史記 / 楚世家
悼王二年,三晉來伐楚,至乘丘而還。四年,楚伐周。鄭殺子陽。九年,伐韓,取負黍。十一年,三晉伐楚,敗我大梁、楡關。楚厚賂秦,與之平。二十一年,悼王卒,子肅王臧立。肅王四年,蜀伐楚,取茲方。於是楚爲捍關以距之。十年,魏取我魯陽。十一年,肅王卒,無子,立其弟熊良夫,是爲宣王。宣王六年,周天子賀秦獻公。秦始復彊,而三晉益大,魏惠王、齊威王尤彊。三十年,秦封衞鞅於商,南侵楚。是年,宣王卒,子威王熊商立。威王六年,周顯王致文武胙於秦惠王。七年,齊孟嘗君父田嬰欺楚,楚威王伐齊,敗之於徐州,而令齊必逐田嬰。田嬰恐,張丑偽謂楚王曰:「王所以戰勝於徐州者,田盻子不用也。盻子者,有功於國,而百姓爲之用。嬰子弗善而用申紀。申紀者,大臣不附,百姓不爲用,故王勝之也。今王逐嬰子,嬰子逐,盻子必用矣。復搏其士卒以與王遇,必不便於王矣。」楚王因弗逐也。十一年,威王卒,子懷王熊槐立。魏聞楚喪,伐楚,取我陘山。懷王元年,張儀始相秦惠王。四年,秦惠王初稱王。六年,楚使柱國昭陽將兵而攻魏,破之於襄陵,得八邑。又移兵而攻齊,齊王患之。陳軫適爲秦使齊,齊王曰:「爲之柰何?」陳軫曰:「王勿憂,請令罷之。」
新字:悼王二年,三晋来伐楚,至乗丘而還。四年,楚伐周。鄭殺子陽。九年,伐韓,取負黍。十一年,三晋伐楚,敗我大梁、楡関。楚厚賂秦,与之平。二十一年,悼王卒,子粛王臧立。粛王四年,蜀伐楚,取茲方。於是楚為捍関以距之。十年,魏取我魯陽。十一年,粛王卒,無子,立其弟熊良夫,是為宣王。宣王六年,周天子賀秦献公。秦始復彊,而三晋益大,魏恵王、斉威王尤彊。三十年,秦封衛鞅於商,南侵楚。是年,宣王卒,子威王熊商立。威王六年,周顕王致文武胙於秦恵王。七年,斉孟嘗君父田嬰欺楚,楚威王伐斉,敗之於徐州,而令斉必逐田嬰。田嬰恐,張丑偽謂楚王曰:「王所以戦勝於徐州者,田盻子不用也。盻子者,有功於国,而百姓為之用。嬰子弗善而用申紀。申紀者,大臣不附,百姓不為用,故王勝之也。今王逐嬰子,嬰子逐,盻子必用矣。復搏其士卒以与王遇,必不便於王矣。」楚王因弗逐也。十一年,威王卒,子懐王熊槐立。魏聞楚喪,伐楚,取我陘山。懐王元年,張儀始相秦恵王。四年,秦恵王初称王。六年,楚使柱国昭陽将兵而攻魏,破之於襄陵,得八邑。又移兵而攻斉,斉王患之。陳軫適為秦使斉,斉王曰:「為之柰何?」陳軫曰:「王勿憂,請令罷之。」
書き下し
悼王の二年、三晋来たりて楚を伐ち、乗丘に至りて還る。四年、楚周を伐つ。鄭子陽を殺す。九年、韓を伐ち、負黍を取る。十一年、三晋楚を伐ち、我を大梁・楡関に敗る。楚厚く秦に賂ひ、之と平らぐ。二十一年、悼王卒し、子の粛王臧立つ。粛王の四年、蜀楚を伐ち、茲方を取る。是に於て楚捍関を為りて以て之を距ぐ。十年、魏我が魯陽を取る。十一年、粛王卒す。子無し。其の弟熊良夫を立つ。是を宣王と為す。宣王の六年、周の天子秦の献公を賀す。秦始めて復た彊く、而して三晋益々大なり。魏の恵王・斉の威王尤も彊し。