史記 / 張儀列伝
而攻天下所不欲,危矣。臣請謁其故:周,天下之宗室也;齊,韓之與國也。周自知失九鼎,韓自知亡三川,將二國并力合謀,以因乎齊、趙而求解乎楚、魏,以鼎與楚,以地與魏,王弗能止也。此臣之所謂危也。不如伐蜀完。」惠王曰:「善,寡人請聽子。」卒起兵伐蜀,十月,取之,遂定蜀,貶蜀王更號為侯,而使陳莊相蜀。蜀既屬秦,秦以益彊,富厚,輕諸侯。秦惠王十年,使公子華與張儀圍蒲陽,降之。儀因言秦復與魏,而使公子繇質於魏。儀因說魏王曰:「秦王之遇魏甚厚,魏不可以無禮。」魏因入上郡、少梁,謝秦惠王。惠王乃以張儀為相,更名少梁曰夏陽。儀相秦四歲,立惠王為王。居一歲,為秦將,取陜。筑上郡塞。其後二年,使與齊、楚之相會齧桑。東還而免相,相魏以為秦,欲令魏先事秦而諸侯效之。魏王不肯聽儀。秦王怒,伐取魏之曲沃、平周,復陰厚張儀益甚。張儀慚,無以歸報。留魏四歲而魏襄王卒,哀王立。張儀復說哀王,哀王不聽。於是張儀陰令秦伐魏。魏與秦戰,敗。明年,齊又來敗魏於觀津。秦復欲攻魏,先敗韓申差軍,斬首八萬,諸侯震恐。而張儀復說魏王曰:「魏地方不至千里,卒不過三十萬。地四平,諸侯四通輻湊,無名山大川之限。
新字:而攻天下所不欲,危矣。臣請謁其故:周,天下之宗室也;斉,韓之与国也。周自知失九鼎,韓自知亡三川,将二国并力合謀,以因乎斉、趙而求解乎楚、魏,以鼎与楚,以地与魏,王弗能止也。此臣之所謂危也。不如伐蜀完。」恵王曰:「善,寡人請聴子。」卒起兵伐蜀,十月,取之,遂定蜀,貶蜀王更号為侯,而使陳荘相蜀。蜀既属秦,秦以益彊,富厚,軽諸侯。秦恵王十年,使公子華与張儀囲蒲陽,降之。儀因言秦復与魏,而使公子繇質於魏。儀因説魏王曰:「秦王之遇魏甚厚,魏不可以無礼。」魏因入上郡、少梁,謝秦恵王。恵王乃以張儀為相,更名少梁曰夏陽。儀相秦四歳,立恵王為王。居一歳,為秦将,取陜。筑上郡塞。其後二年,使与斉、楚之相会齧桑。東還而免相,相魏以為秦,欲令魏先事秦而諸侯効之。魏王不肯聴儀。秦王怒,伐取魏之曲沃、平周,復陰厚張儀益甚。張儀慚,無以帰報。留魏四歳而魏襄王卒,哀王立。張儀復説哀王,哀王不聴。於是張儀陰令秦伐魏。魏与秦戦,敗。明年,斉又来敗魏於観津。秦復欲攻魏,先敗韓申差軍,斬首八万,諸侯震恐。而張儀復説魏王曰:「魏地方不至千里,卒不過三十万。地四平,諸侯四通輻湊,無名山大川之限。
書き下し
而して天下の欲せざる所を攻むるは、危ふし。臣請ふ其の故を謁さん。周は、天下の宗室なり。斉は、韓の与国なり。周自ら九鼎を失ふを知り、韓自ら三川を亡ふを知らば、将に二国力を并せ謀を合はせ、以て斉・趙に因りて解を楚・魏に求め、鼎を以て楚に与へ、地を以て魏に与へんとす、王止むる能はざるなり。此れ臣の所謂危ふきなり。蜀を伐つの完きに如かず」と。恵王曰く、「善し、寡人請ふ子に聴かん」と。卒に兵を起こして蜀を伐ち、十月にして、之を取り、遂に蜀を定め、蜀王を貶して号を更めて侯と為し、而して陳荘をして蜀に相たらしむ。蜀既に秦に属し、秦以て益々彊く、富厚にして、諸侯を軽んず。秦の恵王の十年、公子華と張儀とをして蒲陽を囲ましめ、之を降す。儀因りて秦に言ひて復た魏に与へしめ、而して公子繇をして魏に質たらしむ。儀因りて魏王に説きて曰く、「秦王の魏を遇すること甚だ厚し、魏以て礼無かるべからず」と。魏因りて上郡・少梁を入れ、秦の恵王に謝す。恵王乃ち張儀を以て相と為し、少梁を更名して夏陽と曰ふ。儀秦に相たること四歳、恵王を立てて王と為す。居ること一歳、秦の将と為り、陝を取る。上郡の塞を築く。其の後二年、使ひして斉・楚の相と齧桑に会す。東より還りて相を免ぜられ、魏に相として以て秦の為にし、魏をして先づ秦に事へて諸侯をして之に効はしめんと欲す。魏王儀に聴くを肯んぜず。秦王怒り、伐ちて魏の曲沃・平周を取り、復た陰かに張儀を厚くすること益々甚だし。張儀慚ぢ、以て帰報する無し。魏に留まること四歳にして魏の襄王卒し、哀王立つ。張儀復た哀王に説く、哀王聴かず。是に於いて張儀陰かに秦をして魏を伐たしむ。魏秦と戦ひ、敗る。明年、斉又来たりて魏を観津に敗る。秦復た魏を攻めんと欲し、先づ韓の申差の軍を敗り、首を斬ること八万、諸侯震恐す。而して張儀復た魏王に説きて曰く、「魏の地方は千里に至らず、卒は三十万に過ぎず。地は四平にして、諸侯四通輻湊し、名山大川の限り無し。
