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史記 / 晋世家

趙盾曰:「辰嬴賤,班在九人下,其子何震之有!且爲二君嬖,淫也。爲先君子,不能求大而出在小國,僻也。母淫子僻,無威;陳小而遠,無援:將何可乎!」使士會如秦迎公子雍。賈季亦使人召公子樂於陳。趙盾廢賈季,以其殺陽處父。十月,葬襄公。十一月,賈季奔翟。是歳,秦繆公亦卒。靈公元年四月,秦康公曰:「昔文公之入也無衞,故有呂、郤之患。」乃多與公子雍衞。太子母繆嬴日夜抱太子以號泣於朝,曰:「先君何罪?其嗣亦何罪?舍適而外求君,將安置此?」出朝,則抱以適趙盾所,頓首曰:「先君奉此子而屬之子,曰『此子材,吾受其賜;不材,吾怨子』。今君卒,言猶在耳,而棄之,若何?」趙盾與諸大夫皆患繆嬴,且畏誅,乃背所迎而立太子夷皋,是爲靈公。發兵以距秦送公子雍者。趙盾爲將,往撃秦,敗之令狐。先蔑、隨會亡奔秦。秋,齊、宋、衞、鄭、曹、許君皆會趙盾,盟於扈,以靈公初立故也。四年,伐秦,取少梁。秦亦取晉之郩。六年,秦康公伐晉,取羈馬。晉侯怒,使趙盾、趙穿、郤缺撃秦,大戰河曲,趙穿最有功。七年,晉六卿患隨會之在秦,常爲晉亂,乃詳令魏壽餘反晉降秦。秦使隨會之魏,因執會以歸晉。八年,周頃王崩,公卿爭權,故不赴。

新字:趙盾曰:「辰嬴賤,班在九人下,其子何震之有!且為二君嬖,淫也。為先君子,不能求大而出在小国,僻也。母淫子僻,無威;陳小而遠,無援:将何可乎!」使士会如秦迎公子雍。賈季亦使人召公子楽於陳。趙盾廃賈季,以其殺陽処父。十月,葬襄公。十一月,賈季奔翟。是歳,秦繆公亦卒。霊公元年四月,秦康公曰:「昔文公之入也無衛,故有呂、郤之患。」乃多与公子雍衛。太子母繆嬴日夜抱太子以号泣於朝,曰:「先君何罪?其嗣亦何罪?舎適而外求君,将安置此?」出朝,則抱以適趙盾所,頓首曰:「先君奉此子而属之子,曰『此子材,吾受其賜;不材,吾怨子』。今君卒,言猶在耳,而棄之,若何?」趙盾与諸大夫皆患繆嬴,且畏誅,乃背所迎而立太子夷皋,是為霊公。発兵以距秦送公子雍者。趙盾為将,往撃秦,敗之令狐。先蔑、随会亡奔秦。秋,斉、宋、衛、鄭、曹、許君皆会趙盾,盟於扈,以霊公初立故也。四年,伐秦,取少梁。秦亦取晋之郩。六年,秦康公伐晋,取羈馬。晋侯怒,使趙盾、趙穿、郤欠撃秦,大戦河曲,趙穿最有功。七年,晋六卿患随会之在秦,常為晋乱,乃詳令魏寿余反晋降秦。秦使随会之魏,因執会以帰晋。八年,周頃王崩,公卿争権,故不赴。

書き下し

趙盾曰く、「辰嬴は賤しく、班は九人の下に在り。其の子何の震(おそ)れか之れ有らん。且つ二君の嬖と為るは、淫なり。先君の子と為りて、大を求むること能はずして出でて小国に在るは、僻なり。母淫にして子僻なれば、威無し。陳は小にして遠ければ、援け無し。将た何ぞ可ならんや」と。士会をして秦に如きて公子雍を迎へしむ。賈季も亦た人をして公子楽を陳に召さしむ。趙盾賈季を廃す。其の陽処父を殺せしを以てなり。十月、襄公を葬る。十一月、賈季翟に奔る。是の歳、秦の繆公も亦た卒す。霊公の元年四月、秦の康公曰く、「昔文公の入るや衛無し。故に呂・郤の患有り」と。乃ち多く公子雍に衛を与ふ。太子の母繆嬴日夜太子を抱きて以て朝に号泣して曰く、「先君何の罪かある。其の嗣も亦た何の罪かある。適を舎てて外に君を求む。将た安んぞ此を置かん」と。朝を出づれば、則ち抱きて以て趙盾の所に適き、頓首して曰く、「先君此の子を奉じて之を子に属して曰く、『此の子材あらば、吾其の賜を受けん。材あらずんば、吾子を怨まん』と。今君卒し、言猶ほ耳に在り。而して之を棄つるは、若何」と。趙盾と諸大夫と皆繆嬴を患へ、且つ誅を畏れ、乃ち迎ふる所に背きて太子夷皋を立つ。是を霊公と為す。兵を発して以て秦の公子雍を送る者を距ぐ。趙盾将と為り、往きて秦を撃ち、之を令狐に敗る。先蔑・隨会亡げて秦に奔る。秋、斉・宋・衛・鄭・曹・許の君皆趙盾に会し、扈に盟ふ。霊公初めて立つの故を以てなり。四年、秦を伐ち、少梁を取る。秦も亦た晋の郩を取る。六年、秦の康公晋を伐ち、羈馬を取る。晋侯怒り、趙盾・趙穿・郤缺をして秦を撃たしめ、大いに河曲に戦ふ。趙穿最も功有り。七年、晋の六卿隨会の秦に在りて、常に晋の乱を為さんことを患へ、乃ち詳りて魏寿余をして晋に反きて秦に降らしむ。秦隨会をして魏に之かしむ。因りて会を執へて以て晋に帰る。八年、周の頃王崩ず。公卿権を争ふ。故に赴せず。