三十年、秦衛鞅を商に封じ、南のかた楚を侵す。是の年、宣王卒し、子の威王熊商立つ。威王の六年、周の顕王文武の胙を秦の恵王に致す。七年、斉の孟嘗君の父田嬰楚を欺く。楚の威王斉を伐ち、之を徐州に敗り、而して斉をして必ず田嬰を逐はしめんとす。田嬰恐る。張丑偽りて楚王に謂ひて曰く、「王の徐州に戦勝せし所以の者は、田盻子用ひられざればなり。盻子は、国に功有りて、百姓之が用を為す。嬰子善からずして申紀を用ふ。申紀は、大臣附かず、百姓用を為さず。故に王之に勝てり。今王嬰子を逐はば、嬰子逐はれて、盻子必ず用ひられん。復た其の士卒を搏めて以て王と遇はば、必ず王に便ならざらん」と。楚王因りて逐はざるなり。十一年、威王卒し、子の懐王熊槐立つ。魏楚の喪を聞き、楚を伐ち、我が陘山を取る。懐王の元年、張儀始めて秦の恵王に相たり。四年、秦の恵王初めて王と称す。六年、楚柱国昭陽をして兵を将ゐて魏を攻めしめ、之を襄陵に破り、八邑を得たり。又兵を移して斉を攻む。斉王之を患ふ。陳軫適々秦の為に斉に使ひす。斉王曰く、「之を為すこと奈何」と。陳軫曰く、「王憂ふること勿かれ。請ふ之を罷めしめん」と。
現代語訳
悼王の二年、三晋(韓・魏・趙)が楚を攻め、乗丘まで来て引き返した。四年、楚は周を攻めた。鄭が子陽を殺した。九年、楚は韓を攻めて負黍を取った。十一年、三晋が楚を攻め、大梁と楡関で楚を破った。楚は秦に手厚く贈り物をして和睦した。二十一年、悼王が亡くなり、子の粛王臧が立った。粛王の四年、蜀が楚を攻めて茲方を取った。そこで楚は捍関(関所)を築いて防いだ。十年、魏が楚の魯陽を取った。十一年、粛王が亡くなった。子がなかったので、弟の熊良夫を立てた。これが宣王である。宣王の六年、周の天子が秦の献公に祝いを贈った。秦はふたたび強くなり始め、三晋はますます大きくなり、中でも魏の恵王と斉の威王が特に強かった。三十年、秦は衛鞅(商鞅)を商に封じ、南の楚に攻め込んだ。この年、宣王が亡くなり、子の威王熊商が立った。威王の六年、周の顕王が文王・武王の祭りの肉を秦の恵王に贈った。七年、斉の孟嘗君の父の田嬰が楚を欺いた。楚の威王は斉を攻めて徐州で破り、斉に田嬰を必ず追放させようとした。田嬰は恐れた。張丑は偽って楚王に言った。「王が徐州で勝てたのは、斉で田盻子が用いられていなかったからだ。田盻子は国に功績があり、民も彼のためなら働く。ところが田嬰は彼と仲が悪く、申紀を用いた。申紀には大臣も従わず、民も彼のためには働かない。だから王は勝てたのだ。いま王が田嬰を追放させれば、田嬰がいなくなった後、必ず田盻子が用いられるだろう。田盻子がふたたび兵を集めて王と戦えば、きっと王にとって都合が悪いことになる」。楚王はそこで田嬰の追放を求めなかった。十一年、威王が亡くなり、子の懐王熊槐が立った。魏は楚の喪中につけこんで楚を攻め、陘山を取った。懐王の元年、張儀が初めて秦の恵王の宰相となった。四年、秦の恵王が初めて王を名乗った。六年、楚は柱国(最高位の武官)の昭陽に兵を率いて魏を攻めさせ、襄陵で魏を破って八つの邑を得た。さらに兵を転じて斉を攻めた。斉王はこれを憂えた。ちょうど陳軫が秦の使者として斉に来ていた。斉王は言った。「どうしたらよいか」。陳軫は言った。「王はご心配なさるな。私が楚軍を引き揚げさせよう」。