現代語訳
(司馬錯は続けた。)「そのうえ天下が望まないことを攻めるのは危うい。そのわけを申し上げよう。周は天下の宗家であり、斉は韓の同盟国である。周が九鼎を失うと悟り、韓が三川を失うと悟れば、二国は力を合わせ謀りごとを一つにして、斉や趙を頼り、楚や魏に助けを求めて、九鼎を楚に与え、土地を魏に与えるだろう。そうなれば王にも止めることはできない。これがわたしの言う危うさである。蜀を討つ方が万全である。」恵王は言った。「もっともだ。わたしはあなたの意見に従おう。」ついに兵を起こして蜀を討ち、十か月でこれを取り、蜀を平定した。蜀王の位を下げて侯と改め、陳荘を蜀の宰相とした。蜀が秦に属すると、秦はますます強く豊かになり、諸侯を軽んじるようになった。秦の恵王の十年、公子華と張儀に蒲陽を包囲させて降伏させた。張儀はそこで秦に進言して蒲陽を魏に返させ、公子繇を魏に人質として送らせた。そのうえで張儀は魏王に説いた。「秦王の魏への待遇はたいへん手厚い。魏も礼を欠いてはならない。」魏はそこで上郡と少梁を秦に差し出し、秦の恵王に礼を尽くした。恵王はそこで張儀を宰相とし、少梁を夏陽と改名した。張儀は秦の宰相となって四年、恵王に王の称号を名乗らせた。一年後、秦の将軍となって陝を取った。上郡に要塞を築いた。その二年後、使者として斉と楚の宰相と齧桑で会見した。東から帰ると宰相を免じられたが、秦のために魏の宰相となり、魏にまず秦に仕えさせて、諸侯にもそれに倣わせようとした。魏王は張儀の言うことを聞こうとしなかった。秦王は怒り、魏を討って曲沃と平周を取り、ひそかに張儀への待遇をますます厚くした。張儀は恥じて、秦に報告できるような成果がなかった。魏に留まって四年、魏の襄王が亡くなり、哀王が立った。張儀は再び哀王に説いたが、哀王は聞き入れなかった。そこで張儀はひそかに秦に魏を討たせた。魏は秦と戦って敗れた。翌年、斉もまた攻めてきて、魏を観津で破った。秦は再び魏を攻めようとし、まず韓の申差の軍を破り、八万の首を斬ったので、諸侯は震え上がった。そこで張儀は再び魏王に説いた。「魏の国土は千里四方に満たず、兵は三十万を超えない。土地は四方とも平らで、諸侯の国から車の輻が轂に集まるように道が通じており、名高い山や大河の障壁がない。
解説
関連する章句
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戦国策・秦一・司馬錯與張儀爭論於秦惠王前司馬錯、張儀と秦の惠王の前に爭論す。司馬錯蜀を伐たんと欲し、張儀曰わく、「韓を伐つに如かず。」王曰わく、「請う其の說を聞かん。」對えて曰わく、「魏に親しみ楚に善くし、兵を三川に下し、轘轅・緱氏の口を塞ぎ、屯留の道に當たり、魏南陽を絕ち、楚南鄭に臨み、秦新城・宜陽を攻めて、以て二周の郊に臨み、周主の罪を誅し、楚・魏の地を侵す。周自ら救われざるを知り、九鼎寶器必ず出でん。九鼎に據り、圖籍を桉じ、天子を挾みて以て天下に令せば、天下敢えて聽かざる莫し、此れ王業なり。今夫れ蜀は、西辟の國にして、戎狄の長なり。兵を弊れしめ眾を勞するも以て名を成すに足らず、其の地を得るも以て利と為すに足らず。臣聞く、『名を爭う者は朝に、利を爭う者は市に』と。今三川・周室は、天下の市朝なるに、王之を爭わずして、顧りて戎狄に爭う、王業を去ること遠し。」