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史記 / 秦本紀

十三年四月戊午,魏君為王,韓亦為王。使張儀伐取陜,出其人與魏。十四年,更為元年。二年,張儀與齊、楚大臣會齧桑。三年,韓、魏太子來朝。張儀相魏。五年,王游至北河。七年,樂池相秦。韓、趙、魏、燕、齊帥匈奴共攻秦。秦使庶長疾與戰修魚,虜其將申差,敗趙公子渴、韓太子奐,斬首八萬二千。八年,張儀復相秦。九年,司馬錯伐蜀,滅之。伐取趙中都、西陽十年,韓太子蒼來質。伐取韓石章。伐敗趙將泥。伐取義渠二十五城。十一年,摢裏疾攻魏焦,降之。敗韓岸門,斬首萬,其將犀首走。公子通封於蜀。燕君讓其臣子之。十二年,王與梁王會臨晉。庶長疾攻趙,虜趙將莊。張儀相楚。十三年,庶長章擊楚於丹陽,虜其將屈丐,斬首八萬;又攻楚漢中,取地六百里,置漢中郡。楚圍雍氏,秦使庶長疾助韓而東攻齊,到滿助魏攻燕。十四年,伐楚,取召陵。丹、犁臣,蜀相壯殺蜀侯來降。惠王卒,子武王立。韓、魏、齊、楚、越皆賓從。武王元年,與魏惠王會臨晉。誅蜀相壯。張儀、魏章皆東出之魏。伐義渠、丹、犁。二年,初置丞相,摢裏疾、甘茂為左右丞相。張儀死於魏。三年,與韓襄王會臨晉外。南公揭卒,摢裏疾相韓。武王謂甘茂曰:「寡人欲容車通三川,窺周室,死不恨矣。」

新字:十三年四月戊午,魏君為王,韓亦為王。使張儀伐取陜,出其人与魏。十四年,更為元年。二年,張儀与斉、楚大臣会齧桑。三年,韓、魏太子来朝。張儀相魏。五年,王游至北河。七年,楽池相秦。韓、趙、魏、燕、斉帥匈奴共攻秦。秦使庶長疾与戦修魚,虜其将申差,敗趙公子渇、韓太子奐,斬首八万二千。八年,張儀復相秦。九年,司馬錯伐蜀,滅之。伐取趙中都、西陽十年,韓太子蒼来質。伐取韓石章。伐敗趙将泥。伐取義渠二十五城。十一年,摢裏疾攻魏焦,降之。敗韓岸門,斬首万,其将犀首走。公子通封於蜀。燕君譲其臣子之。十二年,王与梁王会臨晋。庶長疾攻趙,虜趙将荘。張儀相楚。十三年,庶長章撃楚於丹陽,虜其将屈丐,斬首八万;又攻楚漢中,取地六百里,置漢中郡。楚囲雍氏,秦使庶長疾助韓而東攻斉,到満助魏攻燕。十四年,伐楚,取召陵。丹、犁臣,蜀相壮殺蜀侯来降。恵王卒,子武王立。韓、魏、斉、楚、越皆賓従。武王元年,与魏恵王会臨晋。誅蜀相壮。張儀、魏章皆東出之魏。伐義渠、丹、犁。二年,初置丞相,摢裏疾、甘茂為左右丞相。張儀死於魏。三年,与韓襄王会臨晋外。南公掲卒,摢裏疾相韓。武王謂甘茂曰:「寡人欲容車通三川,窺周室,死不恨矣。」

書き下し

十三年四月戊午、魏の君王と為り、韓も亦王と為る。張儀をして陝を伐ち取らしめ、其の人を出だして魏に与ふ。十四年、更めて元年と為す。二年、張儀斉・楚の大臣と齧桑に会す。三年、韓・魏の太子来朝す。張儀魏に相たり。五年、王游びて北河に至る。七年、楽池秦に相たり。韓・趙・魏・燕・斉匈奴を帥ゐて共に秦を攻む。秦庶長疾をして与に修魚に戦はしめ、其の将申差を虜にし、趙の公子渇・韓の太子奐を敗り、首を斬ること八万二千。八年、張儀復た秦に相たり。九年、司馬錯蜀を伐ち、之を滅ぼす。趙の中都・西陽を伐ち取る。十年、韓の太子蒼来たりて質たり。韓の石章を伐ち取る。趙の将泥を伐ち敗る。義渠の二十五城を伐ち取る。十一年、樗里疾魏の焦を攻め、之を降す。韓を岸門に敗り、首を斬ること万、其の将犀首走る。公子通蜀に封ぜらる。燕君其の臣子之に譲る。十二年、王梁王と臨晋に会す。庶長疾趙を攻め、趙の将荘を虜にす。張儀楚に相たり。十三年、庶長章楚を丹陽に撃ち、其の将屈丐を虜にし、首を斬ること八万。又楚の漢中を攻め、地六百里を取り、漢中郡を置く。楚雍氏を囲む。秦庶長疾をして韓を助けて東のかた斉を攻めしめ、到満をして魏を助けて燕を攻めしむ。十四年、楚を伐ち、召陵を取る。丹・犁臣とし、蜀の相壮蜀侯を殺して来降す。恵王卒し、子武王立つ。韓・魏・斉・楚・越皆賓従す。武王の元年、魏の恵王と臨晋に会す。蜀の相壮を誅す。張儀・魏章皆東に出でて魏に之く。義渠・丹・犁を伐つ。二年、初めて丞相を置き、樗里疾・甘茂を左右の丞相と為す。張儀魏に死す。三年、韓の襄王と臨晋の外に会す。南公揭卒し、樗里疾韓に相たり。武王甘茂に謂ひて曰く、「寡人容車もて三川に通じ、周室を窺はんと欲す。死すとも恨みず」と。