解説
関連する章句
-
史記 秦本紀十三年四月戊午、魏の君王と為り、韓も亦王と為る。張儀をして陝を伐ち取らしめ、其の人を出だして魏に与ふ。十四年、更めて元年と為す。二年、張儀斉・楚の大臣と齧桑に会す。三年、韓・魏の太子来朝す。張儀魏に相たり。五年、王游びて北河に至る。七年、楽池秦に相たり。韓・趙・魏・燕・斉匈奴を帥ゐて共に秦を攻む。秦庶長疾をして与に修魚に戦はしめ、其の将申差を虜にし、趙の公子渇・韓の太子奐を敗り、首を斬ること八万二千。八年、張儀復た秦に相たり。九年、司馬錯蜀を伐ち、之を滅ぼす。趙の中都・西陽を伐ち取る。十年、韓の太子蒼来たりて質たり。韓の石章を伐ち取る。趙の将泥を伐ち敗る。義渠の二十五城を伐ち取る。十一年、樗里疾魏の焦を攻め、之を降す。韓を岸門に敗り、首を斬ること万、其の将犀首走る。公子通蜀に封ぜらる。燕君其の臣子之に譲る。十二年、王梁王と臨晋に会す。庶長疾趙を攻め、趙の将荘を虜にす。張儀楚に相たり。十三年、庶長章楚を丹陽に撃ち、其の将屈丐を虜にし、首を斬ること八万。又楚の漢中を攻め、地六百里を取り、漢中郡を置く。楚雍氏を囲む。秦庶長疾をして韓を助けて東のかた斉を攻めしめ、到満をして魏を助けて燕を攻めしむ。十四年、楚を伐ち、召陵を取る。丹・犁臣とし、蜀の相壮蜀侯を殺して来降す。恵王卒し、子武王立つ。韓・魏・斉・楚・越皆賓従す。武王の元年、魏の恵王と臨晋に会す。蜀の相壮を誅す。張儀・魏章皆東に出でて魏に之く。義渠・丹・犁を伐つ。二年、初めて丞相を置き、樗里疾・甘茂を左右の丞相と為す。張儀魏に死す。三年、韓の襄王と臨晋の外に会す。南公揭卒し、樗里疾韓に相たり。武王甘茂に謂ひて曰く、「寡人容車もて三川に通じ、周室を窺はんと欲す。死すとも恨みず」と。
-
史記 楚世家二十七年、三万人をして三晋を助けて燕を伐たしむ。復た秦と平らぎ、而して太子を入れて秦に質たらしむ。楚左徒をして太子に秦に侍せしむ。三十六年、頃襄王病む。太子亡げ帰る。秋、頃襄王卒し、太子熊元代はり立つ。是を考烈王と為す。考烈王左徒を以て令尹と為し、封ずるに呉を以てし、春申君と号す。考烈王の元年、州を秦に納れて以て平らぐ。是の時楚益々弱し。六年、秦邯鄲を囲む。趙急を楚に告ぐ。楚将軍景陽を遣りて趙を救はしむ。七年、新中に至る。秦の兵去る。十二年、秦の昭王卒す。楚王春申君をして秦に弔祠せしむ。十六年、秦の荘襄王卒し、秦王趙政立つ。二十二年、諸侯と共に秦を伐ち、利あらずして去る。楚東のかた都を寿春に徙し、命じて郢と曰ふ。二十五年、考烈王卒し、子の幽王悍立つ。李園春申君を殺す。