史記 / 楚世家
乃立其長子康爲句亶王,中子紅爲鄂王,少子執疵爲越章王,皆在江上楚蠻之地。及周厲王之時,暴虐,熊渠畏其伐楚,亦去其王。後爲熊毋康,毋康蚤死。熊渠卒,子熊摯紅立。摯紅卒,其弟弒而代立,曰熊延。熊延生熊勇。熊勇六年,而周人作亂,攻厲王,厲王出奔彘。熊勇十年,卒,弟熊嚴爲後。熊嚴十年,卒。有子四人,長子伯霜,中子仲雪,次子叔堪,少子季徇。熊嚴卒,長子伯霜代立,是爲熊霜。熊霜元年,周宣王初立。熊霜六年,卒,三弟爭立。仲雪死;叔堪亡,避難於濮;而少弟季徇立,是爲熊徇。熊徇十六年,鄭桓公初封於鄭。二十二年,熊徇卒,子熊咢立。熊咢九年,卒,子熊儀立,是爲若敖。若敖二十年,周幽王爲犬戎所弒,周東徙,而秦襄公始列爲諸侯。二十七年,若敖卒,子熊坎立,是爲霄敖。霄敖六年,卒,子熊眴立,是爲蚡冒。蚡冒十三年,晉始亂,以曲沃之故。蚡冒十七年,卒。蚡冒弟熊通弒蚡冒子而代立,是爲楚武王。武王十七年,晉之曲沃莊伯弒主國晉孝侯。十九年,鄭伯弟段作亂。二十一年,鄭侵天子之田。二十三年,衞弒其君桓公。二十九年,魯弒其君隱公。三十一年,宋太宰華督弒其君殤公。三十五年,楚伐隨。隨曰:「我無罪。」楚曰:「我蠻夷也。
新字:乃立其長子康為句亶王,中子紅為鄂王,少子執疵為越章王,皆在江上楚蠻之地。及周厲王之時,暴虐,熊渠畏其伐楚,亦去其王。後為熊毋康,毋康蚤死。熊渠卒,子熊摯紅立。摯紅卒,其弟弒而代立,曰熊延。熊延生熊勇。熊勇六年,而周人作乱,攻厲王,厲王出奔彘。熊勇十年,卒,弟熊厳為後。熊厳十年,卒。有子四人,長子伯霜,中子仲雪,次子叔堪,少子季徇。熊厳卒,長子伯霜代立,是為熊霜。熊霜元年,周宣王初立。熊霜六年,卒,三弟争立。仲雪死;叔堪亡,避難於濮;而少弟季徇立,是為熊徇。熊徇十六年,鄭桓公初封於鄭。二十二年,熊徇卒,子熊咢立。熊咢九年,卒,子熊儀立,是為若敖。若敖二十年,周幽王為犬戎所弒,周東徙,而秦襄公始列為諸侯。二十七年,若敖卒,子熊坎立,是為霄敖。霄敖六年,卒,子熊眴立,是為蚡冒。蚡冒十三年,晋始乱,以曲沃之故。蚡冒十七年,卒。蚡冒弟熊通弒蚡冒子而代立,是為楚武王。武王十七年,晋之曲沃荘伯弒主国晋孝侯。十九年,鄭伯弟段作乱。二十一年,鄭侵天子之田。二十三年,衛弒其君桓公。二十九年,魯弒其君隠公。三十一年,宋太宰華督弒其君殤公。三十五年,楚伐随。随曰:「我無罪。」楚曰:「我蠻夷也。
書き下し
乃ち其の長子康を立てて句亶王と為し、中子紅を鄂王と為し、少子執疵を越章王と為す。皆江上の楚蛮の地に在り。周の厲王の時に及び、暴虐なり。熊渠其の楚を伐たんことを畏れ、亦た其の王を去る。後に熊毋康と為る。毋康蚤く死す。熊渠卒し、子の熊摯紅立つ。摯紅卒し、其の弟弑して代はり立つ。熊延と曰ふ。熊延熊勇を生む。熊勇の六年、周人乱を作し、厲王を攻む。厲王出でて彘に奔る。熊勇の十年、卒し、弟の熊厳後と為る。熊厳の十年、卒す。子四人有り。長子は伯霜、中子は仲雪、次子は叔堪、少子は季徇なり。熊厳卒し、長子伯霜代はり立つ。是を熊霜と為す。熊霜の元年、周の宣王初めて立つ。