史記 / 晋世家
晉使趙盾以車八百乘平周亂而立匡王。是年,楚莊王初卽位。十二年,齊人弒其君懿公。十四年,靈公壯,侈,厚斂以彫牆。從臺上彈人,觀其避丸也。宰夫胹熊蹯不熟,靈公怒,殺宰夫,使婦人持其尸出棄之,過朝。趙盾、隨會前數諫,不聽;已又見死人手,二人前諫。隨會先諫,不聽。靈公患之,使鉏麑刺趙盾。盾閨門開,居處節,鉏麑退,嘆曰:「殺忠臣,棄君命,罪一也。」遂觸樹而死。初,盾常田首山,見桑下有餓人。餓人,示瞇明也。盾與之食,食其半。問其故,曰:「宦三年,未知母之存不,願遺母。」盾義之,益與之飯肉。已而爲晉宰夫,趙盾弗復知也。九月,晉靈公飲趙盾酒,伏甲將攻盾。公宰示瞇明知之,恐盾醉不能起,而進曰:「君賜臣,觴三行可以罷。」欲以去趙盾,令先,毋及難。盾旣去,靈公伏士未會,先縱齧狗名敖。明爲盾搏殺狗。盾曰:「棄人用狗,雖猛何爲。」然不知明之爲陰德也。已而靈公縱伏士出逐趙盾,示瞇明反撃靈公之伏士,伏士不能進,而竟脱盾。盾問其故,曰:「我桑下餓人。」問其名,弗告。明亦因亡去。盾遂奔,未出晉境。乙丑,盾昆弟將軍趙穿襲殺靈公於桃園而迎趙盾。趙盾素貴,得民和;靈公少,侈,民不附,故爲弒易。盾復位。
新字:晋使趙盾以車八百乗平周乱而立匡王。是年,楚荘王初即位。十二年,斉人弒其君懿公。十四年,霊公壮,侈,厚斂以彫牆。従台上弾人,観其避丸也。宰夫胹熊蹯不熟,霊公怒,殺宰夫,使婦人持其尸出棄之,過朝。趙盾、随会前数諫,不聴;已又見死人手,二人前諫。随会先諫,不聴。霊公患之,使鉏麑刺趙盾。盾閨門開,居処節,鉏麑退,嘆曰:「殺忠臣,棄君命,罪一也。」遂触樹而死。初,盾常田首山,見桑下有餓人。餓人,示瞇明也。盾与之食,食其半。問其故,曰:「宦三年,未知母之存不,願遺母。」盾義之,益与之飯肉。已而為晋宰夫,趙盾弗復知也。九月,晋霊公飲趙盾酒,伏甲将攻盾。公宰示瞇明知之,恐盾酔不能起,而進曰:「君賜臣,觴三行可以罷。」欲以去趙盾,令先,毋及難。盾既去,霊公伏士未会,先縦齧狗名敖。明為盾搏殺狗。盾曰:「棄人用狗,雖猛何為。」然不知明之為陰徳也。已而霊公縦伏士出逐趙盾,示瞇明反撃霊公之伏士,伏士不能進,而竟脱盾。盾問其故,曰:「我桑下餓人。」問其名,弗告。明亦因亡去。盾遂奔,未出晋境。乙丑,盾昆弟将軍趙穿襲殺霊公於桃園而迎趙盾。趙盾素貴,得民和;霊公少,侈,民不附,故為弒易。盾復位。
書き下し
晋趙盾をして車八百乗を以て周の乱を平らげて匡王を立てしむ。是の年、楚の荘王初めて即位す。十二年、斉人其の君懿公を弑す。十四年、霊公壮にして侈り、厚く斂めて以て牆に彫る。台上より人を弾き、其の丸を避くるを観る。宰夫熊蹯を胹(に)て熟せず。霊公怒り、宰夫を殺し、婦人をして其の尸を持ちて出でて之を棄てしむ。朝を過ぐ。趙盾・隨会前に数々諫むるも、聴かず。已にして又死人の手を見、二人前みて諫む。隨会先づ諫むるも、聴かず。霊公之を患ひ、鉏麑をして趙盾を刺さしむ。盾の閨門開き、居処節あり。鉏麑退きて嘆じて曰く、「忠臣を殺すも、君命を棄つるも、罪は一なり」と。遂に樹に触れて死す。初め、盾常に首山に田し、桑下に餓人有るを見る。餓人は、示瞇明なり。盾之に食を与ふ。其の半ばを食らふ。其の故を問ふ。