史記 / 楚世家
楚衆皆潰,去靈王而歸。靈王聞太子祿之死也,自投車下,而曰:「人之愛子亦如是乎?」侍者曰:「甚是。」王曰:「余殺人之子多矣,能無及此乎?」右尹曰:「請待於郊以聽國人。」王曰:「衆怒不可犯。」曰:「且入大縣而乞師於諸侯。」王曰:「皆叛矣。」又曰:「且奔諸侯以聽大國之慮。」王曰:「大福不再,祗取辱耳。」於是王乘舟將欲入鄢。右尹度王不用其計,懼倶死,亦去王亡。靈王於是獨傍偟山中,野人莫敢入王。王行遇其故鋗人,謂曰:「爲我求食,我已不食三日矣。」鋗人曰:「新王下法,有敢閒王從王者,罪及三族,且又無所得食。」王因枕其股而臥。鋗人又以土自代,逃去。王覺而弗見,遂饑弗能起。芋尹申無宇之子申亥曰:「吾父再犯王命,王弗誅,恩孰大焉!」乃求王,遇王饑於釐澤,奉之以歸。夏五月癸丑,王死申亥家,申亥以二女從死,并葬之。是時楚國雖已立比爲王,畏靈王復來,又不聞靈王死,故觀從謂初王比曰:「不殺棄疾,雖得國猶受禍。」王曰:「余不忍。」從曰:「人將忍王。」王不聽,乃去。棄疾歸。國人毎夜驚,曰:「靈王入矣!」乙卯夜,棄疾使船人從江上走呼曰:「靈王至矣!」國人愈驚。又使曼成然告初王比及令尹子皙曰:「王至矣!國人將殺君,司馬將至矣!君蚤自圖,無取辱焉。
新字:楚衆皆潰,去霊王而帰。霊王聞太子禄之死也,自投車下,而曰:「人之愛子亦如是乎?」侍者曰:「甚是。」王曰:「余殺人之子多矣,能無及此乎?」右尹曰:「請待於郊以聴国人。」王曰:「衆怒不可犯。」曰:「且入大県而乞師於諸侯。」王曰:「皆叛矣。」又曰:「且奔諸侯以聴大国之慮。」王曰:「大福不再,祗取辱耳。」於是王乗舟将欲入鄢。右尹度王不用其計,懼倶死,亦去王亡。霊王於是独傍偟山中,野人莫敢入王。王行遇其故鋗人,謂曰:「為我求食,我已不食三日矣。」鋗人曰:「新王下法,有敢閒王従王者,罪及三族,且又無所得食。」王因枕其股而臥。鋗人又以土自代,逃去。王覚而弗見,遂饑弗能起。芋尹申無宇之子申亥曰:「吾父再犯王命,王弗誅,恩孰大焉!」乃求王,遇王饑於釐沢,奉之以帰。夏五月癸丑,王死申亥家,申亥以二女従死,并葬之。是時楚国雖已立比為王,畏霊王復来,又不聞霊王死,故観従謂初王比曰:「不殺棄疾,雖得国猶受禍。」王曰:「余不忍。」従曰:「人将忍王。」王不聴,乃去。棄疾帰。国人毎夜驚,曰:「霊王入矣!」乙卯夜,棄疾使船人従江上走呼曰:「霊王至矣!」国人愈驚。又使曼成然告初王比及令尹子皙曰:「王至矣!国人将殺君,司馬将至矣!君蚤自図,無取辱焉。
書き下し
楚の衆皆潰え、霊王を去りて帰る。霊王太子禄の死を聞くや、自ら車下に投じて曰く、「人の子を愛するも亦た是の如きか」と。侍者曰く、「甚だ是なり」と。王曰く、「余人の子を殺すこと多し。能く此に及ぶこと無からんや」と。右尹曰く、「請ふ郊に待ちて以て国人を聴かん」と。王曰く、「衆怒は犯すべからず」と。曰く、「且く大県に入りて師を諸侯に乞はん」と。王曰く、「皆叛けり」と。又曰く、「且く諸侯に奔りて以て大国の慮を聴かん」と。王曰く、「大福は再びせず。祗だ辱めを取らんのみ」と。是に於て王舟に乗りて将に鄢に入らんと欲す。右尹王の其の計を用ひざるを度り、倶に死せんことを懼れ、亦た王を去りて亡ぐ。