史記 / 楚世家
今諸侯皆爲叛相侵,或相殺。我有敝甲,欲以觀中國之政,請王室尊吾號。」隨人爲之周,請尊楚,王室不聽,還報楚。三十七年,楚熊通怒曰:「吾先鬻熊,文王之師也,蚤終。成王舉我先公,乃以子男田令居楚,蠻夷皆率服,而王不加位,我自尊耳。」乃自立爲武王,與隨人盟而去。於是始開濮地而有之。五十一年,周召隨侯,數以立楚爲王。楚怒,以隨背己,伐隨。武王卒師中而兵罷。子文王熊貲立,始都郢。文王二年,伐申過鄧,鄧人曰「楚王易取」,鄧侯不許也。六年,伐蔡,虜蔡哀侯以歸,已而釋之。楚彊,陵江漢閒小國,小國皆畏之。十一年,齊桓公始霸,楚亦始大。十二年,伐鄧,滅之。十三年,卒,子熊艱立,是爲莊敖。莊敖五年,欲殺其弟熊惲,惲奔隨,與隨襲弒莊敖代立,是爲成王。成王惲元年,初卽位,布德施惠,結舊好於諸侯。使人獻天子,天子賜胙,曰:「鎭爾南方夷越之亂,無侵中國。」於是楚地千里。十六年,齊桓公以兵侵楚,至陘山。楚成王使將軍屈完以兵御之,與桓公盟。桓公數以周之賦不入王室,楚許之,乃去。十八年,成王以兵北伐許,許君肉袒謝,乃釋之。二十二年,伐黃。二十六年,滅英。三十三年,宋襄公欲爲盟會,召楚。
新字:今諸侯皆為叛相侵,或相殺。我有敝甲,欲以観中国之政,請王室尊吾号。」随人為之周,請尊楚,王室不聴,還報楚。三十七年,楚熊通怒曰:「吾先鬻熊,文王之師也,蚤終。成王舉我先公,乃以子男田令居楚,蠻夷皆率服,而王不加位,我自尊耳。」乃自立為武王,与随人盟而去。於是始開濮地而有之。五十一年,周召随侯,数以立楚為王。楚怒,以随背己,伐随。武王卒師中而兵罷。子文王熊貲立,始都郢。文王二年,伐申過鄧,鄧人曰「楚王易取」,鄧侯不許也。六年,伐蔡,虜蔡哀侯以帰,已而釈之。楚彊,陵江漢閒小国,小国皆畏之。十一年,斉桓公始覇,楚亦始大。十二年,伐鄧,滅之。十三年,卒,子熊艱立,是為荘敖。荘敖五年,欲殺其弟熊惲,惲奔随,与随襲弒荘敖代立,是為成王。成王惲元年,初即位,布徳施恵,結旧好於諸侯。使人献天子,天子賜胙,曰:「鎮爾南方夷越之乱,無侵中国。」於是楚地千里。十六年,斉桓公以兵侵楚,至陘山。楚成王使将軍屈完以兵御之,与桓公盟。桓公数以周之賦不入王室,楚許之,乃去。十八年,成王以兵北伐許,許君肉袒謝,乃釈之。二十二年,伐黄。二十六年,滅英。三十三年,宋襄公欲為盟会,召楚。
書き下し
今諸侯皆叛きて相侵し、或いは相殺すを為す。我に敝甲有り。以て中国の政を観んと欲す。王室に請ひて吾が号を尊ばしめよ」と。随人之が為に周に之き、楚を尊ばんことを請ふ。王室聴かず。還りて楚に報ず。三十七年、楚の熊通怒りて曰く、「吾が先鬻熊は、文王の師なり。蚤く終はる。成王我が先公を挙げ、乃ち子男の田を以て楚に居らしむ。蛮夷皆率ゐて服す。而るに王位を加へず。我自ら尊くせんのみ」と。乃ち自ら立ちて武王と為り、随人と盟ひて去る。是に於て始めて濮の地を開きて之を有つ。五十一年、周随侯を召し、数(せ)むるに楚を立てて王と為すを以てす。楚怒り、随の己に背くを以て、随を伐つ。