曰く、「宦すること三年、未だ母の存するや不やを知らず。願はくは母に遺らん」と。盾之を義とし、益々之に飯肉を与ふ。已にして晋の宰夫と為る。趙盾復た知らざるなり。九月、晋の霊公趙盾に酒を飲ましめ、甲を伏せて将に盾を攻めんとす。公の宰示瞇明之を知り、盾酔ひて起つこと能はざるを恐れ、進みて曰く、「君臣に賜ふに、觴三たび行はば以て罷むべし」と。以て趙盾を去らしめ、先んぜしめて、難に及ぶこと毋からしめんと欲す。盾既に去る。霊公の伏士未だ会せず。先づ齧狗の敖と名づくるを縦つ。明盾の為に狗を搏ち殺す。盾曰く、「人を棄てて狗を用ふ。猛しと雖も何をか為さん」と。然れども明の陰徳を為すを知らず。已にして霊公伏士を縦ちて出でて趙盾を逐はしむ。示瞇明反って霊公の伏士を撃つ。伏士進むこと能はず。而して竟に盾を脱す。盾其の故を問ふ。曰く、「我は桑下の餓人なり」と。其の名を問ふも、告げず。明も亦た因りて亡げ去る。盾遂に奔るも、未だ晋の境を出でず。乙丑、盾の昆弟の将軍趙穿霊公を桃園に襲殺して趙盾を迎ふ。趙盾素より貴く、民の和を得たり。霊公は少くして侈り、民附かず。故に弑を為すこと易し。盾位に復す。
現代語訳
晋は趙盾に戦車八百乗を率いさせて周の乱を平定させ、匡王を立てた。この年、楚の荘王が即位した。十二年、斉の人々がその君の懿公を殺した。十四年、霊公は成長すると贅沢になり、重い税を取り立てて宮殿の壁に彫刻を施した。また高台の上から人に弾き弓で弾を撃ち、人々が弾をよけるのを見て楽しんだ。料理人が熊の掌を煮たところ、よく煮えていなかったので、霊公は怒って料理人を殺し、女たちにその死体を持たせて捨てに行かせた。それが朝廷の前を通った。趙盾と隨会はそれまでにもたびたび諫めていたが、霊公は聞き入れなかった。このときまた死人の手を見たので、二人は進み出て諫めようとした。隨会がまず諫めたが、聞き入れられなかった。霊公は趙盾を煩わしく思い、鉏麑に趙盾を刺し殺させようとした。鉏麑が行ってみると、趙盾の寝室の門はすでに開いており、趙盾は礼服を着て節度ある様子で座っていた。鉏麑は引き下がり、嘆いて言った。「忠臣を殺すのも、君命に背くのも、罪であることに変わりはない」。そして木に頭を打ちつけて死んだ。これより前、趙盾はいつも首山で狩りをしていたが、あるとき桑の木の下に飢えた人がいるのを見た。その飢えた人とは示瞇明である。趙盾が食べ物を与えると、彼は半分だけ食べた。わけを尋ねると、こう答えた。「三年間仕官していて、母がまだ生きているかどうかもわからない。残りは母に届けたい」。趙盾はその心を立派だと思い、さらに飯と肉を与えた。やがて彼は晋の料理人となったが、趙盾はそのことを知らなかった。九月、晋の霊公は趙盾に酒をふるまい、兵を伏せておいて趙盾を襲おうとした。霊公の料理人の示瞇明はそれを知り、趙盾が酔って立てなくなることを恐れて、進み出て言った。「君が臣下に酒を賜るときは、杯が三巡したらお開きにするものだ」。こうして趙盾を先に退出させ、災いに巻き込まれないようにしようとしたのである。趙盾が退出したとき、霊公の伏兵はまだそろっていなかった。霊公はまず敖という名の噛みつく犬を放った。示瞇明は趙盾のためにその犬を打ち殺した。