史記 / 楚世家
將戰,庚寅,昭王卒於軍中。子閭曰:「王病甚,捨其子讓群臣,臣所以許王,以廣王意也。今君王卒,臣豈敢忘君王之意乎!」乃與子西、子綦謀,伏師閉涂,迎越女之子章立之,是爲惠王。然後罷兵歸,葬昭王。惠王二年,子西召故平王太子建之子勝於呉,以爲巣大夫,號曰白公。白公好兵而下士,欲報仇。六年,白公請兵令尹子西伐鄭。初,白公父建亡在鄭,鄭殺之,白公亡走呉,子西復召之,故以此怨鄭,欲伐之。子西許而未爲發兵。八年,晉伐鄭,鄭告急楚,楚使子西救鄭,受賂而去。白公勝怒,乃遂與勇力死士石乞等襲殺令尹子西、子綦於朝,因劫惠王,置之髙府,欲弒之。惠王從者屈固負王亡走昭王夫人宮。白公自立爲王。月餘,會葉公來救楚,楚惠王之徒與共攻白公,殺之。惠王乃復位。是歳也,滅陳而縣之。十三年,呉王夫差彊,陵齊、晉,來伐楚。十六年,越滅呉。四十二年,楚滅蔡。四十四年,楚滅杞。與秦平。是時越已滅呉而不能正江、淮北;楚東侵,廣地至泗上。五十七年,惠王卒,子簡王中立。簡王元年,北伐滅莒。八年,魏文侯、韓武子、趙桓子始列爲諸侯。二十四年,簡王卒,子聲王當立。聲王六年,盜殺聲王,子悼王熊疑立。
新字:将戦,庚寅,昭王卒於軍中。子閭曰:「王病甚,捨其子譲群臣,臣所以許王,以広王意也。今君王卒,臣豈敢忘君王之意乎!」乃与子西、子綦謀,伏師閉涂,迎越女之子章立之,是為恵王。然後罷兵帰,葬昭王。恵王二年,子西召故平王太子建之子勝於呉,以為巣大夫,号曰白公。白公好兵而下士,欲報仇。六年,白公請兵令尹子西伐鄭。初,白公父建亡在鄭,鄭殺之,白公亡走呉,子西復召之,故以此怨鄭,欲伐之。子西許而未為発兵。八年,晋伐鄭,鄭告急楚,楚使子西救鄭,受賂而去。白公勝怒,乃遂与勇力死士石乞等襲殺令尹子西、子綦於朝,因劫恵王,置之高府,欲弒之。恵王従者屈固負王亡走昭王夫人宮。白公自立為王。月余,会葉公来救楚,楚恵王之徒与共攻白公,殺之。恵王乃復位。是歳也,滅陳而県之。十三年,呉王夫差彊,陵斉、晋,来伐楚。十六年,越滅呉。四十二年,楚滅蔡。四十四年,楚滅杞。与秦平。是時越已滅呉而不能正江、淮北;楚東侵,広地至泗上。五十七年,恵王卒,子簡王中立。簡王元年,北伐滅莒。八年,魏文侯、韓武子、趙桓子始列為諸侯。二十四年,簡王卒,子声王当立。声王六年,盗殺声王,子悼王熊疑立。
書き下し
将に戦はんとす。庚寅、昭王軍中に卒す。子閭曰く、「王の病甚だしくして、其の子を捨てて群臣に譲る。臣の王に許す所以は、以て王の意を広めんとてなり。今君王卒す。臣豈に敢て君王の意を忘れんや」と。乃ち子西・子綦と謀り、師を伏せ塗を閉ぢ、越女の子章を迎へて之を立つ。是を恵王と為す。然る後に兵を罷めて帰り、昭王を葬る。恵王の二年、子西故の平王の太子建の子勝を呉より召し、以て巣の大夫と為し、号して白公と曰ふ。白公兵を好みて士に下り、仇に報いんと欲す。六年、白公兵を令尹子西に請ひて鄭を伐たんとす。初め、白公の父建亡げて鄭に在り。鄭之を殺す。白公亡げて呉に走る。子西復た之を召す。故に此を以て鄭を怨み、之を伐たんと欲す。子西許すも未だ為に兵を発せず。八年、晋鄭を伐つ。鄭急を楚に告ぐ。楚子西をして鄭を救はしむ。賂を受けて去る。白公勝怒り、乃ち遂に勇力の死士石乞等と令尹子西・子綦を朝に襲殺し、因りて恵王を劫かし、之を高府に置き、之を弑せんと欲す。恵王の従者屈固王を負ひて亡げて昭王の夫人の宮に走る。白公自立して王と為る。月余にして、会々葉公来たりて楚を救ふ。楚の恵王の徒与に共に白公を攻め、之を殺す。恵王乃ち位に復す。是の歳や、陳を滅ぼして之を県とす。十三年、呉王夫差彊く、斉・晋を陵ぎ、来たりて楚を伐つ。十六年、越呉を滅ぼす。四十二年、楚蔡を滅ぼす。四十四年、楚杞を滅ぼす。秦と平らぐ。是の時越已に呉を滅ぼして江・淮の北を正すこと能はず。楚東のかた侵し、地を広げて泗上に至る。五十七年、恵王卒し、子の簡王中立つ。簡王の元年、北のかた伐ちて莒を滅ぼす。八年、魏の文侯・韓の武子・趙の桓子始めて列して諸侯と為る。二十四年、簡王卒し、子の声王当立つ。声王の六年、盗声王を殺す。子の悼王熊疑立つ。