現代語訳

趙盾は言った。「辰嬴は身分が低く、序列は九人の後だ。その子にどんな威厳があろうか。しかも二代の君主に寵愛されたのは、淫らなことだ。先君の子でありながら、大国に身を寄せて後ろ盾を求めることもできず、小国に出ているのは、見識が偏っている。母は淫らで子は偏っていては、威厳がない。陳は小さくて遠いので、助けにもならない。どうして立てられようか」。そして士会を秦に送って公子雍を迎えさせた。賈季も人を送って公子楽を陳から呼び寄せた。趙盾は賈季を退けた。賈季が陽処父を殺したからである。十月、襄公を葬った。十一月、賈季は翟に逃れた。この年、秦の繆公も亡くなった。霊公の元年四月、秦の康公は言った。「昔、文公が晋に入ったときには護衛がいなかったので、呂氏・郤氏の反乱という災いがあった」。そこで公子雍に多くの護衛をつけた。太子の母の繆嬴は、昼も夜も太子を抱いて朝廷で泣き叫んで言った。「先君に何の罪があるのか。その跡継ぎにも何の罪があるのか。嫡子を捨てて外に君主を求めるとは、この子をどうするつもりなのか」。朝廷を出ると、太子を抱いて趙盾の屋敷へ行き、頭を地に打ちつけて言った。「先君はこの子をあなたに託して言われた。『この子が才能ある者に育てば、それはあなたのおかげだと感謝しよう。才能がなければ、あなたを恨む』と。いま君は亡くなったが、その言葉はまだ耳に残っている。それなのにこの子を見捨てるとは、どういうことか」。趙盾と大夫たちはみな繆嬴に悩まされ、しかも誅殺されることも恐れて、迎えようとしていた公子雍を裏切り、太子の夷皋を立てた。これが霊公である。そして兵を出して、公子雍を送ってくる秦軍を防いだ。趙盾が将軍となって秦軍を撃ち、令狐で破った。公子雍を迎えに行っていた先蔑と隨会(士会)は秦に亡命した。秋、斉・宋・衛・鄭・曹・許の君主がみな趙盾と会い、扈で盟約を結んだ。霊公が即位したばかりであったからである。四年、晋は秦を攻めて少梁を取り、秦もまた晋の郩を取った。六年、秦の康公が晋を攻めて羈馬を取った。晋侯は怒り、趙盾・趙穿・郤缺に秦を撃たせ、河曲で大いに戦った。趙穿がいちばんの手柄を立てた。七年、晋の六卿は、隨会が秦にいて常に晋に災いをもたらすことを憂え、魏寿余に偽って晋に背かせ、秦に降伏させた。秦は隨会を魏寿余とともに魏へ向かわせたが、魏寿余は隨会を連れて晋に帰った。八年、周の頃王が亡くなった。公卿たちが権力を争ったので、諸侯に訃報を出さなかった。

解説

晋の襄公の死後の後継争いと、霊公の即位を描く段です。執政の趙盾は、国難の時期だからと年長の公子雍を秦から迎えようとし、対立する賈季を退けます。ところが太子の母・繆嬴が、朝廷で太子を抱いて泣き叫び、趙盾の屋敷では「先君はこの子をあなたに託した。その言葉はまだ耳に残っている」と訴えました。趙盾たちは世論の非難と身の危険を恐れて方針を翻し、幼い太子を霊公として立て、迎えに来た公子雍の一行を令狐で撃退します。約束を反故にされた秦との関係は悪化し、晋と秦は何年も戦いを繰り返しました。迎えに行った先蔑と隨会は秦へ亡命し、晋は策略で隨会を取り戻します。理屈で選んだ後継案が、情に訴える声と保身の計算によって覆され、その後始末が長く尾を引いた例です。大きな決定を途中で翻すときには、関係者への影響まで見通しておく必要があることを示しています。

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