趙盾は言った。「人を捨てて犬を使うとは。いくら猛くても何の役に立とう」。しかし示瞇明がひそかに自分を助けてくれていることには気づかなかった。やがて霊公は伏兵を放って趙盾を追わせた。示瞇明は逆に霊公の伏兵を撃ち、伏兵は進めなくなり、ついに趙盾を逃がした。趙盾がわけを尋ねると、示瞇明は「私は桑の木の下の飢えた者だ」と答えた。名を尋ねたが、告げなかった。示瞇明もそのまま逃げ去った。趙盾はついに国外へ逃げようとしたが、まだ晋の国境を出ないうちに、乙丑の日、趙盾の従兄弟の将軍趙穿が桃園で霊公を襲って殺し、趙盾を迎えた。趙盾はもともと身分が高く、民の信望を得ていた。霊公は若くて贅沢で、民が従わなかったので、弑逆はたやすかったのである。趙盾は元の地位に戻った。
解説
関連する章句
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史記 趙世家趙衰、重耳に従ひて出亡すること凡そ十九年、国に反ることを得たり。重耳晋の文公と為り、趙衰原の大夫と為り、原に居り、国政に任ず。文公の国に反り及び霸たる所以は、多く趙衰の計策なり。語は晋の事の中に在り。趙衰既に晋に反り、晋の妻固く翟の妻を迎へんことを要め、而して其の子盾を以て適嗣と為し、晋の妻の三子皆下りて之に事ふ。晋の襄公の六年にして趙衰卒し、諡して成季と為す。趙盾、成季に代はりて国政に任ずること二年にして晋の襄公卒す。太子夷皋年少し。盾、国の多難なるが為に、襄公の弟雍を立てんと欲す。雍時に秦に在り。使をして之を迎へしむ。太子の母日夜啼泣し、頓首して趙盾に謂ひて曰く、「先君何の罪かある。其の適子を釈きて更に君を求むるか」と。趙盾之を患へ、其の宗と大夫との襲ひて之を誅せんことを恐れ、乃ち遂に太子を立つ、是を霊公と為す。兵を発して襄公の弟を秦に迎ふる所の者を距ぐ。霊公既に立ち、趙盾益々国政を専らにす。霊公立ちて十四年、益々驕る。趙盾驟々諫むれども、霊公聴かず。熊蹯を食らふに及び、胹て熟せず、宰人を殺し、其の尸を持ちて出づ。趙盾之を見る。霊公此に由りて懼れ、盾を殺さんと欲す。盾素より仁にして人を愛す。嘗て食はせし所の桑下の餓人、反りて捍ぎて盾を救ふ。盾以て亡ぐるを得たり。未だ境を出でずして、趙穿霊公を弑して襄公の弟黒臀を立つ、是を成公と為す。趙盾復た反りて国政に任ず。君子盾を譏る、「正卿と為りて、亡げて境を出でず、反りて賊を討たず」と。故に太史書して曰く「趙盾其の君を弑す」と。晋の景公の時にして趙盾卒し、諡して宣孟と為す。子朔嗣ぐ。趙朔、晋の景公の三年、朔晋の将として下軍に将として鄭を救ひ、楚の荘王と河上に戦ふ。朔、晋の成公の姊を娶りて夫人と為す。晋の景公の三年、大夫屠岸賈、趙氏を誅せんと欲す。初め、趙盾在りし時、夢に叔帯の要を持ちて哭するを見る。甚だ悲し。已にして笑ひ、手を拊ちて且つ歌ふ。
