史記 / 晋世家
當是時,晉國政皆決知伯,晉哀公不得有所制。知伯遂有范、中行地,最彊。哀公四年,趙襄子、韓康子、魏桓子共殺知伯,盡并其地。十八年,哀公卒,子幽公柳立。幽公之時,晉畏,反朝韓、趙、魏之君。獨有絳、曲沃,餘皆入三晉。十五年,魏文侯初立。十八年,幽公淫婦人,夜竊出邑中,盜殺幽公。魏文侯以兵誅晉亂,立幽公子止,是爲烈公。烈公十九年,周威烈王賜趙、韓、魏皆命爲諸侯。二十七年,烈公卒,子孝公頎立。孝公九年,魏武侯初立,襲邯鄲,不勝而去。十七年,孝公卒,子靜公倶酒立。是歳,齊威王元年也。靜公二年,魏武侯、韓哀侯、趙敬侯滅晉後而三分其地。靜公遷爲家人,晉絶不祀。
新字:当是時,晋国政皆決知伯,晋哀公不得有所制。知伯遂有范、中行地,最彊。哀公四年,趙襄子、韓康子、魏桓子共殺知伯,尽并其地。十八年,哀公卒,子幽公柳立。幽公之時,晋畏,反朝韓、趙、魏之君。独有絳、曲沃,余皆入三晋。十五年,魏文侯初立。十八年,幽公淫婦人,夜窃出邑中,盗殺幽公。魏文侯以兵誅晋乱,立幽公子止,是為烈公。烈公十九年,周威烈王賜趙、韓、魏皆命為諸侯。二十七年,烈公卒,子孝公頎立。孝公九年,魏武侯初立,襲邯鄲,不勝而去。十七年,孝公卒,子静公倶酒立。是歳,斉威王元年也。静公二年,魏武侯、韓哀侯、趙敬侯滅晋後而三分其地。静公遷為家人,晋絶不祀。
書き下し
是の時に当たりて、晋国の政は皆知伯に決し、晋の哀公制する所有るを得ず。知伯遂に范・中行の地を有ち、最も彊し。哀公の四年、趙襄子・韓康子・魏桓子共に知伯を殺し、尽く其の地を并す。十八年、哀公卒し、子の幽公柳立つ。幽公の時、晋畏れ、反って韓・趙・魏の君に朝す。独り絳・曲沃のみを有ち、余は皆三晋に入る。十五年、魏の文侯初めて立つ。十八年、幽公婦人に淫し、夜窃かに邑中に出づ。盗幽公を殺す。魏の文侯兵を以て晋の乱を誅し、幽公の子止を立つ。是を烈公と為す。烈公の十九年、周の威烈王趙・韓・魏に賜ひて皆命じて諸侯と為す。二十七年、烈公卒し、子の孝公頎立つ。孝公の九年、魏の武侯初めて立ち、邯鄲を襲ふも、勝たずして去る。十七年、孝公卒し、子の静公倶酒立つ。是の歳、斉の威王の元年なり。静公の二年、魏の武侯・韓の哀侯・趙の敬侯晋の後を滅ぼして其の地を三分す。静公遷されて家人と為り、晋絶えて祀られず。
現代語訳
このころ、晋の政治はすべて知伯が決めており、晋の哀公は何一つ自分で決めることができなかった。知伯はついに范氏・中行氏の土地をも手に入れ、最も強大になった。哀公の四年、趙襄子・韓康子・魏桓子が共謀して知伯を殺し、その領地をことごとく分け取った。十八年、哀公が亡くなり、子の幽公柳が立った。幽公の時代には、晋の君主はかえって韓・趙・魏の君主を恐れて参朝するありさまとなった。晋の君主は絳と曲沃だけを保ち、残りはみな三晋のものとなった。十五年、魏の文侯が即位した。十八年、幽公は女色におぼれ、夜ひそかに町に出かけたところ、盗賊に殺された。魏の文侯が兵を率いて晋の乱を平定し、幽公の子の止を立てた。これが烈公である。烈公の十九年、周の威烈王は趙・韓・魏をいずれも正式に諸侯に任じた。二十七年、烈公が亡くなり、子の孝公頎が立った。孝公の九年、魏の武侯が即位し、趙の邯鄲を襲ったが、勝てずに引き揚げた。十七年、孝公が亡くなり、子の静公倶酒が立った。この年は斉の威王の元年にあたる。静公の二年、魏の武侯・韓の哀侯・趙の敬侯が晋の後継を滅ぼし、その領地を三つに分けた。静公は庶民の身分に落とされ、晋は絶えて祭祀も行われなくなった。
解説
関連する章句