霊王是に於て独り山中に傍偟し、野人敢て王を入るる莫し。王行きて其の故の鋗人に遇ひ、謂ひて曰く、「我が為に食を求めよ。我已に食らはざること三日なり」と。鋗人曰く、「新王法を下す。敢て王に閒(饟)し王に従ふ者有らば、罪三族に及ぶ。且つ又食を得る所無し」と。王因りて其の股を枕にして臥す。鋗人又土を以て自ら代へ、逃げ去る。王覚めて見えず。遂に饑ゑて起つこと能はず。芋尹申無宇の子申亥曰く、「吾が父再び王命を犯すも、王誅せず。恩孰れか焉より大ならん」と。乃ち王を求め、王の釐沢に饑うるに遇ひ、之を奉じて以て帰る。夏五月癸丑、王申亥の家に死す。申亥二女を以て従死せしめ、并せて之を葬る。是の時楚国已に比を立てて王と為すと雖も、霊王の復た来たらんことを畏れ、又霊王の死を聞かず。故に観従初王比に謂ひて曰く、「棄疾を殺さずんば、国を得ると雖も猶ほ禍を受けん」と。王曰く、「余忍びず」と。従曰く、「人将に王に忍ばんとす」と。王聴かず。乃ち去る。棄疾帰る。国人毎夜驚きて曰く、「霊王入れり」と。乙卯の夜、棄疾船人をして江上より走り呼ばしめて曰く、「霊王至れり」と。国人愈々驚く。又曼成然をして初王比及び令尹子皙に告げしめて曰く、「王至れり。国人将に君を殺さんとす。司馬将に至らんとす。君蚤く自ら図れ。辱めを取ること無かれ。
現代語訳
楚の兵たちはみな総崩れとなり、霊王を見捨てて都へ帰った。霊王は太子禄が殺されたと聞くと、自ら車から身を投げ出して言った。「人が自分の子を愛するのも、これほどのものなのか」。侍者は言った。「まさにそのとおりだ」。王は言った。「私は多くの人の子を殺してきた。こうなるのも当然ではないか」。右尹が言った。「都の郊外で待って、国の人々の意向を聞いてはどうか」。王は言った。「民衆の怒りには逆らえない」。右尹が言った。「では、ひとまず大きな県に入って、諸侯に援軍を求めてはどうか」。王は言った。「みな背いてしまった」。さらに言った。「では、ひとまず諸侯のもとへ逃れて、大国の考えを聞いてはどうか」。王は言った。「大きな幸運は二度とは来ない。辱めを受けるだけだ」。そこで王は舟に乗って鄢に入ろうとした。右尹は、王が自分の策を用いないと見て、ともに死ぬことを恐れ、王を見捨てて逃げた。霊王はこうしてただ一人で山中をさまよったが、村人たちは誰も王を家に入れようとしなかった。王は道中でかつての宮中の下働きの者に出会い、言った。「私のために食べ物を探してきてくれ。もう三日も何も食べていない」。下働きの者は言った。「新しい王が法を出し、王に食べ物を与えたり王に従ったりする者がいれば、罪は三族に及ぶとされた。それにどこにも食べ物はない」。王はその男の股を枕にして横になった。男はこっそり土を王の頭の下に入れて自分の代わりにし、逃げ去った。王は目を覚ますと男がいないのに気づいたが、飢えのために起き上がることもできなかった。芋尹の申無宇の子の申亥は言った。「私の父は二度も王の命令に背いたが、王は父を誅さなかった。これほど大きな恩はない」。そこで王を探し求め、釐沢で飢えている王を見つけ、背負って家に連れ帰った。夏五月癸丑の日、王は申亥の家で亡くなった。申亥は二人の娘を王に殉死させ、一緒に葬った。