史記 / 楚世家
八年,使公子棄疾將兵滅陳。十年,召蔡侯,醉而殺之。使棄疾定蔡,因爲陳蔡公。十一年,伐徐以恐呉。靈王次於乾豀以待之。王曰:「齊、晉、魯、衞,其封皆受寶器,我獨不。今吾使使周求鼎以爲分,其予我乎?」析父對曰:「其予君王哉!昔我先王熊繹辟在荊山,蓽露藍蔞以處草莽,跋渉山林以事天子,唯是桃弧棘矢以共王事。齊,王舅也;晉及魯、衞,王母弟也:楚是以無分而彼皆有。周今與四國服事君王,將惟命是從,豈敢愛鼎?」靈王曰:「昔我皇祖伯父昆吾舊許是宅,今鄭人貪其田,不我予,今我求之,其予我乎?」對曰:「周不愛鼎,鄭安敢愛田?」靈王曰:「昔諸侯遠我而畏晉,今吾大城陳、蔡、不羹,賦皆千乘,諸侯畏我乎?」對曰:「畏哉!」靈王喜曰:「析父善言古事焉。」十二年春,楚靈王樂乾豀,不能去也。國人苦役。初,靈王會兵於申,僇越大夫常壽過,殺蔡大夫觀起。起子從亡在呉,乃勸呉王伐楚,爲閒越大夫常壽過而作亂,爲呉閒。使矯公子棄疾命召公子比於晉,至蔡,與呉、越兵欲襲蔡。令公子比見棄疾,與盟於鄧。遂入殺靈王太子祿,立子比爲王,公子子皙爲令尹,棄疾爲司馬。先除王宮,觀從從師于乾豀,令楚衆曰:「國有王矣。先歸,復爵邑田室。後者遷之。」
新字:八年,使公子棄疾将兵滅陳。十年,召蔡侯,酔而殺之。使棄疾定蔡,因為陳蔡公。十一年,伐徐以恐呉。霊王次於乾豀以待之。王曰:「斉、晋、魯、衛,其封皆受宝器,我独不。今吾使使周求鼎以為分,其予我乎?」析父対曰:「其予君王哉!昔我先王熊繹辟在荊山,蓽露藍蔞以処草莽,跋渉山林以事天子,唯是桃弧棘矢以共王事。斉,王舅也;晋及魯、衛,王母弟也:楚是以無分而彼皆有。周今与四国服事君王,将惟命是従,豈敢愛鼎?」霊王曰:「昔我皇祖伯父昆吾旧許是宅,今鄭人貪其田,不我予,今我求之,其予我乎?」対曰:「周不愛鼎,鄭安敢愛田?」霊王曰:「昔諸侯遠我而畏晋,今吾大城陳、蔡、不羹,賦皆千乗,諸侯畏我乎?」対曰:「畏哉!」霊王喜曰:「析父善言古事焉。」十二年春,楚霊王楽乾豀,不能去也。国人苦役。初,霊王会兵於申,僇越大夫常寿過,殺蔡大夫観起。起子従亡在呉,乃勧呉王伐楚,為閒越大夫常寿過而作乱,為呉閒。使矯公子棄疾命召公子比於晋,至蔡,与呉、越兵欲襲蔡。令公子比見棄疾,与盟於鄧。遂入殺霊王太子禄,立子比為王,公子子皙為令尹,棄疾為司馬。先除王宮,観従従師于乾豀,令楚衆曰:「国有王矣。先帰,復爵邑田室。後者遷之。」
書き下し
八年、公子棄疾をして兵を将ゐて陳を滅ぼさしむ。十年、蔡侯を召し、酔はしめて之を殺す。棄疾をして蔡を定めしめ、因りて陳蔡公と為す。十一年、徐を伐ちて以て呉を恐れしむ。霊王乾谿に次りて以て之を待つ。王曰く、「斉・晋・魯・衛は、其の封皆宝器を受く。我独り否ず。今吾使ひをして周に鼎を求めて以て分と為さしめば、其れ我に予へんか」と。析父対へて曰く、「其れ君王に予へんかな。昔我が先王熊繹荊山に辟在し、蓽露藍蔞して以て草莽に処り、山林を跋渉して以て天子に事へ、唯だ是の桃弧棘矢を以て王事に共(きょう)す。斉は、王の舅なり。晋及び魯・衛は、王の母弟なり。楚是を以て分無くして彼皆有り。