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史記 晋世家趙盾曰く、「辰嬴は賤しく、班は九人の下に在り。其の子何の震(おそ)れか之れ有らん。且つ二君の嬖と為るは、淫なり。先君の子と為りて、大を求むること能はずして出でて小国に在るは、僻なり。母淫にして子僻なれば、威無し。陳は小にして遠ければ、援け無し。将た何ぞ可ならんや」と。士会をして秦に如きて公子雍を迎へしむ。賈季も亦た人をして公子楽を陳に召さしむ。趙盾賈季を廃す。其の陽処父を殺せしを以てなり。十月、襄公を葬る。十一月、賈季翟に奔る。是の歳、秦の繆公も亦た卒す。霊公の元年四月、秦の康公曰く、「昔文公の入るや衛無し。故に呂・郤の患有り」と。乃ち多く公子雍に衛を与ふ。太子の母繆嬴日夜太子を抱きて以て朝に号泣して曰く、「先君何の罪かある。其の嗣も亦た何の罪かある。適を舎てて外に君を求む。将た安んぞ此を置かん」と。朝を出づれば、則ち抱きて以て趙盾の所に適き、頓首して曰く、「先君此の子を奉じて之を子に属して曰く、『此の子材あらば、吾其の賜を受けん。材あらずんば、吾子を怨まん』と。今君卒し、言猶ほ耳に在り。而して之を棄つるは、若何」と。趙盾と諸大夫と皆繆嬴を患へ、且つ誅を畏れ、乃ち迎ふる所に背きて太子夷皋を立つ。是を霊公と為す。兵を発して以て秦の公子雍を送る者を距ぐ。趙盾将と為り、往きて秦を撃ち、之を令狐に敗る。先蔑・隨会亡げて秦に奔る。秋、斉・宋・衛・鄭・曹・許の君皆趙盾に会し、扈に盟ふ。霊公初めて立つの故を以てなり。四年、秦を伐ち、少梁を取る。秦も亦た晋の郩を取る。六年、秦の康公晋を伐ち、羈馬を取る。晋侯怒り、趙盾・趙穿・郤缺をして秦を撃たしめ、大いに河曲に戦ふ。趙穿最も功有り。七年、晋の六卿隨会の秦に在りて、常に晋の乱を為さんことを患へ、乃ち詳りて魏寿余をして晋に反きて秦に降らしむ。秦隨会をして魏に之かしむ。因りて会を執へて以て晋に帰る。八年、周の頃王崩ず。公卿権を争ふ。故に赴せず。
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史記 晋世家晋の太史董狐書して「趙盾其の君を弑す」と曰ひ、以て朝に視す。盾曰く、「弑する者は趙穿なり。我罪無し」と。太史曰く、「子は正卿為り。而して亡げて境を出でず、反りて国の乱を誅せず。子に非ずして誰ぞ」と。孔子之を聞きて曰く、「董狐は、古の良史なり。書法隠さず。宣子は、良大夫なり。法の為に悪を受く。惜しいかな、疆を出でなば乃ち免れん」と。趙盾趙穿をして襄公の弟黒臀を周に迎へて之を立てしむ。是を成公と為す。成公は、文公の少子にして、其の母は周の女なり。壬申、武宮に朝す。成公の元年、趙氏に賜ひて公族と為す。鄭を伐つ。鄭晋に倍くの故なり。三年、鄭伯初めて立ち、晋に附きて楚を棄つ。楚怒り、鄭を伐つ。晋往きて之を救ふ。六年、秦を伐ち、秦の将赤を虜にす。七年、成公楚の荘王と彊を争ひ、諸侯を扈に会す。陳楚を畏れて、会せず。晋中行桓子をして陳を伐たしめ、因りて鄭を救ひ、楚と戦ひ、楚の師を敗る。是の年、成公卒し、子の景公拠立つ。景公の元年春、陳の大夫夏徴舒其の君霊公を弑す。二年、楚の荘王陳を伐ち、徴舒を誅す。三年、楚の荘王鄭を囲む。鄭急を晋に告ぐ。晋荀林父をして中軍に将たらしめ、隨会上軍に将たり、趙朔下軍に将たり、郤克・欒書・先縠・韓厥・鞏朔之を佐く。六月、河に至る。楚已に鄭を服し、鄭伯肉袒して与に盟ひて去ると聞き、荀林父還らんと欲す。