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史記 / 晋世家

十五年,悼公問治國於師曠。師曠曰:「惟仁義爲本。」冬,悼公卒,子平公彪立。平公元年,伐齊,齊靈公與戰靡下,齊師敗走。晏嬰曰:「君亦毋勇,何不止戰?」遂去。晉追,遂圍臨菑,盡燒屠其郭中。東至膠,南至沂,齊皆城守,晉乃引兵歸。六年,魯襄公朝晉。晉欒逞有罪,奔齊。八年,齊莊公微遣欒逞於曲沃,以兵隨之。齊兵上太行,欒逞從曲沃中反,襲入絳。絳不戒,平公欲自殺,范獻子止公,以其徒撃逞,逞敗走曲沃。曲沃攻逞,逞死,遂滅欒氏宗。逞者,欒書孫也。其入絳,與魏氏謀。齊莊公聞逞敗,乃還,取晉之朝歌去,以報臨菑之役也。十年,齊崔杼弒其君莊公。晉因齊亂,伐敗齊於髙唐去,報太行之役也。十四年,呉延陵季子來使,與趙文子、韓宣子、魏獻子語,曰:「晉國之政,卒歸此三家矣。」十九年,齊使晏嬰如晉,與叔向語。叔向曰:「晉,季世也。公厚賦爲臺池而不恤政,政在私門,其可久乎!」晏子然之。二十二年,伐燕。二十六年,平公卒,子昭公夷立。昭公六年卒。六卿彊,公室卑。子頃公去疾立。頃公六年,周景王崩,王子爭立。晉六卿平王室亂,立敬王。九年,魯季氏逐其君昭公,昭公居乾侯。十一年,衞、宋使使請晉納魯君。

新字:十五年,悼公問治国於師曠。師曠曰:「惟仁義為本。」冬,悼公卒,子平公彪立。平公元年,伐斉,斉霊公与戦靡下,斉師敗走。晏嬰曰:「君亦毋勇,何不止戦?」遂去。晋追,遂囲臨菑,尽焼屠其郭中。東至膠,南至沂,斉皆城守,晋乃引兵帰。六年,魯襄公朝晋。晋欒逞有罪,奔斉。八年,斉荘公微遣欒逞於曲沃,以兵随之。斉兵上太行,欒逞従曲沃中反,襲入絳。絳不戒,平公欲自殺,范献子止公,以其徒撃逞,逞敗走曲沃。曲沃攻逞,逞死,遂滅欒氏宗。逞者,欒書孫也。其入絳,与魏氏謀。斉荘公聞逞敗,乃還,取晋之朝歌去,以報臨菑之役也。十年,斉崔杼弒其君荘公。晋因斉乱,伐敗斉於高唐去,報太行之役也。十四年,呉延陵季子来使,与趙文子、韓宣子、魏献子語,曰:「晋国之政,卒帰此三家矣。」十九年,斉使晏嬰如晋,与叔向語。叔向曰:「晋,季世也。公厚賦為台池而不恤政,政在私門,其可久乎!」晏子然之。二十二年,伐燕。二十六年,平公卒,子昭公夷立。昭公六年卒。六卿彊,公室卑。子頃公去疾立。頃公六年,周景王崩,王子争立。晋六卿平王室乱,立敬王。九年,魯季氏逐其君昭公,昭公居乾侯。十一年,衛、宋使使請晋納魯君。

書き下し

十五年、悼公国を治むることを師曠に問ふ。師曠曰く、「惟だ仁義を本と為す」と。冬、悼公卒し、子の平公彪立つ。平公の元年、斉を伐つ。斉の霊公与に靡下に戦ふ。斉の師敗走す。晏嬰曰く、「君も亦た勇毋し。何ぞ戦ひを止めざる」と。遂に去る。晋追ひ、遂に臨菑を囲み、尽く其の郭中を焼屠す。東は膠に至り、南は沂に至る。斉皆城守す。晋乃ち兵を引きて帰る。六年、魯の襄公晋に朝す。晋の欒逞罪有り、斉に奔る。八年、斉の荘公微かに欒逞を曲沃に遣り、兵を以て之に随はしむ。斉の兵太行に上る。欒逞曲沃の中より反し、襲ひて絳に入る。絳戒めず。平公自殺せんと欲す。范献子公を止め、其の徒を以て逞を撃つ。逞敗れて曲沃に走る。曲沃逞を攻め、逞死す。遂に欒氏の宗を滅ぼす。逞は、欒書の孫なり。其の絳に入るや、魏氏と謀る。斉の荘公逞の敗るるを聞き、乃ち還り、晋の朝歌を取りて去り、以て臨菑の役に報ゆ。十年、斉の崔杼其の君荘公を弑す。晋斉の乱に因り、伐ちて斉を高唐に敗りて去り、太行の役に報ゆ。十四年、呉の延陵季子来たり使ひし、趙文子・韓宣子・魏献子と語りて曰く、「晋国の政は、卒に此の三家に帰せん」と。十九年、斉晏嬰をして晋に如かしむ。叔向と語る。叔向曰く、「晋は、季世なり。公賦を厚くして台池を為りて政を恤へず。政私門に在り。其れ久しかるべけんや」と。晏子之を然りとす。二十二年、燕を伐つ。二十六年、平公卒し、子の昭公夷立つ。昭公六年にして卒す。六卿彊く、公室卑し。子の頃公去疾立つ。頃公の六年、周の景王崩じ、王子立つを争ふ。晋の六卿王室の乱を平らげ、敬王を立つ。九年、魯の季氏其の君昭公を逐ひ、昭公乾侯に居る。十一年、衛・宋使ひをして晋に魯君を納れんことを請はしむ。

