史記 / 楚世家
子反嗜酒,從者豎陽穀進酒醉。王怒,射殺子反,遂罷兵歸。三十一年,共王卒,子康王招立。康王立十五年卒,子員立,是爲郟敖。康王寵弟公子圍、子比、子皙、棄疾。郟敖三年,以其季父康王弟公子圍爲令尹,主兵事。四年,圍使鄭,道聞王疾而還。十二月己酉,圍入問王疾,絞而弒之,遂殺其子莫及平夏。使使赴於鄭。伍舉問曰:「誰爲後?」對曰:「寡大夫圍。」伍舉更曰:「共王之子圍爲長。」子比奔晉,而圍立,是爲靈王。靈王三年六月,楚使使告晉,欲會諸侯。諸侯皆會楚于申。伍舉曰:「昔夏啓有鈞臺之饗,商湯有景亳之命,周武王有盟津之誓,成王有岐陽之閒,康王有豐宮之朝,穆王有涂山之會,齊桓有召陵之師,晉文有踐土之盟,君其何用?」靈王曰:「用桓公。」時鄭子産在焉。於是晉、宋、魯、衞不往。靈王已盟,有驕色。伍舉曰:「桀爲有仍之會,有緡叛之。紂爲黎山之會,東夷叛之。幽王爲太室之盟,戎、翟叛之。君其愼終!」七月,楚以諸侯兵伐呉,圍朱方。八月,克之,囚慶封,滅其族。以封徇,曰:「無效齊慶封弒其君而弱其孤,以盟諸大夫!」封反曰:「莫如楚共王庶子圍弒其君兄之子員而代之立!」於是靈王使疾殺之。七年,就章華臺,下令内亡人實之。
新字:子反嗜酒,従者豎陽穀進酒酔。王怒,射殺子反,遂罷兵帰。三十一年,共王卒,子康王招立。康王立十五年卒,子員立,是為郟敖。康王寵弟公子囲、子比、子皙、棄疾。郟敖三年,以其季父康王弟公子囲為令尹,主兵事。四年,囲使鄭,道聞王疾而還。十二月己酉,囲入問王疾,絞而弒之,遂殺其子莫及平夏。使使赴於鄭。伍舉問曰:「誰為後?」対曰:「寡大夫囲。」伍舉更曰:「共王之子囲為長。」子比奔晋,而囲立,是為霊王。霊王三年六月,楚使使告晋,欲会諸侯。諸侯皆会楚于申。伍舉曰:「昔夏啓有鈞台之饗,商湯有景亳之命,周武王有盟津之誓,成王有岐陽之閒,康王有豊宮之朝,穆王有涂山之会,斉桓有召陵之師,晋文有践土之盟,君其何用?」霊王曰:「用桓公。」時鄭子産在焉。於是晋、宋、魯、衛不往。霊王已盟,有驕色。伍舉曰:「桀為有仍之会,有緡叛之。紂為黎山之会,東夷叛之。幽王為太室之盟,戎、翟叛之。君其慎終!」七月,楚以諸侯兵伐呉,囲朱方。八月,克之,囚慶封,滅其族。以封徇,曰:「無効斉慶封弒其君而弱其孤,以盟諸大夫!」封反曰:「莫如楚共王庶子囲弒其君兄之子員而代之立!」於是霊王使疾殺之。七年,就章華台,下令内亡人実之。
書き下し
子反酒を嗜む。従者豎陽穀酒を進めて酔ふ。王怒り、子反を射殺し、遂に兵を罷めて帰る。三十一年、共王卒し、子の康王招立つ。康王立ちて十五年にして卒し、子の員立つ。是を郟敖と為す。康王の寵弟は公子囲・子比・子皙・棄疾なり。郟敖の三年、其の季父康王の弟公子囲を以て令尹と為し、兵事を主らしむ。四年、囲鄭に使ひし、道に王の疾を聞きて還る。十二月己酉、囲入りて王の疾を問ひ、絞りて之を弑し、遂に其の子莫及び平夏を殺す。使ひをして鄭に赴せしむ。伍挙問ひて曰く、「誰か後と為る」と。対へて曰く、「寡大夫囲なり」と。伍挙更めて曰く、「共王の子囲を長と為す」と。子比晋に奔る。而して囲立つ。是を霊王と為す。霊王の三年六月、楚使ひをして晋に告げしめ、諸侯を会せんと欲す。諸侯皆楚に申に会す。伍挙曰く、「昔夏の啓に鈞台の饗有り、商の湯に景亳の命有り、周の武王に盟津の誓ひ有り、成王に岐陽の閒(蒐)有り、康王に豊宮の朝有り、穆王に塗山の会有り、斉の桓に召陵の師有り、晋の文に践土の盟有り。君其れ何をか用ひん」と。霊王曰く、「桓公を用ひん」と。時に鄭の子産焉に在り。是に於て晋・宋・魯・衛往かず。霊王已に盟ひ、驕色有り。伍挙曰く、「桀有仍の会を為して、有緡之に叛く。紂黎山の会を為して、東夷之に叛く。幽王太室の盟を為して、戎・翟之に叛く。君其れ終はりを慎め」と。七月、楚諸侯の兵を以て呉を伐ち、朱方を囲む。八月、之に克ち、慶封を囚へ、其の族を滅ぼす。封を以て徇へて曰く、「斉の慶封の其の君を弑して其の孤を弱くし、以て諸大夫に盟ひしに効ふこと無かれ」と。封反って曰く、「楚の共王の庶子囲の其の君兄の子員を弑して之に代はりて立ちしに如くは莫し」と。是に於て霊王疾(と)く之を殺さしむ。七年、章華台を就し、令を下して亡人を内れて之に実たす。