熊霜の六年、卒す。三弟立つを争ふ。仲雪死し、叔堪亡げて、難を濮に避く。而して少弟季徇立つ。是を熊徇と為す。熊徇の十六年、鄭の桓公初めて鄭に封ぜらる。二十二年、熊徇卒し、子の熊咢立つ。熊咢の九年、卒し、子の熊儀立つ。是を若敖と為す。若敖の二十年、周の幽王犬戎の弑する所と為り、周東に徙る。而して秦の襄公始めて列して諸侯と為る。二十七年、若敖卒し、子の熊坎立つ。是を霄敖と為す。霄敖の六年、卒し、子の熊眴立つ。是を蚡冒と為す。蚡冒の十三年、晋始めて乱る。曲沃の故を以てなり。蚡冒の十七年、卒す。蚡冒の弟熊通蚡冒の子を弑して代はり立つ。是を楚の武王と為す。武王の十七年、晋の曲沃の荘伯主国の晋の孝侯を弑す。十九年、鄭伯の弟段乱を作す。二十一年、鄭天子の田を侵す。二十三年、衛其の君桓公を弑す。二十九年、魯其の君隠公を弑す。三十一年、宋の太宰華督其の君殤公を弑す。三十五年、楚随を伐つ。随曰く、「我罪無し」と。楚曰く、「我は蛮夷なり。
現代語訳
そこで熊渠は長子の康を句亶王に、次子の紅を鄂王に、末子の執疵を越章王に立てた。いずれも長江沿いの楚の蛮地にあった。周の厲王の時代になると、厲王は暴虐であったので、熊渠は厲王が楚を攻めてくることを恐れ、子たちの王号を取り下げた。その後、長子は熊毋康となったが、毋康は早くに亡くなった。熊渠が亡くなり、子の熊摯紅が立った。摯紅が亡くなると、その弟が(跡継ぎを)殺して代わりに立った。これを熊延という。熊延は熊勇を生んだ。熊勇の六年、周の人々が反乱を起こして厲王を攻め、厲王は国を出て彘に逃れた。熊勇は在位十年で亡くなり、弟の熊厳が後を継いだ。熊厳は在位十年で亡くなった。熊厳には四人の子がいた。長子は伯霜、次子は仲雪、三男は叔堪、末子は季徇である。熊厳が亡くなると、長子の伯霜が代わって立った。これが熊霜である。熊霜の元年、周の宣王が即位した。熊霜は在位六年で亡くなり、三人の弟が位を争った。仲雪は死に、叔堪は逃れて濮に難を避け、末弟の季徇が立った。これが熊徇である。熊徇の十六年、鄭の桓公が初めて鄭に封じられた。二十二年、熊徇が亡くなり、子の熊咢が立った。熊咢は在位九年で亡くなり、子の熊儀が立った。これが若敖である。若敖の二十年、周の幽王が犬戎に殺され、周は東へ都を移し、秦の襄公が初めて諸侯に列せられた。二十七年、若敖が亡くなり、子の熊坎が立った。これが霄敖である。霄敖は在位六年で亡くなり、子の熊眴が立った。これが蚡冒である。蚡冒の十三年、晋が乱れ始めた。曲沃の分家のためである。蚡冒は在位十七年で亡くなった。蚡冒の弟の熊通が蚡冒の子を殺して代わりに立った。これが楚の武王である。武王の十七年、晋の曲沃の荘伯が本家の晋の孝侯を殺した。十九年、鄭伯の弟の段が乱を起こした。二十一年、鄭が天子の領地を侵した。二十三年、衛がその君の桓公を殺した。二十九年、魯がその君の隠公を殺した。三十一年、宋の太宰の華督がその君の殤公を殺した。三十五年、楚が随を攻めた。随は言った。「わが国には罪はない」。楚は言った。「我々は蛮夷だ。