司馬錯曰わく、「然らず。臣之を聞く、國を富まさんと欲する者は、務めて其の地を廣め、兵を強くせんと欲する者は、務めて其の民を富ませ、王たらんと欲する者は、務めて其の德を博くすと。三資備わりて、王之に隨う。今王の地小さく民貧しく、故に臣願わくは易きに從事せん。夫れ蜀は、西辟の國にして、戎狄の長なるも、桀・紂の亂有り。秦を以て之を攻むれば、譬えば豺狼をして群羊を逐わしむるがごとし。其の地を取れば、以て國を廣むるに足り、其の財を得れば、以て民を富ますに足り、兵を繕いて眾を傷つけずして、彼已に服せん。故に一國を拔くも、天下以て暴と為さず、利西海を盡くすも、諸侯以て貪と為さず。是れ我一舉にして名實兩つながら附き、又暴を禁じ亂を正すの名有り。今韓を攻め天子を劫すは、天子を劫すは惡名にして、未だ必ずしも利あらず、又不義の名有りて、天下の欲せざる所を攻むるは、危うし。臣請う其の故を謁さん、周は天下の宗室なり、齊は韓・周の與國なり。周自ら九鼎を失うを知り、韓自ら三川を亡うを知らば、則ち必ず將に二國力を并せ謀を合わせ、以て齊・趙に因りて、楚・魏に解を求めん。鼎を以て楚に與え、地を以て魏に與うれば、王禁ずる能わず。此れ臣の謂う所の『危うし』にして、蜀を伐つの完きに如かず。」惠王曰わく、「善し、寡人子に聽かん。」卒に兵を起こして蜀を伐ち、十月に之を取り、遂に蜀を定む。蜀主號を更めて侯と為し、陳莊をして蜀に相たらしむ。蜀既に屬し、秦益々強く富厚にして、諸侯を輕んず。
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史記 張儀列伝苴蜀相攻撃し、各々来たりて急を秦に告ぐ。秦の恵王兵を発して以て蜀を伐たんと欲するも、以為へらく道険狭にして至り難しと、而して韓又来たりて秦を侵す、秦の恵王先づ韓を伐ち、後に蜀を伐たんと欲すれば、利あらざらんことを恐れ、先づ蜀を伐たんと欲すれば、韓の秦の敝を襲はんことを恐る。猶予して未だ決する能はず。司馬錯張儀と恵王の前に争論す、司馬錯は蜀を伐たんと欲し、張儀曰く、「韓を伐つに如かず」と。王曰く、「請ふ其の説を聞かん」と。儀曰く、「魏に親しみ楚に善くし、兵を三川に下し、什谷の口を塞ぎ、屯留の道に当たり、魏は南陽を絶ち、楚は南鄭に臨み、秦は新城・宜陽を攻め、以て二周の郊に臨み、周王の罪を誅し、楚・魏の地を侵す。周自ら救ふ能はざるを知り、九鼎宝器必ず出でん。九鼎に拠り、図籍を案じ、天子を挟みて以て天下に令すれば、天下敢へて聴かざる莫し、此れ王業なり。今夫れ蜀は、西僻の国にして戎翟の倫なり、兵を敝し衆を労するも以て名を成すに足らず、其の地を得るも以て利と為すに足らず。臣聞く、名を争ふ者は朝に於いてし、利を争ふ者は市に於いてすと。今三川・周室は、天下の朝市なり、而るに王争はずして、顧つて戎翟に争ふ、王業を去ること遠し」と。司馬錯曰く、「然らず。臣之を聞く、国を富まさんと欲する者は務めて其の地を広め、兵を彊くせんと欲する者は務めて其の民を富まし、王たらんと欲する者は務めて其の徳を博くす、三資の者備はりて王之に随ふと。今王の地は小さく民は貧し、故に臣願はくは先づ易きに従事せん。夫れ蜀は、西僻の国なり、而して戎翟の長なり、桀紂の乱有り。秦を以て之を攻むるは、譬へば豺狼をして群羊を逐はしむるが如し。其の地を得れば以て国を広むるに足り、其の財を取れば以て民を富まし兵を繕ふに足る、衆を傷つけずして彼已に服す。一国を抜くも天下以て暴と為さず、利西海を尽くすも天下以て貪と為さず、是れ我一挙にして名実附くなり、而して又暴を禁じ乱を止むるの名有り。今韓を攻め、天子を劫すは、悪名なり、而して未だ必ずしも利あらず、又不義の名有り、
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