このころ、楚の都ではすでに子比を王に立てていたが、霊王が戻ってくるのを恐れており、しかも霊王が死んだことを知らなかった。そこで観従は新しい王の子比に言った。「棄疾を殺さなければ、国を手に入れても、やはり災いを受けるだろう」。王は言った。「私には忍びない」。観従は言った。「相手のほうは王に対して忍びないとは思わないだろう」。王は聞き入れなかったので、観従は去った。棄疾が都に戻った。国の人々は毎晩のように驚き騒いで「霊王が攻め入ってきた」と言った。乙卯の夜、棄疾は船頭に命じて長江のほとりを走り回らせ、「霊王が来たぞ」と叫ばせた。国の人々はますます恐れた。さらに曼成然を使って新しい王の子比と令尹の子皙に告げさせた。「王(霊王)が来た。国の人々はあなたを殺そうとしている。司馬(棄疾)もやって来る。あなたは早く自分で身の始末をつけよ。辱めを受けることのないように。
解説
関連する章句
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史記 楚世家八年、公子棄疾をして兵を将ゐて陳を滅ぼさしむ。十年、蔡侯を召し、酔はしめて之を殺す。棄疾をして蔡を定めしめ、因りて陳蔡公と為す。十一年、徐を伐ちて以て呉を恐れしむ。霊王乾谿に次りて以て之を待つ。王曰く、「斉・晋・魯・衛は、其の封皆宝器を受く。我独り否ず。今吾使ひをして周に鼎を求めて以て分と為さしめば、其れ我に予へんか」と。析父対へて曰く、「其れ君王に予へんかな。昔我が先王熊繹荊山に辟在し、蓽露藍蔞して以て草莽に処り、山林を跋渉して以て天子に事へ、唯だ是の桃弧棘矢を以て王事に共(きょう)す。斉は、王の舅なり。晋及び魯・衛は、王の母弟なり。楚是を以て分無くして彼皆有り。周今四国と君王に服事す。将に惟だ命を是れ従はんとす。豈に敢て鼎を愛しまんや」と。霊王曰く、「昔我が皇祖伯父昆吾旧許に是れ宅す。今鄭人其の田を貪りて、我に予へず。今我之を求めば、其れ我に予へんか」と。対へて曰く、「周鼎を愛しまず。鄭安んぞ敢て田を愛しまん」と。霊王曰く、「昔諸侯我を遠ざけて晋を畏る。今吾大いに陳・蔡・不羹に城き、賦皆千乗なり。諸侯我を畏れんか」と。対へて曰く、「畏れんかな」と。霊王喜びて曰く、「析父善く古事を言ふ」と。十二年春、楚の霊王乾谿を楽しみ、去ること能はず。国人役に苦しむ。初め、霊王兵を申に会し、越の大夫常寿過を僇(はづかし)め、蔡の大夫観起を殺す。起の子従亡げて呉に在り。乃ち呉王に楚を伐たんことを勧め、越の大夫常寿過を間して乱を作さしめ、呉の間と為る。矯りて公子棄疾の命と称して公子比を晋より召さしめ、蔡に至り、呉・越の兵と蔡を襲はんと欲す。公子比をして棄疾に見えしめ、与に鄧に盟ふ。遂に入りて霊王の太子禄を殺し、子比を立てて王と為し、公子子皙を令尹と為し、棄疾を司馬と為す。先づ王宮を除き、観従師に乾谿に従ひ、楚の衆に令して曰く、「国に王有り。先に帰れば、爵邑田室を復す。後るる者は之を遷さん」と。