周今四国と君王に服事す。将に惟だ命を是れ従はんとす。豈に敢て鼎を愛しまんや」と。霊王曰く、「昔我が皇祖伯父昆吾旧許に是れ宅す。今鄭人其の田を貪りて、我に予へず。今我之を求めば、其れ我に予へんか」と。対へて曰く、「周鼎を愛しまず。鄭安んぞ敢て田を愛しまん」と。霊王曰く、「昔諸侯我を遠ざけて晋を畏る。今吾大いに陳・蔡・不羹に城き、賦皆千乗なり。諸侯我を畏れんか」と。対へて曰く、「畏れんかな」と。霊王喜びて曰く、「析父善く古事を言ふ」と。十二年春、楚の霊王乾谿を楽しみ、去ること能はず。国人役に苦しむ。初め、霊王兵を申に会し、越の大夫常寿過を僇(はづかし)め、蔡の大夫観起を殺す。起の子従亡げて呉に在り。乃ち呉王に楚を伐たんことを勧め、越の大夫常寿過を間して乱を作さしめ、呉の間と為る。矯りて公子棄疾の命と称して公子比を晋より召さしめ、蔡に至り、呉・越の兵と蔡を襲はんと欲す。公子比をして棄疾に見えしめ、与に鄧に盟ふ。遂に入りて霊王の太子禄を殺し、子比を立てて王と為し、公子子皙を令尹と為し、棄疾を司馬と為す。先づ王宮を除き、観従師に乾谿に従ひ、楚の衆に令して曰く、「国に王有り。先に帰れば、爵邑田室を復す。後るる者は之を遷さん」と。
現代語訳
八年、霊王は公子棄疾に兵を率いさせて陳を滅ぼした。十年、蔡侯を呼び寄せ、酔わせて殺した。そして棄疾に蔡を平定させ、陳と蔡を治める陳蔡公とした。十一年、徐を攻めて呉を威嚇した。霊王は乾谿に陣を構えて待った。王は言った。「斉・晋・魯・衛は、封じられたときにみな宝器を授かった。わが国だけが授からなかった。いま使者を周に送って九鼎を求め、わが国の取り分としたら、周は私に与えるだろうか」。析父は答えた。「きっと君王にお与えになるだろう。昔、わが先王の熊繹は辺鄙な荊山に住み、柴の車に乗りぼろをまとって草むらに暮らし、山林を踏み越えて天子に仕え、桃の木の弓と棘の矢を献上して王の務めに供するだけだった。斉は周王の母方の親族であり、晋や魯・衛は周王の同母の弟の家柄だ。それで楚には取り分がなく、彼らにはあったのだ。いまや周も、この四国とともに君王にお仕えし、ご命令に従おうとしている。どうして鼎を惜しむことがあろう」。霊王は言った。「昔、わが遠い祖先の伯父にあたる昆吾は、旧許の地に住んでいた。いま鄭の人々がその土地を欲しがって、わが国に渡そうとしない。いま私が求めたら、鄭は差し出すだろうか」。析父は答えた。「周でさえ鼎を惜しまないのだから、鄭がどうして土地を惜しめよう」。霊王は言った。「昔、諸侯はわが国を遠ざけて晋を恐れていた。いま私は陳・蔡・不羹に大きな城を築き、それぞれ戦車千乗を出せるようにした。諸侯はわが国を恐れるだろうか」。析父は答えた。「恐れるだろう」。霊王は喜んで言った。「析父は昔のことをよく語ってくれる」。十二年の春、楚の霊王は乾谿での暮らしを楽しみ、離れようとしなかった。国の人々は労役に苦しんだ。これより前、霊王は申で諸侯の兵を集めたとき、越の大夫の常寿過を辱め、蔡の大夫の観起を殺した。