解説
関連する章句
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史記 楚世家今諸侯皆叛きて相侵し、或いは相殺すを為す。我に敝甲有り。以て中国の政を観んと欲す。王室に請ひて吾が号を尊ばしめよ」と。随人之が為に周に之き、楚を尊ばんことを請ふ。王室聴かず。還りて楚に報ず。三十七年、楚の熊通怒りて曰く、「吾が先鬻熊は、文王の師なり。蚤く終はる。成王我が先公を挙げ、乃ち子男の田を以て楚に居らしむ。蛮夷皆率ゐて服す。而るに王位を加へず。我自ら尊くせんのみ」と。乃ち自ら立ちて武王と為り、随人と盟ひて去る。是に於て始めて濮の地を開きて之を有つ。五十一年、周随侯を召し、数(せ)むるに楚を立てて王と為すを以てす。楚怒り、随の己に背くを以て、随を伐つ。武王師中に卒して兵罷む。子の文王熊貲立ち、始めて郢に都す。文王の二年、申を伐ちて鄧を過ぐ。鄧人曰く「楚王取り易し」と。鄧侯許さざるなり。六年、蔡を伐ち、蔡の哀侯を虜にして以て帰り、已にして之を釈す。楚彊く、江漢の間の小国を陵ぎ、小国皆之を畏る。十一年、斉の桓公始めて覇たり。楚も亦た始めて大なり。十二年、鄧を伐ちて、之を滅ぼす。十三年、卒し、子の熊艱立つ。是を荘敖と為す。荘敖の五年、其の弟熊惲を殺さんと欲す。惲随に奔り、随と荘敖を襲弑して代はり立つ。是を成王と為す。成王惲の元年、初めて即位し、徳を布き恵みを施し、旧好を諸侯に結ぶ。人をして天子に献ぜしむ。天子胙を賜ひて曰く、「爾の南方の夷越の乱を鎮め、中国を侵すこと無かれ」と。是に於て楚の地千里なり。十六年、斉の桓公兵を以て楚を侵し、陘山に至る。楚の成王将軍屈完をして兵を以て之を御せしめ、桓公と盟ふ。桓公数むるに周の賦の王室に入らざるを以てす。楚之を許す。乃ち去る。十八年、成王兵を以て北のかた許を伐つ。許君肉袒して謝す。乃ち之を釈す。二十二年、黄を伐つ。二十六年、英を滅ぼす。三十三年、宋の襄公盟会を為さんと欲し、楚を召す。
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史記 楚世家楚の先祖は帝顓頊高陽より出づ。高陽は、黄帝の孫にして、昌意の子なり。高陽称を生み、称巻章を生み、巻章重黎を生む。重黎帝嚳高辛の為に火正に居り、甚だ功有り、能く天下を光融す。帝嚳命じて祝融と曰ふ。共工氏乱を作す。帝嚳重黎をして之を誅せしむるも尽くさず。帝乃ち庚寅の日を以て重黎を誅し、而して其の弟呉回を以て重黎の後と為し、復た火正に居らしめ、祝融と為す。呉回陸終を生む。陸終子六人を生む。坼剖して産む。其の長の一を昆吾と曰ひ、二を参胡と曰ひ、三を彭祖と曰ひ、四を会人と曰ひ、五を曹姓と曰ひ、六を季連と曰ふ。羋姓にして、楚は其の後なり。昆吾氏は、夏の時嘗て侯伯と為り、桀の時湯之を滅ぼす。彭祖氏は、殷の時嘗て侯伯と為り、殷の末世彭祖氏を滅ぼす。季連附沮を生み、附沮穴熊を生む。其の後中ごろ微にして、或いは中国に在り、或いは蛮夷に在り、其の世を紀すこと能はず。