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史記 楚世家衆怒は水火の如く、救ふべからざるなり」と。初王及び子皙遂に自殺す。丙辰、棄疾即位して王と為り、名を熊居と改む。是を平王と為す。平王詐りを以て両王を弑して自立す。国人及び諸侯の之に叛かんことを恐れ、乃ち恵みを百姓に施す。陳・蔡の地を復して其の後を立つること故の如くし、鄭の侵地を帰す。国中を存恤し、政教を修む。呉楚の乱るるの故を以て、五率を獲て以て帰る。平王観従に謂ふ、「爾の欲する所を恣にせよ」と。卜尹為らんことを欲す。王之を許す。初め、共王に寵子五人有り。適の立つもの無し。乃ち群神を望祭し、神に請ひて之を決せしめ、社稷を主らしめんとす。而して陰かに巴姫と璧を室内に埋め、五公子を召して斎して入らしむ。康王之を跨ぎ、霊王は肘を之に加へ、子比・子皙は皆之に遠し。平王幼く、抱かれて其の上にて拝し、紐を圧す。故に康王は長を以て立ち、其の子に至りて之を失ふ。囲は霊王と為り、身に及びて弑せらる。子比は王為ること十余日、子皙は立つを得ず、又倶に誅せらる。四子皆絶えて後無し。唯だ独り棄疾のみ後に立ち、平王と為り、竟に楚の祀を続ぐ。其の神符の如し。初め、子比晋より帰るや、韓宣子叔向に問ひて曰く、「子比其れ済らんか」と。対へて曰く、「就らず」と。宣子曰く、「悪を同じくする相求むること、市賈の如し。何為れぞ就らざる」と。対へて曰く、「好を同じくするもの無し。誰と悪を同じくせん。国を取るに五難有り。寵有りて人無き、一なり。人有りて主無き、二なり。主有りて謀無き、三なり。謀有りて民無き、四なり。民有りて徳無き、五なり。子比晋に在ること十三年、晋・楚の従、通ずる者を聞かず。人無しと謂ふべし。族尽き親叛く。主無しと謂ふべし。釁(すき)無くして動く。謀無しと謂ふべし。羈と為りて世を終ふ。民無しと謂ふべし。亡げて愛徴無し。徳無しと謂ふべし。王虐にして忌まず。子比五難を渉りて以て君を弑す。誰か能く之を済さん。楚国を有つ者は、其れ棄疾か。
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史記 楚世家子反酒を嗜む。従者豎陽穀酒を進めて酔ふ。王怒り、子反を射殺し、遂に兵を罷めて帰る。三十一年、共王卒し、子の康王招立つ。康王立ちて十五年にして卒し、子の員立つ。是を郟敖と為す。康王の寵弟は公子囲・子比・子皙・棄疾なり。郟敖の三年、其の季父康王の弟公子囲を以て令尹と為し、兵事を主らしむ。四年、囲鄭に使ひし、道に王の疾を聞きて還る。十二月己酉、囲入りて王の疾を問ひ、絞りて之を弑し、遂に其の子莫及び平夏を殺す。使ひをして鄭に赴せしむ。伍挙問ひて曰く、「誰か後と為る」と。対へて曰く、「寡大夫囲なり」と。伍挙更めて曰く、「共王の子囲を長と為す」と。子比晋に奔る。而して囲立つ。是を霊王と為す。霊王の三年六月、楚使ひをして晋に告げしめ、諸侯を会せんと欲す。諸侯皆楚に申に会す。伍挙曰く、「昔夏の啓に鈞台の饗有り、商の湯に景亳の命有り、周の武王に盟津の誓ひ有り、成王に岐陽の閒(蒐)有り、康王に豊宮の朝有り、穆王に塗山の会有り、斉の桓に召陵の師有り、晋の文に践土の盟有り。君其れ何をか用ひん」と。霊王曰く、「桓公を用ひん」と。時に鄭の子産焉に在り。是に於て晋・宋・魯・衛往かず。霊王已に盟ひ、驕色有り。伍挙曰く、「桀有仍の会を為して、有緡之に叛く。