観起の子の観従は呉に亡命していたが、呉王に楚を攻めるよう勧め、越の大夫常寿過に働きかけて反乱を起こさせ、呉のための内通者となった。観従は公子棄疾の命令だと偽って公子比を晋から呼び寄せ、蔡に至ると、呉・越の兵とともに蔡を襲おうとした。そして公子比を棄疾に会わせ、鄧で盟約を結ばせた。こうして都に攻め入って霊王の太子の禄を殺し、子比を王に立て、公子子皙を令尹に、棄疾を司馬にした。まず王宮を掃き清め、観従は乾谿の軍中に行き、楚の兵士たちに命じた。「国にはもう新しい王がいる。先に帰った者には元の爵位・領地・田畑・家屋を返してやる。遅れた者は遠くへ移す」。
解説
関連する章句
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史記 楚世家子反酒を嗜む。従者豎陽穀酒を進めて酔ふ。王怒り、子反を射殺し、遂に兵を罷めて帰る。三十一年、共王卒し、子の康王招立つ。康王立ちて十五年にして卒し、子の員立つ。是を郟敖と為す。康王の寵弟は公子囲・子比・子皙・棄疾なり。郟敖の三年、其の季父康王の弟公子囲を以て令尹と為し、兵事を主らしむ。四年、囲鄭に使ひし、道に王の疾を聞きて還る。十二月己酉、囲入りて王の疾を問ひ、絞りて之を弑し、遂に其の子莫及び平夏を殺す。使ひをして鄭に赴せしむ。伍挙問ひて曰く、「誰か後と為る」と。対へて曰く、「寡大夫囲なり」と。伍挙更めて曰く、「共王の子囲を長と為す」と。子比晋に奔る。而して囲立つ。是を霊王と為す。霊王の三年六月、楚使ひをして晋に告げしめ、諸侯を会せんと欲す。諸侯皆楚に申に会す。伍挙曰く、「昔夏の啓に鈞台の饗有り、商の湯に景亳の命有り、周の武王に盟津の誓ひ有り、成王に岐陽の閒(蒐)有り、康王に豊宮の朝有り、穆王に塗山の会有り、斉の桓に召陵の師有り、晋の文に践土の盟有り。君其れ何をか用ひん」と。霊王曰く、「桓公を用ひん」と。時に鄭の子産焉に在り。是に於て晋・宋・魯・衛往かず。霊王已に盟ひ、驕色有り。伍挙曰く、「桀有仍の会を為して、有緡之に叛く。紂黎山の会を為して、東夷之に叛く。幽王太室の盟を為して、戎・翟之に叛く。君其れ終はりを慎め」と。七月、楚諸侯の兵を以て呉を伐ち、朱方を囲む。八月、之に克ち、慶封を囚へ、其の族を滅ぼす。封を以て徇へて曰く、「斉の慶封の其の君を弑して其の孤を弱くし、以て諸大夫に盟ひしに効ふこと無かれ」と。封反って曰く、「楚の共王の庶子囲の其の君兄の子員を弑して之に代はりて立ちしに如くは莫し」と。是に於て霊王疾(と)く之を殺さしむ。七年、章華台を就し、令を下して亡人を内れて之に実たす。
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史記 楚世家楚の衆皆潰え、霊王を去りて帰る。霊王太子禄の死を聞くや、自ら車下に投じて曰く、「人の子を愛するも亦た是の如きか」と。侍者曰く、「甚だ是なり」と。王曰く、「余人の子を殺すこと多し。能く此に及ぶこと無からんや」と。右尹曰く、「請ふ郊に待ちて以て国人を聴かん」と。王曰く、「衆怒は犯すべからず」と。曰く、「且く大県に入りて師を諸侯に乞はん」と。