現代語訳
戦いが始まろうとしていた。庚寅の日、昭王は陣中で亡くなった。子閭は言った。「王は病が重くなり、自分の子を差し置いて群臣に位を譲ろうとされた。私が王の申し出を受けたのは、王の寛大なお心を世に広めるためだった。いま君王は亡くなられた。どうして王のお心を忘れることができようか」。そこで子西・子綦と相談し、兵を伏せて道を封鎖し、越の女性が産んだ昭王の子の章を迎えて王に立てた。これが恵王である。そうしてから兵を引いて帰り、昭王を葬った。恵王の二年、子西は、かつての平王の太子建の子の勝を呉から呼び戻し、巣の大夫とした。これを白公という。白公は戦いを好み、へりくだって士を集め、仇を討とうと考えていた。六年、白公は令尹の子西に兵を出して鄭を攻めさせてほしいと願い出た。これより前、白公の父の建は鄭に亡命していたが、鄭に殺された。白公は呉に逃れていたが、子西が呼び戻したのである。そのため鄭を恨み、攻めようとしていた。子西は承知したものの、まだ兵を出さなかった。八年、晋が鄭を攻め、鄭は楚に急を告げた。楚は子西に鄭を救わせたが、子西は鄭から贈り物を受け取って引き揚げた。白公勝は怒り、勇敢で命知らずの石乞らとともに、朝廷で令尹の子西と子綦を襲って殺し、恵王を捕らえて高府に閉じ込め、殺そうとした。恵王の従者の屈固が王を背負って逃げ、昭王の夫人の宮殿に駆け込んだ。白公は自ら王を名乗った。一か月余りして、ちょうど葉公が楚を救いに来た。楚の恵王の側の者たちは葉公とともに白公を攻め、白公を殺した。恵王はそこで位に戻った。この年、楚は陳を滅ぼして県とした。十三年、呉王夫差は強大で、斉や晋をしのぎ、楚に攻めてきた。十六年、越が呉を滅ぼした。四十二年、楚が蔡を滅ぼした。四十四年、楚が杞を滅ぼし、秦と和睦した。このころ越は呉を滅ぼしたものの、長江と淮水の北までは治めることができなかった。楚は東へ進出し、領土を泗水のほとりまで広げた。五十七年、恵王が亡くなり、子の簡王中が立った。簡王の元年、北を攻めて莒を滅ぼした。八年、魏の文侯・韓の武子・趙の桓子が初めて諸侯に列せられた。二十四年、簡王が亡くなり、子の声王当が立った。声王の六年、盗賊が声王を殺した。子の悼王熊疑が立った。
解説
関連する章句
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史記 楚世家呉王之を聞きて大いに怒り、亦た兵を発し、公子光をして建の母の家に因りて楚を攻めしめ、遂に鐘離・居巣を滅ぼす。楚乃ち恐れて郢に城く。十三年、平王卒す。将軍子常曰く、「太子珍は少く、且つ其の母は乃ち前の太子建の当に娶るべき所なり」と。令尹子西を立てんと欲す。子西は、平王の庶弟なり。義有り。子西曰く、「国に常法有り。更に立つれば則ち乱れん。之を言へば則ち誅を致さん」と。乃ち太子珍を立つ。是を昭王と為す。昭王の元年、楚の衆費無忌を説ばず。其の讒して太子建を亡げしめ、伍奢子父と郤宛を殺ししを以てなり。宛の宗姓伯氏の子及び子胥皆呉に奔る。呉の兵数々楚を侵す。楚人無忌を怨むこと甚だし。楚の令尹子常無忌を誅して以て衆を説ばしむ。衆乃ち喜ぶ。四年、呉の三公子楚に奔る。楚之を封じて以て呉を捍がしむ。五年、呉伐ちて楚の六・潜を取る。七年、楚子常をして呉を伐たしむ。呉大いに楚を豫章に敗る。