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史記 / 晋世家

季平子私賂范獻子,獻子受之,乃謂晉君曰:「季氏無罪。」不果入魯君。十二年,晉之宗家祁傒孫,叔向子,相惡於君。六卿欲弱公室,乃遂以法盡滅其族。而分其邑爲十縣,各令其子爲大夫。晉益弱,六卿皆大。十四年,頃公卒,子定公午立。定公十一年,魯陽虎奔晉,趙鞅簡子捨之。十二年,孔子相魯。十五年,趙鞅使邯鄲大夫午,不信,欲殺午,午與中行寅、范吉射親攻趙鞅,鞅走保晉陽。定公圍晉陽。荀櫟、韓不信、魏侈與范、中行爲仇,乃移兵伐范、中行。范、中行反,晉君撃之,敗范、中行。范、中行走朝歌,保之。韓、魏爲趙鞅謝晉君,乃赦趙鞅,復位。二十二年,晉敗范、中行氏,二子奔齊。三十年,定公與呉王夫差會黃池,爭長,趙鞅時從,卒長呉。三十一年,齊田常弒其君簡公,而立簡公弟驁爲平公。三十三年,孔子卒。三十七年,定公卒,子出公鑿立。出公十七年,知伯與趙、韓、魏共分范、中行地以爲邑。出公怒,告齊、魯,欲以伐四卿。四卿恐,遂反攻出公。出公奔齊,道死。故知伯乃立昭公曾孫驕爲晉君,是爲哀公。哀公大父雍,晉昭公少子也,號爲戴子。戴子生忌。忌善知伯,蚤死,故知伯欲盡并晉,未敢,乃立忌子驕爲君。

新字:季平子私賂范献子,献子受之,乃謂晋君曰:「季氏無罪。」不果入魯君。十二年,晋之宗家祁傒孫,叔向子,相悪於君。六卿欲弱公室,乃遂以法尽滅其族。而分其邑為十県,各令其子為大夫。晋益弱,六卿皆大。十四年,頃公卒,子定公午立。定公十一年,魯陽虎奔晋,趙鞅簡子捨之。十二年,孔子相魯。十五年,趙鞅使邯鄲大夫午,不信,欲殺午,午与中行寅、范吉射親攻趙鞅,鞅走保晋陽。定公囲晋陽。荀櫟、韓不信、魏侈与范、中行為仇,乃移兵伐范、中行。范、中行反,晋君撃之,敗范、中行。范、中行走朝歌,保之。韓、魏為趙鞅謝晋君,乃赦趙鞅,復位。二十二年,晋敗范、中行氏,二子奔斉。三十年,定公与呉王夫差会黄池,争長,趙鞅時従,卒長呉。三十一年,斉田常弒其君簡公,而立簡公弟驁為平公。三十三年,孔子卒。三十七年,定公卒,子出公鑿立。出公十七年,知伯与趙、韓、魏共分范、中行地以為邑。出公怒,告斉、魯,欲以伐四卿。四卿恐,遂反攻出公。出公奔斉,道死。故知伯乃立昭公曽孫驕為晋君,是為哀公。哀公大父雍,晋昭公少子也,号為戴子。戴子生忌。忌善知伯,蚤死,故知伯欲尽并晋,未敢,乃立忌子驕為君。

書き下し

季平子私かに范献子に賂ふ。献子之を受け、乃ち晋君に謂ひて曰く、「季氏罪無し」と。果たして魯君を入れず。十二年、晋の宗家祁傒の孫、叔向の子、君に相悪しとせらる。六卿公室を弱めんと欲し、乃ち遂に法を以て尽く其の族を滅ぼす。而して其の邑を分かちて十県と為し、各々其の子をして大夫と為らしむ。晋益々弱く、六卿皆大なり。十四年、頃公卒し、子の定公午立つ。定公の十一年、魯の陽虎晋に奔る。趙鞅簡子之を捨(やど)す。十二年、孔子魯に相たり。十五年、趙鞅邯鄲の大夫午に使ふも、信ならず、午を殺さんと欲す。午中行寅・范吉射と親ら趙鞅を攻む。鞅走りて晋陽を保つ。定公晋陽を囲む。荀櫟・韓不信・魏侈范・中行と仇為り。乃ち兵を移して范・中行を伐つ。范・中行反す。晋君之を撃ち、范・中行を敗る。范・中行朝歌に走り、之を保つ。韓・魏趙鞅の為に晋君に謝す。乃ち趙鞅を赦し、位に復す。二十二年、晋范・中行氏を敗り、二子斉に奔る。三十年、定公呉王夫差と黄池に会し、長を争ふ。趙鞅時に従ひ、卒に呉を長とす。三十一年、斉の田常其の君簡公を弑し、而して簡公の弟驁を立てて平公と為す。三十三年、孔子卒す。三十七年、定公卒し、子の出公鑿立つ。出公の十七年、知伯趙・韓・魏と共に范・中行の地を分かちて以て邑と為す。出公怒り、斉・魯に告げ、以て四卿を伐たんと欲す。四卿恐れ、遂に反って出公を攻む。出公斉に奔り、道に死す。故に知伯乃ち昭公の曾孫驕を立てて晋君と為す。是を哀公と為す。哀公の大父雍は、晋の昭公の少子なり。号して戴子と為す。戴子忌を生む。忌知伯に善し。蚤く死す。故に知伯尽く晋を并せんと欲するも、未だ敢てせず。乃ち忌の子驕を立てて君と為す。