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史記 晋世家季平子私かに范献子に賂ふ。献子之を受け、乃ち晋君に謂ひて曰く、「季氏罪無し」と。果たして魯君を入れず。十二年、晋の宗家祁傒の孫、叔向の子、君に相悪しとせらる。六卿公室を弱めんと欲し、乃ち遂に法を以て尽く其の族を滅ぼす。而して其の邑を分かちて十県と為し、各々其の子をして大夫と為らしむ。晋益々弱く、六卿皆大なり。十四年、頃公卒し、子の定公午立つ。定公の十一年、魯の陽虎晋に奔る。趙鞅簡子之を捨(やど)す。十二年、孔子魯に相たり。十五年、趙鞅邯鄲の大夫午に使ふも、信ならず、午を殺さんと欲す。午中行寅・范吉射と親ら趙鞅を攻む。鞅走りて晋陽を保つ。定公晋陽を囲む。荀櫟・韓不信・魏侈范・中行と仇為り。乃ち兵を移して范・中行を伐つ。范・中行反す。晋君之を撃ち、范・中行を敗る。范・中行朝歌に走り、之を保つ。韓・魏趙鞅の為に晋君に謝す。乃ち趙鞅を赦し、位に復す。二十二年、晋范・中行氏を敗り、二子斉に奔る。三十年、定公呉王夫差と黄池に会し、長を争ふ。趙鞅時に従ひ、卒に呉を長とす。三十一年、斉の田常其の君簡公を弑し、而して簡公の弟驁を立てて平公と為す。三十三年、孔子卒す。三十七年、定公卒し、子の出公鑿立つ。出公の十七年、知伯趙・韓・魏と共に范・中行の地を分かちて以て邑と為す。出公怒り、斉・魯に告げ、以て四卿を伐たんと欲す。四卿恐れ、遂に反って出公を攻む。出公斉に奔り、道に死す。故に知伯乃ち昭公の曾孫驕を立てて晋君と為す。是を哀公と為す。哀公の大父雍は、晋の昭公の少子なり。号して戴子と為す。戴子忌を生む。忌知伯に善し。蚤く死す。故に知伯尽く晋を并せんと欲するも、未だ敢てせず。乃ち忌の子驕を立てて君と為す。
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史記 晋世家小子の元年、曲沃の武公韓万をして虜とする所の晋の哀侯を殺さしむ。曲沃益々彊く、晋之を如何ともする無し。晋の小子の四年、曲沃の武公晋の小子を誘ひ召して之を殺す。周の桓王虢仲をして曲沃の武公を伐たしむ。武公曲沃に入る。乃ち晋の哀侯の弟緡を立てて晋侯と為す。晋侯緡の四年、宋鄭の祭仲を執へて突を立てて鄭君と為す。晋侯の十九年、斉人管至父其の君襄公を弑す。晋侯の二十八年、斉の桓公始めて覇たり。曲沃の武公晋侯緡を伐ち、之を滅ぼし、尽く其の宝器を以て周の釐王に賂献す。釐王曲沃の武公に命じて晋君と為し、列して諸侯と為す。是に於て尽く晋の地を併せて之を有つ。曲沃の武公已に即位して三十七年なり。更に号して晋の武公と曰ふ。晋の武公始めて晋国に都す。前に曲沃に即位し、年を通じて三十八年なり。武公称は、先の晋の穆侯の曾孫なり、曲沃の桓叔の孫なり。桓叔は、始めて曲沃に封ぜらる。武公は、荘伯の子なり。桓叔の初めて曲沃に封ぜられしより以て武公の晋を滅ぼすに至るまで、凡そ六十七歳にして、卒に晋に代はりて諸侯と為る。武公晋に代はりて二歳にして卒す。曲沃と年を通じて、即位して凡そ三十九年にして卒す。子の献公詭諸立つ。献公の元年、周の恵王の弟穨恵王を攻め、恵王出奔し、鄭の櫟邑に居る。五年、驪戎を伐ち、驪姫・驪姫の弟を得て、倶に之を愛幸す。八年、士蒍公に説きて曰く、「故の晋の群公子多し。誅せずんば、乱且に起こらんとす」と。乃ち尽く諸公子を殺さしめ、而して聚に城きて之に都し、命じて絳と曰ひ、始めて絳に都す。九年、晋の群公子既に亡げて虢に奔る。虢其の故を以て再び晋を伐つも、克たず。十年、晋虢を伐たんと欲す。士蒍曰く、「且く其の乱るるを待て」と。十二年、驪姫奚斉を生む。