現代語訳
子反は酒好きで、従者の豎陽穀が酒をすすめたので酔ってしまった。王は怒って子反を射殺し、そのまま兵を引いて帰った。三十一年、共王が亡くなり、子の康王招が立った。康王は在位十五年で亡くなり、子の員が立った。これが郟敖である。康王には寵愛する弟が四人いた。公子囲・子比・子皙・棄疾である。郟敖の三年、叔父で康王の弟の公子囲を令尹とし、軍事を任せた。四年、公子囲は鄭へ使いに行く途中で王の病を聞いて引き返した。十二月己酉の日、公子囲は宮中に入って王の見舞いをするふりをし、首を絞めて殺し、さらに王の子の莫と平夏も殺した。そして使者を鄭に送って王の死を告げさせた。伍挙が使者に尋ねた。「誰が跡を継ぐのか」。使者は答えた。「わが国の大夫の囲だ」。伍挙は言い直させた。「共王の子の囲が年長者として継ぐ、と言うべきだ」。子比は晋に逃れ、公子囲が即位した。これが霊王である。霊王の三年六月、楚は晋に使者を送り、諸侯を集めたいと告げた。諸侯はみな申で楚と会した。伍挙は言った。「昔、夏の啓には鈞台での饗宴があり、殷の湯王には景亳での命令があり、周の武王には盟津での誓いがあり、成王には岐陽での狩りがあり、康王には豊宮での朝見があり、穆王には塗山での会合があり、斉の桓公には召陵での出兵があり、晋の文公には践土での盟約があった。君はどれにならわれるのか」。霊王は言った。「桓公にならおう」。このとき鄭の子産もその場にいた。晋・宋・魯・衛はこの会に来なかった。霊王は盟約を終えると、驕った顔つきを見せた。伍挙は言った。「夏の桀王は有仍で会盟を開いたが、有緡が背いた。殷の紂王は黎山で会盟を開いたが、東夷が背いた。周の幽王は太室で盟約を結んだが、戎や翟が背いた。君は最後まで慎まれよ」。七月、楚は諸侯の兵を率いて呉を攻め、朱方を包囲した。八月、朱方を落とし、慶封を捕らえてその一族を滅ぼした。慶封を引き回してさらし者にし、こう言わせようとした。「斉の慶封のように、君主を殺し、その幼い跡継ぎを弱らせて、大夫たちと盟約を結ぶようなことをまねしてはならない」。ところが慶封は逆にこう言った。「楚の共王の庶子の囲が、君であった兄の子の員を殺して代わりに立ったようなことをまねしてはならない」。そこで霊王は急いで慶封を殺させた。七年、章華台が完成し、命令を下して亡命者を受け入れ、そこに住まわせた。
解説
関連する章句
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史記 楚世家八年、公子棄疾をして兵を将ゐて陳を滅ぼさしむ。十年、蔡侯を召し、酔はしめて之を殺す。棄疾をして蔡を定めしめ、因りて陳蔡公と為す。十一年、徐を伐ちて以て呉を恐れしむ。霊王乾谿に次りて以て之を待つ。王曰く、「斉・晋・魯・衛は、其の封皆宝器を受く。我独り否ず。今吾使ひをして周に鼎を求めて以て分と為さしめば、其れ我に予へんか」と。析父対へて曰く、「其れ君王に予へんかな。昔我が先王熊繹荊山に辟在し、蓽露藍蔞して以て草莽に処り、山林を跋渉して以て天子に事へ、唯だ是の桃弧棘矢を以て王事に共(きょう)す。斉は、王の舅なり。晋及び魯・衛は、王の母弟なり。楚是を以て分無くして彼皆有り。周今四国と君王に服事す。将に惟だ命を是れ従はんとす。