幽王の三年、秦・魏楚を伐つ。秦の相呂不韋卒す。九年、秦韓を滅ぼす。十年、幽王卒し、同母弟の猶代はり立つ。是を哀王と為す。哀王立ちて二月余、哀王の庶兄負芻の徒哀王を襲殺して負芻を立てて王と為す。是の歳、秦趙王遷を虜にす。王負芻の元年、燕の太子丹荊軻をして秦王を刺さしむ。二年、秦将軍をして楚を伐たしめ、大いに楚の軍を破り、十余城を亡ふ。三年、秦魏を滅ぼす。四年、秦の将王翦我が軍を蘄に破り、而して将軍項燕を殺す。五年、秦の将王翦・蒙武遂に楚国を破り、楚王負芻を虜にし、楚の名を滅ぼして郡と為すと云ふ。太史公曰く、楚の霊王方に諸侯を申に会し、斉の慶封を誅し、章華台を作り、周の九鼎を求むるの時、志は天下を小とす。申亥の家に餓死するに及びて、天下の笑ひと為る。操行の得ざる、悲しいかな。勢ひの人に於けるや、慎まざるべけんや。棄疾乱を以て立ち、秦の女に嬖淫す。甚だしいかな、幾ど再び国を亡ぼさんとす。
-
史記 楚世家秦韓の宜陽を破る。而して韓猶ほ復た秦に事ふる者は、先王の墓平陽に在りて、而して秦の武遂之を去ること七十里なるを以てなり。故を以て尤も秦を畏る。然らずんば、秦三川を攻め、趙上党を攻め、楚河外を攻めば、韓必ず亡びん。楚の韓を救ふは、韓をして亡びざらしむること能はず。然れども韓を存する者は楚なり。韓已に武遂を秦より得て、河山を以て塞と為す。徳に報ゆる所は楚の厚きに如くは莫し。臣以為へらく、其の王に事ふること必ず疾からんと。斉の韓に信ぜらるる所以の者は、韓の公子眛を以て斉の相と為すなり。韓已に武遂を秦より得たり。王甚だ之に善くし、之をして斉・韓を以て樗里疾を重んぜしめよ。疾斉・韓の重きを得ば、其の主敢て疾を棄てざるなり。今又之に益すに楚の重きを以てせば、樗里子必ず秦に言ひ、復た楚の侵地を与へん」と。是に於て懐王之を許し、竟に秦に合せずして、斉に合して以て韓に善くす。二十四年、斉に倍きて秦に合す。秦の昭王初めて立ち、乃ち厚く楚に賂ふ。楚往きて婦を迎ふ。二十五年、懐王入りて秦の昭王と盟ひ、黄棘に約す。秦復た楚に上庸を与ふ。二十六年、斉・韓・魏、楚の其の従親に負きて秦に合するが為に、三国共に楚を伐つ。楚太子をして入りて秦に質たらしめて救ひを請ふ。秦乃ち客卿通をして兵を将ゐて楚を救はしむ。三国兵を引きて去る。二十七年、秦の大夫に私かに楚の太子と闘ふ者有り。楚の太子之を殺して亡げ帰る。二十八年、秦乃ち斉・韓・魏と共に楚を攻め、楚の将唐眛を殺し、我が重丘を取りて去る。二十九年、秦復た楚を攻め、大いに楚を破る。楚の軍死する者二万、我が将軍景缺を殺す。懐王恐れ、乃ち太子をして斉に質たらしめて以て平らがんことを求む。三十年、秦復た楚を伐ち、八城を取る。秦の昭王楚王に書を遺りて曰く、「始め寡人王と約して弟兄と為り、黄棘に盟ひ、太子質と為り、至って驩しかりき。
-