王曰く、「皆叛けり」と。又曰く、「且く諸侯に奔りて以て大国の慮を聴かん」と。王曰く、「大福は再びせず。祗だ辱めを取らんのみ」と。是に於て王舟に乗りて将に鄢に入らんと欲す。右尹王の其の計を用ひざるを度り、倶に死せんことを懼れ、亦た王を去りて亡ぐ。霊王是に於て独り山中に傍偟し、野人敢て王を入るる莫し。王行きて其の故の鋗人に遇ひ、謂ひて曰く、「我が為に食を求めよ。我已に食らはざること三日なり」と。鋗人曰く、「新王法を下す。敢て王に閒(饟)し王に従ふ者有らば、罪三族に及ぶ。且つ又食を得る所無し」と。王因りて其の股を枕にして臥す。鋗人又土を以て自ら代へ、逃げ去る。王覚めて見えず。遂に饑ゑて起つこと能はず。芋尹申無宇の子申亥曰く、「吾が父再び王命を犯すも、王誅せず。恩孰れか焉より大ならん」と。乃ち王を求め、王の釐沢に饑うるに遇ひ、之を奉じて以て帰る。夏五月癸丑、王申亥の家に死す。申亥二女を以て従死せしめ、并せて之を葬る。是の時楚国已に比を立てて王と為すと雖も、霊王の復た来たらんことを畏れ、又霊王の死を聞かず。故に観従初王比に謂ひて曰く、「棄疾を殺さずんば、国を得ると雖も猶ほ禍を受けん」と。王曰く、「余忍びず」と。従曰く、「人将に王に忍ばんとす」と。王聴かず。乃ち去る。棄疾帰る。国人毎夜驚きて曰く、「霊王入れり」と。乙卯の夜、棄疾船人をして江上より走り呼ばしめて曰く、「霊王至れり」と。国人愈々驚く。又曼成然をして初王比及び令尹子皙に告げしめて曰く、「王至れり。国人将に君を殺さんとす。司馬将に至らんとす。君蚤く自ら図れ。辱めを取ること無かれ。
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史記 陳杞世家二十九年、陳楚の盟に倍(そむ)く。三十年、楚の共王陳を伐つ。是の歳、成公卒し、子の哀公弱立つ。楚陳の喪を以て、兵を罷めて去る。哀公の三年、楚陳を囲み、復た之を釈す。二十八年、楚の公子囲其の君郟敖を弑して自立し、霊王と為る。三十四年、初め、哀公鄭に娶る。長姫悼太子師を生み、少姫偃を生む。二嬖妾あり、長妾は留を生み、少妾は勝を生む。留哀公に寵有り、哀公之を其の弟司徒招に属す。哀公病む。三月、招悼太子を殺し、留を立てて太子と為す。哀公怒り、招を誅せんと欲す。招兵を発して哀公を囲み守る。哀公自ら経(くび)れて殺す。招卒に留を立てて陳君と為す。四月、陳使ひをして楚に赴せしむ。楚の霊王陳の乱るるを聞き、乃ち陳の使者を殺し、公子棄疾をして兵を発して陳を伐たしむ。陳君留鄭に奔る。九月、楚陳を囲む。十一月、陳を滅ぼし、棄疾をして陳公と為らしむ。招の悼太子を殺すや、太子の子名は呉、出でて晋に奔る。晋の平公太史趙に問ひて曰く、「陳は遂に亡びんか」と。対へて曰く、「陳は顓頊の族なり。陳氏政を斉に得て、乃ち卒に亡びん。幕より瞽瞍に至るまで、命に違ふこと無し。舜之を重ぬるに明徳を以てす。遂に至るまで、世々之を守る。胡公に及びて、周之に姓を賜ひ、虞帝を祀らしむ。且つ盛徳の後は、必ず百世祀らる。虞の世未だし。其れ斉に在らんか」と。楚の霊王陳を滅ぼして五歳、楚の公子棄疾霊王を弑して代はり立つ。是を平王と為す。平王初めて立ち、諸侯を和するを得んと欲し、乃ち故の陳の悼太子師の子呉を求め、立てて陳侯と為す。是を恵公と為す。恵公立ち、探りて哀公の卒せし時の年に続けて元と為す。空籍五歳なり。十年、陳火あり。十五年、呉王僚公子光をして陳を伐たしめ、胡・沈を取りて去る。二十八年、呉王闔閭子胥と楚を敗りて郢に入る。