現代語訳

十五年、悼公は師曠に国の治め方を尋ねた。師曠は言った。「ただ仁と義を根本とすることだ」。冬、悼公が亡くなり、子の平公彪が立った。平公の元年、晋は斉を攻め、斉の霊公と靡下で戦った。斉軍は敗走した。晏嬰は言った。「君にはもともと勇気がないのだから、どうして戦いをやめないのか」。そして去っていった。晋は追撃し、ついに臨菑を包囲して、城外の町をことごとく焼き払い、住民を殺した。東は膠まで、南は沂まで進んだが、斉はどこも城を固めて守ったので、晋は兵を引いて帰った。六年、魯の襄公が晋に参朝した。晋の欒逞が罪を得て斉に逃れた。八年、斉の荘公はひそかに欒逞を曲沃に送り込み、兵をその後に続かせた。斉の兵が太行山に登った。欒逞は曲沃から反乱を起こし、絳を襲って侵入した。絳は備えをしていなかったので、平公は自殺しようとした。范献子が平公を止め、自分の配下を率いて欒逞を撃った。欒逞は敗れて曲沃に逃げた。曲沃の人々が欒逞を攻め、欒逞は死に、晋はついに欒氏の一族を滅ぼした。欒逞は欒書の孫である。欒逞が絳に攻め入ったとき、魏氏と謀っていた。斉の荘公は欒逞が敗れたと聞いて引き返し、晋の朝歌を取って去り、臨菑での戦いの報復とした。十年、斉の崔杼がその君の荘公を殺した。晋は斉の乱に乗じて攻め、高唐で斉を破って去り、太行での戦いの報復とした。十四年、呉の延陵季子(季札)が使者として来て、趙文子・韓宣子・魏献子と語り合い、「晋の政治は、最後はこの三家のものになるだろう」と言った。十九年、斉は晏嬰を晋に派遣した。晏嬰は叔向と語り合った。叔向は言った。「晋はもう末世だ。公は重い税を取り立てて高台や池を造り、政治に心を配らない。政治の実権は私家にある。これで長く続けられようか」。晏子(晏嬰)はそのとおりだと思った。二十二年、晋は燕を攻めた。二十六年、平公が亡くなり、子の昭公夷が立った。昭公は在位六年で亡くなった。このころには六卿が強く、公室は衰えていた。子の頃公去疾が立った。頃公の六年、周の景王が亡くなり、王子たちが位を争った。晋の六卿が王室の乱を平定し、敬王を立てた。九年、魯の季氏がその君の昭公を追い出し、昭公は乾侯に住んだ。十一年、衛と宋が使者を送り、魯の君主を帰国させるよう晋に願い出た。

解説

悼公の死後、晋の公室が衰え、六卿が実権を握っていく過程を描く段です。悼公が国の治め方を尋ねると、盲目の楽師・師曠は「ただ仁義を本とせよ」と簡潔に答えました。しかし次の平公の時代には、晋は斉を攻めて臨菑の町を焼き払うなど武力を振るう一方、国内では欒逞の反乱で平公が自殺しかけるほどの混乱が起きます。呉の季札は晋を訪れ、趙・韓・魏の三家の当主と語って「晋の政治は最後はこの三家に帰する」と見抜きました。後にこの三家が晋を分割することになる、鋭い予言です。晋の叔向も斉の晏嬰に「晋は末世だ。君は重税で台や池を造り、政治は私家にある」と嘆き、晏嬰も同意しました。晏嬰は斉の田氏について同じ嘆きを語ったことで知られ、大国の公室がそろって衰えていく時代の空気が伝わります。トップが贅沢に走り、実務を有力者に任せきりにすると、組織の主導権は知らぬ間に移っていくことを教えてくれる段です。

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