先縠曰く、「凡そ鄭を救はんと来たる。至らざるは不可なり。将率心を離さん」と。卒に河を度る。楚已に鄭を服し、馬に河に飲ましむるを以て名と為して去らんと欲す。楚晋の軍と大いに戦ふ。鄭新たに楚に附き、之を畏れ、反って楚を助けて晋を攻む。晋の軍敗れ、河に走り、争ひて度る。船中の人の指甚だ衆し。楚我が将智罃を虜にす。帰りて林父曰く、「臣督将為り。軍敗るれば当に誅せらるべし。請ふ死せん」と。景公之を許さんと欲す。
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呂氏春秋・過理②晉の靈公は無道なり。上從り人に彈きて其の丸を避くるを觀、宰人をして熊蹯を臑しめて熟せず、之を殺して、婦人をして載せて朝を過ぎしめ、以て威を示すは、不適なり。趙盾驟々諫むれども聽かず、公之を惡み、乃ち沮麛を使う。沮麛、之を見、賊するに忍びず。曰く、「恭敬を忘れざるは、民の主なり。民の主を賊するは不忠なり。君の命を棄つるは不信なり、此に一あるは、死するに若かず。」乃ち廷の槐に觸して死す。
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説苑・復恩晋の趙盾韓厥を挙げ、晋君以て中軍尉と為す、趙盾死し、子朔嗣ぎて卿と為る。景公の三年に至り、趙朔晋の将為り、朔成公の姉を取りて夫人と為す、大夫屠岸賈趙氏を誅せんと欲す、初め趙盾夢に叔帯の亀要を持ちて哭すること甚だ悲しきを見る、已にして笑ひて手を拊ちて且つ歌ふ、盾之を占ふに、垂に絶えて而る後に好しと、趙の史援之を占ひて曰く、此れ甚だ悪しきこと君の身に非ず、君の子に及ばん、然れども亦た君の咎なり、と。子趙朔に至り、世益々衰へ、屠岸賈なる者、始め霊公に寵有り、晋景公に至るに及び、賈司寇と為り、将に難を作さんとし、乃ち霊公の賊を治むるを以て、趙盾に遍く諸将に告げしめて曰く、「趙穿霊公を弑す、盾知らずと雖も猶ほ首賊為り、臣君を殺すに、子孫朝に在らば、何を以て罪を懲さん、請ふ之を誅せん」と。韓厥曰く、「霊公賊に遇ふとき、趙盾外に在り、吾が先君以て罪無しと為す、故に誅せず。今諸君其の後を誅せんとするは、是れ先君の意に非ずして妄りに誅するなり。妄りに誅するは之を乱臣と謂ふ、大事有りて君聞かざるは、是れ君無きなり」と。屠岸賈聴かず、厥趙朔に告げて趨り亡げしめんとするも、趙朔肯んぜずして曰く、「子必ず趙祀を絶たざれ、朔死すとも且つ恨みず」と。韓厥諾し、疾と称して出でず、賈請はずして擅に諸将と与に趙氏を下宮に攻め、趙朔・趙括を殺す。趙嬰斉、皆其の族を滅ぼす。朔の妻成公の姉遺腹有り、公宮に走りて匿る、後男を生み乳す、朔の客程嬰持ちて山中に亡匿す、居ること十五年、晋の景公疾む、之を卜すれば曰く、「大業の後の遂げざる者祟を為す」と。景公疾みて韓厥に問ふ、韓厥趙孤の在るを知り、乃ち曰く、「大業の後、晋に於て祀を絶つ者は、其れ趙氏か。夫れ中衍の衍より皆嬴姓なり、中衍人面鳥喙、殷帝太戊及び周天子を降り佐け、皆明徳有り、下りて幽厲無道に及び、而して叔帯周を去りて晋に適き、先君文侯に事へ、成公に至るまで、世々功を立つる有り、未だ嘗て祀を絶つ有らず、今吾が君に及びて独り之を滅ぼす、趙宗国人之を哀しむ、故に亀策に見はる、唯だ君之を図れ」と。