周の文王の時、季連の苗裔を鬻熊と曰ふ。鬻熊は子のごとく文王に事へ、蚤く卒す。其の子を熊麗と曰ふ。熊麗熊狂を生み、熊狂熊繹を生む。熊繹は周の成王の時に当たり、文・武の勤労の後嗣を挙げて、熊繹を楚蛮に封じ、封ずるに子男の田を以てし、姓は羋氏、丹陽に居る。楚子熊繹は魯公伯禽・衛の康叔の子牟・晋侯燮・斉の太公の子呂伋と倶に成王に事ふ。熊繹熊艾を生み、熊艾熊亶を生み、熊亶熊勝を生む。熊勝弟熊楊を以て後と為す。熊楊熊渠を生む。熊渠子三年を生む。周の夷王の時に当たり、王室微にして、諸侯或いは朝せず、相伐つ。熊渠甚だ江漢の間の民の和を得、乃ち兵を興して庸・楊蠆を伐ち、鄂に至る。熊渠曰く、「我は蛮夷なり。中国の号諡に与らず」と。
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史記 楚世家将に戦はんとす。庚寅、昭王軍中に卒す。子閭曰く、「王の病甚だしくして、其の子を捨てて群臣に譲る。臣の王に許す所以は、以て王の意を広めんとてなり。今君王卒す。臣豈に敢て君王の意を忘れんや」と。乃ち子西・子綦と謀り、師を伏せ塗を閉ぢ、越女の子章を迎へて之を立つ。是を恵王と為す。然る後に兵を罷めて帰り、昭王を葬る。恵王の二年、子西故の平王の太子建の子勝を呉より召し、以て巣の大夫と為し、号して白公と曰ふ。白公兵を好みて士に下り、仇に報いんと欲す。六年、白公兵を令尹子西に請ひて鄭を伐たんとす。初め、白公の父建亡げて鄭に在り。鄭之を殺す。白公亡げて呉に走る。子西復た之を召す。故に此を以て鄭を怨み、之を伐たんと欲す。子西許すも未だ為に兵を発せず。八年、晋鄭を伐つ。鄭急を楚に告ぐ。楚子西をして鄭を救はしむ。賂を受けて去る。白公勝怒り、乃ち遂に勇力の死士石乞等と令尹子西・子綦を朝に襲殺し、因りて恵王を劫かし、之を高府に置き、之を弑せんと欲す。恵王の従者屈固王を負ひて亡げて昭王の夫人の宮に走る。白公自立して王と為る。月余にして、会々葉公来たりて楚を救ふ。楚の恵王の徒与に共に白公を攻め、之を殺す。恵王乃ち位に復す。是の歳や、陳を滅ぼして之を県とす。十三年、呉王夫差彊く、斉・晋を陵ぎ、来たりて楚を伐つ。十六年、越呉を滅ぼす。四十二年、楚蔡を滅ぼす。四十四年、楚杞を滅ぼす。秦と平らぐ。是の時越已に呉を滅ぼして江・淮の北を正すこと能はず。楚東のかた侵し、地を広げて泗上に至る。五十七年、恵王卒し、子の簡王中立つ。簡王の元年、北のかた伐ちて莒を滅ぼす。八年、魏の文侯・韓の武子・趙の桓子始めて列して諸侯と為る。二十四年、簡王卒し、子の声王当立つ。声王の六年、盗声王を殺す。子の悼王熊疑立つ。