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史記 管蔡世家斉の桓公怒りて、蔡を伐つ。蔡潰(つひ)え、遂に繆侯を虜にし、南のかた楚の邵陵に至る。已にして諸侯蔡の為に斉に謝し、斉侯蔡侯を帰す。二十九年、繆侯卒し、子の荘侯果立つ。荘侯の三年、斉の桓公卒す。十四年、晋の文公楚を城濮に敗る。二十年、楚の太子商臣其の父成王を弑して代はり立つ。二十五年、秦の穆公卒す。三十三年、楚の荘王即位す。三十四年、荘侯卒し、子の文侯申立つ。文侯の十四年、楚の荘王陳を伐ち、夏徴舒を殺す。十五年、楚鄭を囲み、鄭楚に降る。楚復た之を醳(ゆる)す。二十年、文侯卒し、子の景侯固立つ。景侯の元年、楚の荘王卒す。四十九年、景侯太子般の為に婦を楚に娶り、而して景侯焉に通ず。太子景侯を弑して自立す。是を霊侯と為す。霊侯の二年、楚の公子囲其の王郟敖を弑して自立し、霊王と為る。九年、陳の司徒招其の君哀公を弑す。楚公子棄疾をして陳を滅ぼして之を有たしむ。十二年、楚の霊王、霊侯の其の父を弑せしを以て、蔡の霊侯を申に誘ひ、甲を伏せて之に飲ましめ、酔はしめて之を殺し、其の士卒七十人を刑す。公子棄疾をして蔡を囲ましむ。十一月、蔡を滅ぼし、棄疾をして蔡公と為らしむ。楚蔡を滅ぼして三歳、楚の公子棄疾其の君霊王を弑して代はり立ち、平王と為る。平王乃ち蔡の景侯の少子廬を求めて之を立つ。是を平侯と為す。是の年、楚も亦た陳を復立す。楚の平王初めて立ち、諸侯に親しまんと欲す。故に復た陳・蔡の後を立つ。平侯九年にして卒し、霊侯般の孫東国、平侯の子を攻めて自立す。是を悼侯と為す。悼侯の父を隠太子友と曰ふ。
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史記 楚世家衆怒は水火の如く、救ふべからざるなり」と。初王及び子皙遂に自殺す。丙辰、棄疾即位して王と為り、名を熊居と改む。是を平王と為す。平王詐りを以て両王を弑して自立す。国人及び諸侯の之に叛かんことを恐れ、乃ち恵みを百姓に施す。陳・蔡の地を復して其の後を立つること故の如くし、鄭の侵地を帰す。国中を存恤し、政教を修む。呉楚の乱るるの故を以て、五率を獲て以て帰る。平王観従に謂ふ、「爾の欲する所を恣にせよ」と。卜尹為らんことを欲す。王之を許す。初め、共王に寵子五人有り。適の立つもの無し。乃ち群神を望祭し、神に請ひて之を決せしめ、社稷を主らしめんとす。而して陰かに巴姫と璧を室内に埋め、五公子を召して斎して入らしむ。康王之を跨ぎ、霊王は肘を之に加へ、子比・子皙は皆之に遠し。平王幼く、抱かれて其の上にて拝し、紐を圧す。