孤なり。夫れ秦又何ぞ孤国を重んぜん。必ず楚を軽んぜん。且つ先づ地を出だして後に斉を絶たば、則ち秦計りて為さず。先づ斉を絶ちて後に地を責めば、則ち必ず張儀に欺かれん。張儀に欺かれなば、則ち王必ず之を怨まん。之を怨まば、是れ西のかた秦の患ひを起こし、北のかた斉の交はりを絶つなり。西のかた秦の患ひを起こし、北のかた斉の交はりを絶たば、則ち両国の兵必ず至らん。臣故に弔す」と。楚王聴かず、因りて一将軍をして西のかた封地を受けしむ。張儀秦に至り、詳りて酔ひて車より墜ち、病と称して出でざること三月、地得べからず。楚王曰く、「儀吾が斉を絶つを以て尚ほ薄しと為すか」と。乃ち勇士宋遺をして北のかた斉王を辱めしむ。斉王大いに怒り、楚の符を折りて秦に合す。秦・斉の交はり合し、張儀乃ち起ちて朝し、楚の将軍に謂ひて曰く、「子何ぞ地を受けざる。某より某に至るまで、広袤六里なり」と。楚の将軍曰く、「臣の命ぜらるる所以の者は六百里なり。六里を聞かず」と。即ち以て帰りて懐王に報ず。懐王大いに怒り、師を興して将に秦を伐たんとす。陳軫又曰く、「秦を伐つは計に非ず。
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