景公問ひて曰く、「趙尚ほ後の子孫有るか」と。韓厥具に実を以て対ふ、是に於て景公乃ち韓厥と与に趙孤児を立てんことを謀り、召して之を宮中に匿す、諸将疾を問ふに入るに、景公韓厥の衆に因りて、以て諸将を脅して趙孤を見えしむ、孤名づけて武と曰ふ、諸将已むを得ずして乃ち曰く、「昔下官の難は屠岸賈之を為す、矯めて君令を以てし、群臣を并せ命ず、然らずんば孰か敢へて難を作さん、君の疾無くんば、群臣固に且に趙後を立てんことを請はんとせり、今君令有り、群臣の願ひなり」と。是に於て趙武・程嬰を召して遍く諸将軍を拝せしむ、将軍遂に返りて程嬰・趙武と与に屠岸賈を攻め、其の族を滅ぼし、復た趙武に田邑を与ふること故の如し。故に人安んぞ以て恩無かるべけんや、夫れ恩に此に有れば故に彼に復ゆ、程嬰に非ざれば則ち趙孤全からず、韓厥に非ざれば則ち趙後復せず。韓厥は恩を忘れずと謂ふべし。
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史記 斉太公世家丑父曰く、「君に代りて死して僇せらるれば、後の人臣に其の君に忠なる者無からん」と。克之を舎く。丑父遂に亡げて斉に帰るを得たり。是に於て晋の軍、斉を追ひて馬陵に至る。斉侯、宝器を以て謝せんことを請ふも、聴かず。必ず克を笑ひし者蕭桐叔子を得んとし、斉をして畝を東にせしめんとす。対へて曰く、「叔子は斉君の母なり。斉君の母は亦猶ほ晋君の母のごとし。子安んぞ之を置かん。且つ子は義を以て伐ちて暴を以て後と為す、其れ可ならんや」と。是に於て乃ち許し、魯・衛の侵地を反さしむ。十一年、晋初めて六卿を置き、鞍の功を賞す。斉の頃公、晋に朝し、晋の景公を尊びて王とせんと欲す。晋の景公敢て受けず、乃ち帰る。帰りて頃公、苑囿を弛め、賦斂を薄くし、孤を振ひ疾を問ひ、積聚を虚しくして以て民を救ふ。民も亦大いに説ぶ。厚く諸侯に礼す。頃公の卒するを竟ふるまで、百姓附き、諸侯犯さず。十七年、頃公卒し、子の霊公環立つ。霊公の九年、晋の欒書、其の君厲公を弑す。十年、晋の悼公、斉を伐つ。斉、公子光をして晋に質たらしむ。十九年、子光を立てて太子と為し、高厚之に傅たり、諸侯に会して鐘離に盟はしむ。二十七年、晋、中行献子をして斉を伐たしむ。斉の師敗る。霊公走りて臨菑に入る。晏嬰、霊公を止むるも、霊公従はず。曰く、「君も亦勇無きかな」と。晋の兵遂に臨菑を囲む。臨菑城守して敢て出でず。晋、郭中を焚きて去る。二十八年、初め、霊公、魯の女を取りて、子光を生み、以て太子と為す。仲姫・戎姫あり。戎姫嬖せらる。仲姫、子牙を生み、之を戎姫に属す。戎姫、以て太子と為さんことを請ふ。公之を許す。仲姫曰く、「不可なり。光の立つや、諸侯に列せり。今故無くして之を廃せば、君必ず之を悔いん」と。公曰く、「我に在るのみ」と。遂に太子光を東にし、高厚をして牙に傅として太子と為さしむ。霊公疾む。崔杼、故の太子光を迎へて之を立つ。是れを荘公と為す。荘公、戎姫を殺す。
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