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史記 / 晋世家

齊使曰:「蕭桐姪子,頃公母;頃公母猶晉君母,柰何必得之?不義,請復戰。」晉乃許與平而去。楚申公巫臣盜夏姬以奔晉,晉以巫臣爲邢大夫。十二年冬,齊頃公如晉,欲上尊晉景公爲王,景公讓不敢。晉始作六軍,韓厥、鞏朔、趙穿、荀騅、趙括、趙旃皆爲卿。智罃自楚歸。十三年,魯成公朝晉,晉弗敬,魯怒去,倍晉。晉伐鄭,取氾。十四年,梁山崩。問伯宗,伯宗以爲不足怪也。十六年,楚將子反怨巫臣,滅其族。巫臣怒,遺子反書曰:「必令子罷於奔命!」乃請使呉,令其子爲呉行人,教呉乘車用兵。呉晉始通,約伐楚。十七年,誅趙同、趙括,族滅之。韓厥曰:「趙衰、趙盾之功豈可忘乎?柰何絶祀!」乃復令趙庶子武爲趙後,復與之邑。十九年夏,景公病,立其太子壽曼爲君,是爲厲公。後月餘,景公卒。厲公元年,初立,欲和諸侯,與秦桓公夾河而盟。歸而秦倍盟,與翟謀伐晉。三年,使呂相讓秦,因與諸侯伐秦。至涇,敗秦於麻隧,虜其將成差。五年,三郤讒伯宗,殺之。伯宗以好直諫得此禍,國人以是不附厲公。六年春,鄭倍晉與楚盟,晉怒。欒書曰:「不可以當吾世而失諸侯。」乃發兵。厲公自將,五月度河。聞楚兵來救,范文子請公欲還。郤至曰:「發兵誅逆,見彊辟之,無以令諸侯。」

新字:斉使曰:「蕭桐姪子,頃公母;頃公母猶晋君母,柰何必得之?不義,請復戦。」晋乃許与平而去。楚申公巫臣盗夏姫以奔晋,晋以巫臣為邢大夫。十二年冬,斉頃公如晋,欲上尊晋景公為王,景公譲不敢。晋始作六軍,韓厥、鞏朔、趙穿、荀騅、趙括、趙旃皆為卿。智罃自楚帰。十三年,魯成公朝晋,晋弗敬,魯怒去,倍晋。晋伐鄭,取氾。十四年,梁山崩。問伯宗,伯宗以為不足怪也。十六年,楚将子反怨巫臣,滅其族。巫臣怒,遺子反書曰:「必令子罷於奔命!」乃請使呉,令其子為呉行人,教呉乗車用兵。呉晋始通,約伐楚。十七年,誅趙同、趙括,族滅之。韓厥曰:「趙衰、趙盾之功豈可忘乎?柰何絶祀!」乃復令趙庶子武為趙後,復与之邑。十九年夏,景公病,立其太子寿曼為君,是為厲公。後月余,景公卒。厲公元年,初立,欲和諸侯,与秦桓公夾河而盟。帰而秦倍盟,与翟謀伐晋。三年,使呂相譲秦,因与諸侯伐秦。至涇,敗秦於麻隧,虜其将成差。五年,三郤讒伯宗,殺之。伯宗以好直諫得此禍,国人以是不附厲公。六年春,鄭倍晋与楚盟,晋怒。欒書曰:「不可以当吾世而失諸侯。」乃発兵。厲公自将,五月度河。聞楚兵来救,范文子請公欲還。郤至曰:「発兵誅逆,見彊辟之,無以令諸侯。」

書き下し

斉の使ひ曰く、「蕭桐姪子は、頃公の母なり。頃公の母は猶ほ晋君の母のごときなり。奈何ぞ必ず之を得んとする。不義なり。請ふ復た戦はん」と。晋乃ち与に平らぐことを許して去る。楚の申公巫臣夏姫を盗みて以て晋に奔る。晋巫臣を以て邢の大夫と為す。十二年冬、斉の頃公晋に如き、上りて晋の景公を尊びて王と為さんと欲す。景公譲りて敢てせず。晋始めて六軍を作る。韓厥・鞏朔・趙穿・荀騅・趙括・趙旃皆卿と為る。智罃楚より帰る。十三年、魯の成公晋に朝す。晋敬せず。魯怒りて去り、晋に倍く。晋鄭を伐ち、氾を取る。十四年、梁山崩る。伯宗に問ふ。伯宗以て怪しむに足らずと為す。十六年、楚の将子反巫臣を怨み、其の族を滅ぼす。巫臣怒り、子反に書を遺りて曰く、「必ず子をして奔命に罷れしめん」と。乃ち呉に使ひせんことを請ひ、其の子をして呉の行人と為らしめ、呉に車に乗り兵を用ふることを教ふ。呉晋始めて通じ、楚を伐たんことを約す。十七年、趙同・趙括を誅し、之を族滅す。韓厥曰く、「趙衰・趙盾の功豈に忘るべけんや。奈何ぞ祀を絶たん」と。乃ち復た趙の庶子武をして趙の後と為らしめ、復た之に邑を与ふ。十九年夏、景公病み、其の太子寿曼を立てて君と為す。是を厲公と為す。後月余にして、景公卒す。厲公の元年、初めて立ち、諸侯を和せんと欲し、秦の桓公と河を夾みて盟ふ。帰りて秦盟に倍き、翟と晋を伐たんことを謀る。三年、呂相をして秦を譲めしめ、因りて諸侯と秦を伐つ。涇に至り、秦を麻隧に敗り、其の将成差を虜にす。五年、三郤伯宗を讒して、之を殺す。伯宗直諫を好むを以て此の禍を得たり。国人是を以て厲公に附かず。六年春、鄭晋に倍きて楚と盟ふ。晋怒る。欒書曰く、「以て吾が世に当たりて諸侯を失ふべからず」と。乃ち兵を発す。厲公自ら将たり、五月河を度る。楚の兵来たり救ふと聞き、范文子公に還らんことを請ふ。郤至曰く、「兵を発して逆を誅し、彊きを見て之を辟くれば、以て諸侯に令する無し」と。

