史記 / 晋世家
隨會曰:「昔文公之與楚戰城濮,成王歸殺子玉,而文公乃喜。今楚已敗我師,又誅其將,是助楚殺仇也。」乃止。四年,先縠以首計而敗晉軍河上,恐誅,乃奔翟,與翟謀伐晉。晉覺,乃族縠。縠,先軫子也。五年,伐鄭,爲助楚故也。是時楚莊王彊,以挫晉兵河上也。六年,楚伐宋,宋來告急晉,晉欲救之,伯宗謀曰:「楚,天方開之,不可當。」乃使解揚紿爲救宋。鄭人執與楚,楚厚賜,使反其言,令宋急下。解揚紿許之,卒致晉君言。楚欲殺之,或諫,乃歸解揚。七年,晉使隨會滅赤狄。八年,使郤克於齊。齊頃公母從樓上觀而笑之。所以然者,郤克僂,而魯使蹇,衞使眇,故齊亦令人如之以導客。郤克怒,歸至河上,曰:「不報齊者,河伯視之!」至國,請君,欲伐齊。景公問知其故,曰:「子之怨,安足以煩國!」弗聽。魏文子請老休,辟郤克,克執政。九年,楚莊王卒。晉伐齊,齊使太子彊爲質於晉,晉兵罷。十一年春,齊伐魯,取隆。魯告急衞,衞與魯皆因郤克告急於晉。晉乃使郤克、欒書、韓厥以兵車八百乘與魯、衞共伐齊。夏,與頃公戰於砹傷困頃公。頃公乃與其右易位,下取飲,以得脱去。齊師敗走,晉追北至齊。頃公獻寶器以求平,不聽。郤克曰:「必得蕭桐姪子爲質。」
新字:随会曰:「昔文公之与楚戦城濮,成王帰殺子玉,而文公乃喜。今楚已敗我師,又誅其将,是助楚殺仇也。」乃止。四年,先縠以首計而敗晋軍河上,恐誅,乃奔翟,与翟謀伐晋。晋覚,乃族縠。縠,先軫子也。五年,伐鄭,為助楚故也。是時楚荘王彊,以挫晋兵河上也。六年,楚伐宋,宋来告急晋,晋欲救之,伯宗謀曰:「楚,天方開之,不可当。」乃使解揚紿為救宋。鄭人執与楚,楚厚賜,使反其言,令宋急下。解揚紿許之,卒致晋君言。楚欲殺之,或諫,乃帰解揚。七年,晋使随会滅赤狄。八年,使郤克於斉。斉頃公母従楼上観而笑之。所以然者,郤克僂,而魯使蹇,衛使眇,故斉亦令人如之以導客。郤克怒,帰至河上,曰:「不報斉者,河伯視之!」至国,請君,欲伐斉。景公問知其故,曰:「子之怨,安足以煩国!」弗聴。魏文子請老休,辟郤克,克執政。九年,楚荘王卒。晋伐斉,斉使太子彊為質於晋,晋兵罷。十一年春,斉伐魯,取隆。魯告急衛,衛与魯皆因郤克告急於晋。晋乃使郤克、欒書、韓厥以兵車八百乗与魯、衛共伐斉。夏,与頃公戦於砹傷困頃公。頃公乃与其右易位,下取飲,以得脱去。斉師敗走,晋追北至斉。頃公献宝器以求平,不聴。郤克曰:「必得蕭桐姪子為質。」
書き下し
隨会曰く、「昔文公の楚と城濮に戦ふや、成王帰りて子玉を殺す。而して文公乃ち喜ぶ。今楚已に我が師を敗る。又其の将を誅せば、是れ楚を助けて仇を殺すなり」と。乃ち止む。四年、先縠首計を以て晋の軍を河上に敗る。誅せられんことを恐れ、乃ち翟に奔り、翟と晋を伐たんことを謀る。晋覚り、乃ち縠を族す。縠は、先軫の子なり。五年、鄭を伐つ。楚を助けしが為の故なり。是の時楚の荘王彊し。晋の兵を河上に挫きしを以てなり。六年、楚宋を伐つ。宋来たりて急を晋に告ぐ。晋之を救はんと欲す。伯宗謀りて曰く、「楚は、天方に之を開く。当たるべからず」と。乃ち解揚をして紿(あざむ)きて宋を救ふと為さしむ。鄭人執へて楚に与ふ。