史記 楚世家今諸侯皆叛きて相侵し、或いは相殺すを為す。我に敝甲有り。以て中国の政を観んと欲す。王室に請ひて吾が号を尊ばしめよ」と。随人之が為に周に之き、楚を尊ばんことを請ふ。王室聴かず。還りて楚に報ず。三十七年、楚の熊通怒りて曰く、「吾が先鬻熊は、文王の師なり。蚤く終はる。成王我が先公を挙げ、乃ち子男の田を以て楚に居らしむ。蛮夷皆率ゐて服す。而るに王位を加へず。我自ら尊くせんのみ」と。乃ち自ら立ちて武王と為り、随人と盟ひて去る。是に於て始めて濮の地を開きて之を有つ。五十一年、周随侯を召し、数(せ)むるに楚を立てて王と為すを以てす。楚怒り、随の己に背くを以て、随を伐つ。武王師中に卒して兵罷む。子の文王熊貲立ち、始めて郢に都す。文王の二年、申を伐ちて鄧を過ぐ。鄧人曰く「楚王取り易し」と。鄧侯許さざるなり。六年、蔡を伐ち、蔡の哀侯を虜にして以て帰り、已にして之を釈す。楚彊く、江漢の間の小国を陵ぎ、小国皆之を畏る。十一年、斉の桓公始めて覇たり。楚も亦た始めて大なり。十二年、鄧を伐ちて、之を滅ぼす。十三年、卒し、子の熊艱立つ。是を荘敖と為す。荘敖の五年、其の弟熊惲を殺さんと欲す。惲随に奔り、随と荘敖を襲弑して代はり立つ。是を成王と為す。成王惲の元年、初めて即位し、徳を布き恵みを施し、旧好を諸侯に結ぶ。人をして天子に献ぜしむ。天子胙を賜ひて曰く、「爾の南方の夷越の乱を鎮め、中国を侵すこと無かれ」と。是に於て楚の地千里なり。十六年、斉の桓公兵を以て楚を侵し、陘山に至る。楚の成王将軍屈完をして兵を以て之を御せしめ、桓公と盟ふ。桓公数むるに周の賦の王室に入らざるを以てす。楚之を許す。乃ち去る。十八年、成王兵を以て北のかた許を伐つ。許君肉袒して謝す。乃ち之を釈す。二十二年、黄を伐つ。二十六年、英を滅ぼす。三十三年、宋の襄公盟会を為さんと欲し、楚を召す。
-
史記 楚世家因りて之に一名都を賂ひ、之と斉を伐つに如かず。是れ我秦に亡ひて、償ひを斉に取るなり。吾が国尚ほ全うすべし。今王已に斉に絶ちて欺きを秦に責む。是れ吾秦・斉の交はりを合はせて天下の兵を来たすなり。国必ず大いに傷つかん」と。楚王聴かず、遂に和を秦に絶ち、兵を発して西のかた秦を攻む。秦も亦た兵を発して之を撃つ。十七年春、秦と丹陽に戦ふ。秦大いに我が軍を敗り、甲士八万を斬り、我が大将軍屈匄・裨将軍逢侯丑等七十余人を虜にし、遂に漢中の郡を取る。楚の懐王大いに怒り、乃ち悉く国の兵もて復た秦を襲ひ、藍田に戦ふ。大いに楚の軍を敗る。韓・魏楚の困しむを聞き、乃ち南のかた楚を襲ひ、鄧に至る。楚聞きて、乃ち兵を引きて帰る。十八年、秦使ひをして約して復た楚と親しみ、漢中の半ばを分かちて以て楚に和せんとす。楚王曰く、「願はくは張儀を得ん。地を得んことを願はず」と。張儀之を聞き、楚に之かんことを請ふ。秦王曰く、「楚且に子に甘心せんとす。奈何」と。張儀曰く、「臣其の左右靳尚に善し。靳尚又能く楚王の幸姫鄭袖に事ふるを得たり。袖の言ふ所従はざる者無し。且つ儀前に使ひして楚に負くに商於の約を以てす。