現代語訳

十三年四月戊午の日、魏の君主が王を名乗り、韓もまた王を名乗った。(秦は)張儀に陝を攻め取らせ、そこの住民を追い出して魏に引き渡した。十四年、改めて元年とした(恵文王の後元年)。二年、張儀が斉・楚の大臣と齧桑で会合した。三年、韓と魏の太子が来朝した。張儀が魏の宰相となった。五年、王は巡遊して北河に至った。七年、楽池が秦の宰相となった。韓・趙・魏・燕・斉が匈奴を率いてともに秦を攻めた。秦は庶長の疾に修魚で迎え撃たせ、その将軍の申差を捕らえ、趙の公子渇と韓の太子奐を破り、八万二千の首を斬った。八年、張儀が再び秦の宰相となった。九年、司馬錯が蜀を討ち、これを滅ぼした。趙の中都と西陽を攻め取った。十年、韓の太子蒼が人質として来た。韓の石章を攻め取った。趙の将軍泥を攻めて破った。義渠の二十五城を攻め取った。十一年、樗里疾が魏の焦を攻め、降伏させた。韓を岸門で破り、一万の首を斬り、その将軍犀首は逃げた。公子通が蜀に封じられた。燕の君主が臣下の子之に国を譲った。十二年、王は梁(魏)王と臨晋で会見した。庶長の疾が趙を攻め、趙の将軍荘を捕らえた。張儀が楚の宰相となった。十三年、庶長の章が丹陽で楚を攻め、その将軍屈丐を捕らえ、八万の首を斬った。さらに楚の漢中を攻めて六百里の地を取り、漢中郡を置いた。楚が韓の雍氏を包囲した。秦は庶長の疾に韓を助けて東の斉を攻めさせ、到満に魏を助けて燕を攻めさせた。十四年、楚を討ち、召陵を取った。丹と犁が臣従し、蜀の宰相の壮が蜀侯を殺して降伏してきた。恵文王が亡くなり、子の武王が立った。韓・魏・斉・楚・越はみな服従した。武王の元年、魏の恵王と臨晋で会見した。蜀の宰相壮を誅殺した。張儀と魏章はともに東へ去って魏に行った。義渠・丹・犁を討った。二年、はじめて丞相の職を置き、樗里疾と甘茂を左右の丞相とした。張儀が魏で亡くなった。三年、韓の襄王と臨晋の城外で会見した。南公揭が亡くなり、樗里疾が韓の宰相となった。武王は甘茂に言った。「私は車で三川の地に通じる道を開き、周の王室をこの目で見てみたい。そうなれば死んでも悔いはない。」

解説

恵文王の後半から武王の初めにかけて、秦が急速に領土を広げていく時期の記録です。魏・韓が相次いで王を名乗り、秦も改元して王の体制を整えました。この時代の秦の拡大を支えたのは、国籍を問わず登用された人材です。魏の出身の張儀は、秦・魏・楚の宰相を渡り歩きながら、諸国の連合を切り崩す「連衡」の策を進めました。司馬錯は蜀を滅ぼして豊かな四川盆地を手に入れ、樗里疾や甘茂は将軍として各地で戦果を挙げます。五か国が匈奴まで率いて攻めてきても、秦は修魚で八万余りの首を斬って撃退しました。楚の漢中を奪って漢中郡を置き、武王の代には初めて丞相の職を置いて行政の仕組みを整えています。段の最後、武王が「周の王室を見られたら死んでも悔いはない」と語る言葉には、天下を狙う秦の野心がはっきりと表れています。出自を問わず能力のある人を登用し、得た領地を郡県として組み込んでいく仕組みが、秦の強さの源泉でした。

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