楚厚く賜ひ、其の言を反さしめ、宋をして急ぎ下らしめんとす。解揚紿きて之を許し、卒に晋君の言を致す。楚之を殺さんと欲す。或いは諫む。乃ち解揚を帰す。七年、晋隨会をして赤狄を滅ぼさしむ。八年、郤克をして斉に使ひせしむ。斉の頃公の母楼上より観て之を笑ふ。然る所以の者は、郤克は僂(せむし)にして、魯の使ひは蹇(あしなへ)、衛の使ひは眇(すがめ)なり。故に斉も亦た人をして之の如くならしめて以て客を導く。郤克怒り、帰りて河上に至りて曰く、「斉に報いざれば、河伯之を視よ」と。国に至り、君に請ひて、斉を伐たんと欲す。景公其の故を問ひ知りて曰く、「子の怨み、安んぞ以て国を煩はすに足らん」と。聴かず。魏文子老を請ひて休み、郤克を辟く。克政を執る。九年、楚の荘王卒す。晋斉を伐つ。斉太子彊をして晋に質たらしむ。晋の兵罷む。十一年春、斉魯を伐ち、隆を取る。魯急を衛に告ぐ。衛と魯と皆郤克に因りて急を晋に告ぐ。晋乃ち郤克・欒書・韓厥をして兵車八百乗を以て魯・衛と共に斉を伐たしむ。夏、頃公と砹に戦ひ、頃公を傷つけ困しむ。頃公乃ち其の右と位を易へ、下りて飲を取り、以て脱して去るを得たり。斉の師敗走す。晋北ぐるを追ひて斉に至る。頃公宝器を献じて以て平らがんことを求む。聴かず。郤克曰く、「必ず蕭桐姪子を得て質と為さん」と。
現代語訳
隨会は言った。「昔、文公が城濮で楚と戦ったとき、楚の成王は帰国して子玉を殺し、文公はそれを聞いてようやく喜んだ。いま楚がわが軍を破ったうえ、わが国がさらに自分の将軍を誅殺すれば、楚を助けて楚の仇を殺してやるようなものだ」。そこで景公は処刑を取りやめた。四年、先縠は、自分が黄河のほとりで晋軍を敗北させた張本人であったので、誅殺を恐れて翟に逃れ、翟と組んで晋を攻めようと謀った。晋はこれに気づき、先縠の一族を皆殺しにした。先縠は先軫の子である。五年、晋は鄭を攻めた。鄭が楚を助けたからである。このころ楚の荘王は強大であった。黄河のほとりで晋軍をくじいたからである。六年、楚が宋を攻め、宋は晋に急を告げてきた。晋は宋を救おうとしたが、伯宗が謀って言った。「楚は今まさに天が道を開いている。まともにぶつかってはならない」。そこで解揚を送り、救援に来ると宋を欺いて言わせることにした。ところが鄭の人々が解揚を捕らえて楚に引き渡した。楚は解揚に手厚く褒美を与え、晋の言葉を逆さまに伝えて、宋を急いで降伏させようとした。解揚は偽って承知し、最後には晋君の言葉をそのまま宋に伝えた。楚は解揚を殺そうとしたが、ある者が諫めたので、解揚を帰した。七年、晋は隨会に赤狄を滅ぼさせた。八年、晋は郤克を斉に使者として送った。斉の頃公の母は楼閣の上から見物して笑った。そのわけは、郤克は背中が曲がっており、同時に来た魯の使者は足が不自由で、衛の使者は片目が不自由だったので、斉はわざと同じような体の者に客を案内させたからである。郤克は怒り、帰る途中で黄河のほとりに至ると言った。「斉に報復しなければ、河の神よ、見届けたまえ」。帰国すると、君主に斉を討つよう願い出た。景公はそのわけを聞くと、「あなたの個人的な恨みのために、どうして国を煩わせられようか」と言って聞き入れなかった。