豈に敢て鼎を愛しまんや」と。霊王曰く、「昔我が皇祖伯父昆吾旧許に是れ宅す。今鄭人其の田を貪りて、我に予へず。今我之を求めば、其れ我に予へんか」と。対へて曰く、「周鼎を愛しまず。鄭安んぞ敢て田を愛しまん」と。霊王曰く、「昔諸侯我を遠ざけて晋を畏る。今吾大いに陳・蔡・不羹に城き、賦皆千乗なり。諸侯我を畏れんか」と。対へて曰く、「畏れんかな」と。霊王喜びて曰く、「析父善く古事を言ふ」と。十二年春、楚の霊王乾谿を楽しみ、去ること能はず。国人役に苦しむ。初め、霊王兵を申に会し、越の大夫常寿過を僇(はづかし)め、蔡の大夫観起を殺す。起の子従亡げて呉に在り。乃ち呉王に楚を伐たんことを勧め、越の大夫常寿過を間して乱を作さしめ、呉の間と為る。矯りて公子棄疾の命と称して公子比を晋より召さしめ、蔡に至り、呉・越の兵と蔡を襲はんと欲す。公子比をして棄疾に見えしめ、与に鄧に盟ふ。遂に入りて霊王の太子禄を殺し、子比を立てて王と為し、公子子皙を令尹と為し、棄疾を司馬と為す。先づ王宮を除き、観従師に乾谿に従ひ、楚の衆に令して曰く、「国に王有り。先に帰れば、爵邑田室を復す。後るる者は之を遷さん」と。
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史記 楚世家将に戦はんとす。庚寅、昭王軍中に卒す。子閭曰く、「王の病甚だしくして、其の子を捨てて群臣に譲る。臣の王に許す所以は、以て王の意を広めんとてなり。今君王卒す。臣豈に敢て君王の意を忘れんや」と。乃ち子西・子綦と謀り、師を伏せ塗を閉ぢ、越女の子章を迎へて之を立つ。是を恵王と為す。然る後に兵を罷めて帰り、昭王を葬る。恵王の二年、子西故の平王の太子建の子勝を呉より召し、以て巣の大夫と為し、号して白公と曰ふ。白公兵を好みて士に下り、仇に報いんと欲す。六年、白公兵を令尹子西に請ひて鄭を伐たんとす。初め、白公の父建亡げて鄭に在り。鄭之を殺す。白公亡げて呉に走る。子西復た之を召す。故に此を以て鄭を怨み、之を伐たんと欲す。子西許すも未だ為に兵を発せず。八年、晋鄭を伐つ。鄭急を楚に告ぐ。楚子西をして鄭を救はしむ。賂を受けて去る。白公勝怒り、乃ち遂に勇力の死士石乞等と令尹子西・子綦を朝に襲殺し、因りて恵王を劫かし、之を高府に置き、之を弑せんと欲す。恵王の従者屈固王を負ひて亡げて昭王の夫人の宮に走る。白公自立して王と為る。月余にして、会々葉公来たりて楚を救ふ。楚の恵王の徒与に共に白公を攻め、之を殺す。恵王乃ち位に復す。是の歳や、陳を滅ぼして之を県とす。十三年、呉王夫差彊く、斉・晋を陵ぎ、来たりて楚を伐つ。十六年、越呉を滅ぼす。四十二年、楚蔡を滅ぼす。四十四年、楚杞を滅ぼす。秦と平らぐ。是の時越已に呉を滅ぼして江・淮の北を正すこと能はず。楚東のかた侵し、地を広げて泗上に至る。五十七年、恵王卒し、子の簡王中立つ。簡王の元年、北のかた伐ちて莒を滅ぼす。八年、魏の文侯・韓の武子・趙の桓子始めて列して諸侯と為る。二十四年、簡王卒し、子の声王当立つ。声王の六年、盗声王を殺す。子の悼王熊疑立つ。
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史記 楚世家楚の衆皆潰え、霊王を去りて帰る。霊王太子禄の死を聞くや、自ら車下に投じて曰く、「人の子を愛するも亦た是の如きか」と。侍者曰く、「甚だ是なり」と。王曰く、「余人の子を殺すこと多し。能く此に及ぶこと無からんや」と。右尹曰く、「請ふ郊に待ちて以て国人を聴かん」と。王曰く、「衆怒は犯すべからず」と。曰く、「且く大県に入りて師を諸侯に乞はん」と。王曰く、「皆叛けり」と。又曰く、「且く諸侯に奔りて以て大国の慮を聴かん」と。王曰く、「大福は再びせず。