十年冬、呉王闔閭・伍子胥・伯(伯嚭)唐・蔡と倶に楚を伐つ。楚大いに敗れ、呉の兵遂に郢に入り、平王の墓を辱む。伍子胥の故を以てなり。呉の兵の来たるや、楚子常をして兵を以て之を迎へしめ、漢水を夾みて陣す。呉伐ちて子常を敗る。子常亡げて鄭に奔る。楚の兵走る。呉勝ちに乗じて之を逐ひ、五たび戦ひて郢に及ぶ。己卯、昭王出奔す。庚辰、呉人郢に入る。昭王亡げて雲夢に至る。雲夢其の王なるを知らず、射て王を傷つく。王鄖に走る。鄖公の弟懐曰く、「平王吾が父を殺す。今我其の子を殺す。亦た可ならずや」と。鄖公之を止む。然れども其の昭王を弑せんことを恐れ、乃ち王と出でて随に奔る。呉王昭王の往くを聞き、即ち進みて随を撃ち、随人に謂ひて曰く、「周の子孫の江漢の間に封ぜらるる者、楚尽く之を滅ぼせり」と。昭王を殺さんと欲す。王の従臣子綦乃ち深く王を匿し、自ら以て王と為し、随人に謂ひて曰く、「我を以て呉に予へよ」と。
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史記 楚世家随人呉に予へんことを卜するに、吉ならず。乃ち呉王に謝して曰く、「昭王亡げて、随に在らず」と。呉請ひて入りて自ら之を索めんとす。随聴かず。呉も亦た罷め去る。昭王の郢を出づるや、申鮑胥をして救ひを秦に請はしむ。秦車五百乗を以て楚を救ふ。楚も亦た余の散兵を収め、秦と呉を撃つ。十一年六月、呉を稷に敗る。会々呉王の弟夫概呉王の兵の傷敗するを見て、乃ち亡げ帰り、自立して王と為る。闔閭之を聞き、兵を引きて楚を去り、帰りて夫概を撃つ。夫概敗れて楚に奔る。楚之を堂谿に封じ、号して堂谿氏と為す。楚の昭王唐を滅ぼす。九月、帰りて郢に入る。十二年、呉復た楚を伐ち、番を取る。楚恐れ、郢を去り、北のかた都を鄀に徙す。十六年、孔子魯に相たり。二十年、楚頓を滅ぼし、胡を滅ぼす。二十一年、呉王闔閭越を伐つ。越王句践呉王を射傷つけ、遂に死す。呉此に由りて越を怨みて西のかた楚を伐たず。二十七年春、呉陳を伐つ。楚の昭王之を救ひ、城父に軍す。十月、昭王軍中に病む。赤雲の鳥の如き有り、日を夾みて蜚ぶ。昭王周の太史に問ふ。太史曰く、「是れ楚王に害あり。然れども将相に移すべし」と。将相是の言を聞き、乃ち自ら身を以て神に禱らんことを請ふ。昭王曰く、「将相は、孤の股肱なり。今禍を移すは、庸ぞ是れ身より去らんや」と。聴かず。卜して河祟りを為すと。大夫河に禱らんことを請ふ。昭王曰く、「吾が先王封を受けしより、望は江・漢に過ぎず。而して河は罪を獲る所に非ざるなり」と。止めて許さず。孔子陳に在り。是の言を聞きて曰く、「楚の昭王は大道に通ぜり。其の国を失はざること、宜なるかな」と。昭王の病甚だし。乃ち諸公子大夫を召して曰く、「孤不佞にして、再び楚国の師を辱む。今乃ち天寿を以て終はるを得たるは、孤の幸ひなり」と。其の弟公子申に譲りて王と為さんとす。可かず。又次弟公子結に譲る。亦た可かず。乃ち又次弟公子閭に譲る。五たび譲りて、乃ち後に許して王と為る。
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史記 楚世家楚王怒りて曰く、「我を召す。我将に好く往きて襲ひて之を辱めんとす」と。遂に行き、盂に至り、遂に宋公を執へて辱め、已にして之を帰す。三十四年、鄭の文公南のかた楚に朝す。楚の成王北のかた宋を伐ち、之を泓に敗り、宋の襄公を射傷つく。襄公遂に創を病みて死す。三十五年、晋の公子重耳楚を過ぐ。成王諸侯の客礼を以て饗し、而して厚く之を秦に送る。三十九年、魯の僖公来たりて兵を請ひて以て斉を伐たんとす。楚申侯をして兵を将ゐて斉を伐たしめ、穀を取り、斉の桓公の子雍を焉に置く。