今秦・楚大いに戦ひ、悪有り。臣面自ら楚に謝するに非ずんば解けず。且つ大王在り。楚宜しく敢て儀を取らざるべし。誠に儀を殺して以て国に便ならば、臣の願ひなり」と。儀遂に楚に使ひす。至る。懐王見えず。因りて張儀を囚へ、之を殺さんと欲す。儀靳尚に私す。靳尚為に懐王に請ひて曰く、「張儀を拘へば、秦王必ず怒らん。天下楚の秦無きを見て、必ず王を軽んぜん」と。又夫人鄭袖に謂ひて曰く、「秦王甚だ張儀を愛す。而して王之を殺さんと欲す。今将に上庸の地六県を以て楚に賂ひ、美人を以て楚王に聘し、宮中の善く歌ふ者を以て之が媵と為さんとす。楚王地を重んじ、秦の女必ず貴ばれん。而して夫人必ず斥けられん。夫人言ひて之を出だすに若かず」と。
-
史記 張儀列伝而して天下の欲せざる所を攻むるは、危ふし。臣請ふ其の故を謁さん。周は、天下の宗室なり。斉は、韓の与国なり。周自ら九鼎を失ふを知り、韓自ら三川を亡ふを知らば、将に二国力を并せ謀を合はせ、以て斉・趙に因りて解を楚・魏に求め、鼎を以て楚に与へ、地を以て魏に与へんとす、王止むる能はざるなり。此れ臣の所謂危ふきなり。蜀を伐つの完きに如かず」と。恵王曰く、「善し、寡人請ふ子に聴かん」と。卒に兵を起こして蜀を伐ち、十月にして、之を取り、遂に蜀を定め、蜀王を貶して号を更めて侯と為し、而して陳荘をして蜀に相たらしむ。蜀既に秦に属し、秦以て益々彊く、富厚にして、諸侯を軽んず。秦の恵王の十年、公子華と張儀とをして蒲陽を囲ましめ、之を降す。儀因りて秦に言ひて復た魏に与へしめ、而して公子繇をして魏に質たらしむ。儀因りて魏王に説きて曰く、「秦王の魏を遇すること甚だ厚し、魏以て礼無かるべからず」と。魏因りて上郡・少梁を入れ、秦の恵王に謝す。恵王乃ち張儀を以て相と為し、少梁を更名して夏陽と曰ふ。儀秦に相たること四歳、恵王を立てて王と為す。居ること一歳、秦の将と為り、陝を取る。上郡の塞を築く。其の後二年、使ひして斉・楚の相と齧桑に会す。東より還りて相を免ぜられ、魏に相として以て秦の為にし、魏をして先づ秦に事へて諸侯をして之に効はしめんと欲す。魏王儀に聴くを肯んぜず。秦王怒り、伐ちて魏の曲沃・平周を取り、復た陰かに張儀を厚くすること益々甚だし。張儀慚ぢ、以て帰報する無し。魏に留まること四歳にして魏の襄王卒し、哀王立つ。張儀復た哀王に説く、哀王聴かず。是に於いて張儀陰かに秦をして魏を伐たしむ。魏秦と戦ひ、敗る。明年、斉又来たりて魏を観津に敗る。秦復た魏を攻めんと欲し、先づ韓の申差の軍を敗り、首を斬ること八万、諸侯震恐す。而して張儀復た魏王に説きて曰く、「魏の地方は千里に至らず、卒は三十万に過ぎず。地は四平にして、諸侯四通輻湊し、名山大川の限り無し。
人生の答えは、ぜんぶ古典に書いてあった。
古典の入門書『人生の教科書』(PDF)と、師導の全機能1か月がセットで700円。二十四の悩みに、論語・老子・孫子から徒然草・五輪書までが答えます。
本の中身を見る