史記 / 楚世家
德之休明,雖小必重;其姦回昏亂,雖大必輕。昔成王定鼎于郟鄏,卜世三十,卜年七百,天所命也。周德雖衰,天命未改。鼎之輕重,未可問也。」楚王乃歸。
新字:徳之休明,雖小必重;其姦回昏乱,雖大必軽。昔成王定鼎于郟鄏,卜世三十,卜年七百,天所命也。周徳雖衰,天命未改。鼎之軽重,未可問也。」楚王乃帰。
書き下し
王孫満曰く、「徳の休明なれば、小と雖も必ず重し。其の姦回昏乱なれば、大と雖も必ず軽し。昔成王鼎を郟鄏に定む、世を卜すること三十、年を卜すること七百、天の命ずる所なり。周の徳衰ふと雖も、天命未だ改まらず。鼎の軽重、未だ問ふ可からざるなり」と。楚王乃ち帰る。
現代語訳
王孫満は言った。「徳が美しく明らかであれば、鼎は小さくとも必ず重い。よこしまで乱れていれば、大きくとも必ず軽い。昔、成王は鼎を郟鄏に据えた。占うと、王朝は三十代、年数は七百年と出た。それが天の命じたところである。周の徳は衰えたとはいえ、天命はまだ改まっていない。鼎の軽重は、まだ問える段階ではない」。楚王はそこで引き返した。
解説
「徳が輝いていれば、小さなものでも重い。徳が濁っていれば、大きなものでも軽い」——周の使者・王孫満が、楚の荘王を、堂々と退けた、この名場面の白眉です。天子の権威の象徴である「九鼎」の重さを問い、(暗に、天下を奪う意思を示した)楚の荘王に対し、周の使者・王孫満は、少しも、怯まず、こう、切り返しました。まず、権威の本質を、明快な、対句で、突きつけます。「(その持ち主の)徳が、美しく、輝いているのであれば——(鼎が、たとえ、)小さくとも、それは、必ず、(誰にも動かせぬほど、)重いのです(德之休明、雖小必重)。しかし、(その持ち主が、)よこしまで、道理に背き、暗愚で、乱れているのであれば——(鼎が、たとえ、)大きくとも、それは、必ず、(たやすく運び去られるほど、)軽いのです(其姦回昏亂、雖大必輕)」と。権威の重さ(=それを守り抜く力)は、その器物の、物理的な重さで、決まるのではない。それを持つ者の、徳の、輝きによって、決まるのだ——と。そして、王孫満は、続けます。「かつて、(周の)成王が、この鼎を、郟鄏の地に、定め置いたとき、占いによれば、(周王朝は、)三十代、七百年、続くと、出ました。これは、天が、命じたことなのです。今、周の徳は、(確かに、)衰えて、おりますが——天命は、まだ、改まっては、おりません。ですから——鼎の軽重は、まだ、(あなたが、)問うてよいものでは、ないのです(鼎之輕重、未可問也)」と。この、堂々たる、正論の前に——武力では、圧倒的に優勢であったはずの、楚の荘王は、ついに、何も言えなくなり、(軍を退いて、)帰国したのです。ここに、徳と力についての教訓があります。第一に、権威や、地位、あるいは、事業や組織の「重み(=揺るがなさ)」は、その規模や、外形の大きさで、決まるのではなく——それを担う者の「徳」の、輝きによって、決まるということ(德之休明、雖小必重、其姦回昏亂、雖大必輕)。小さくとも、徳のある組織は、揺るがない。大きくとも、腐った組織は、あっけなく、崩れる。第二に、だからこそ、(規模や、力を、誇るより、)まず、自らの、徳を、磨くこと。徳こそが、真の「重み」を、生む。第三に、そして——圧倒的な力を持つ相手に対しても、(力ではなく、)正論と、道理をもって、堂々と、対峙すれば、(相手が、道理をわきまえた者であるなら、)退かせることが、できるということ(楚王乃歸)。組織や人生で、権威や組織の重みが規模でなく担う者の徳の輝きで決まると知ること、規模や力を誇るよりまず自らの徳を磨くこと、そして圧倒的な力を持つ相手にも正論と道理で堂々と対峙すること——王孫満の「徳の休明なれば小と雖も必ず重し」は、徳が真の重みを生むことを教えます。
この章句が説くこと
楚荘王王孫満徳之休明雖小必重其姦回昏乱雖大必軽重みは規模でなく徳で決まる小さくとも徳あれば揺るがない
関連する章句
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史記 楚世家莊王洛に至り、兵を周の郊に観る。周の定王王孫満をして楚王を労はしむ。楚王鼎の小大軽重を問ふ。対へて曰く、「徳に在りて鼎に在らず」と。莊王曰く、「子九鼎を阻む無かれ。楚国の鉤の喙を折らば、以て九鼎と為すに足る」と。
