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史記 / 楚世家

二十七年,使三萬人助三晉伐燕。復與秦平,而入太子爲質於秦。楚使左徒侍太子於秦。三十六年,頃襄王病,太子亡歸。秋,頃襄王卒,太子熊元代立,是爲考烈王。考烈王以左徒爲令尹,封以呉,號春申君。考烈王元年,納州于秦以平。是時楚益弱。六年,秦圍邯鄲,趙告急楚,楚遣將軍景陽救趙。七年,至新中。秦兵去。十二年,秦昭王卒,楚王使春申君弔祠于秦。十六年,秦莊襄王卒,秦王趙政立。二十二年,與諸侯共伐秦,不利而去。楚東徙都壽春,命曰郢。二十五年,考烈王卒,子幽王悍立。李園殺春申君。幽王三年,秦、魏伐楚。秦相呂不韋卒。九年,秦滅韓。十年,幽王卒,同母弟猶代立,是爲哀王。哀王立二月餘,哀王庶兄負芻之徒襲殺哀王而立負芻爲王。是歳,秦虜趙王遷。王負芻元年,燕太子丹使荊軻刺秦王。二年,秦使將軍伐楚,大破楚軍,亡十餘城。三年,秦滅魏。四年,秦將王翦破我軍於蘄,而殺將軍項燕。五年,秦將王翦、蒙武遂破楚國,虜楚王負芻,滅楚名爲郡云。太史公曰:楚靈王方會諸侯於申,誅齊慶封,作章華臺,求周九鼎之時,志小天下;及餓死于申亥之家,爲天下笑。操行之不得,悲夫!勢之於人也,可不愼與?棄疾以亂立,嬖淫秦女,甚乎哉,幾再亡國!

新字:二十七年,使三万人助三晋伐燕。復与秦平,而入太子為質於秦。楚使左徒侍太子於秦。三十六年,頃襄王病,太子亡帰。秋,頃襄王卒,太子熊元代立,是為考烈王。考烈王以左徒為令尹,封以呉,号春申君。考烈王元年,納州于秦以平。是時楚益弱。六年,秦囲邯鄲,趙告急楚,楚遣将軍景陽救趙。七年,至新中。秦兵去。十二年,秦昭王卒,楚王使春申君弔祠于秦。十六年,秦荘襄王卒,秦王趙政立。二十二年,与諸侯共伐秦,不利而去。楚東徙都寿春,命曰郢。二十五年,考烈王卒,子幽王悍立。李園殺春申君。幽王三年,秦、魏伐楚。秦相呂不韋卒。九年,秦滅韓。十年,幽王卒,同母弟猶代立,是為哀王。哀王立二月余,哀王庶兄負芻之徒襲殺哀王而立負芻為王。是歳,秦虜趙王遷。王負芻元年,燕太子丹使荊軻刺秦王。二年,秦使将軍伐楚,大破楚軍,亡十余城。三年,秦滅魏。四年,秦将王翦破我軍於蘄,而殺将軍項燕。五年,秦将王翦、蒙武遂破楚国,虜楚王負芻,滅楚名為郡云。太史公曰:楚霊王方会諸侯於申,誅斉慶封,作章華台,求周九鼎之時,志小天下;及餓死于申亥之家,為天下笑。操行之不得,悲夫!勢之於人也,可不慎与?棄疾以乱立,嬖淫秦女,甚乎哉,幾再亡国!

書き下し

二十七年、三万人をして三晋を助けて燕を伐たしむ。復た秦と平らぎ、而して太子を入れて秦に質たらしむ。楚左徒をして太子に秦に侍せしむ。三十六年、頃襄王病む。太子亡げ帰る。秋、頃襄王卒し、太子熊元代はり立つ。是を考烈王と為す。考烈王左徒を以て令尹と為し、封ずるに呉を以てし、春申君と号す。考烈王の元年、州を秦に納れて以て平らぐ。是の時楚益々弱し。六年、秦邯鄲を囲む。趙急を楚に告ぐ。楚将軍景陽を遣りて趙を救はしむ。七年、新中に至る。秦の兵去る。十二年、秦の昭王卒す。楚王春申君をして秦に弔祠せしむ。十六年、秦の荘襄王卒し、秦王趙政立つ。二十二年、諸侯と共に秦を伐ち、利あらずして去る。楚東のかた都を寿春に徙し、命じて郢と曰ふ。二十五年、考烈王卒し、子の幽王悍立つ。李園春申君を殺す。幽王の三年、秦・魏楚を伐つ。秦の相呂不韋卒す。九年、秦韓を滅ぼす。十年、幽王卒し、同母弟の猶代はり立つ。是を哀王と為す。哀王立ちて二月余、哀王の庶兄負芻の徒哀王を襲殺して負芻を立てて王と為す。是の歳、秦趙王遷を虜にす。王負芻の元年、燕の太子丹荊軻をして秦王を刺さしむ。二年、秦将軍をして楚を伐たしめ、大いに楚の軍を破り、十余城を亡ふ。三年、秦魏を滅ぼす。四年、秦の将王翦我が軍を蘄に破り、而して将軍項燕を殺す。五年、秦の将王翦・蒙武遂に楚国を破り、楚王負芻を虜にし、楚の名を滅ぼして郡と為すと云ふ。太史公曰く、楚の霊王方に諸侯を申に会し、斉の慶封を誅し、章華台を作り、周の九鼎を求むるの時、志は天下を小とす。申亥の家に餓死するに及びて、天下の笑ひと為る。操行の得ざる、悲しいかな。勢ひの人に於けるや、慎まざるべけんや。棄疾乱を以て立ち、秦の女に嬖淫す。甚だしいかな、幾ど再び国を亡ぼさんとす。