紂黎山の会を為して、東夷之に叛く。幽王太室の盟を為して、戎・翟之に叛く。君其れ終はりを慎め」と。七月、楚諸侯の兵を以て呉を伐ち、朱方を囲む。八月、之に克ち、慶封を囚へ、其の族を滅ぼす。封を以て徇へて曰く、「斉の慶封の其の君を弑して其の孤を弱くし、以て諸大夫に盟ひしに効ふこと無かれ」と。封反って曰く、「楚の共王の庶子囲の其の君兄の子員を弑して之に代はりて立ちしに如くは莫し」と。是に於て霊王疾(と)く之を殺さしむ。七年、章華台を就し、令を下して亡人を内れて之に実たす。
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史記 楚世家二十七年、三万人をして三晋を助けて燕を伐たしむ。復た秦と平らぎ、而して太子を入れて秦に質たらしむ。楚左徒をして太子に秦に侍せしむ。三十六年、頃襄王病む。太子亡げ帰る。秋、頃襄王卒し、太子熊元代はり立つ。是を考烈王と為す。考烈王左徒を以て令尹と為し、封ずるに呉を以てし、春申君と号す。考烈王の元年、州を秦に納れて以て平らぐ。是の時楚益々弱し。六年、秦邯鄲を囲む。趙急を楚に告ぐ。楚将軍景陽を遣りて趙を救はしむ。七年、新中に至る。秦の兵去る。十二年、秦の昭王卒す。楚王春申君をして秦に弔祠せしむ。十六年、秦の荘襄王卒し、秦王趙政立つ。二十二年、諸侯と共に秦を伐ち、利あらずして去る。楚東のかた都を寿春に徙し、命じて郢と曰ふ。二十五年、考烈王卒し、子の幽王悍立つ。李園春申君を殺す。幽王の三年、秦・魏楚を伐つ。秦の相呂不韋卒す。九年、秦韓を滅ぼす。十年、幽王卒し、同母弟の猶代はり立つ。是を哀王と為す。哀王立ちて二月余、哀王の庶兄負芻の徒哀王を襲殺して負芻を立てて王と為す。是の歳、秦趙王遷を虜にす。王負芻の元年、燕の太子丹荊軻をして秦王を刺さしむ。二年、秦将軍をして楚を伐たしめ、大いに楚の軍を破り、十余城を亡ふ。三年、秦魏を滅ぼす。四年、秦の将王翦我が軍を蘄に破り、而して将軍項燕を殺す。五年、秦の将王翦・蒙武遂に楚国を破り、楚王負芻を虜にし、楚の名を滅ぼして郡と為すと云ふ。太史公曰く、楚の霊王方に諸侯を申に会し、斉の慶封を誅し、章華台を作り、周の九鼎を求むるの時、志は天下を小とす。申亥の家に餓死するに及びて、天下の笑ひと為る。操行の得ざる、悲しいかな。勢ひの人に於けるや、慎まざるべけんや。棄疾乱を以て立ち、秦の女に嬖淫す。甚だしいかな、幾ど再び国を亡ぼさんとす。
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史記 楚世家楚王怒りて曰く、「我を召す。我将に好く往きて襲ひて之を辱めんとす」と。遂に行き、盂に至り、遂に宋公を執へて辱め、已にして之を帰す。三十四年、鄭の文公南のかた楚に朝す。楚の成王北のかた宋を伐ち、之を泓に敗り、宋の襄公を射傷つく。襄公遂に創を病みて死す。三十五年、晋の公子重耳楚を過ぐ。成王諸侯の客礼を以て饗し、而して厚く之を秦に送る。三十九年、魯の僖公来たりて兵を請ひて以て斉を伐たんとす。楚申侯をして兵を将ゐて斉を伐たしめ、穀を取り、斉の桓公の子雍を焉に置く。斉の桓公の七子皆楚に奔る。楚尽く以て上大夫と為す。夔を滅ぼす。