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史記 楚世家悼王の二年、三晋来たりて楚を伐ち、乗丘に至りて還る。四年、楚周を伐つ。鄭子陽を殺す。九年、韓を伐ち、負黍を取る。十一年、三晋楚を伐ち、我を大梁・楡関に敗る。楚厚く秦に賂ひ、之と平らぐ。二十一年、悼王卒し、子の粛王臧立つ。粛王の四年、蜀楚を伐ち、茲方を取る。是に於て楚捍関を為りて以て之を距ぐ。十年、魏我が魯陽を取る。十一年、粛王卒す。子無し。其の弟熊良夫を立つ。是を宣王と為す。宣王の六年、周の天子秦の献公を賀す。秦始めて復た彊く、而して三晋益々大なり。魏の恵王・斉の威王尤も彊し。三十年、秦衛鞅を商に封じ、南のかた楚を侵す。是の年、宣王卒し、子の威王熊商立つ。威王の六年、周の顕王文武の胙を秦の恵王に致す。七年、斉の孟嘗君の父田嬰楚を欺く。楚の威王斉を伐ち、之を徐州に敗り、而して斉をして必ず田嬰を逐はしめんとす。田嬰恐る。張丑偽りて楚王に謂ひて曰く、「王の徐州に戦勝せし所以の者は、田盻子用ひられざればなり。盻子は、国に功有りて、百姓之が用を為す。嬰子善からずして申紀を用ふ。申紀は、大臣附かず、百姓用を為さず。故に王之に勝てり。今王嬰子を逐はば、嬰子逐はれて、盻子必ず用ひられん。復た其の士卒を搏めて以て王と遇はば、必ず王に便ならざらん」と。楚王因りて逐はざるなり。十一年、威王卒し、子の懐王熊槐立つ。魏楚の喪を聞き、楚を伐ち、我が陘山を取る。懐王の元年、張儀始めて秦の恵王に相たり。四年、秦の恵王初めて王と称す。六年、楚柱国昭陽をして兵を将ゐて魏を攻めしめ、之を襄陵に破り、八邑を得たり。又兵を移して斉を攻む。斉王之を患ふ。陳軫適々秦の為に斉に使ひす。斉王曰く、「之を為すこと奈何」と。陳軫曰く、「王憂ふること勿かれ。請ふ之を罷めしめん」と。
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史記 陳杞世家此に在らずして、其れ異国に在らんか。此の其の身に非ずして、其の子孫に在らん。若し異国に在らば、必ず姜姓ならん。姜姓は太嶽の後なり。物は能く両ながら大なること莫し。陳衰へなば、此れ其れ昌えんか」と。厲公蔡の女を取る。蔡の女蔡人と乱す。厲公数々蔡に如きて淫す。七年、厲公の殺す所の桓公の太子免の三弟、長を躍と曰ひ、中を林と曰ひ、少を杵臼と曰ふ。共に蔡人をして厲公を誘ふに好女を以てせしめ、蔡人と共に厲公を殺して躍を立つ。是を利公と為す。利公は、桓公の子なり。利公立ちて五月にして卒し、中弟の林を立つ。是を荘公と為す。荘公七年にして卒し、少弟の杵臼立つ。是を宣公と為す。宣公の三年、楚の武王卒し、楚始めて彊し。十七年、周の恵王陳の女を娶りて后と為す。二十一年、宣公後に嬖姫有りて子款を生む。之を立てんと欲し、乃ち其の太子御寇を殺す。御寇素より厲公の子完を愛す。完禍の己に及ばんことを懼れ、乃ち斉に奔る。斉の桓公陳完をして卿為らしめんと欲す。完曰く、「羈旅の臣、幸ひに負檐(ふたん)を免るるを得たるは、君の恵みなり。敢て高位に当たらず」と。桓公工正と為さしむ。斉の懿仲陳の敬仲に妻せんと欲し、之を卜す。占に曰く、「是れ鳳皇于に飛び、和鳴鏘鏘たりと謂ふ。有媯の後、将に姜に育たんとす。五世にして其れ昌え、正卿に并ぶ。八世の後、之と京(おほい)なるもの莫し」と。三十七年、斉の桓公蔡を伐ち、蔡敗る。南のかた楚を侵し、召陵に至り、還りて陳を過ぐ。