現代語訳

二十七年、楚は三万人を送って三晋を助け、燕を攻めさせた。再び秦と和睦し、太子を秦に人質として送った。楚は左徒(黄歇)を太子に付き添わせて秦に行かせた。三十六年、頃襄王が病に倒れると、太子は秦から逃げ帰った。秋、頃襄王が亡くなり、太子熊元が代わって立った。これが考烈王である。考烈王は左徒を令尹とし、呉の地に封じて春申君と号させた。考烈王の元年、州の地を秦に差し出して和睦した。このころ楚はますます弱くなっていた。六年、秦が趙の邯鄲を包囲した。趙が楚に急を告げると、楚は将軍の景陽を送って趙を救わせた。七年、景陽は新中に着き、秦の兵は去った。十二年、秦の昭王が亡くなった。楚王は春申君を秦に送って弔問させた。十六年、秦の荘襄王が亡くなり、秦王趙政(のちの始皇帝)が立った。二十二年、楚は諸侯とともに秦を攻めたが、うまくいかずに引き揚げた。楚は東の寿春に都を移し、そこを郢と名づけた。二十五年、考烈王が亡くなり、子の幽王悍が立った。李園が春申君を殺した。幽王の三年、秦と魏が楚を攻めた。秦の宰相の呂不韋が亡くなった。九年、秦が韓を滅ぼした。十年、幽王が亡くなり、同母弟の猶が代わって立った。これが哀王である。哀王が即位して二か月余りで、哀王の異母兄の負芻の一党が哀王を襲って殺し、負芻を王に立てた。この年、秦は趙王遷を捕らえた。王負芻の元年、燕の太子丹が荊軻に秦王を刺させようとした。二年、秦は将軍に楚を攻めさせ、楚軍を大いに破り、楚は十余りの城を失った。三年、秦が魏を滅ぼした。四年、秦の将軍王翦が蘄で楚軍を破り、楚の将軍項燕を殺した。五年、秦の将軍王翦と蒙武がついに楚の国を破り、楚王負芻を捕らえ、楚という国名を滅ぼして秦の郡にしたという。太史公(司馬遷)は言う。楚の霊王が申で諸侯を集め、斉の慶封を誅し、章華台を築き、周の九鼎を求めたころは、その志は天下を小さく見るほどであった。それが申亥の家で飢え死にするに至り、天下の笑いものとなった。身の行いがよくなかったからで、なんと悲しいことか。勢いというものが人に及ぼす力について、慎まずにいられようか。棄疾(平王)は乱によって位に就き、秦の女性に溺れた。ひどいものだ。もう少しで二度も国を滅ぼすところであった。

解説

楚の滅亡と、楚世家を結ぶ太史公曰の段です。頃襄王の時代から楚は秦に土地を差し出して和睦を重ね、太子を人質に出すほど弱っていきます。太子に付き添った黄歇は、考烈王の即位とともに令尹となり、戦国四君の一人・春申君として権勢を振るいましたが、考烈王の死後、李園に殺されました。都を東の寿春に移しても国勢は戻らず、王位は兄弟殺しで移り、最後は秦の王翦に項燕が討たれ、楚王負芻が捕らえられて楚は滅びます。この項燕の孫が、のちに秦を倒す項羽です。太史公曰で司馬遷は、天下を小さく見ていた霊王が最後は飢え死にして天下の笑いものとなったことを取り上げ、「勢いが人に及ぼす力に、慎まずにいられようか」と戒めます。また平王が秦の女性に溺れて国を危うくしたことも厳しく批判しました。勢いに乗っているときほど、行いを慎まなければ転落は早いという司馬遷の言葉は、今の成功者や組織にもそのまま響く警告です。

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