武王師中に卒して兵罷む。子の文王熊貲立ち、始めて郢に都す。文王の二年、申を伐ちて鄧を過ぐ。鄧人曰く「楚王取り易し」と。鄧侯許さざるなり。六年、蔡を伐ち、蔡の哀侯を虜にして以て帰り、已にして之を釈す。楚彊く、江漢の間の小国を陵ぎ、小国皆之を畏る。十一年、斉の桓公始めて覇たり。楚も亦た始めて大なり。十二年、鄧を伐ちて、之を滅ぼす。十三年、卒し、子の熊艱立つ。是を荘敖と為す。荘敖の五年、其の弟熊惲を殺さんと欲す。惲随に奔り、随と荘敖を襲弑して代はり立つ。是を成王と為す。成王惲の元年、初めて即位し、徳を布き恵みを施し、旧好を諸侯に結ぶ。人をして天子に献ぜしむ。天子胙を賜ひて曰く、「爾の南方の夷越の乱を鎮め、中国を侵すこと無かれ」と。是に於て楚の地千里なり。十六年、斉の桓公兵を以て楚を侵し、陘山に至る。楚の成王将軍屈完をして兵を以て之を御せしめ、桓公と盟ふ。桓公数むるに周の賦の王室に入らざるを以てす。楚之を許す。乃ち去る。十八年、成王兵を以て北のかた許を伐つ。許君肉袒して謝す。乃ち之を釈す。二十二年、黄を伐つ。二十六年、英を滅ぼす。三十三年、宋の襄公盟会を為さんと欲し、楚を召す。
現代語訳
いま諸侯はみな周に背いて互いに侵し合い、殺し合っている。わが国にも粗末ながら武具がある。これで中原の政治を見てやろうと思う。周の王室に願って、わが君の称号を上げさせよ」。随の人々は楚のために周へ行き、楚の称号を上げるよう願ったが、王室は聞き入れなかった。随は戻って楚に報告した。三十七年、楚の熊通は怒って言った。「わが祖先の鬻熊は文王の師であったが、早くに亡くなった。成王はわが先祖を取り立てたものの、子爵・男爵相当の土地を与えて楚に住まわせただけだった。いまや蛮夷はみなわが国に従っているのに、王は位を上げてくれない。ならば自ら称号を尊くするまでだ」。そして自ら立って武王と称し、随と盟約を結んで去った。こうして初めて濮の地を切り開いて領有した。五十一年、周は随侯を呼び出し、楚を王に立てたことを責めた。楚は、随が自分に背いたとして怒り、随を攻めた。武王は陣中で亡くなり、兵は引き揚げた。子の文王熊貲が立ち、初めて郢に都を置いた。文王の二年、申を攻める途中で鄧を通った。鄧の人々は「楚王は討ち取りやすい」と言ったが、鄧侯は許さなかった。六年、蔡を攻めて蔡の哀侯を捕らえて連れ帰り、やがて釈放した。楚は強くなり、長江と漢水の間の小国を圧迫したので、小国はみな楚を恐れた。十一年、斉の桓公が初めて覇者となった。楚もこのころ初めて大国となった。十二年、鄧を攻めて滅ぼした。十三年、文王が亡くなり、子の熊艱が立った。これが荘敖である。荘敖の五年、荘敖は弟の熊惲を殺そうとした。熊惲は随に逃れ、随とともに荘敖を襲って殺し、代わりに立った。これが成王である。成王惲の元年、即位したばかりで、徳を広め恵みを施し、諸侯と昔のよしみを結び直した。人を送って天子に献上品を贈ると、天子は祭りの肉を下賜して言った。