祗だ辱めを取らんのみ」と。是に於て王舟に乗りて将に鄢に入らんと欲す。右尹王の其の計を用ひざるを度り、倶に死せんことを懼れ、亦た王を去りて亡ぐ。霊王是に於て独り山中に傍偟し、野人敢て王を入るる莫し。王行きて其の故の鋗人に遇ひ、謂ひて曰く、「我が為に食を求めよ。我已に食らはざること三日なり」と。鋗人曰く、「新王法を下す。敢て王に閒(饟)し王に従ふ者有らば、罪三族に及ぶ。且つ又食を得る所無し」と。王因りて其の股を枕にして臥す。鋗人又土を以て自ら代へ、逃げ去る。王覚めて見えず。遂に饑ゑて起つこと能はず。芋尹申無宇の子申亥曰く、「吾が父再び王命を犯すも、王誅せず。恩孰れか焉より大ならん」と。乃ち王を求め、王の釐沢に饑うるに遇ひ、之を奉じて以て帰る。夏五月癸丑、王申亥の家に死す。申亥二女を以て従死せしめ、并せて之を葬る。是の時楚国已に比を立てて王と為すと雖も、霊王の復た来たらんことを畏れ、又霊王の死を聞かず。故に観従初王比に謂ひて曰く、「棄疾を殺さずんば、国を得ると雖も猶ほ禍を受けん」と。王曰く、「余忍びず」と。従曰く、「人将に王に忍ばんとす」と。王聴かず。乃ち去る。棄疾帰る。国人毎夜驚きて曰く、「霊王入れり」と。乙卯の夜、棄疾船人をして江上より走り呼ばしめて曰く、「霊王至れり」と。国人愈々驚く。又曼成然をして初王比及び令尹子皙に告げしめて曰く、「王至れり。国人将に君を殺さんとす。司馬将に至らんとす。君蚤く自ら図れ。辱めを取ること無かれ。
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史記 陳杞世家二十九年、陳楚の盟に倍(そむ)く。三十年、楚の共王陳を伐つ。是の歳、成公卒し、子の哀公弱立つ。楚陳の喪を以て、兵を罷めて去る。哀公の三年、楚陳を囲み、復た之を釈す。二十八年、楚の公子囲其の君郟敖を弑して自立し、霊王と為る。三十四年、初め、哀公鄭に娶る。長姫悼太子師を生み、少姫偃を生む。二嬖妾あり、長妾は留を生み、少妾は勝を生む。留哀公に寵有り、哀公之を其の弟司徒招に属す。哀公病む。三月、招悼太子を殺し、留を立てて太子と為す。哀公怒り、招を誅せんと欲す。招兵を発して哀公を囲み守る。哀公自ら経(くび)れて殺す。招卒に留を立てて陳君と為す。四月、陳使ひをして楚に赴せしむ。楚の霊王陳の乱るるを聞き、乃ち陳の使者を殺し、公子棄疾をして兵を発して陳を伐たしむ。陳君留鄭に奔る。九月、楚陳を囲む。十一月、陳を滅ぼし、棄疾をして陳公と為らしむ。招の悼太子を殺すや、太子の子名は呉、出でて晋に奔る。晋の平公太史趙に問ひて曰く、「陳は遂に亡びんか」と。対へて曰く、「陳は顓頊の族なり。陳氏政を斉に得て、乃ち卒に亡びん。幕より瞽瞍に至るまで、命に違ふこと無し。舜之を重ぬるに明徳を以てす。遂に至るまで、世々之を守る。胡公に及びて、周之に姓を賜ひ、虞帝を祀らしむ。且つ盛徳の後は、必ず百世祀らる。虞の世未だし。其れ斉に在らんか」と。楚の霊王陳を滅ぼして五歳、楚の公子棄疾霊王を弑して代はり立つ。是を平王と為す。平王初めて立ち、諸侯を和するを得んと欲し、乃ち故の陳の悼太子師の子呉を求め、立てて陳侯と為す。是を恵公と為す。恵公立ち、探りて哀公の卒せし時の年に続けて元と為す。空籍五歳なり。十年、陳火あり。十五年、呉王僚公子光をして陳を伐たしめ、胡・沈を取りて去る。二十八年、呉王闔閭子胥と楚を敗りて郢に入る。