現代語訳

斉の使者は言った。「蕭桐姪子は頃公の母だ。頃公の母は、晋の君主にとっての母と同じようなものだ。どうしてどうしても人質に取ろうとするのか。それは道義に外れている。それならもう一度戦おう」。晋はそこで和睦を許して引き揚げた。楚の申公巫臣は夏姫を連れて晋に逃れてきた。晋は巫臣を邢の大夫とした。十二年の冬、斉の頃公が晋に来て、晋の景公を尊んで王として立てようとしたが、景公は遠慮して受けなかった。晋はこのとき初めて六軍を設けた。韓厥・鞏朔・趙穿・荀騅・趙括・趙旃がみな卿となった。智罃が楚から帰された。十三年、魯の成公が晋に参朝したが、晋は敬意を払わなかった。魯は怒って去り、晋に背いた。晋は鄭を攻めて氾を取った。十四年、梁山が崩れた。景公が伯宗に尋ねると、伯宗は怪しむほどのことではないと答えた。十六年、楚の将軍の子反は巫臣を恨んで、その一族を滅ぼした。巫臣は怒り、子反に手紙を送って言った。「必ずおまえを、命令に従って奔走するうちに疲れ果てさせてやる」。そこで巫臣は呉への使者となることを願い出て、自分の子を呉の外交官とし、呉に戦車の乗り方と戦い方を教えた。こうして呉と晋が初めて通じ、ともに楚を攻めることを約束した。十七年、晋は趙同と趙括を誅殺し、その一族を滅ぼした。韓厥は言った。「趙衰と趙盾の功績をどうして忘れられよう。どうしてその祭祀を絶やしてよかろうか」。そこで再び趙家の庶子の趙武を趙の後継ぎとし、領地を返した。十九年の夏、景公は病に倒れ、太子の寿曼を君主に立てた。これが厲公である。一か月余りして、景公は亡くなった。厲公の元年、即位したばかりで諸侯と和睦しようとし、黄河を挟んで秦の桓公と盟約を結んだ。しかし秦は帰国すると盟約に背き、翟と組んで晋を攻めようと謀った。三年、厲公は呂相に秦を責めさせ、諸侯とともに秦を攻めた。涇水に至り、麻隧で秦を破って、その将軍の成差を捕らえた。五年、三郤(郤錡・郤犫・郤至)が伯宗を讒言して殺させた。伯宗は率直に諫めることを好んだため、この災いを受けたのである。国の人々はこのことで厲公に心を寄せなくなった。六年の春、鄭が晋に背いて楚と盟約を結び、晋は怒った。欒書は言った。「わが世代のうちに諸侯を失うわけにはいかない」。そこで兵を出した。厲公は自ら軍を率い、五月に黄河を渡った。楚の兵が鄭を救いに来ると聞いて、范文子は厲公に引き返すよう願い出た。郤至は言った。「兵を出して背いた者を討とうというのに、強い敵を見て避けるようでは、諸侯に号令することはできない」。

解説

晋の景公から厲公にかけての時代を描く段です。鞌の戦いで勝った郤克は、斉の頃公の母を人質にと求めますが、斉の使者に「あなたの君の母と同じだ。道義に反する」と反論され、和睦に応じました。楚の巫臣は、夏姫を連れて晋に亡命したことで一族を滅ぼされ、その報復として呉に戦車の戦い方を教えます。これが呉の台頭と、のちに呉が楚を苦しめる大きな原因となりました。一人の恨みが、国際関係の構図を塗り替えたのです。韓厥が、一族を滅ぼされた趙氏の功績を忘れてはならないと進言し、趙武を後継に立てさせた話は、のちに「趙氏孤児」の物語として語り継がれる事件の結末にあたります。厲公の代には、直言を好んだ伯宗が三郤の讒言で殺され、人々の心が厲公から離れていきます。優れた人材の恨みを買うと、それが敵に力を与えることにもなります。人を追い詰めた結果が思わぬ形で返ってくることを、この段は教えています。

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