魏文子は老齢を理由に引退して郤克に道を譲り、郤克が政治を執るようになった。九年、楚の荘王が亡くなった。晋は斉を攻め、斉は太子の彊を晋に人質として送ったので、晋は兵を引いた。十一年の春、斉が魯を攻め、隆を取った。魯は衛に急を告げ、衛と魯はともに郤克を通じて晋に急を告げた。晋はそこで郤克・欒書・韓厥に戦車八百乗を率いさせ、魯・衛とともに斉を攻めさせた。夏、斉の頃公と砹で戦い、頃公を傷つけて追い詰めた。頃公は車の右の護衛役と位置を入れ替え、車を下りて水を汲みに行くふりをして、逃げ去ることができた。斉軍は敗走し、晋はそれを追って斉の領内に入った。頃公は宝器を献上して和睦を求めたが、晋は聞き入れなかった。郤克は言った。「必ず蕭桐姪子を人質として差し出させよ」。
解説
関連する章句
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史記 斉太公世家懿公の立つや、驕りて、民附かず。斉人其の子を廃して公子元を衛より迎へて之を立つ。是れを恵公と為す。恵公は桓公の子なり。其の母は衛の女にして、少衛姫と曰ふ。斉の乱を避け、故に衛に在り。恵公の二年、長翟来る。王子城父、攻めて之を殺し、之を北門に埋む。晋の趙穿、其の君霊公を弑す。十年、恵公卒し、子の頃公無野立つ。初め、崔杼、恵公に寵有り。恵公卒し、高・国其の偪るを畏れ、之を逐ふ。崔杼、衛に奔る。頃公の元年、楚の荘王彊く、陳を伐つ。二年、鄭を囲む。鄭伯降り、已にして復た鄭伯を国せしむ。六年春、晋、郤克を斉に使はす。斉、夫人をして帷中にて之を観しむ。郤克上る。夫人之を笑ふ。郤克曰く、「是れに報いずんば、復た河を渉らじ」と。帰りて斉を伐たんことを請ふ。晋侯許さず。斉の使晋に至る。郤克、斉の使者四人を河内に執へて之を殺す。八年、晋、斉を伐つ。斉、公子彊を以て晋に質とす。晋の兵去る。十年春、斉、魯・衛を伐つ。魯・衛の大夫、晋に如きて師を請ふ。皆郤克に因る。晋、郤克をして車八百乗を以て中軍の将と為し、士燮は上軍に将とし、欒書は下軍に将として、以て魯・衛を救ひ、斉を伐たしむ。六月壬申、斉侯の兵と靡笄の下に合す。癸酉、鞍に陳す。逢丑父、斉の頃公の右と為る。頃公曰く、「之に馳せよ。晋の軍を破りて会食せん」と。郤克を射傷つけ、流血履に至る。克、還りて壁に入らんと欲す。其の御曰く、「我始め入りしより、再び傷つくも、敢て疾を言はず、士卒を恐懼せしめんことを恐るればなり。願はくは子之を忍べ」と。遂に復た戦ふ。戦ひて、斉急なり。丑父、斉侯の得られんことを恐れ、乃ち処を易へ、頃公右と為る。車、木に絓りて止まる。晋の小将韓厥、斉侯の車の前に伏して、曰く「寡君、臣をして魯・衛を救はしむ」と。之に戯る。丑父、頃公をして下りて飲を取らしめ、因りて亡るるを得て、脱して去り、其の軍に入る。晋の郤克、丑父を殺さんと欲す。