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史記 呉太伯世家七年、楚の公子囲、其の王夾敖を弑して代りて立つ。是れを霊王と為す。十年、楚の霊王、諸侯を会して以て呉の朱方を伐ち、以て斉の慶封を誅す。呉も亦楚を攻め、三邑を取りて去る。十一年、楚、呉を伐ちて雩婁に至る。十二年、楚復た来り伐ち、乾谿に次る。楚の師敗走す。十七年、王余祭卒し、弟余眛立つ。王余眛の二年、楚の公子棄疾、其の君霊王を弑して代りて立つ。四年、王余眛卒し、弟季札に授けんと欲す。季札譲りて、逃げ去る。是に於て呉人曰く、「先王命有り、兄卒すれば弟代りて立ち、必ず季子に致さんと。季子今位を逃る、則ち王余眛後に立つ。今卒す、其の子当に代るべし」と。乃ち王余眛の子僚を立てて王と為す。王僚の二年、公子光、楚を伐ち、敗れて王舟を亡ふ。光懼れ、楚を襲ひ、復た王舟を得て還る。五年、楚の亡臣伍子胥来奔し、公子光之を客とす。公子光とは、王諸樊の子なり。常に以為へらく、吾が父の兄弟四人、当に伝へて季子に至るべし。季子即し国を受けずんば、光の父先に立つ。即し季子に伝へずんば、光当に立つべしと。陰かに賢士を納れ、以て王僚を襲はんと欲す。八年、呉、公子光をして楚を伐たしむ。楚の師を敗り、楚の故の太子建の母を居巣に迎へて以て帰る。因りて北伐し、陳・蔡の師を敗る。九年、公子光、楚を伐ち、居巣・鍾離を抜く。初め、楚の辺邑卑梁氏の処女、呉の辺邑の女と桑を争ひ、二女の家怒りて相滅し、両国の辺邑の長之を聞き、怒りて相攻め、呉の辺邑を滅す。呉王怒り、故に遂に楚を伐ち、両都を取りて去る。伍子胥の初めて呉に奔るや、呉王僚に説くに楚を伐つの利を以てす。公子光曰く、「胥の父兄は楚に僇せらる。自ら其の仇に報いんと欲するのみ。未だ其の利を見ず」と。
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史記 楚世家衆怒は水火の如く、救ふべからざるなり」と。初王及び子皙遂に自殺す。丙辰、棄疾即位して王と為り、名を熊居と改む。是を平王と為す。平王詐りを以て両王を弑して自立す。国人及び諸侯の之に叛かんことを恐れ、乃ち恵みを百姓に施す。陳・蔡の地を復して其の後を立つること故の如くし、鄭の侵地を帰す。国中を存恤し、政教を修む。呉楚の乱るるの故を以て、五率を獲て以て帰る。平王観従に謂ふ、「爾の欲する所を恣にせよ」と。卜尹為らんことを欲す。王之を許す。初め、共王に寵子五人有り。適の立つもの無し。乃ち群神を望祭し、神に請ひて之を決せしめ、社稷を主らしめんとす。而して陰かに巴姫と璧を室内に埋め、五公子を召して斎して入らしむ。康王之を跨ぎ、霊王は肘を之に加へ、子比・子皙は皆之に遠し。平王幼く、抱かれて其の上にて拝し、紐を圧す。故に康王は長を以て立ち、其の子に至りて之を失ふ。囲は霊王と為り、身に及びて弑せらる。子比は王為ること十余日、子皙は立つを得ず、又倶に誅せらる。四子皆絶えて後無し。唯だ独り棄疾のみ後に立ち、平王と為り、竟に楚の祀を続ぐ。其の神符の如し。初め、子比晋より帰るや、韓宣子叔向に問ひて曰く、「子比其れ済らんか」と。対へて曰く、「就らず」と。宣子曰く、「悪を同じくする相求むること、市賈の如し。何為れぞ就らざる」と。対へて曰く、「好を同じくするもの無し。誰と悪を同じくせん。国を取るに五難有り。寵有りて人無き、一なり。人有りて主無き、二なり。主有りて謀無き、三なり。謀有りて民無き、四なり。民有りて徳無き、五なり。子比晋に在ること十三年、晋・楚の従、通ずる者を聞かず。人無しと謂ふべし。族尽き親叛く。主無しと謂ふべし。釁(すき)無くして動く。謀無しと謂ふべし。羈と為りて世を終ふ。民無しと謂ふべし。亡げて愛徴無し。徳無しと謂ふべし。王虐にして忌まず。子比五難を渉りて以て君を弑す。誰か能く之を済さん。楚国を有つ者は、其れ棄疾か。
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