斉の桓公の七子皆楚に奔る。楚尽く以て上大夫と為す。夔を滅ぼす。夔祝融・鬻熊を祀らざるの故なり。夏、宋を伐つ。宋急を晋に告ぐ。晋宋を救ふ。成王罷めて帰る。将軍子玉戦はんことを請ふ。成王曰く、「重耳亡げて外に居ること久しく、卒に国に反るを得たり。天の開く所なり。当たるべからず」と。子玉固く請ふ。乃ち之に少師を与へて去る。晋果たして子玉を城濮に敗る。成王怒り、子玉を誅す。四十六年、初め、成王将に商臣を以て太子と為さんとし、令尹子上に語る。子上曰く、「君の歯未だし。而して又内寵多し。絀(しりぞ)くれば乃ち乱れん。楚国の挙は常に少き者に在り。且つ商臣は蜂目にして豺声なり。忍人なり。立つべからず」と。王聴かず、之を立つ。後に又子職を立てて太子商臣を絀けんと欲す。商臣聞くも未だ審らかならず。其の傅潘崇に告げて曰く、「何を以て其の実を得ん」と。崇曰く、「王の寵姫江羋を饗して敬する勿かれ」と。商臣之に従ふ。江羋怒りて曰く、「宜なるかな、王の若を殺して職を立てんと欲するや」と。商臣潘崇に告げて曰く、「信なり」と。崇曰く、「能く之に事へんか」と。曰く、「能はず」と。「能く亡げ去らんか」と。曰く、「能はず」と。「能く大事を行はんか」と。曰く、「能くせん」と。冬十月、商臣宮衛の兵を以て成王を囲む。成王熊蹯を食らひて死せんことを請ふも、聴かず。丁未、成王自ら絞殺す。商臣代はり立つ。是を穆王と為す。穆王立ち、其の太子の宮を以て潘崇に予へ、太師と為して、国事を掌らしむ。穆王の三年、江を滅ぼす。四年、六・蓼を滅ぼす。六・蓼は、皋陶の後なり。八年、陳を伐つ。十二年、卒す。子の荘王侶立つ。
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史記 楚世家今諸侯皆叛きて相侵し、或いは相殺すを為す。我に敝甲有り。以て中国の政を観んと欲す。王室に請ひて吾が号を尊ばしめよ」と。随人之が為に周に之き、楚を尊ばんことを請ふ。王室聴かず。還りて楚に報ず。三十七年、楚の熊通怒りて曰く、「吾が先鬻熊は、文王の師なり。蚤く終はる。成王我が先公を挙げ、乃ち子男の田を以て楚に居らしむ。蛮夷皆率ゐて服す。而るに王位を加へず。我自ら尊くせんのみ」と。乃ち自ら立ちて武王と為り、随人と盟ひて去る。是に於て始めて濮の地を開きて之を有つ。五十一年、周随侯を召し、数(せ)むるに楚を立てて王と為すを以てす。楚怒り、随の己に背くを以て、随を伐つ。武王師中に卒して兵罷む。子の文王熊貲立ち、始めて郢に都す。文王の二年、申を伐ちて鄧を過ぐ。鄧人曰く「楚王取り易し」と。鄧侯許さざるなり。六年、蔡を伐ち、蔡の哀侯を虜にして以て帰り、已にして之を釈す。楚彊く、江漢の間の小国を陵ぎ、小国皆之を畏る。十一年、斉の桓公始めて覇たり。楚も亦た始めて大なり。十二年、鄧を伐ちて、之を滅ぼす。十三年、卒し、子の熊艱立つ。是を荘敖と為す。荘敖の五年、其の弟熊惲を殺さんと欲す。惲随に奔り、随と荘敖を襲弑して代はり立つ。是を成王と為す。成王惲の元年、初めて即位し、徳を布き恵みを施し、旧好を諸侯に結ぶ。人をして天子に献ぜしむ。天子胙を賜ひて曰く、「爾の南方の夷越の乱を鎮め、中国を侵すこと無かれ」と。是に於て楚の地千里なり。十六年、斉の桓公兵を以て楚を侵し、陘山に至る。楚の成王将軍屈完をして兵を以て之を御せしめ、桓公と盟ふ。桓公数むるに周の賦の王室に入らざるを以てす。楚之を許す。乃ち去る。十八年、成王兵を以て北のかた許を伐つ。許君肉袒して謝す。乃ち之を釈す。二十二年、黄を伐つ。二十六年、英を滅ぼす。三十三年、宋の襄公盟会を為さんと欲し、楚を召す。