「そなたの南方の夷や越の乱を鎮め、中原を侵してはならない」。こうして楚の領土は千里に及んだ。十六年、斉の桓公が兵を率いて楚に攻め入り、陘山に至った。楚の成王は将軍の屈完に兵を率いて防がせ、桓公と盟約を結ばせた。桓公は、楚が周への貢ぎ物を王室に納めていないことを責め、楚はこれを受け入れたので、桓公は引き揚げた。十八年、成王は兵を率いて北の許を攻めた。許君が上半身をあらわにして謝罪したので、成王は許した。二十二年、黄を攻めた。二十六年、英を滅ぼした。三十三年、宋の襄公が諸侯の会盟を開こうとして、楚を招いた。
解説
関連する章句
-
史記 楚世家乃ち其の長子康を立てて句亶王と為し、中子紅を鄂王と為し、少子執疵を越章王と為す。皆江上の楚蛮の地に在り。周の厲王の時に及び、暴虐なり。熊渠其の楚を伐たんことを畏れ、亦た其の王を去る。後に熊毋康と為る。毋康蚤く死す。熊渠卒し、子の熊摯紅立つ。摯紅卒し、其の弟弑して代はり立つ。熊延と曰ふ。熊延熊勇を生む。熊勇の六年、周人乱を作し、厲王を攻む。厲王出でて彘に奔る。熊勇の十年、卒し、弟の熊厳後と為る。熊厳の十年、卒す。子四人有り。長子は伯霜、中子は仲雪、次子は叔堪、少子は季徇なり。熊厳卒し、長子伯霜代はり立つ。是を熊霜と為す。熊霜の元年、周の宣王初めて立つ。熊霜の六年、卒す。三弟立つを争ふ。仲雪死し、叔堪亡げて、難を濮に避く。而して少弟季徇立つ。是を熊徇と為す。熊徇の十六年、鄭の桓公初めて鄭に封ぜらる。二十二年、熊徇卒し、子の熊咢立つ。熊咢の九年、卒し、子の熊儀立つ。是を若敖と為す。若敖の二十年、周の幽王犬戎の弑する所と為り、周東に徙る。而して秦の襄公始めて列して諸侯と為る。二十七年、若敖卒し、子の熊坎立つ。是を霄敖と為す。霄敖の六年、卒し、子の熊眴立つ。是を蚡冒と為す。蚡冒の十三年、晋始めて乱る。曲沃の故を以てなり。蚡冒の十七年、卒す。蚡冒の弟熊通蚡冒の子を弑して代はり立つ。是を楚の武王と為す。武王の十七年、晋の曲沃の荘伯主国の晋の孝侯を弑す。十九年、鄭伯の弟段乱を作す。二十一年、鄭天子の田を侵す。二十三年、衛其の君桓公を弑す。二十九年、魯其の君隠公を弑す。三十一年、宋の太宰華督其の君殤公を弑す。三十五年、楚随を伐つ。随曰く、「我罪無し」と。楚曰く、「我は蛮夷なり。
-
史記 楚世家楚王怒りて曰く、「我を召す。我将に好く往きて襲ひて之を辱めんとす」と。遂に行き、盂に至り、遂に宋公を執へて辱め、已にして之を帰す。三十四年、鄭の文公南のかた楚に朝す。楚の成王北のかた宋を伐ち、之を泓に敗り、宋の襄公を射傷つく。襄公遂に創を病みて死す。三十五年、晋の公子重耳楚を過ぐ。成王諸侯の客礼を以て饗し、而して厚く之を秦に送る。三十九年、魯の僖公来たりて兵を請ひて以て斉を伐たんとす。楚申侯をして兵を将ゐて斉を伐たしめ、穀を取り、斉の桓公の子雍を焉に置く。斉の桓公の七子皆楚に奔る。楚尽く以て上大夫と為す。夔を滅ぼす。夔祝融・鬻熊を祀らざるの故なり。