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史記 趙世家牛畜を官して師と為し、荀欣を中尉と為し、徐越を内史と為し、相国に衣二襲を賜ふ。九年、烈侯卒し、弟武公立つ。武公十三年に卒し、趙復た烈侯の太子章を立つ、是を敬侯と為す。是の歳、魏の文侯卒す。敬侯元年、武公の子朝乱を作すも、克たず、出でて魏に奔る。趙始めて邯鄲に都す。二年、斉を霊丘に敗る。三年、魏を廩丘に救ひ、大いに斉人を敗る。四年、魏我を兎台に敗る。剛平に築きて以て衛を侵す。五年、斉・魏衛の為に趙を攻め、我が剛平を取る。六年、兵を楚に借りて魏を伐ち、棘蒲を取る。八年、魏の黄城を抜く。九年、斉を伐つ。斉燕を伐つ。趙燕を救ふ。十年、中山と房子に戦ふ。十一年、魏・韓・趙共に晋を滅ぼし、其の地を分つ。中山を伐ち、又中人に戦ふ。十二年、敬侯卒し、子成侯種立つ。成侯元年、公子勝成侯と立つを争ひ、乱を為す。二年六月、雪雨る。三年、太戊午相と為る。衛を伐ち、郷邑七十三を取る。魏我を藺に敗る。四年、秦と高安に戦ひ、之を敗る。五年、斉を鄄に伐つ。魏我を懐に敗る。鄭を攻めて之を敗り、以て韓に与ふ。韓我に長子を与ふ。六年、中山長城を築く。魏を伐ち、湪沢に敗り、魏の恵王を囲む。七年、斉を侵し、長城に至る。韓と周を攻む。八年、韓と周を分ちて以て両と為す。九年、斉と阿の下に戦ふ。十年、衛を攻め、甄を取る。十一年、秦魏を攻む。趙之を石阿に救ふ。十二年、秦魏の少梁を攻む。趙之を救ふ。十三年、秦の献公、庶長国をして魏の少梁を伐たしめ、其の太子・痤を虜にす。魏我を澮に敗り、皮牢を取る。成侯、韓の昭侯と上党に遇ふ。十四年、韓と秦を攻む。十五年、魏を助けて斉を攻む。十六年、韓・魏と晋を分ち、晋君を封ずるに端氏を以てす。十七年、成侯、魏の恵王と葛孽に遇ふ。
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史記 魏世家昭公卒して六卿彊く、公室卑し。晋の頃公の十二年、韓宣子老し、魏献子国政を為す。晋の宗室の祁氏・羊舌氏相悪む。六卿之を誅し、尽く其の邑を取りて十県と為し、六卿各々其の子をして之が大夫と為らしむ。献子、趙簡子・中行文子・范献子と并びに晋の卿為り。其の後十四歳にして孔子魯に相たり。後四歳、趙簡子晋陽の乱を以て、韓・魏と共に范・中行氏を攻む。魏献子、魏侈を生む。魏侈、趙鞅と共に范・中行氏を攻む。魏侈の孫を魏桓子と曰ふ。韓康子・趙襄子と共に知伯を伐ち滅ぼし、其の地を分つ。桓子の孫を文侯都と曰ふ。魏の文侯の元年は、秦の霊公の元年なり。韓の武子・趙の桓子・周の威王と時を同じくす。六年、少梁に城く。十三年、子撃をして繁・龐を囲ましめ、其の民を出だす。十六年、秦を伐ち、臨晋・元裏に築く。十七年、中山を伐ち、子撃をして之を守らしめ、趙倉唐之に傅たり。子撃、文侯の師田子方に朝歌に逢ひ、車を引きて避け、下りて謁す。田子方礼を為さず。子撃因りて問ひて曰く、『富貴なる者人に驕るか。且つ貧賤なる者人に驕るか』と。子方曰く、『亦貧賤なる者人に驕るのみ。夫れ諸侯にして人に驕れば則ち其の国を失ひ、大夫にして人に驕れば則ち其の家を失ふ。貧賤なる者は、行ひ合はず、言用ひられずんば、則ち去りて楚・越に之くこと、屣を脱ぐが若く然り。奈何ぞ其れ之を同じくせんや』と。子撃懌ばずして去る。西のかた秦を攻め、鄭に至りて還り、雒陰・合陽に築く。廿二年、魏・趙・韓列して諸侯と為る。廿四年、秦我を伐ち、陽狐に至る。廿五年、子撃子罃を生む。
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