陳の大夫轅濤塗其の陳を過ぐるを悪み、斉を詐りて東道に出でしむ。東道悪しく、桓公怒り、陳の轅濤塗を執ふ。是の歳、晋の献公其の太子申生を殺す。四十五年、宣公卒し、子の款立つ。是を穆公と為す。穆公の五年、斉の桓公卒す。十六年、晋の文公楚の師を城濮に敗る。是の歳、穆公卒し、子の共公朔立つ。共公の六年、楚の太子商臣其の父成王を弑して代はり立つ。是を穆王と為す。十一年、秦の穆公卒す。十八年、共公卒し、子の霊公平国立つ。霊公の元年、楚の荘王即位す。六年、楚陳を伐つ。十年、陳楚と平らぐ。
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史記 楚世家楚王怒りて曰く、「我を召す。我将に好く往きて襲ひて之を辱めんとす」と。遂に行き、盂に至り、遂に宋公を執へて辱め、已にして之を帰す。三十四年、鄭の文公南のかた楚に朝す。楚の成王北のかた宋を伐ち、之を泓に敗り、宋の襄公を射傷つく。襄公遂に創を病みて死す。三十五年、晋の公子重耳楚を過ぐ。成王諸侯の客礼を以て饗し、而して厚く之を秦に送る。三十九年、魯の僖公来たりて兵を請ひて以て斉を伐たんとす。楚申侯をして兵を将ゐて斉を伐たしめ、穀を取り、斉の桓公の子雍を焉に置く。斉の桓公の七子皆楚に奔る。楚尽く以て上大夫と為す。夔を滅ぼす。夔祝融・鬻熊を祀らざるの故なり。夏、宋を伐つ。宋急を晋に告ぐ。晋宋を救ふ。成王罷めて帰る。将軍子玉戦はんことを請ふ。成王曰く、「重耳亡げて外に居ること久しく、卒に国に反るを得たり。天の開く所なり。当たるべからず」と。子玉固く請ふ。乃ち之に少師を与へて去る。晋果たして子玉を城濮に敗る。成王怒り、子玉を誅す。四十六年、初め、成王将に商臣を以て太子と為さんとし、令尹子上に語る。子上曰く、「君の歯未だし。而して又内寵多し。絀(しりぞ)くれば乃ち乱れん。楚国の挙は常に少き者に在り。且つ商臣は蜂目にして豺声なり。忍人なり。立つべからず」と。王聴かず、之を立つ。後に又子職を立てて太子商臣を絀けんと欲す。商臣聞くも未だ審らかならず。其の傅潘崇に告げて曰く、「何を以て其の実を得ん」と。崇曰く、「王の寵姫江羋を饗して敬する勿かれ」と。商臣之に従ふ。江羋怒りて曰く、「宜なるかな、王の若を殺して職を立てんと欲するや」と。商臣潘崇に告げて曰く、「信なり」と。崇曰く、「能く之に事へんか」と。曰く、「能はず」と。「能く亡げ去らんか」と。曰く、「能はず」と。「能く大事を行はんか」と。曰く、「能くせん」と。冬十月、商臣宮衛の兵を以て成王を囲む。成王熊蹯を食らひて死せんことを請ふも、聴かず。丁未、成王自ら絞殺す。商臣代はり立つ。是を穆王と為す。穆王立ち、其の太子の宮を以て潘崇に予へ、太師と為して、国事を掌らしむ。穆王の三年、江を滅ぼす。四年、六・蓼を滅ぼす。六・蓼は、皋陶の後なり。八年、陳を伐つ。十二年、卒す。子の荘王侶立つ。
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