夏、宋を伐つ。宋急を晋に告ぐ。晋宋を救ふ。成王罷めて帰る。将軍子玉戦はんことを請ふ。成王曰く、「重耳亡げて外に居ること久しく、卒に国に反るを得たり。天の開く所なり。当たるべからず」と。子玉固く請ふ。乃ち之に少師を与へて去る。晋果たして子玉を城濮に敗る。成王怒り、子玉を誅す。四十六年、初め、成王将に商臣を以て太子と為さんとし、令尹子上に語る。子上曰く、「君の歯未だし。而して又内寵多し。絀(しりぞ)くれば乃ち乱れん。楚国の挙は常に少き者に在り。且つ商臣は蜂目にして豺声なり。忍人なり。立つべからず」と。王聴かず、之を立つ。後に又子職を立てて太子商臣を絀けんと欲す。商臣聞くも未だ審らかならず。其の傅潘崇に告げて曰く、「何を以て其の実を得ん」と。崇曰く、「王の寵姫江羋を饗して敬する勿かれ」と。商臣之に従ふ。江羋怒りて曰く、「宜なるかな、王の若を殺して職を立てんと欲するや」と。商臣潘崇に告げて曰く、「信なり」と。崇曰く、「能く之に事へんか」と。曰く、「能はず」と。「能く亡げ去らんか」と。曰く、「能はず」と。「能く大事を行はんか」と。曰く、「能くせん」と。冬十月、商臣宮衛の兵を以て成王を囲む。成王熊蹯を食らひて死せんことを請ふも、聴かず。丁未、成王自ら絞殺す。商臣代はり立つ。是を穆王と為す。穆王立ち、其の太子の宮を以て潘崇に予へ、太師と為して、国事を掌らしむ。穆王の三年、江を滅ぼす。四年、六・蓼を滅ぼす。六・蓼は、皋陶の後なり。八年、陳を伐つ。十二年、卒す。子の荘王侶立つ。
-
史記 楚世家悼王の二年、三晋来たりて楚を伐ち、乗丘に至りて還る。四年、楚周を伐つ。鄭子陽を殺す。九年、韓を伐ち、負黍を取る。十一年、三晋楚を伐ち、我を大梁・楡関に敗る。楚厚く秦に賂ひ、之と平らぐ。二十一年、悼王卒し、子の粛王臧立つ。粛王の四年、蜀楚を伐ち、茲方を取る。是に於て楚捍関を為りて以て之を距ぐ。十年、魏我が魯陽を取る。十一年、粛王卒す。子無し。其の弟熊良夫を立つ。是を宣王と為す。宣王の六年、周の天子秦の献公を賀す。秦始めて復た彊く、而して三晋益々大なり。魏の恵王・斉の威王尤も彊し。三十年、秦衛鞅を商に封じ、南のかた楚を侵す。是の年、宣王卒し、子の威王熊商立つ。威王の六年、周の顕王文武の胙を秦の恵王に致す。七年、斉の孟嘗君の父田嬰楚を欺く。楚の威王斉を伐ち、之を徐州に敗り、而して斉をして必ず田嬰を逐はしめんとす。田嬰恐る。張丑偽りて楚王に謂ひて曰く、「王の徐州に戦勝せし所以の者は、田盻子用ひられざればなり。盻子は、国に功有りて、百姓之が用を為す。嬰子善からずして申紀を用ふ。申紀は、大臣附かず、百姓用を為さず。故に王之に勝てり。今王嬰子を逐はば、嬰子逐はれて、盻子必ず用ひられん。復た其の士卒を搏めて以て王と遇はば、必ず王に便ならざらん」と。楚王因りて逐はざるなり。十一年、威王卒し、子の懐王熊槐立つ。魏楚の喪を聞き、楚を伐ち、我が陘山を取る。懐王の元年、張儀始めて秦の恵王に相たり。四年、秦の恵王初めて王と称す。六年、楚柱国昭陽をして兵を将ゐて魏を攻めしめ、之を襄陵に破り、八邑を得たり。又兵を移して斉を攻む。斉王之を患ふ。陳軫適々秦の為に斉に使ひす。斉王曰く、「之を為すこと奈何」と。陳軫曰く、「王憂ふること勿かれ。請ふ之を罷めしめん」と。