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史記 楚世家悼王の二年、三晋来たりて楚を伐ち、乗丘に至りて還る。四年、楚周を伐つ。鄭子陽を殺す。九年、韓を伐ち、負黍を取る。十一年、三晋楚を伐ち、我を大梁・楡関に敗る。楚厚く秦に賂ひ、之と平らぐ。二十一年、悼王卒し、子の粛王臧立つ。粛王の四年、蜀楚を伐ち、茲方を取る。是に於て楚捍関を為りて以て之を距ぐ。十年、魏我が魯陽を取る。十一年、粛王卒す。子無し。其の弟熊良夫を立つ。是を宣王と為す。宣王の六年、周の天子秦の献公を賀す。秦始めて復た彊く、而して三晋益々大なり。魏の恵王・斉の威王尤も彊し。三十年、秦衛鞅を商に封じ、南のかた楚を侵す。是の年、宣王卒し、子の威王熊商立つ。威王の六年、周の顕王文武の胙を秦の恵王に致す。七年、斉の孟嘗君の父田嬰楚を欺く。楚の威王斉を伐ち、之を徐州に敗り、而して斉をして必ず田嬰を逐はしめんとす。田嬰恐る。張丑偽りて楚王に謂ひて曰く、「王の徐州に戦勝せし所以の者は、田盻子用ひられざればなり。盻子は、国に功有りて、百姓之が用を為す。嬰子善からずして申紀を用ふ。申紀は、大臣附かず、百姓用を為さず。故に王之に勝てり。今王嬰子を逐はば、嬰子逐はれて、盻子必ず用ひられん。復た其の士卒を搏めて以て王と遇はば、必ず王に便ならざらん」と。楚王因りて逐はざるなり。十一年、威王卒し、子の懐王熊槐立つ。魏楚の喪を聞き、楚を伐ち、我が陘山を取る。懐王の元年、張儀始めて秦の恵王に相たり。四年、秦の恵王初めて王と称す。六年、楚柱国昭陽をして兵を将ゐて魏を攻めしめ、之を襄陵に破り、八邑を得たり。又兵を移して斉を攻む。斉王之を患ふ。陳軫適々秦の為に斉に使ひす。斉王曰く、「之を為すこと奈何」と。陳軫曰く、「王憂ふること勿かれ。請ふ之を罷めしめん」と。
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史記 楚世家乃ち其の長子康を立てて句亶王と為し、中子紅を鄂王と為し、少子執疵を越章王と為す。皆江上の楚蛮の地に在り。周の厲王の時に及び、暴虐なり。熊渠其の楚を伐たんことを畏れ、亦た其の王を去る。後に熊毋康と為る。毋康蚤く死す。熊渠卒し、子の熊摯紅立つ。摯紅卒し、其の弟弑して代はり立つ。熊延と曰ふ。熊延熊勇を生む。熊勇の六年、周人乱を作し、厲王を攻む。厲王出でて彘に奔る。熊勇の十年、卒し、弟の熊厳後と為る。熊厳の十年、卒す。子四人有り。長子は伯霜、中子は仲雪、次子は叔堪、少子は季徇なり。熊厳卒し、長子伯霜代はり立つ。是を熊霜と為す。熊霜の元年、周の宣王初めて立つ。熊霜の六年、卒す。三弟立つを争ふ。仲雪死し、叔堪亡げて、難を濮に避く。而して少弟季徇立つ。是を熊徇と為す。熊徇の十六年、鄭の桓公初めて鄭に封ぜらる。二十二年、熊徇卒し、子の熊咢立つ。熊咢の九年、卒し、子の熊儀立つ。是を若敖と為す。若敖の二十年、周の幽王犬戎の弑する所と為り、周東に徙る。而して秦の襄公始めて列して諸侯と為る。二十七年、若敖卒し、子の熊坎立つ。是を霄敖と為す。霄敖の六年、卒し、子の熊眴立つ。是を蚡冒と為す。蚡冒の十三年、晋始めて乱る。曲沃の故を以てなり。蚡冒の十七年、卒す。蚡冒の弟熊通蚡冒の子を弑して代はり立つ。是を楚の武王と為す。武王の十七年、晋の曲沃の荘伯主国の晋の孝侯を弑す。十九年、鄭伯の弟段乱を作す。二十一年、鄭天子の田を侵す。二十三年、衛其の君桓公を弑す。二十九年、魯其の君隠公を弑す。三十一年、宋の太宰華督其の君殤公を弑す。三十五年、楚随を伐つ。随曰く、「我罪無し」と。楚曰く、「我は蛮夷なり。
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