故に康王は長を以て立ち、其の子に至りて之を失ふ。囲は霊王と為り、身に及びて弑せらる。子比は王為ること十余日、子皙は立つを得ず、又倶に誅せらる。四子皆絶えて後無し。唯だ独り棄疾のみ後に立ち、平王と為り、竟に楚の祀を続ぐ。其の神符の如し。初め、子比晋より帰るや、韓宣子叔向に問ひて曰く、「子比其れ済らんか」と。対へて曰く、「就らず」と。宣子曰く、「悪を同じくする相求むること、市賈の如し。何為れぞ就らざる」と。対へて曰く、「好を同じくするもの無し。誰と悪を同じくせん。国を取るに五難有り。寵有りて人無き、一なり。人有りて主無き、二なり。主有りて謀無き、三なり。謀有りて民無き、四なり。民有りて徳無き、五なり。子比晋に在ること十三年、晋・楚の従、通ずる者を聞かず。人無しと謂ふべし。族尽き親叛く。主無しと謂ふべし。釁(すき)無くして動く。謀無しと謂ふべし。羈と為りて世を終ふ。民無しと謂ふべし。亡げて愛徴無し。徳無しと謂ふべし。王虐にして忌まず。子比五難を渉りて以て君を弑す。誰か能く之を済さん。楚国を有つ者は、其れ棄疾か。
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史記 管蔡世家隠太子友は、霊侯の太子なり。平侯立ちて隠太子を殺す。故に平侯卒して隠太子の子東国平侯の子を攻めて代はり立つ。是を悼侯と為す。悼侯三年にして卒し、弟の昭侯申立つ。昭侯の十年、楚の昭王に朝し、美裘二を持し、其の一を昭王に献じて自ら其の一を衣る。楚の相子常之を欲するも、与へず。子常蔡侯を讒し、之を楚に留むること三年。蔡侯之を知り、乃ち其の裘を子常に献ず。子常之を受け、乃ち言ひて蔡侯を帰す。蔡侯帰りて晋に之き、晋と楚を伐たんことを請ふ。十三年春、衛の霊公と邵陵に会す。蔡侯私かに周の萇弘に以て衛に長たらんことを求む。衛史をして康叔の功徳を言はしめ、乃ち衛を長とす。夏、晋の為に沈を滅ぼす。楚怒り、蔡を攻む。蔡の昭侯其の子をして呉に質と為らしめ、以て共に楚を伐つ。冬、呉王闔閭と遂に楚を破りて郢に入る。蔡子常を怨む。子常恐れて鄭に奔る。十四年、呉去りて楚の昭王国を復す。十六年、楚の令尹其の民の為に泣きて以て蔡を謀る。蔡の昭侯懼る。二十六年、孔子蔡に如く。楚の昭王蔡を伐つ。蔡恐れ、急を呉に告ぐ。呉蔡の遠きが為に、遷りて以て自ら近づき、相救ふに易からんことを約す。昭侯私かに許し、大夫と計らず。呉人来たりて蔡を救ひ、因りて蔡を州来に遷す。二十八年、昭侯将に呉に朝せんとす。大夫其の復た遷さんことを恐れ、乃ち賊利をして昭侯を殺さしむ。已にして賊利を誅して以て過ちを解き、而して昭侯の子朔を立つ。是を成侯と為す。成侯の四年、宋曹を滅ぼす。十年、斉の田常其の君簡公を弑す。十三年、楚陳を滅ぼす。十九年、成侯卒し、子の声侯産立つ。声侯十五年にして卒し、子の元侯立つ。元侯六年にして卒し、子の侯斉立つ。侯斉の四年、楚の恵王蔡を滅ぼす。蔡侯斉亡げ、蔡遂に祀を絶つ。陳に後るること三十三年なり。
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