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史記 晋世家且つ子玉猶ほ在り。庸ぞ喜ぶべけんや」と。子玉の敗れて帰るや、楚の成王其の言を用ひず、晋と戦ふを貪りしを怒り、子玉を譲責す。子玉自殺す。晋の文公曰く、「我其の外を撃ち、楚其の内を誅す。内外相応ず」と。是に於て乃ち喜ぶ。六月、晋人復た衛侯を入る。壬午、晋侯河を度りて北のかた国に帰る。賞を行ひ、狐偃を首と為す。或ひと曰く、「城濮の事は、先軫の謀なり」と。文公曰く、「城濮の事は、偃我に説きて信を失ふこと毋からしむ。先軫曰く『軍事は勝つを右と為す』と。吾之を用ひて以て勝てり。然れども此れ一時の説なり。偃は万世の功を言ふ。奈何ぞ一時の利を以て万世の功に加へん。是を以て之を先にす」と。冬、晋侯諸侯を温に会し、之を率ゐて周に朝せんと欲す。力未だ能はず。其の畔く者有らんことを恐れ、乃ち人をして周の襄王に河陽に狩りせんことを言はしむ。壬申、遂に諸侯を率ゐて王に践土に朝す。孔子史記を読みて文公に至り、「諸侯は王を召すこと無し」「王河陽に狩りす」と曰ふは、春秋之を諱むなり。丁丑、諸侯許を囲む。曹伯の臣或いは晋侯に説きて曰く、「斉の桓公諸侯を合して異姓を国せしむ。今君会を為して同姓を滅ぼす。曹は叔振鐸の後なり。晋は唐叔の後なり。諸侯を合して兄弟を滅ぼすは、礼に非ず」と。晋侯説び、曹伯を復す。是に於て晋始めて三行を作る。荀林父中行に将たり、先縠右行に将たり、先蔑左行に将たり。七年、晋の文公・秦の繆公共に鄭を囲む。其の文公の亡げて過ぎりし時に無礼なりしと、城濮の時に鄭楚を助けしとを以てなり。鄭を囲み、叔瞻を得んと欲す。叔瞻之を聞きて自殺す。鄭叔瞻を持ちて晋に告ぐ。晋曰く、「必ず鄭君を得て心を甘んぜん」と。鄭恐れ、乃ち間に使ひをして秦の繆公に謂はしめて曰く、「鄭を亡ぼして晋を厚くするは、晋に於ては得たり。而して秦は未だ利と為さず。君何ぞ鄭を解きて、東道の交はりと為るを得ざる」と。秦伯説び、兵を罷む。晋も亦た兵を罷む。
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史記 晋世家斉の使ひ曰く、「蕭桐姪子は、頃公の母なり。頃公の母は猶ほ晋君の母のごときなり。奈何ぞ必ず之を得んとする。不義なり。請ふ復た戦はん」と。晋乃ち与に平らぐことを許して去る。楚の申公巫臣夏姫を盗みて以て晋に奔る。晋巫臣を以て邢の大夫と為す。十二年冬、斉の頃公晋に如き、上りて晋の景公を尊びて王と為さんと欲す。景公譲りて敢てせず。晋始めて六軍を作る。韓厥・鞏朔・趙穿・荀騅・趙括・趙旃皆卿と為る。智罃楚より帰る。十三年、魯の成公晋に朝す。晋敬せず。魯怒りて去り、晋に倍く。晋鄭を伐ち、氾を取る。十四年、梁山崩る。伯宗に問ふ。伯宗以て怪しむに足らずと為す。十六年、楚の将子反巫臣を怨み、其の族を滅ぼす。巫臣怒り、子反に書を遺りて曰く、「必ず子をして奔命に罷れしめん」と。乃ち呉に使ひせんことを請ひ、其の子をして呉の行人と為らしめ、呉に車に乗り兵を用ふることを教ふ。呉晋始めて通じ、楚を伐たんことを約す。十七年、趙同・趙括を誅し、之を族滅す。韓厥曰く、「趙衰・趙盾の功豈に忘るべけんや。奈何ぞ祀を絶たん」と。