現代語訳

季平子はひそかに范献子に賄賂を贈った。范献子はそれを受け取ると、晋君に言った。「季氏に罪はない」。こうして結局、魯の君主を帰国させなかった。十二年、晋の公族である祁傒の孫と叔向の子が、君主に憎まれた。六卿は公室を弱めようとして、法を口実にその一族をことごとく滅ぼした。そしてその領地を分けて十の県とし、それぞれ自分たちの子を大夫にした。晋はますます弱くなり、六卿はみな強大になった。十四年、頃公が亡くなり、子の定公午が立った。定公の十一年、魯の陽虎が晋に亡命してきた。趙鞅(簡子)が陽虎をかくまった。十二年、孔子が魯の宰相となった。十五年、趙鞅は邯鄲の大夫の午に命令を下したが、午が約束を守らなかったので、午を殺そうとした。午は中行寅・范吉射と組んで自ら趙鞅を攻めた。趙鞅は逃れて晋陽に立てこもった。定公は晋陽を包囲した。荀櫟・韓不信・魏侈は范氏・中行氏と仇同士であったので、兵を転じて范氏・中行氏を攻めた。范氏・中行氏は反乱を起こし、晋君はこれを撃って范氏・中行氏を破った。范氏・中行氏は朝歌に逃れて立てこもった。韓氏と魏氏は趙鞅のために晋君に詫び、晋君は趙鞅を許して元の地位に戻した。二十二年、晋は范氏・中行氏を破り、二人は斉に逃れた。三十年、定公は呉王夫差と黄池で会合し、盟主の座を争った。趙鞅がそのとき付き従っていたが、最終的には呉を上位とした。三十一年、斉の田常がその君の簡公を殺し、簡公の弟の驁を立てて平公とした。三十三年、孔子が亡くなった。三十七年、定公が亡くなり、子の出公鑿が立った。出公の十七年、知伯は趙・韓・魏とともに范氏・中行氏の土地を分けて自分たちの領地とした。出公は怒り、斉と魯に告げて、四卿を討とうとした。四卿は恐れて、逆に出公を攻めた。出公は斉に逃れる途中で死んだ。そこで知伯は昭公の曾孫の驕を晋君に立てた。これが哀公である。哀公の祖父の雍は晋の昭公の末子で、戴子と号した。戴子は忌を生んだ。忌は知伯と親しかったが、早くに亡くなった。知伯は晋をすべて併合したいと思っていたが、まだ踏み切れず、忌の子の驕を君主に立てたのである。

解説

晋の公室が形だけのものとなり、六卿、さらに四卿が国を動かすようになっていく段です。范献子は魯の季氏から賄賂を受けて、追放された魯の昭公の帰国を妨げます。国内では、六卿が法を口実に公族の祁氏・羊舌氏を滅ぼし、その領地を自分たちの子に分け与えました。公室の支えとなる一族が消され、君主はますます孤立します。やがて六卿同士の争いが始まり、趙鞅と范氏・中行氏が戦い、韓・魏が趙に付いて范氏・中行氏は国外に追われました。残った知・趙・韓・魏の四卿は范氏・中行氏の土地を山分けにし、怒った出公を逆に国外へ追いやります。知伯は晋の併合を狙いながらも、なお君主を立てて体裁を保ちました。組織の中で有力者たちが手を組んで利益を分け合い、トップを飾り物にしていく過程は、今の企業統治の問題にも重なります。権力の分散と私物化は、本来の意思決定の仕組みを空洞化させてしまうのです。

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