夔祝融・鬻熊を祀らざるの故なり。夏、宋を伐つ。宋急を晋に告ぐ。晋宋を救ふ。成王罷めて帰る。将軍子玉戦はんことを請ふ。成王曰く、「重耳亡げて外に居ること久しく、卒に国に反るを得たり。天の開く所なり。当たるべからず」と。子玉固く請ふ。乃ち之に少師を与へて去る。晋果たして子玉を城濮に敗る。成王怒り、子玉を誅す。四十六年、初め、成王将に商臣を以て太子と為さんとし、令尹子上に語る。子上曰く、「君の歯未だし。而して又内寵多し。絀(しりぞ)くれば乃ち乱れん。楚国の挙は常に少き者に在り。且つ商臣は蜂目にして豺声なり。忍人なり。立つべからず」と。王聴かず、之を立つ。後に又子職を立てて太子商臣を絀けんと欲す。商臣聞くも未だ審らかならず。其の傅潘崇に告げて曰く、「何を以て其の実を得ん」と。崇曰く、「王の寵姫江羋を饗して敬する勿かれ」と。商臣之に従ふ。江羋怒りて曰く、「宜なるかな、王の若を殺して職を立てんと欲するや」と。商臣潘崇に告げて曰く、「信なり」と。崇曰く、「能く之に事へんか」と。曰く、「能はず」と。「能く亡げ去らんか」と。曰く、「能はず」と。「能く大事を行はんか」と。曰く、「能くせん」と。冬十月、商臣宮衛の兵を以て成王を囲む。成王熊蹯を食らひて死せんことを請ふも、聴かず。丁未、成王自ら絞殺す。商臣代はり立つ。是を穆王と為す。穆王立ち、其の太子の宮を以て潘崇に予へ、太師と為して、国事を掌らしむ。穆王の三年、江を滅ぼす。四年、六・蓼を滅ぼす。六・蓼は、皋陶の後なり。八年、陳を伐つ。十二年、卒す。子の荘王侶立つ。
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史記 伍子胥列伝始め伍員、申包胥と交はりを為す。員の亡ぐるや、包胥に謂ひて曰く、「我必ず楚を覆さん」と。包胥曰く、「我必ず之を存せん」と。呉兵郢に入るに及び、伍子胥昭王を求む。既に得ず、乃ち楚の平王の墓を掘き、其の尸を出だし、之を鞭つこと三百、然る後已む。申包胥山中に亡げ、人をして子胥に謂はしめて曰く、「子の讎を報ずる、其れ以て甚だしきかな。吾之を聞く、人衆き者は天に勝つも、天定まりて亦た能く人を破る、と。今子は故と平王の臣なり、親しく北面して之に事ふるに、今死人を僇するに至る。此れ豈に其れ天道無きの極みか」と。伍子胥曰く、「我が為に申包胥に謝して曰へ、吾日莫れて途遠し、吾故に倒行して之を逆施せり、と」。是に於いて申包胥秦に走りて急を告げ、救ひを秦に求む。秦許さず。包胥秦の廷に立ちて、昼夜哭し、七日七夜其の声を絶たず。秦の哀公之を憐みて曰く、「楚無道なりと雖も、臣の是の若き有り、存する無かる可けんや」と。乃ち車五百乗を遣して楚を救ひ呉を撃たしむ。六月、呉兵を稷に敗る。会々呉王久しく楚に留まりて昭王を求め、而して闔廬の弟夫概乃ち亡げ帰り、自立して王と為る。闔廬之を聞き、乃ち楚を釈てて帰り、其の弟夫概を撃つ。夫概敗走し、遂に楚に奔る。楚の昭王呉に内乱有るを見、乃ち復た郢に入る。夫概を堂谿に封じ、堂谿氏と為す。楚復た呉と戦ひ、呉を敗り、呉王乃ち帰る。
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