乃ち復た趙の庶子武をして趙の後と為らしめ、復た之に邑を与ふ。十九年夏、景公病み、其の太子寿曼を立てて君と為す。是を厲公と為す。後月余にして、景公卒す。厲公の元年、初めて立ち、諸侯を和せんと欲し、秦の桓公と河を夾みて盟ふ。帰りて秦盟に倍き、翟と晋を伐たんことを謀る。三年、呂相をして秦を譲めしめ、因りて諸侯と秦を伐つ。涇に至り、秦を麻隧に敗り、其の将成差を虜にす。五年、三郤伯宗を讒して、之を殺す。伯宗直諫を好むを以て此の禍を得たり。国人是を以て厲公に附かず。六年春、鄭晋に倍きて楚と盟ふ。晋怒る。欒書曰く、「以て吾が世に当たりて諸侯を失ふべからず」と。乃ち兵を発す。厲公自ら将たり、五月河を度る。楚の兵来たり救ふと聞き、范文子公に還らんことを請ふ。郤至曰く、「兵を発して逆を誅し、彊きを見て之を辟くれば、以て諸侯に令する無し」と。
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史記 鄭世家繆氏は、霊公を殺せし子公の族家なり。去疾曰く、「必ず繆氏を去らば、我将に之を去らんとす」と。乃ち止む。皆以て大夫と為す。襄公元年、楚、鄭の宋の賂を受けて華元を縦すを怒り、鄭を伐つ。鄭楚に背き、晋と親しむ。五年、楚復た鄭を伐ち、晋来りて之を救ふ。六年、子家卒す。国人復た其の族を逐ふ。其の霊公を弑せしを以てなり。七年、鄭、晋と鄢陵に盟ふ。八年、楚の荘王、鄭の晋と盟ふを以て、来りて伐ち、鄭を囲むこと三月、鄭城を以て楚に降る。楚王皇門より入る。鄭の襄公肉袒して羊を掔きて以て迎へて曰く、「孤辺邑に事ふること能はず、君王をして怒りを懐きて以て獘邑に及ばしむ。孤の罪なり。敢へて惟だ命を是れ聴かざらんや。君王之を江南に遷し、及び以て諸侯に賜ふも、亦惟だ命を是れ聴かん。若し君王、厲・宣王、桓・武公を忘れず、哀れみて其の社稷を絶つに忍びず、不毛の地を錫ひ、復た君王に改め事ふることを得しめば、孤の願ひなり。然れども敢へて望む所に非ざるなり。敢へて腹心を布き、惟だ命を是れ聴かん」と。荘王為に三十里を卻きて後に舎る。楚の群臣曰く、「郢より此に至るまで、士大夫も亦久しく労せり。今国を得て之を捨つ、何如」と。荘王曰く、「伐つ所為の者は、服せざるを伐つなり。今已に服す、尚何をか求めんや」と。卒に去る。晋、楚の鄭を伐つを聞き、兵を発して鄭を救ふ。其の来るや両端を持す、故に遅し。河に至る比、楚の兵已に去る。晋の将率或いは渡らんと欲し、或いは還らんと欲す。卒に河を渡る。荘王聞き、還りて晋を撃つ。鄭反りて楚を助け、大いに晋軍を河上に破る。十年、晋来りて鄭を伐つ。其の晋に反きて楚に親しむを以てなり。十一年、楚の荘王宋を伐つ。宋急を晋に告ぐ。晋の景公兵を発して宋を救はんと欲す。伯宗晋君を諫めて曰く、「天方に楚を開く、未だ伐つべからざるなり」と。乃ち壮士を求めて霍人解揚、字は子虎を得、楚を誆きて、宋をして降る毋からしめんとす。鄭を過る。鄭は楚と親し、乃ち解揚を執へて楚に献ず。
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