-
史記 楚世家将に戦はんとす。庚寅、昭王軍中に卒す。子閭曰く、「王の病甚だしくして、其の子を捨てて群臣に譲る。臣の王に許す所以は、以て王の意を広めんとてなり。今君王卒す。臣豈に敢て君王の意を忘れんや」と。乃ち子西・子綦と謀り、師を伏せ塗を閉ぢ、越女の子章を迎へて之を立つ。是を恵王と為す。然る後に兵を罷めて帰り、昭王を葬る。恵王の二年、子西故の平王の太子建の子勝を呉より召し、以て巣の大夫と為し、号して白公と曰ふ。白公兵を好みて士に下り、仇に報いんと欲す。六年、白公兵を令尹子西に請ひて鄭を伐たんとす。初め、白公の父建亡げて鄭に在り。鄭之を殺す。白公亡げて呉に走る。子西復た之を召す。故に此を以て鄭を怨み、之を伐たんと欲す。子西許すも未だ為に兵を発せず。八年、晋鄭を伐つ。鄭急を楚に告ぐ。楚子西をして鄭を救はしむ。賂を受けて去る。白公勝怒り、乃ち遂に勇力の死士石乞等と令尹子西・子綦を朝に襲殺し、因りて恵王を劫かし、之を高府に置き、之を弑せんと欲す。恵王の従者屈固王を負ひて亡げて昭王の夫人の宮に走る。白公自立して王と為る。月余にして、会々葉公来たりて楚を救ふ。楚の恵王の徒与に共に白公を攻め、之を殺す。恵王乃ち位に復す。是の歳や、陳を滅ぼして之を県とす。十三年、呉王夫差彊く、斉・晋を陵ぎ、来たりて楚を伐つ。十六年、越呉を滅ぼす。四十二年、楚蔡を滅ぼす。四十四年、楚杞を滅ぼす。秦と平らぐ。是の時越已に呉を滅ぼして江・淮の北を正すこと能はず。楚東のかた侵し、地を広げて泗上に至る。五十七年、恵王卒し、子の簡王中立つ。簡王の元年、北のかた伐ちて莒を滅ぼす。八年、魏の文侯・韓の武子・趙の桓子始めて列して諸侯と為る。二十四年、簡王卒し、子の声王当立つ。声王の六年、盗声王を殺す。子の悼王熊疑立つ。
-
史記 楚世家九年、若敖氏に相たり。人或いは之を王に讒す。誅せられんことを恐れ、反って王を攻む。王撃ちて若敖氏の族を滅ぼす。十三年、舒を滅ぼす。十六年、陳を伐ち、夏徴舒を殺す。徴舒其の君を弑す。故に之を誅するなり。已に陳を破り、即ち之を県とす。群臣皆賀す。申叔時斉に使ひして来たり、賀せず。王問ふ。対へて曰く、「鄙語に曰く、牛を牽きて人の田を徑(わた)れば、田主其の牛を取る、と。徑る者は則ち直からず。之が牛を取るは亦た甚だしからずや。且つ王陳の乱を以て諸侯を率ゐて之を伐つ。義を以て之を伐ちて其の県を貪る。亦た何を以て復た天下に令せん」と。荘王乃ち陳の後を復国す。十七年春、楚の荘王鄭を囲み、三月にして之に克つ。皇門より入る。鄭伯肉袒し羊を牽きて以て逆へて曰く、「孤天ならず、君に事ふること能はず。君用て怒りを懐き、以て敝邑に及ぶ。孤の罪なり。敢て惟だ命を是れ聴かざらんや。