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史記 楚世家王孫満曰く、「嗚呼、君王其れ之を忘れたるか。昔虞夏の盛んなる、遠方皆至り、金を九牧に貢がしめ、鼎を鋳て物を象り、百物にして之が備へを為し、民をして神姦を知らしむ。桀に乱徳有り、鼎殷に遷り、載祀六百なり。殷の紂暴虐にして、鼎周に遷る。
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『春秋左氏伝』宣公三年 徳に在りて鼎に在らず楚子陸渾の戎を伐ち、遂に雒に至り、兵を周疆に觀す。定王王孫滿をして楚子を勞はしむ。楚子鼎の大小輕重を焉に問ふ。對へて曰く、「德に在りて鼎に在らず。昔夏の方に德有るや、遠方物を圖し、金を九牧に貢ぎ、鼎を鑄て物を象り、百物にして之が備へを為す。民をして神姦を知らしむ、故に民川澤山林に入りて、不若に逢はず、螭魅罔兩、能く之に逢ふ莫し。用って能く上下に協ひ、以って天休を承く。桀昏德有り、鼎商に遷る、載祀六百。商紂暴虐にして、鼎周に遷る。德の休明なれば、小なりと雖も、重きなり。其の姦回昏亂なれば、大なりと雖も、輕きなり。天明德に祚(さいはひ)す、底(いた)り止まる所有り。成王鼎を郟鄏に定む、世を卜すること三十、年を卜すること七百、天の命ずる所なり。周德衰ふと雖も、天命未だ改まらず。鼎の輕重、未だ問ふ可からざるなり」と。
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『塩鉄論』世務篇文學曰く、昔、齊の桓公は內に百姓を附け、外に諸侯を綏んじ、亡を存し絕を接ぐ。而して天下風に從う。其の後、德虧け行い衰う。葵丘の會、振いて之を矜る。叛く者九國。春秋は其の德を崇ばずして力を崇ぶを刺る。故に德に任ずれば、則ち強楚も服を告げ、遠國も召さずして自ら至る。力に任ずれば、則ち近き者も親しまず、小國も附かず。此れ其の效なり。誠に上は三王の昌んなる所以を觀、下は秦の亡ぶ所以を論じ、中は齊桓の興る所以を述べ、武を去りて文を行い、力を廢して德を尚び、關梁を罷め、障塞を除き、仁義を以て之を導かば、則ち北垂に寇虜の憂い無く、中國に干戈の事無からん。
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史記 周本紀定王の元年、楚の荘王陸渾の戎を伐ち、洛に次り、人をして九鼎を問はしむ。王王孫満をして応へて設くるに辞を以てせしむ。楚の兵乃ち去る。十年、楚の荘王鄭を囲む。鄭伯降り、已にして之を復す。十六年、楚の荘王卒す。二十一年、定王崩じ、子簡王夷立つ。簡王の十三年、晋其の君厲公を殺し、子周を周より迎へ、立てて悼公と為す。十四年、簡王崩じ、子霊王泄心立つ。霊王の二十四年、斉の崔杼其の君荘公を弒す。二十七年、霊王崩じ、子景王貴立つ。景王の十八年、后の太子聖にして蚤く卒す。二十年、景王子朝を愛し、之を立てんと欲す。会崩ず。子丐の党与に立つを争ふ。国人長子猛を立てて王と為す。子朝攻めて猛を殺す。猛を悼王と為す。晋人子朝を攻めて丐を立つ。是を敬王と為す。敬王の元年、晋人敬王を入る。子朝自立し、敬王入るを得ず、沢に居る。四年、晋諸侯を率ゐて敬王を周に入る。子朝臣と為り、諸侯周に城く。十六年、子朝の徒復た乱を作し、敬王晋に奔る。十七年、晋の定公遂に敬王を周に入る。三十九年、斉の田常其の君簡公を殺す。四十一年、楚陳を滅ぼす。孔子卒す。四十二年、敬王崩じ、子元王仁立つ。元王八年にして崩じ、子定王介立つ。定王の十六年、三晋智伯を滅ぼし、分かちて其の地を有つ。二十八年、定王崩じ、長子去疾立つ。是を哀王と為す。哀王立つこと三月、弟叔襲ひて哀王を殺して自立す。是を思王と為す。思王立つこと五月、少弟嵬攻めて思王を殺して自立す。是を考王と為す。此の三王は皆定王の子なり。考王十五年にして崩じ、子威烈王午立つ。考王其の弟を河南に封ず。是を桓公と為し、以て周公の官職を続がしむ。
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