之を南海に賓(しりぞ)くるも、若しくは臣妾を以て諸侯に賜ふも、亦た惟だ命を是れ聴かん。若し君厲・宣・桓・武を忘れず、其の社稷を絶たず、改めて君に事へしめば、孤の願ひなり。敢て望む所に非ざるなり。敢て腹心を布く」と。楚の群臣曰く、「王許すこと勿かれ」と。荘王曰く、「其の君能く人に下る。必ず能く其の民を信用せん。庸ぞ絶つべけんや」と。荘王自ら旗を手にし、左右に軍を麾(さしまね)き、兵を引きて去ること三十里にして舎り、遂に之に平らぐことを許す。潘尪入りて盟ひ、子良出でて質たり。夏六月、晋鄭を救ひ、楚と戦ふ。大いに晋の師を河上に敗り、遂に衡雍に至りて帰る。二十年、宋を囲む。楚の使ひを殺せしを以てなり。宋を囲むこと五月、城中食尽き、子を易へて食らひ、骨を析きて炊ぐ。宋の華元出でて告ぐるに情を以てす。荘王曰く、「君子なるかな」と。遂に兵を罷めて去る。二十三年、荘王卒し、子の共王審立つ。共王の十六年、晋鄭を伐つ。鄭急を告ぐ。共王鄭を救ふ。晋の兵と鄢陵に戦ふ。晋楚を敗り、共王の目に射中つ。共王将軍子反を召す。
-
史記 楚世家楚の先祖は帝顓頊高陽より出づ。高陽は、黄帝の孫にして、昌意の子なり。高陽称を生み、称巻章を生み、巻章重黎を生む。重黎帝嚳高辛の為に火正に居り、甚だ功有り、能く天下を光融す。帝嚳命じて祝融と曰ふ。共工氏乱を作す。帝嚳重黎をして之を誅せしむるも尽くさず。帝乃ち庚寅の日を以て重黎を誅し、而して其の弟呉回を以て重黎の後と為し、復た火正に居らしめ、祝融と為す。呉回陸終を生む。陸終子六人を生む。坼剖して産む。其の長の一を昆吾と曰ひ、二を参胡と曰ひ、三を彭祖と曰ひ、四を会人と曰ひ、五を曹姓と曰ひ、六を季連と曰ふ。羋姓にして、楚は其の後なり。昆吾氏は、夏の時嘗て侯伯と為り、桀の時湯之を滅ぼす。彭祖氏は、殷の時嘗て侯伯と為り、殷の末世彭祖氏を滅ぼす。季連附沮を生み、附沮穴熊を生む。其の後中ごろ微にして、或いは中国に在り、或いは蛮夷に在り、其の世を紀すこと能はず。周の文王の時、季連の苗裔を鬻熊と曰ふ。鬻熊は子のごとく文王に事へ、蚤く卒す。其の子を熊麗と曰ふ。熊麗熊狂を生み、熊狂熊繹を生む。熊繹は周の成王の時に当たり、文・武の勤労の後嗣を挙げて、熊繹を楚蛮に封じ、封ずるに子男の田を以てし、姓は羋氏、丹陽に居る。楚子熊繹は魯公伯禽・衛の康叔の子牟・晋侯燮・斉の太公の子呂伋と倶に成王に事ふ。熊繹熊艾を生み、熊艾熊亶を生み、熊亶熊勝を生む。熊勝弟熊楊を以て後と為す。熊楊熊渠を生む。熊渠子三年を生む。周の夷王の時に当たり、王室微にして、諸侯或いは朝せず、相伐つ。熊渠甚だ江漢の間の民の和を得、乃ち兵を興して庸・楊蠆を伐ち、鄂に至る。熊渠曰く、「我は蛮夷なり。中国の号諡に与らず」と。
人生の答えは、ぜんぶ古典に書いてあった。
古典の入門書『人生の教科書』(PDF)と、師導の全機能1か月がセットで700円。二十四の悩みに、論語・老子・孫子から徒然草・五輪書までが答えます。
本の中身を見る